連携と敵対を繰り返した?朝鮮に高句麗・百済・新羅の3国が成立した歴史

お隣の国・韓国にあった高句麗・百済・新羅という国の名前は皆さん日本史の授業で聞いたことがあるんじゃないかと思います。

では、その3国はどのようにでき、どのような人物に導かれ、どのように関係し合って残っていったのか?

また、高句麗の広開土大王とは?百済は日本に何を伝えた?新羅の発展の元となった精神とは?

ということについて見ていきたいと思います。

高句麗・百済・新羅はそれぞれどのようにできた?

高句麗を建国した朱蒙とは?

高句麗を建国した朱蒙とは?

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紀元前108年に衛満朝鮮(うぃまんちょうせん)が漢に滅ぼされ、漢はその領土に楽浪郡(らくろうぐん)を置いて直轄地に。
しかし、朝鮮半島北部から中国東北部にかけての広い地域には土着の部族が支配地域を持ち、その中で特に有力だったのが扶余(ブヨ)。

勇敢で慎み深く、歌舞飲酒を好んだ扶余の人々の中から生まれたのが、後に高句麗を建国した朱蒙(チュモン)。

朱蒙の誕生は神話に彩られています。
扶余の王だった解夫婁(ヘブル)には子供がおらず、祭祀を何度も行い、子の誕生を願っていました。
ある日、解夫婁は不思議な魔力を持つ石を見つけ、蛙にそっくりな金色に輝く赤ん坊が現れました。

「天が私の願いを叶えてくれたのだ!」と喜んだ解夫婁はその赤ん坊を「金蛙」(クムワ)と名付け、大切に育てて後継にし、その後解夫婁は配下の宰相の進言もあり都を移し、国の名を「東扶余」に改めました。

朱蒙が高句麗を建国した経緯は?

朱蒙が高句麗を建国した経緯は?

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解夫婁がこの世を去り、金蛙が王に。
ある日金蛙は川のほとりで女性を見つけ、わけを尋ねると女性は柳花(ユファ)と名乗り、「北扶余で「天帝の子」を自称する解慕漱に家を追い出されました」と。
哀れに思い金蛙は柳花を保護。

すると、柳花は大きな卵を産み、やがて出てきたのは男の子。
この子は立派に成長し、体格もよく、弓の名手となったので、弓の名手に名付けられる名前「朱蒙」と名付けられました。

しかし、金蛙が朱蒙を重用したため、金蛙王の7人の子供たちが朱蒙を殺そうとし、母の柳花は朱蒙に東扶余を出ることを提案。
朱蒙はその通りにし、精力的に各地を訪ねました。

そして、22歳のとき、ついに肥沃な大地を見つけ、そこに都を作って高句麗を建国。
都は当時「卒本」(チャルポン)と呼ばれており、今の鴨緑江の中流域の北側辺りになります。

22歳で国を建てるというのはすごいですね。
割とたくさんのお金を持って東扶余を出たのでしょうか?

百済は高句麗と同じ扶余国の流れを持つ国?

百済は高句麗と同じ扶余国の流れを持つ国?

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朱蒙は卓越した才能で領土を拡大し、高句麗を大いに発展させました。
すると紀元前19年、朱蒙が東扶余を出た後に生まれたという長男の瑠璃(ユリ)が朱蒙を訪ね、朱蒙は喜びましたが、一方朱蒙は高句麗でも結婚していて沸流(ビリュ)と温祚(オンジョ)の2人の息子がいて内紛の種になりそう。
王位に就けるのはもちろん1人だけなので「これはマズい!」と思いました。

結局朱蒙が皇太子(後継者)に指名したのは瑠璃。
沸流・温祚は高句麗を去り、家臣と共に南に下っていき、また多くの農民たちが2人に慕っていきました。

一行は住みやすい土地を目指して旅を続けましたが、沸流は海浜に住み着こうとし、家臣が「もっと良い土地があるはず!」と反対。
しかし、沸流は意見を聞かず、その海浜を拠点としてついてきた民と一緒に住み、それが今の仁川(いんちょん)の辺りです。

温祚は蔚礼城(うぃれそん、今でいうソウル郊外)が気に入り、国号を十済(しぷちぇ)と決め、これが紀元前18年のこと。

蔚礼城は大いに発展、十済はどんどん大きくなりました。
逆に沸流は痩せた土地に苦労が絶えませんでした。
彼は温祚の成功を見て心から恥じ、苦悶の中で息を引き取りました。

沸流に従っていた者たちも温祚の配下として合流、十済はさらに大きな国に。
それを機会に国号も「百済」に改めたのです。

さらに大きな国になったので、十から百に国の数字を増やしたということでしょうか。
それはともかく、つまり百済は扶余国の流れをくむ国家で、その点では高句麗と同じ。
両国は兄弟の関係にありました。

新羅の建国神話は?

新羅の建国神話は?

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高句麗と百済に独自の建国神話があるように、新羅にも興味深い建国神話が。

現在の慶州(きょんじゅ)はかつて徐羅伐(そらぼる)と呼ばれていました。
ここは元々大地が肥沃で農業に適し、6つの氏族がそれぞれ村を作って平和に暮らしていました。

その内の1つ、高墟(コホ)の村長がある日、林の中で馬がひざまづいているのを見つけ、近づいてみると、いつのまにか馬はいなくなり、そこには大きな卵が。

高句麗も百済も卵から人が生まれる話でしたが、新羅もなのですね。

村長は不思議に思いつつも卵を割ってみると、中から赤ん坊が。
村長はとても喜び、赤ん坊を大事に育てました。
そして、その子が13歳になる頃には誰もが認める大人物に成長。

そこで6つの村では彼を王にして統治を任せることに。
それが新羅初代の王と呼ばれる朴赫居世(ぱくひょっこせ)。

また、神話には続きがあり、それは朴赫居世の妻のこと。
ある時、閼英(アリョン)という井戸のそばに竜が現れて人々を驚かせ、その竜はなんと女の子を産んで去っていきました。

それを見ていた老婆はその女の子があまりにもかわいかったので、育てることにし、井戸の名にあやかって、女の子を閼英と呼ぶことに。

閼英は成人すると、性格が優しくて美貌に恵まれた娘になり、その評判は朴赫居世の耳にも入り、彼は閼英を妻として迎え入れることに。

王と王妃は仲良く暮らし、行いも正しく、国も発展し、人々は王と王妃を「2人の聖人」と崇めたといいます。

韓国の歴史で最も広い領土を誇った高句麗

三韓から三国と伽耶の時代へ

三韓から三国と伽耶の時代へ

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紀元前から紀元後にかけての朝鮮半島北部から北東部にかけては漢が楽浪郡などの直轄地を置き、一方扶余国が力を伸ばし、そこから高句麗が建設されたのは前述の通り。

一方中央部から南部にはいわゆる三韓時代の馬漢(マハン)、弁韓(ビョナン)、辰韓(チナン)といった国家が存在しましたが、国家といっても部族が集まって緩やかな集合体を作っていたという状況。

そうした中で、強大化した部族が中心になって国家の再編成が行われ、馬韓が百済に発展、辰韓が勢力を増して新羅に代わり、弁韓でも再編成が行われて後の伽耶(かや)に。
農業用地を広げたり、鉄器の製造に成功したりして著しく勢力を伸ばした国家が生き残ったのです。

時代が紀元後になってから、朝鮮半島北部から東北部にかけて高句麗、南東部に新羅、南西部に百済が一定の領土を要するように。
しかし、高句麗は漢の影響力をなかなか排除できず、一本立ちするのに時間がかかりました。

また、新羅と百済に挟まれた伽耶は小さな連合国家ながらも、当初は3国に対抗できる力を持っていて、伝説の初代王と言われたのが金首露(キムスロ)。
その在位はなんと紀元後42年から199年までの157年。
180歳くらい生きたということになるんでしょうか?多分に神話も混じった人物だったそうです。

中国勢力を朝鮮半島から追い出した高句麗

中国勢力を朝鮮半島から追い出した高句麗

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伽耶は鉄の生産でよく知られ、製鉄技術は日本にも影響を与えました。

しかし、5世紀以降に新羅や高句麗から圧迫され、徐々に力が弱まり、結局中央集権国家として政治的な制度を整えられなかったことが致命傷になり、562年に新羅に統合されました。

そして、初代王の朱蒙が紀元前19年に世を去った高句麗では、周辺地域の小国を吸収しながら徐々に領土を拡大。
紀元後3年、2代王の瑠璃は都を鴨緑江中流の国内城(クンネソン)に移し、その地は土壌が豊かで、軍事的にも地の利に勝っていました。

高句麗がさらに飛躍したのが6代王・太祖(テジョ)の時代。
彼は幼少の時から才能がずば抜けていて、7歳で即位し、成人してからは楽浪郡を押さえ込み、朝鮮半島東北部と中国東北部で版図を広げました。

記録によると、100歳となった146年まで王位に就いていたことになり、「太祖大王」と称されるのも無理はないこと。
今よりも1900年も昔なのに、何か長寿の秘訣があったのでしょうか?それとも神話の作り話?

ともかく王権を強化した高句麗は313年に楽浪郡を攻めて、中国勢力を追い出すことに成功。
しかし、百済に大敗して存亡の危機を迎えた時代も。

そんな苦難を克服したのが17代王の小獣林王(そすりむわん)で、彼は中央集権化を進める一方、仏教を受け入れ民心の安定にも尽力しました。

高句麗の広開土大王とは?

高句麗の広開土大王とは?

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小獣林王が土台を築いた上で、19代王として広開土大王(クァンゲトデワン)が391年に即位。
今の韓国において広開土大王は誰もが慕う民族の誇り。

それは彼が歴史上もっとも広い規模の領土を確保したからで、狭い韓国からすればそれは夢のような広さ。
島国の日本人には分かりづらいかもしれませんが、朝鮮の国は大陸の脅威に常にさらされてきたのですね。

16歳の若さで高句麗王になった広開土大王は北は中国東北部と、西は遼東半島、南は朝鮮半島中央部まで領土を広げ、5世紀前半に東アジアの一大帝国を作りあげました。
それを可能にしたのは強力な騎馬軍団と優れた製鉄技術で、もはや周辺地域で高句麗に対抗できる勢力はありませんでした。

広開土大王が亡くなるまでの在位期間は22年間でしたが、それはそのまま高句麗の黄金時代。
繁栄は後も続き、跡を継いだ長寿王は都を国内城から平壌(ピョンヤン)に移し、南側で対峙する百済と新羅に圧力をかけました。

仏教を日本に伝え、高句麗と積極的に戦った百済

百済の聖王が日本に仏教を伝えた?

百済の聖王が日本に仏教を伝えた?

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百済は朝鮮半島で有数の穀倉地帯という利点を持ち、それにより力を付け、4世紀後半に朝鮮半島の南岸にまで版図を拡大。
その最大の功労者は13代王・近肖古王(クンチョゴワン)で都の蔚礼城は今のソウル周辺にあたり、そばを漢江(ハンガン)が流れていました。

その川原で近肖古王は軍を徹底的に鍛え、高句麗との戦いに積極的に出て勝利を重ねました。

しかし、近肖古王が亡くなってからは安泰の時代は続かず、執拗に南下を狙う高句麗は475年に大軍で百済の蔚礼城を攻め、大激戦でしたが百済の旗色が悪く、その時の百済王・蓋鹵王(ケロワン)は高句麗軍に捕まって殺されました。

百済は高句麗との戦闘は国力を衰退させると考え、都を南の熊津(ウンジン、現在の公州)に移し、この遷都により百済は劣勢を挽回。

501年、25代の武寧王(ムリョンワン)が即位し、523年まで善政。
この頃には国力も回復し、絢爛な王朝文化が隆盛を極め、26代聖王(ソンワン)はさらなる発展のため、都を泗沘に移しました。

また聖王は仏教にも深く帰依。
日本の朝廷に仏像や経典を贈り、この時仏教が日本に初めて伝わったとされ、彼が日本に目を向けたのは新羅と高句麗を牽制する目的が強かったからだと思われています。

連携と敵対を繰り返し、生き残りをはかった3国

連携と敵対を繰り返し、生き残りをはかった3国

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特に聖王は高句麗に奪われていた漢江地域の奪還に熱心。
というのもそこは先祖の支配地域だったからです。
聖王は巧みな外交戦術で新羅の協力を取り付け、高句麗が北方に気を取られている隙に漢江地域から高句麗勢力を除外することに成功。

しかし、喜びも束の間、新羅が寝返ってきました。
これは誤算で、漢江地域を新羅にかすめ取られた聖王は果敢に新羅を攻めましたが、その最中に捕虜となり処刑されます。
なんとも無残な死に方ですね。

この時期、3国は連携と敵対を繰り返し、どちらか2つが組めば残った1つは孤立するのが必定。
聖王の死で新羅と百済が険悪になると、百済は高句麗に近づき、新羅は孤立。
しかしその構図も流動的で3国は生き残りに必死。

600年には百済で名君とされる武王(ムワン)が即位。
武王は風貌や行動が立派で志が高く豪傑とされ、その41年の王位は高句麗・新羅との戦いに明け暮れ、それでも心に余裕がある時は宴を開き、家臣たちとくつろいでいます。
幸せなひと時だったでしょうが、百済の人たちはすぐそこにある危機に気づいていませんでした。

新羅が発展したのはなぜ?

新羅が高句麗・百済と並んだ経緯は?

新羅が高句麗・百済と並んだ経緯は?

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先に新羅の建国神話を紹介しましたが、国家の名称としての「新羅」が歴史上に登場するのは4世紀後半。
それ以前は慶州周辺の6つの小国が連合体として斯盧(サロ)国(辰韓の1つ)を形成していました。

当初は朴氏の子孫が王位を継承していましたが、昔(ソク)氏の一族から4代王が登場。
さらに13代王は金(キム)氏の一族から誕生し、このように、斯盧国は朴・昔・金の3氏から王が選ばれていました。

やがて金氏の力が強くなり、356年に即位した奈勿王(ネムルワン)以降、王位は金氏の一族が独占するようになり、それにより土着的な要素の強かった小国連合国家が中央集権国家に変貌を遂げました。

小さな領土から始まった新羅でしたが、水利事業の発展により農業生産性が大いに向上。
それに伴い勢力を拡大し、同時に積極的な統合政策を推進。
伽耶が支配していた洛東江(ナットンガン)流域も占有。
高句麗や百済にも対抗できる存在に。

花郎精神で新羅は発展?

花郎精神で新羅は発展?

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新羅の人材育成制度は独特で、特に重んじられたのが「花郎(ファラン)精神」。
「花郎」とは貴族階級で育った青年たちの集まりのことで、そこでは徹底的に思想教育が行われましたが、その精神的支柱が花郎精神。
具体的には「王に忠誠を尽くせ」「親孝行をするべし」「信頼して友人と交流せよ」「戦では絶対に退却するな」と教えられます。

さらに花郎の青年たちは伝統的な儀式や祭礼を通して社会通念を学び、軍事訓練や狩猟を通して体を鍛えました。
こうしたエリート教育が新羅の青年たちを厳しく育て、軍事面でも強兵の土台になり、花郎精神を習得した兵士たちが戦場に送り込まれ、自らを犠牲にして新羅のために戦い、そのお陰で新羅の領土は徐々に広がっていきました。

当時、新羅は高句麗の南下を警戒していて、その点で百済と利害が一致、両国は約110年間も良好な同盟関係を結んでいました。
しかし、554年、新羅は百済と協調して高句麗から漢江地域の領土を奪いましたが、それを独占しようと百済と対立し、同盟関係は破綻。

以後、新羅は3国の中で孤立、そこで中国大陸に使節を派遣して背後から高句麗や百済を牽制する戦術に。

窮余の策でしたが、ここから新羅は飛躍するきっかけを作ったのです。

その後、新羅は唐と組んで百済を滅ぼし、663年の白村江の戦いで倭国と百済復興軍を破り、孤立した高句麗は668年に降伏し滅亡。
さらに新羅と唐は領地を巡って武力衝突し、唐の大軍を新羅が撃破。
この辺りも触れたかったのですが、文字数の制限でここまでにします。
白村江の戦いについては以前に書きましたので、それをご覧ください。

それぞれ建国神話を持ち、同盟と争いを繰り返した高句麗・百済・新羅の3国

高句麗は朱蒙により建国され、百済は高句麗と同じく扶余の流れから建てられた国。
新羅は朴赫居世と閼英の「2人の聖人」により建国。

やがて3国は3韓にとって代わり、高句麗は広開土大王の時に韓国の歴代最大の領土を持ち、百済は高句麗と戦い続け、さらに日本に仏教を伝え、新羅は「花郎精神」で発展。

3国は連携と戦いを繰り返し、結局、白村江の戦いの前後で新羅は百済と高句麗を滅ぼし、朝鮮半島の王者に。

私は「白村江の戦い」の記事を書くために調べ、さらに荒山徹さんの小説「白村江」を読み、朝鮮半島の歴史についても気になっていたのですが、調べていて面白く、機会があれば省略した続きを書きたいものです。

それでは、ここまで読んでくれてありがとうございます!

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