【ベトナムの歴史】ふだんのイメージと違う!?ベトナム苦難の歴史

ベトナムというと何を思い浮かべますか?日本にも上陸して大人気を博す麺〈フォー〉や、女性が美しく見える民族衣装No.1のほまれたかい〈アオザイ〉、歴史に詳しい方ならフランスとのつながりも連想するかもしれません。そして冷戦期に勃発し、あの大国アメリカに勝利した〈ベトナム戦争〉も忘れられない歴史の大事件です。そんなベトナム、実は非常に複雑な歴史を送ってきました。独立宣言をして70年余。ベトナムの歴史は大国に翻弄された歴史です。各国の思惑や情勢も見ながら、その来し方行く末をたどっていきましょう。まさか、ベトナムって、こんな歴史だったんですね。

中国の支配から「ベトナム」の誕生

中国の支配から「ベトナム」の誕生

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歴史を知るにはまず地理から。
ベトナムの地理をおさらいすると、北を中国、東を南シナ海、西をラオス、南西をカンボジアと接しています。
そして、とても南北に細長い国。
この地理がベトナムの歴史を大きく変えました。
北部・中部・南部で違う歴史や文化を持つ、ベトナムですが、近代に至ってフランスが植民地化するまでは時代時代の各王朝、そして中国が支配するカオス!北に君臨する超大国・中国を宗主国として、その支配下にいる時期が1000年続きました。
そんな〈北属〉そしてベトナム統一王朝〈阮朝〉の時代をかけぬけていきましょう。

〈北属期〉――中国のその南の国として

近世までのベトナム史……を、したいところですが実はこの時期、ベトナムは私たちのイメージするような、まとまった国家としてのベトナムではありません。
北部、中部、南部で別々の王朝や政権が立ち、要するに、バラバラだったのです。

詳細を語るとカオス極まりなく、現地の人びとも頭を悩ますベトナムの歴史。
あえてまとめてしまうならば〈北属〉と言われる時期が非常に長く続きました。
つまり、中国の支配です。
とくに北部は1000年にも渡って中国の支配下に置かれます。
各時代のベトナムの王朝たちは、貢物を行うことなどによって自治を保っていました。
しかしときには完璧に中国の影響下に置かれたときもありました。

中国には1つの世界観があります。
「中国を中心に、南蛮北狄ら蛮族を勢力下に引き入れ、多民族国家として調和の世界を作る」中国が世界の中心という〈中華思想〉。
それに基いて、中国は周辺国家を支配下に置く方針を長いこと固めていたのです。
一方、ベトナムも中国の文化や政治様式のいいところをたくさん取り入れました。

〈阮朝〉によるベトナム統一

1802年、ベトナム史が大きく転換します。
〈阮朝〉(グエンちょう)の誕生です。
北部・中部・南部をまとめたベトナム統一王朝、つまり私たちのイメージする「ベトナム」がようやく生まれました。

阮朝はさかんに中央集権化を進め、また中国の科挙制度を取り入れたりも。
しかし一方でみずからを「皇帝」とし、中国と対等以上の存在として位置づけたりもしていました。
といっても、中国相手に外交するときには「国王」と一段下にへりくだっていたのですけれども。
阮朝の時代に「ベトナム」は育まれたといっていいでしょう。

さて19世紀というと世界史ではナポレオン戦争、そして産業革命によって世界が大改革された世紀。
市場を求めて西洋人はベトナムにも通商を要求してやってきます。
しかし中国から取り入れた儒教が一般的になり、つまりは中国の中華思想に近い考えになってきていた阮朝は、キリスト教徒や西洋人を冷遇。
開放的な政策をとることはしませんでした。
しかし1840年に起こり宗主国・清が大敗した〈アヘン戦争〉が情勢を一変させます。
欧州が世界のすべての中心として機能しはじめるのです。

〈仏印〉――フランス植民地時代へ

〈仏印〉――フランス植民地時代へ

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時代をすっ飛ばして19世紀!というのも、ベトナムの歴史はここからが語りがいがあるからです。
宗主国・清(中国)が1840年のアヘン戦争以降一気に弱体化し、中国大陸が西洋列強にあっちこっち切り売りされるようになります。
清の属国だったベトナムもその荒波から逃れることはできません。
フランスは、アヘン戦争・アロー戦争のどさくさまぎれに、清からベトナムをゲット。
その後ベトナムは〈フランス領インドシナ〉――日本では〈仏印〉とも呼ばれますが――という名で地図にあらわれることとなるのです。
フランス植民地としてのベトナムの歴史を見ていきましょう。

フランス領インドシナとして

さて時代は帝国主義時代。
アヘン戦争・アロー戦争で一気にポシャった清王朝。
国土のあちらこちらを西洋列強に切り取られる中、それでも大国のメンツを保ちたい清王朝は必死で抵抗します。

フランスがほしがったのは現在のベトナムやラオス、カンボジア一帯。
清王朝はそれに抵抗。
〈清仏戦争〉でベトナムの領有権をめぐってフランス相手に戦争をするものの、打ち破られてしまいます。
国際的にも宗主権をフランスに譲り渡し、フランスはベトナム、ラオス、カンボジアをまとめて1つの植民地としました。
〈フランス領インドシナ〉とベトナムは名前を変えたのです。

そこから先は苦難の歴史でした。
しかしベトナムの貴族などの上流階級は、子弟を宗主国・フランスなど西洋に留学させます。
それがのちの独立運動の志士たちを育てる基盤となっていくのです。

強引な同化政策、そして搾取

めでたく(?)宗主国としてベトナム、そしてラオスやカンボジアまでも中国からいただいたフランス。
当時フランスは革命でさんざんもめたのち、ナポレオン時代を経て第三共和政のもとで帝国主義時代を闊歩していました。

このころの西洋の植民地支配といえば、現地民を非常に虐げて搾取する構造が一般的。
フランスもその例に漏れませんでした。
阮朝は植民地支配下ながらも存続していましたが、政治や行政は事実上すべてフランスが行っていました。
さらに人民たちに課せられたのは、非常に重い税。
それに輪をかけて、フランスはベトナムの塩や酒、そしてアヘンの販売を専売化します。
これらの収益でフランスの植民地経営は赤字から黒字に転じました。

そんな中で独立運動の機運も高まります。
1917年に成立した〈ソビエト連邦〉に、知識人たちは接近。
解放運動を援助しました。
その志士たちの中に、建国の父〈ホーチミン〉もいます。
しかし独立にはさらなる苦難が待ち受けていたのです。

ベトナムの第二次世界大戦

ベトナムの第二次世界大戦

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戦争の世紀、20世紀。
第二次世界大戦が到来します。
第二次世界大戦であっという間にドイツに倒され、ロンドンに亡命政権を移したフランス。
事実上ドイツの言いなり政権である傀儡の〈ヴィシー政権〉がフランスに誕生します。
「フランスのものは俺のもの」の理論で、フランス植民地のベトナムはヴィシー・フランス政権の支配、そしてドイツの同盟国・日本の統治をも受けます。
ベトナムにとって第二次世界大戦とは、一体どのようなものだったのでしょうか。

ヴィシー・フランス政権と日本の二重支配

傀儡政権というとなんかこう、ややこしいのですが、単純な図式に直せば「ドイツと日本で仲良くベトナムを治めよう」というコンセプトのもとで、ドイツは第二次世界大戦中のベトナムを処理しようとしていたのです。
ヴィシー政権(フランスのドイツ言いなり政権)は「フランスのものはドイツのもの」と思っていました。

一方、日本は〈大東亜共栄圏〉構想にベトナムを組みこむつもりでいました。
「アジアの諸民族の一大共同体」を目指していた日本。
ベトナムに独立国家を作った上で、日本の影響下に入れようと考えていたのです。

しかし想定外の脅威は文字通り、空から降ってきました。
〈飢饉〉という名の天災によって。
これに対応しきれなかったことにより、ヴィシー政権も日本も、ベトナム国民に背かれることとなるのです。

まぼろしの〈ベトナム帝国〉と大飢饉

ベトナムは長いこと、フランスからの独立を夢見てきました。
その期待は西洋列強を圧倒する勢いですらあった日本に寄せられます。
同じアジアの同胞として、ベトナム独立に力を貸してくれないかと考えたのです。
しかし日本は〈大東亜共栄圏〉構想から、別の見方を持っていました。
「ベトナムを独立国家として興し、そして日本の影響下に置こう」としたのです。
そこで考えられたのが、あの〈阮朝〉の王政復古による〈ベトナム帝国〉でした。

しかし思わぬところで脅威が降ってきます。
大飢饉です。
水害と記録的な激しい寒さで、40万人から200万人が亡くなるすさまじい天災でした。
主戦場ですでにいっぱいいっぱいな日本は、対策に着手できません。
またヴィシー・フランス政権も有効な手立てを取ることはありませんでした。

〈ベトナム帝国〉ができたのは、日本が東京大空襲に遭った、1945年3月11日。
その5ヶ月後に日本はポツダム宣言を受諾。
日本主導で建国が進められた〈ベトナム帝国〉は、ホーチミン率いる革命軍に倒されて、一瞬のまぼろしと消えました。
ここから本当の独立革命がはじまるのです。

独立を求め――ベトナム戦争

独立を求め――ベトナム戦争

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ここから先はご記憶の方も多いかもしれません。
冷戦期の悲劇の1つ〈ベトナム戦争〉です。
トンキン湾事件、枯葉剤、ベトコンゲリラ――また、外交上の事情や軍事特需を狙い、アメリカにしたがって進軍した韓国軍による虐殺、アメリカ軍の農村に住む民間人への無差別な爆撃にはじまる悲惨な本土決戦――戦争に反対するヒッピー運動でアメリカは国民の支持を失い、この戦争で敗北しますが、この戦争で亡くなったベトナム人は民間人だけでも300万人。
アメリカ軍らも大きな犠牲を払いました。
この戦争はベトナムにとって何だったのでしょう?

二度に渡る〈インドシナ戦争〉

まずベトナムが戦わなければならなかったのは、因縁のフランス。
フランスは第二次世界大戦で戦勝国となり、「〈インドシナ〉はやっぱりフランスのもの!」と言い張ります。
ここに独立を求めるベトナムと〈第一次インドシナ戦争〉が勃発します。
その戦後処理でフランスがゴネたために、ベトナムは北緯17度線を境として、南は〈ベトナム共和国〉北は〈ベトナム民主共和国〉に分裂してしまいました。

ここでベトナムの英雄〈ホーチミン〉が接近したのは、冷戦期の巨魁2人。
あのスターリンと毛沢東でした。
ホーチミンはこの2人から「ベトナムは独立国家だ」という言質を得ます。
これでもって国際的な地位をゲットしたのです。

そこに焦ったのが資本主義国家のトップで世界のヒーロー・アメリカ。
「ベトナムが社会主義国家になったら、ヤバい」。
現代の私たちが考えるよりもずっとずっと、当時は〈共産主義〉がおそるべき脅威でした。
中国・ソ連に接近し、社会主義国家への歩みを進めるベトナムを、アメリカは見逃しません。
1965年、アメリカがベトナムを爆撃。
同年、アメリカは兵をベトナムに上陸させます。
〈第二次インドシナ戦争〉――すなわち〈ベトナム戦争〉の開戦でした。

「アメリカに歴史上はじめて勝利した国」ベトナム

ここから先はベトナム本土決戦の悲劇となります。
ベトナム戦争をカンタンに整理すると「アメリカとソ連の代理戦争」。
北ベトナムをソ連・中国・北朝鮮が、南ベトナムをアメリカが支援しました。

この戦争は、報復に次ぐ報復――〈トンキン湾事件〉にはじまり〈サイゴン陥落〉まで、20年にも渡り双方は戦い続けました。
軍事政権の承認と軍事特需を狙った参戦してきた韓国軍が、各地で焦土作戦や虐殺などを行ったり、ゲリラ部隊を狙った強力な自然破壊農薬〈枯葉剤〉の散布……すさまじい悲劇が各地で起こっていたのです。
しかし地の利を最大限に活かした〈ベトコンゲリラ〉すなわち〈南ベトナム解放民族戦線〉の活躍によって、アメリカ軍は戦意を喪失していきます。
また、ヒッピー運動をはじめとするアメリカ国内の反戦運動もあいまって、ついにアメリカは兵を撤退させました。

〈パリ和平協定〉が結ばれたのは、1973年。
アメリカが支援した北ベトナムは敗北し、戦勝国は南ベトナム。
若く強い、不敗の国・アメリカに史上はじめて勝利したという、驚きの展開でした。
この戦争に勝利したことでようやく、真の統一と独立が果たされることとなったのです。

とっても大変な中を勝ちぬいた、とっても若い国

1976年、ベトナムは共産主義国家〈ベトナム社会主義共和国〉として歩みをはじめます。
なんとなく「ふわーっ」としたイメージがあったベトナム。
実は独立国家としては70年、南北統一してからは40年たらず。
ものすごく若い国なんですね。
現在は中国と同じ、共産党の一党独裁体制で国を治めています。
さまざまな国に侵略された歴史ゆえに対外感情は複雑と言われます。
が、ベトナムの道を走る日本の自動車メーカー〈ホンダ〉の〈スーパーカブ〉といえばベトナム名物。
もっと仲良くしていきたいですね。
ベトナムへ観光に行かれる際、そしてあのヘルシー激ウマ麺〈フォー〉をすする機会があったらぜひ、ベトナムの歴史に思いを馳せてみてください。
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