【野球の歴史】国民的人気スポーツ・野球が歩んできた歴史とは?

日本に伝わってから200年以上の歴史が経ち、現在では国民的人気スポーツの1つになった「野球」。現在では春夏の「高等学校野球選手権大会」や大学野球、プロ野球、海外の「メジャーリーグ」などさまざまな形で観戦、プレーが楽しめるようになりましたが、その野球はここまでどのような歴史をたどってきたのでしょうか。今回は歴史や人物、関係スポットを見てみましょう。

野球の誕生・ルール確立まで

 

先行人類の時代に始まっていた

 

先行人類の時代に始まっていた

野球の歴史ははるか昔、先行人類の時代には始まっていたとされています。
この時代の人々は足の速い動物を仕留めるために石を投げていたとされ、アフリカ地中海沿岸地域からは当時使用していたとされる石が多数発見。
当時の石は現在の野球ボールと同じ大きさの石を使用していたとされ、この大きさの石が使用されたのは命中率、威力を兼ね備えたちょうどいい大きさであったためとのこと。
人類が生活するために生み出されたのですね。

その後古代エジプトなどでは王が棒で打った球の飛び方で「農作物の出来を占う」占いが流行。
先行人類の時代でもそうですが、この頃も「遊び」というより「自分たちの生活を占う」重要なものであったわけですから、現代の野球とは見る目的が全く違っていますね。

ヨーロッパで生み出されるスポーツ

 

ヨーロッパで生み出されるスポーツ

時代が進み12世紀頃になると、ヨーロッパで野球につながる新たなスポーツが生み出されます。
12世紀頃のフランスで生み出された「ラ・シュール」というスポーツはあらゆる球技の起源とされるスポーツで、2チームで足や手、棒などを使い敵陣にある2本の杭の間にボールを通すゲーム。
当時は非常に人気の高いスポーツでしたが、一方で死傷者が出ることもあったとされています。
足や手が出るわけですから「格闘技」のようなイメージもできますね。

この「ラ・シュール」はイギリスに渡ると牛や豚の直腸、膀胱を使ったボールを敵陣内のゴールまで運ぶ「ストリート・フットボール」に発展。
その後は石に草の茎、糸を巻き付けて作ったボールを使うスポーツが流行し、「ラウンダーズ」、「ワン・オールド・キャット」といった名前を付けて発展。
前者は小石を詰めた靴下などのボールを打者が船の艪(ろ)などのバットで打ち返すもの、後者は打者が棒で打った打球をノーバウンドまたはワンバウンドで捕球した者が次の打者になるものでした。
当時の人々は周りにある物を利用、工夫しながらスポーツを発展させていたのですね。

こうしたスポーツはルールを変えて遊ばれて、「投手が打者に投球、打者は打ち返す」「フィールドにいる野手が打球を捕球、打者走者にぶつければ打者アウト」「走者が4つの塁をすべて回って本塁に帰れば得点」といったルールが見えるように。
明確なルールはないものの、現代のルールとほぼ変わらなくなってきました。

アメリカへ・野球の基本ルール確立

 

アメリカへ・野球の基本ルール確立

少しずつ現代のようなルールが見えてきた中、1800年代に入るとアメリカに「ラウンダーズ」が渡ってきます。
1834年にアメリカで発行された『スポーツの本』という本で「ラウンダーズ」が「ベースボール」として紹介。
その後1842年に入るとニューヨーク・マンハッタンでボランティア消防団を創設したアレクサンダー・カートライトが団員の結束強化、運動不足解消をねらいとして消防団からメンバーを募ったスポーツ団「ニューヨーク・ニッカーボッカーズ」を発足。

スポーツ団を発足したカートライトが次に乗り出したのが「明確なルールの確立」でした。
この頃はまだ明確なルールが決まっておらず、時によってルールが変更されることもあり、カートライトはそれ解消しようとしたのです。
ルールが毎回変更されていては混乱してしまいますからね。
ルール確立を狙ったカートライトは団員と議論しながら意見をまとめ 、1845年に新たなゲーム案をまとめることに。

ここで策定されたルールは「チーム人数を攻撃、守備ともに9人。
一方のチームは攻撃中、もう一方は全員フィールドに散らばり守備。」という人数ルール、アウトルールでは「打者が3球空振り、最後の球を捕手が捕球したとき。
打球がノーバウンドまたはワンバウンドで捕球されたとき。
3アウトで攻守交代。」など。

ここに「21点先取したチームが勝ち」であることも明記され、1846年6月19日にはニュージャージー州・ホーボーケンでニッカーボッカーズとニューヨーク・ナインによる最初のベースボールの試合が開催。
ニッカーボッカーズは1-23と大敗しますが、この日は野球の基本ルールで初めて試合が行われた「ベースボール記念日」と呼ばれるように。

繰り返されるルールの変更

 

繰り返されるルールの変更

野球のルールはカートライトによって確立された後も、「試合時間の短縮化」や「試合のスリリング化」を目指して細かな変更を繰り返してきました。
試合進行については「21点先取制」では時間が長引いてしまうとの理由から1857年に「9回終了時に多くの得点を奪ったチームを勝ち」とするルールに変更、守備でも1864年に「ノーバウンド時のみアウト」へ変更されます。

投球についてもルール確立当初は「投球は下手投げのみ」「打者は投手にコース指定が可能」が存在してましたが変更。
投球方法が限定されるうえに打者からコース指定されては、打者が「打ち放題」になることもあり得ますよね。

出塁では1879年に「9ボール」で一塁へ出塁と定められてから1880年には「8ボール」、1882年に「7ボール」と減らしていき、1889年には現在見られる「4ボール(フォアボール)」に。
最初のルールでは投手が8つまで「ボール」を投げても出塁を許さないものですから、明らかな投手有利になってしまいますからね。

日本に伝わる野球

 

野球を日本へ伝えた人物

 

野球を日本へ伝えた人物

古代から始まりその後ヨーロッパ、アメリカと渡ってきた野球は明治時代に日本へとやってきました。
日本で野球を最初に教えたとされているのが、1871年(明治4年)に来日したアメリカ人教師ホーレス・ウィルソンで、当時の東京開成学校予科(その後の旧制第一高等学校、現在の東京大学)で生徒に野球を伝えると野球人気は日本全国へと広まることに。
ウィルソンは2003年(平成15年)に野球を日本に伝えた功績を称えられ「日本野球殿堂」入りを果たすことに。
日本に野球を伝えたのは教育に関わる人物であったのです。

その後1878年(明治11年)には平岡ひろし(日本初の民間鉄道車両メーカー・平岡工場の設立に携わった人物)が日本初の本格的野球チーム「新橋アスレチック倶楽部」を設立、4年後には駒場農学校(現在の東京大学農学部にあたる)と日本初の対抗戦を実施。
1896年(明治29年)には青井鉞男が投手を務めた「旧制一高ベースボール部」と「横浜外人クラブ(現在の横浜カントリー・アンド・アスレティック・クラブ)」が横浜外人居留地運動場(現在の横浜公園)で対戦、旧制一高が29対4で大勝。
日本でも野球人気は高まる一方でした。

人気高まる中での「野球害毒論」

 

人気高まる中での「野球害毒論」

日本で野球人気が高まる中、そうした風潮をよく思わない人物も存在しました。
1911年(明治44年)に東京朝日新聞が「野球と其害毒」と題した記事を連載、ここから「野球害毒論」が展開されていったのです。

この記事には野球に批判的な著名人の談話などが紹介され、新渡戸稲造(にとべいなぞう。
第一高等学校校長)は「野球は巾着切り(すり)の遊戯、野球は賤技(せんぎ)なり」、川田正澂(かわだまさずみ。
府立第一中学校校長)は「野球には・学生の大切な時間を浪費させる・疲れて勉強を怠る」などの「野球の弊害四ヵ条」を唱え野球を批判。
彼らの考えでは「教育に悪影響しか及ぼさない」という考えが強かったのかもしれません。

この記事は大きな反響を呼び朝日新聞と拡販競争をしていた東京日日新聞(現在の毎日新聞)は「野球擁護論」で反論を展開。
このほか読売新聞が「野球問題演説会」を開催し野球擁護の方向性を表明すると運動は沈静化。
こうした運動が起こったことによって逆に野球熱は高まったのかもしれませんね。

幅広い世代に広がる野球・戦時中の悲劇

 

幅広い世代に広がる野球・戦時中の悲劇

明治後半に勃発した「野球害毒論」運動を経て、野球は幅広い層に浸透していきます。
1915年(大正4年)8月には大阪・豊中球場で第1回全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高等学校野球選手権大会)が開催され、京都二中(現在の京都府立鳥羽高等学校)が優勝。
1924年(大正13年)の第10回大会からは現在の会場である阪神甲子園球場が舞台に。
同年春には春の選抜中等学校野球大会が創設され名古屋・八事の山本球場(八事球場)で第1回大会を開催。

学生野球の名物大会が開催される頃、1934年(昭和9年)には読売新聞社・正力松太郎(しょうりきまつたろう)によって「大日本東京野球倶楽部(現在の読売ジャイアンツ)」が発足され、1936年(昭和11年)には7球団で構成される日本初のプロ野球リーグ「日本職業野球連盟」が設立。

こうして野球が広がる一方で太平洋戦争が激化した時代には「野球が敵国の国技である」との考えから英語使用が禁止され、ストライクは「よし1本」など日本語表記に変更。
その後1943年(昭和18年)には学生野球、翌1944年(昭和19年)にはプロ野球が中止に追い込まれ、巨人軍の大投手・沢村栄治(さわむらえいじ)が亡くなることも。
野球の歴史には悲劇的な歴史も隠されていたのですね。

野球と関連のある歴史上の人物

 

野球と関連のある歴史上の人物

現在では「野球」「ベースボール」という言葉は一般的なものとなりましたが、「ベールボール」を初めて「野球」と訳したのは「第一高等中学校」の野球部員であった中馬庚(ちゅうまんかなえ)。
1894年(明治27年)に刊行した「ベールボール部史」を執筆途中に「Ball in the field」という言葉を「野球」という言葉に翻訳。
中馬は執筆から3年後の1897年(明治30年)には一般向けの野球専門書「野球」を出版、その後1900年代に入ると「ベースボール」の訳語として「野球」が一般的に使われるようになります。

野球用語の翻訳では明治時代の俳人・正岡子規(まさおかしき)が有名。
スポーツに興味を示さなかった子規が珍しく熱中したスポーツが野球であり、野球の存在を知ると1889年(明治22年)に喀血してやめるまで捕手として野球をプレー。
子規は野球をプレーしながら野球用語である「バッター」「ランナー」「フォアボール」などの外来語をそれぞれ「打者」「走者」「四球」と翻訳。

このほか子規は自身の幼名が「升(のぼる)」であることから、「野球」とかけて「野球(のぼーる)」という雅号を1890年(明治23年)から使用。
プレーする以外に自分の雅号と絡ませるとは相当な熱の入れようですし、彼の名は今考えてみれば「野球をするために」付けられたと考えてしまいますね。
子規はこのような野球の貢献度を評価され、2002年(平成14年)に野球殿堂入り。
文化人でありながら全く違う分野でも評価されることに。

野球の歴史を知るスポット

 

野球の歴史を知るスポット

東京都文京区の野球場・東京ドーム内にある「野球殿堂博物館(やきゅうでんどうはくぶつかん)」は、1959年(昭和34年)に日本初の野球専門博物館として開館した野球博物館で、1988年(昭和63年)に東京ドームが完成すると現在地に移転。
野球界の発展に貢献した人物・名選手など「野球殿堂」入りを果たした人物の肖像レリーフ、野球歴史資料などを収蔵する日本唯一の野球専門博物館で、野球名場面を上映する映像シアターも設置。
住所:東京都文京区後楽1-3-61

愛媛県松山市の「松山坊ちゃんスタジアム」内にある「の・ボールミュージアム」は地元出身の正岡子規が雅号として使用した「の・ぼーる」にちなんで名付けられた資料館。
館内ではプロ・アマチュア野球に関する展示、「バーチャルピッチング」のような体験コーナーなど、野球の歴史が楽しめる内容。
子規が現代でも野球界に影響を与えていることがわかりますね。
住所:愛媛県松山市市坪西町525-1

知って観戦をより楽しく

 
古代に始まりヨーロッパ、アメリカを経て伝わった野球は、日本に伝わったあともさまざまな人物によって広められ、発展を遂げてきました。
現在では野球が歩んできた歴史を博物館などの存在で知ることもでき、こうした歴史を知っておけばより観戦が楽しくなりますね。

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