アフリカの歴史に光を!『人類生誕の地』母なる大陸一周の旅へ

アフリカの歴史というと、16世紀以降、ヨーロッパ人による「奴隷貿易時代」から18世紀後半の「植民地時代」を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。では、それ以前のアフリカの歴史は?人類発祥の地と言われながら、近世以前のアフリカの歴史について語られる機会は少ないのかもしれません。そこで今回は、先史時代から中世時代までのアフリカの歴史を、広い大陸をくるりと時計回りに一周しながら追いかけてみたいと思います。

東アフリカの歴史

人類発祥の地か?~エチオピア~

人類発祥の地か?~エチオピア~

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アフリカ大陸の古代史で最も有名なのはエジプトということになりますが、今回はエジプトには休んでもらい、紅海側を少し南下して東アフリカ地域の歴史から覗いてることにいたします。

東アフリカは、南北7,000㎞にも及ぶ高原地帯(大地溝帯)が通っており、起伏の激しい変化に飛んだ地形が多く見られる地域です。
この一帯には現在、エチオピアやケニア、タンザニア、モザンビークやジンバブエ、海を隔てたところにマダガスカルといった国々があります。
この大地溝帯周辺では猿人のものと思われる化石が多数発掘されています。
まさに『人類生誕の地』なのです。

この中でまず注目したいのがエチオピア。
1990年代に、アメリカ・日本及び現地の発掘チームが、東部を流れるアワッシュ川の中流でおよそ440万年前の猿人のものと思われる化石を発見しました。
この川では1970年代にも、下流域で350万年ほど前の人骨などが見つかっており、人類の起源を知る上で非常に重要な地域であると考えられています(下流域は1980年に世界遺産に認定)。

エチオピアには、20世紀に一時的にイタリアに占領されていた時期がありましたが、アフリカ大陸で唯一、植民地化を退け続け連続した歴史を持つ国。
紀元前3000年頃から大きな集落があったと考えられており、紀元前900年頃にソロモン王とシバの女王が知恵比べをしたという伝説も残されています。

エチオピアには強大な力を誇った王国が存在していました。
紀元前後に興ったアクスム帝国が数百年に渡って栄え、10世紀頃にはザグウェ朝がアクスムを滅ぼしてその後300年ほどの間広い領土をおさめ繁栄を極めます。
ザグウェ朝を滅ぼしたエチオピア帝国はその後700年もの間力を誇示し続けました。
どの帝国も、エジプトやアラブなど諸外国と対等に外交を行い、時に対立するなど大変強大な力を誇った国であったと考えられていますが、まだ謎が多く、全貌は明らかにされていません。

人類生誕から巨大帝国建国まで、この地でどんなことが起きたのか、今後の発掘調査に大きな期待がかかっています。

250万年もの時を刻み続ける国~タンザニア~

250万年もの時を刻み続ける国~タンザニア~

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エチオピアより南下すること数千キロ。
ケニアを挟んで南側にあるタンザニアでも、エチオピアより早い段階で多くの人類化石が発見されています。

1900年初頭より、ドイツやイギリスなどの学者たちによって幾度となく発掘調査が行われており、特に1964年、北部に位置するオルドヴァイという大渓谷でおよそ250万年前の人類化石が発見されたことは、大きな話題となりました。

その化石は”ホモ・ハビリス”と呼ばれ、この一帯は人類起源を知る重要な遺跡のひとつと位置づけられるようになったのです。

また、この一帯では数多くの石器も見つかっていて、180万年前頃の旧石器文化の跡ではないかと言われています。
エチオピアと並んで『人類生誕の地』と称されるタンザニア。
1万年ほど前までは狩猟民族が北部を中心に転住を重ねていたと考えられていますが、5000年ほど前には農業が定着し、ひとところに定住する傾向が強くなっていったようです。

紀元前1世紀頃には、アフリカ大陸西方・中央部から移住してくる民族が。
タンザニアに定住を始めます。
また、タンザニアは広くインド洋に面していることもあって、7世紀頃になるとアラブやインド、ペルシャなどから海を渡ってやってきて、東側海岸近くの島々を中心に定住するようになりました。
彼らによって築かれた文明は『スワヒリ文明』と呼ばれ、キルワやザンジバルといった島々には彼らの都市が築かれていきます。
特にキルワ島にはキルワ王国と呼ばれるイスラム教の国ができ、13世紀から15世紀頃まで交易を中心として繁栄していきました。

1498年、ポルトガル王国の冒険家バスコ・ダ・ガマがインド洋航路を開拓したことで、ポルトガル人が東アフリカを席巻。
キルワ王国も滅ぼされ、東アフリカの多くの地域がポルトガルによって制圧されていくのです。

しかしそのポルトガル勢力も17世紀後半になると、中東の強国オマーン国によってタンザニア周辺から追い払われ、南へ移動していきます。
オマーン国は東アフリカ海岸地域を中心に勢力を強め、ザンジバル島に王宮を建設。
ザンジバル島は香辛料や奴隷市場として栄えていくのです。

遺跡から名付けられた国~ジンバブエ~

遺跡から名付けられた国~ジンバブエ~

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タンザニアからさらに南へいくと、南アフリカ共和国と隣接する内陸部分にジンバブエ共和国があります。
首都ハラレから南へおよそ300㎞、ジンバブエ共和国の中央部分の標高およそ1,000kmもの高原地帯に、グレート・ジンバブエ遺跡と呼ばれる製造建築遺跡があります。
ジンバブエとは現地の言葉(ショナ語)で「石造りの建物」を意味するのだそうです。

王宮と思われる石の建造物と、周辺には集落の跡があり、それらを含めると1.5㎞四方ほどにもなる巨大な遺跡。
石が隙間なくぎっしり積み上げられた石の壁やトンネル、塔のようなものもあり、高い技術と強い力を持った国が存在していたであろうと、素人でも容易に想像がつきます。
現在のジンバブエの半数以上を占めるショナ族が建てたものではないかと考えられていますが、残念ながら詳しいことはまだよくわかっていません。
発見されたのは19世紀中頃でしたが本格的な調査が始まったのは20世紀に入ってから。
今なお研究過程にある遺跡なのです。

この地域は高原で疫病が広がる心配が少ないため、徐々に人々が定住し始め、11世紀頃には石造りの建物が造られるようになったのでは、と考えられています。
また、遺構の中からはアジア圏のものと思われる陶器なども見つかっているところから、やや内陸で高台にも関わらず諸外国との交易も行っていたようです。
しかし、15世紀頃には何らかの理由で放棄・消滅されたものと考えられています。

ところでジンバブエ共和国という国名は、グレート・ジンバブエ遺跡から名付けられたもの。
イギリス植民地時代までは、お隣のザンビアと合わせて「ローデシア」と呼ばれていました。
ザンビアが独立した後は「南ローデシア」と名乗っていましたが、グレート・ジンバブエにちなんで国名も「ジンバブエ」としたのです。

グレート・ジンバブエとはどんな都市国家だったのか。
国名の由来となった遺跡の全貌が明かされる日が来ることを祈りたいと思います。

南アフリカの歴史

アフリカの歴史は誰のために

アフリカの歴史は誰のために

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駆け足飛び足ではありますが、東アフリカの歴史を見てまいりました。

では次に、東アフリカから大陸を南下して、南アフリカ地域の歴史や文明について見ていくことにいたしましょう。
この地域にも、東アフリカ同様、古くから多くの人々の暮らしがあったと考えられています。

しかし、それにしても、人類の起源を知るに足る化石類が多数発掘されているというのに、アフリカの歴史はそれほど広く知られていないように思われます。
なぜなのでしょうか。

アフリカ大陸には、エジプト以外にも、先史時代の文明・都市国家がたくさん存在していました。
しかし、その認知度は低く、アフリカの歴史=植民地時代と考えられがち。
これは結局のところヨーロッパ人の歴史を示すものであって、アフリカの歴史とは言い難い。
「自分自身の手で歴史が書き上げられて初めて政治的独立がなされる」とはケニアの歴史家オゴトの言葉。
アフリカは長きにわたり先進国に制圧され、それ以前にその場所に確かにあったはずの歴史や文明の存在もかき消されてしまっていました。
1960年代以降、独立を果たす国がひとつふたつと増え、彼らは再び、自分たちの祖先が歩んできた歴史を知る機会を得ます。
国家がひとつにまとまり前進するため、歴史探求は必要不可欠なことなのかもしれません。
こうして、1960年頃から、ヨーロッパ主導ではない、アフリカの歴史調査が闊達に行われるようになりました。
つまり、考古学、歴史学の歴史がまだ浅い、ということなのです。

アフリカに残されている遺跡や遺構は木造建築によるものが多く、また、定住せず移動を重ねるケースが多かったようで、こうした発掘には膨大な時間と技術、それに費用もかかります。
また、土地が広大な上に資料が少なく(エジプトを覗いて、アフリカの古代文明には文字が使われておらず、記録や伝承がほとんどない)、そのため、調査がなかなか進まないのも実状のようです。

人類はここから?~南アフリカ共和国~

人類はここから?~南アフリカ共和国~

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では、改めて、南アフリカの歴史を見てまいりましょう。

南アフリカには、最南端の南アフリカ共和国や、ボツワナ、大西洋に面したナミビアといった国々があります。
中でも注目すべきは、南アフリカ共和国でしょう。
アフリカ大陸の最南端に位置し、金やダイヤモンドの産地としても知られているアフリカ最大の経済大国です。

この国にも、太古より人類が存在していた痕跡が数多く残されており、やはり『人類発祥の地』と称されています。
あっちにもこっちでも人類発祥・人類生誕と呼ばれる地域が登場しますが、これもまたアフリカ発掘の現状のようで、大陸は広いし発掘作業には困難な厳しい土地が多いしで、調べ切れていないのです。
明日にもまた新しい「発症の地」が発見されるかもしれない。
そんな状況ではありますが、とにかく南アフリカにも、人類の研究に重要な化石が出土した遺跡が見つかっています。

南ア共和国の北東部、ジンバブエにほど近いところに「南アフリカの人類化石遺跡群」と名付けられ世界遺産にも登録されている地域が。
いくつかの遺跡から構成されていて、その中心となるスタークフォンテン洞窟からは、およそ350万年前のものと思われるアウストラロピテクスの化石が出土しているそうです。

この洞窟は数億年の年月をかけてできた石灰岩質の土壌で覆われており、そこを350万年ほど前に人類が見つけて住み着いたものと考えられます。
その後、時期は定かではありませんが、いくつかの狩猟民族や、大陸北部から南下してきた民族たちが移り住み、主に狩猟を生業として生活をしていたようです。
その後も、北部地域を中心に、農業や牧畜などを行う小国がいくつか誕生しています。

やがて大航海時代が幕を開けると、ヨーロッパ人たちは南アの最南端、喜望岬に目をつけ、それまで特に何もなかった南部にも都市が築かれるように。
北部にあった集落や都市は忘れられてしまったかのように、歴史の舞台からひっそりと姿を消してしまいます。

スタークフォンテン洞窟周辺が再び脚光を浴びるのは19世紀後半。
金脈や鉱山の探索者たちが、石灰岩の採掘場として着目し、採掘を始めたところ、人類化石が次々と出土。
この場所周辺ではその後も多くの発見があり、300万年~150万年前と思われる地層から数百に及ぶ化石が見つかっているのだそうです。

西アフリカ~北アフリカの歴史

コンゴ川とコンゴ王国

コンゴ川とコンゴ王国

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次に、大西洋側を北上し、大陸西側の様子を見ていきましょう。

東・南アフリカはブッシュサバンナと呼ばれる草原が広がっており、高原や山脈地帯も多く見られます。
一方、西側はというと、中央部分はコンゴ盆地を中心に熱帯雨林があり、その周囲にコンゴ川(ザイール川)。
アフリカ中部を源流とし、盆地の中を蛇行しつつ大西洋に注ぐ大河です。
この広大な密林地帯では、14世紀から19世紀にかけてコンゴ王国という王国が繁栄を極めていました。

コンゴ川河口付近には、紀元前5世紀頃には既に”コンゴ人”と呼ばれる民族による集落が多数存在しており、今後王国はそれらの人々がまとまってできた国と考えられています。
コンゴ王国も他の地域の文明跡同様、文字を持たない(あるいはまだ発見されていない)国家であったため未だ謎が多いのですが、かなり繁栄していたようです。

15世紀後半にポルトガル人がコンゴ川を発見し、両国に外交関係が。
コンゴ王国にキリスト教が伝わります。
16世紀に入ると、ヨーロッパで学んだ経験を持ち自らポルトガル語を話すアフォンソ1世が即位。
欧米文化を取り入れた政策を展開します。
しかし、ポルトガル人が期待したほど、キリスト教は広まらなかったようです。

並行して始まったのが奴隷貿易であったと考えられています。
欧米化を図る一方でコンゴ王国は徐々に蝕まれていきます。
国力を失いつつも存続し続けていましたが、19世紀末頃にベルギーとポルトガルの植民地となり、王国は消滅しました。

コンゴ王国だった土地は現在、コンゴ共和国、コンゴ民主共和国などいくつかのいくつかの国が独立し、それぞれ自治を行っています。

ニジェール川と周辺地域

ニジェール川と周辺地域

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アフリカ大陸西側にはコンゴ川の他にもうひとつ、ニジェール川という大河が流れています。
ギニアの山岳地帯からマリ共和国、ニジェール、ナイジェリアなどの国々を流れ、大西洋側ギニア湾に注ぐ川で、乾燥した西アフリカに水をもたらす貴重な水源。
河川沿いには太古より多くの人々の暮らしがありました。

このあたりには主に、北部に広がるサハラ砂漠から逃れてきた人々が定住し、集落を形成していったものと考えられています。
紀元前2000年ごろには農耕が行われるようになり、世界の農耕文化の起源のひとつとも。
また、紀元前5世紀頃には製鉄が始まり、この技術は後に民族の移動と共にアフリカ各地に広がっていきました。

川は人々に肥沃な土地を提供するだけでなく、アフリカの他の地域の交易手段をもたらし、川沿いには都市が形成されていきます。
それらの都市はやがて王国へと成長していき、ニジェール川流域では数多くの国家が興亡を繰り返していきました。

8世紀頃に誕生したガーナ王国は文字を持たない国であったため資料に乏しいのですが、黄金や塩の交易で栄えたといいます。
イスラム教の伝来の影響を受け11世紀に衰退。
小国乱立の時代を経て、13世紀に入ると上流のマリ王国が勢力を伸ばし始めます。
マリ王国もアフリカ北部との交易で大きく繁栄し、14世紀中頃には最盛期を迎えますが、その後は王の統率力不足などから周辺の国々が付き従わなくなり、次第に衰退。
17世紀中頃には滅亡しています。

マリ王国の弱体と入れ替わるようにして力を持ったのが、川の中流域に位置するソンガイ帝国。
マリ王国の都ガオを拠点とし、栄華を極めましたが16世紀末に北アフリカ勢力に侵攻され滅亡します。

この3国は、二ジュール川流域の王国としてよく名があがりますが、周辺には他にもたくさんの国が存在していました。
ソンガイ帝国が滅びてからは、小国を束ねる巨大帝国が出現することはなかったようです。
19世紀から20世紀にかけて、西アフリカ一帯はイギリスやドイツなどの支配下に置かれ、植民地化が進みます。

高原や渓谷、熱帯雨林が北方からの侵攻を阻んだ東アフリカに比べて、西アフリカは大陸北部、ひいてはヨーロッパ列強国の侵攻が容易であったのかもしれません。
西アフリカの国々が再び歴史を振り返る日は第二次世界大戦の後、1960年以降ということになります。

地中海交通の要衝~チュニジア~

地中海交通の要衝~チュニジア~

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アフリカ大陸一周の旅も間もなく終焉。
アフリカ北部へやってまいりました。

この地で古い歴史を刻む国といえばエジプトをおいて他にありませんが、今回はあえて、エジプト以外の国々に着目してみましょう。

この地域にはリビアやアルジェリアなどサハラ砂漠と共に歩んだ国や、チュニジア、モロッコのように地中海に面した国が存在しています。
アフリカ歴史巡りの旅、トリを飾るのはチュニジアです。

先史時代、北アフリカにはベルベル人と呼ばれる民族が広く分布していました。
現在のチュニジア共和国の内陸部で石器文化を築き、ほうぼうへ散っていったものと考えられています。
そこへ紀元前10~9世紀頃に、地中海交易で力をつけていたフェニキア人がチュニジア沿岸部に住み付き、紀元前814年、交易の拠点としてカルタゴ市が誕生。
カルタゴは商業目的で地中海やアフリカ沿岸に次々都市を築いていきます。
『アフリカ』とはもともと、サハラ砂漠より北、チュニジアのあたりを指した地名だったのだそうです。

カルタゴがローマに滅ぼされると、チュニジアのあたりもローマの中に組み込まれていきます。
都市はローマ風に作り変えられていったため、カルタゴ時代の名残はわずかしか残されていません。

しかし7世紀頃になるとローマは衰退、イスラム勢力が侵攻してきてアラブ人のチュニジア支配の時代へ。
その立地から、その後もトルコやヨーロッパ各国など、地中海の覇権争いの舞台となっていきます。
16世紀にはオスマン帝国に属していましたが、19世紀後半にはフランスやイタリアがチュニジアへ侵攻。
1878年のベルリン会議を経てチュニジアはフランス保護領となります。
独立を果たすのは第二次世界大戦後の1956年、様々な苦難を乗り越えてのことでした。

地中海に面し、多くの民族の文化が交差してきたチュニジア。
交通の要衝として列強国に狙われ続け、翻弄されながらも独特の文化を育んでいったのです。

チュニジア北部には、ドゥッガというローマ時代の巨大な遺跡があります。
元はベルベル人の村であったそうですが、紀元前2世紀頃にローマ人が占拠し、巨大な町を築き上げました。
ローマ色を強く出している上に非常に状態がよく、歴史的な価値が高いとして、1997年に世界遺産に登録されています。

植民地時代だけじゃない!奥深いアフリカの歴史

広いアフリカ大陸を、先史時代の化石が出土した場所を中心に、駆け足飛び足でひとまわりしてまいりました。
数億年かけて形成された広大な大地で人類の歴史が始まり、ある地域では列強勢力に翻弄され、ある地域では人知れず文明が花開き、ある地域では独自の歴史をはぐくみ続けていたアフリカの国々。
全ての国が同じような植民地時代を送ったのではない、ということがよく理解できた旅となりました。
歴史研究がさらに進んで、人類の発祥や起源についての詳細が解明されたら、そのときはまた再び、新しく見つかった歴史のかけらを拾いながら、アフリカ大陸一周の旅に出たいと思います。
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