中国4000年の歴史でたった一人の女帝「則天武后」の歴史

日本史にはちらほらと女性天皇が登場しますが、同じアジアで4000年の歴史を誇る中国では、何とたった一人しか女帝はいないんですよ。それはいつのことかというと、唐の時代です。日本がちょうど遣唐使を派遣して、文化やもののやり取りをしていたころですね。その女帝は則天武后(そくてんぶこう)。皇帝の後宮の一女官にすぎなかった彼女が、いかにしてのぼりつめ天下を取ったのか。とても気になるドラマがありそうだと思いませんか?

則天武后ってどんな女性?

則天武后ってどんな女性?

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則天武后は、中国史上唯一の女帝となった人物です。

唐の3代皇帝・高宗(こうそう)の皇后となりましたが、夫の存命中からすでに実権を握っており、その死後に皇帝に即位しました。
そして、国号を唐から「周」に変えてしまったんですよ。
この国号は彼女一代で終わりますが、家の中にあって夫や息子に仕えるのがふつうだった当時の中国にあって、誰もが想像もしなかった出来事だったんです。

ちなみに、則天武后は「武則天」とも呼ばれますが(中国ではこちらが一般的のようです)、この記事では「則天武后」で統一していきたいと思います。

中国三大悪女のひとり!?

中国三大悪女のひとり!?

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則天武后は、中国で唯一の女帝として有名であるだけでなく、「中国三大悪女」のひとりとしても名を馳せています。

これは、漢の高祖・劉邦(りゅうほう)の妻・呂后(りょこう)と清末期の西太后(せいたいこう)、そして則天武后なんですよ。

呂后は、劉邦の側室の両手と両脚を切断し、「人豚」と名付けて厠に放置したという残虐な仕打ちが伝わっていますし、西太后は、皇帝を操り長年にわたって政治の実権を握っていたことで知られています。

そんな女性たちと肩を並べているのですから、則天武后も底知れぬ恐ろしさがあったのでしょうか。

それについては、次の項目から見て行くことにしましょう。

「天に昇る」と予言された少女

「天に昇る」と予言された少女

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則天武后は、624年に地方の軍司令官の娘として生まれました。
姓は武、名は昭といいます。
家は裕福だったため、小さい頃から高い教育を受けて育ったそうです。
見た目も美しく利発な少女でした。

ある道士(道教の僧)が彼女を見たとき、「この娘はきっと天に昇るだろう」と予言をしたそうなんです。
それを聞いた彼女の父は、彼女にありったけの教育をして、ゆくゆくは皇帝のそばに…という思いがあったようですね。

しかしまさか、娘が皇帝になってしまうとは思わなかったことでしょう。

14歳にして後宮へ。そして夫の息子と通じる

14歳にして後宮へ。そして夫の息子と通じる

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14歳になると、則天武后は唐の2代皇帝・太宗(たいそう)の後宮に入ります。
このときは「才人」という低い地位で、皇帝に仕える女官のような位置付けにすぎませんでした。

太宗は、中国史上でも屈指の名君と評価されている皇帝でしたが、若く美しい則天武后に入れあげることはなく、彼女は一女官として日々を送らざるを得ませんでした。

もしかすると、頭脳明晰だった太宗は、彼女が後に発揮する凄まじい権力への執念を感じて、本能的に遠ざけていたのかもしれませんね。

しかし、太宗が病気になると、その息子である太子の李治(りち)がひんぱんに病室を訪れるようになります。
そこで、則天武后は太子の寵愛を受けるようになったんです。

とはいえ、息子と父の側室が通じるというのは、中国で信仰されている儒教のタブー。
そのため、2人の関係は隠されていました。

女の戦い、ここにも。後宮に舞い戻る

女の戦い、ここにも。後宮に舞い戻る

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則天武后が太宗の後宮に入って11年、25歳になったころ、太宗が崩御しました。

慣例により、側室の彼女は出家します。
しかし、すぐに還俗し、次の皇帝となった李治の後宮に舞い戻ることとなるんです。

実は、ここには女の戦いが絡んでいたんですよ。

即位した李治(高宗:こうそう)には、すでに皇后の王氏(おうし)と寵愛する蕭淑妃(しょうしゅくひ)がいましたが、この2人が女の戦いを繰り広げていました。
王氏は蕭淑妃から高宗の寵愛を逸らそうと、かつて高宗がひそかに心を動かしていた則天武后に目をつけます。
そして彼女を還俗させ、高宗の後宮へと入らせたんですよ。
この際は、太宗の後宮に入ったときよりも位の高い「昭儀(しょうぎ)」という身分でした。

王氏のもくろみ通り、高宗の寵愛は則天武后に移りました。
しかし、それはかえって王氏の地位を揺るがすこととなったのです。

ついに后の地位をゲット!

ついに后の地位をゲット!

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則天武后に愛を注ぐようになった結果、高宗は王氏を疎んじるようになりました。
そして、則天武后を后の地位につけようと考えるようになったんです。

しかし、王氏に罪があるわけではなく、本来なら皇帝の気持ちだけで后の位を奪うわけにはいきません。
そこで、高宗は側近の4人に尋ねました。
すると、2人が反対、1人が無言、最後の1人は「これは陛下のお家のことですから、私には関係ないことです」と消極的な容認を示しました。
これがどうやら高宗を後押ししたようで、ついに王氏は皇后を廃され、則天武后が正式な后となったのです。

しかも、王氏だけでなく蕭淑妃までもが妃を廃され、2人とも罪を着せられて投獄されてしまいました。

実はこの皇后廃立劇、則天武后が陰で糸を引いていたという逸話もあるんです。

后になるため我が子も殺す!?

后になるため我が子も殺す!?

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王氏が后を廃された顛末には、こんな裏話があったとされています。

高宗の寵愛を受けるようになった則天武后は、やがて女の子を出産しました。

その子が生まれて間もなく、后である王氏は挨拶のために則天武后と赤ん坊の部屋を訪れます。
そのときに王氏は赤ん坊を少しあやしてゆりかごに戻し、部屋を立ち去りました。

そして次に高宗がその部屋を訪れ、則天武后が赤ん坊を見せようとすると、なんとその子が冷たくなっていたのです。
泣き叫ぶ則天武后は、「さっき王皇后が部屋に来た」と言いました。
つまりは、赤ん坊を殺したのは王氏だと言うんですね。
それを信じた高宗は激怒し、王氏を后から廃することに決めたんです。

ところが、赤ん坊を殺したのは王氏ではありませんでした。

王氏が部屋を去ってすぐ、則天武后は赤ん坊に枕を押し付け、窒息死させたのです。
それを王氏のしわざだと叫び立てたのでした。

すべては后になるため。

そのためには、子供の命さえ惜しくはなかったのです。

逸話ではありますが、彼女の飽くなき上昇志向が見て取れますよね。
お腹を痛めて生んだばかりの子ですら、則天武后が求める権力の前には、道具でしかなかったというのです。

ライバルはすべて抹殺!

ライバルはすべて抹殺!

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皇后になった則天武后は、まず、投獄していた王氏と蕭淑妃を百叩きの刑に処しました。
それだけではなく、その手足を切断し、酒のかめの中に放り込んで殺してしまったんです。
「骨まで酔わせてやる」と言ったとか…。

しかし、蕭淑妃は断末魔にこんなことを叫んだそうですよ。

「武昭(則天武后の名前)よ、生まれ変わったらネズミになれ。
私は猫に生まれ変わり、必ずやお前を食い殺してやる!」と。

この言葉は則天武后の脳裏に焼き付いたらしく、後に後宮で猫を飼うことが禁じられたそうです。

高宗の代わりに政務を執る:女帝への道

高宗の代わりに政務を執る:女帝への道

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権力への欲望著しい則天武后にとっては、病弱な夫・高宗はまさにうってつけでした。
いつしか彼女は夫に代わって政務を執るようになります。

このような、皇后や皇太后が皇帝に代わって政治を見ることを「垂簾(すいれん)政治」と言います。
皇帝の玉座の後ろに御簾を垂らし、その中にいたことからそう呼ばれるんですよ。
こうした垂簾政治、同じ中国三大悪女の呂后や西太后も行っています。

では、則天武后はどんな政治を行ったのでしょうか。

則天武后の政治の明暗

則天武后の政治の明暗

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則天武后は、自分の側に置くのは娘や武一族などの近親、それにお気に入りの臣下だけでした。
それによって彼らの専横が起きてしまったことは言うまでもありません。

また、密告によって反対派を粛清していったため、その手足となる「酷吏(こくり)」という役人による監視社会のようなものができあがってしまいました。

しかし、良いところもあったんです。

幅広い人材登用を行い、低い身分の者も彼女の元では出世できるようになりました。
結果、数多くの名臣が生まれたんですよ。
このうちの一人で、中国では後世にも名高い狄仁傑(てきじんけつ)には彼女も敬意を払い、彼の厳しい意見にもきちんと耳を傾けました。

身辺では近親の専横が見られたものの、政治の場ではしっかりとした目と耳を持っていたため、則天武后の政権運営はなかなかのものだったんです。
彼女が実権を握っていた時代は、名君・太宗の次に安定した時代だったとも言われているんですよ。

史上初の女帝の誕生

史上初の女帝の誕生

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やがて高宗が亡くなると、彼と則天武后の間に生まれた中宗(ちゅうそう)が即位します。
しかし中宗は母のやり方に反発したため、54日で退位させられてしまい、弟の睿宗(えいそう)が即位します。
彼は完全に則天武后の傀儡政権で、彼女が即位するためのステップにすぎませんでした。

そして690年、ついに則天武后は「聖神皇帝」として即位し、国号を唐から「周」へ改めました。
古代の周王朝などと区別するため、今では「武周」と呼ばれています。

太宗の後宮で注目すら浴びることのなかったひとりの女性が、ついに皇帝にまでのぼりつめた瞬間でした。

最強の女帝も、神や仏が大好き?

最強の女帝も、神や仏が大好き?

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則天武后は深く仏教に傾倒していました。

ふつう、中国でのメインの信仰といえば孔子が開いた儒教なのですが、彼女は違ったようです。
多くの寄進をし、各地に仏教寺院を建てました。

そんな信心深さというか、神仏系に入れ込みがちな彼女らしさは、多くの名称の改変・改称にも表れています。
首都・洛陽(らくよう)を「神都」としたり、皇帝と皇后を「天皇・天后」としたり。
自分が聖神皇帝と名乗るほどですから、神や天など絶対的なものが好きだったのかもしれません。

ちなみに、彼女は「則天文字」というものも考案しています。
実は、日本にも少し残っているんですよ。
水戸黄門で有名な徳川(水戸)光圀の「圀」の字は、則天文字なんです。

倒れた女帝と新たな時代

倒れた女帝と新たな時代

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則天武后の皇帝としての治世は15年間続きました。
しかし、女帝はやがて病に倒れます。

すると、かねてから唐の復興を願っていた一派が動き出し、彼女は自身が廃位した中宗を復位させて退くこととなりました。
そしてほどなくして亡くなったのです。
当時としては驚異的な寿命、81年の生涯でした。

さて、その後の唐はどうなったのでしょうか。

中宗は后の韋氏(いし)を信頼し、彼女だけでなくその一族までも政治に参加させていました。
つまり、則天武后のときと同じなんですね。
韋氏も権勢欲の強い女性で、やがて自身が第二の則天武后となることを考え始めます。
そしてなんと、中宗を毒殺してしまったんです。

なんだか、何にも歴史に学んでいませんよね…。

しかしここでヒーローが登場します。
中宗の次に即位し廃された睿宗の息子・李隆基(りりゅうき)です。
彼は韋氏とその一派を排除し、その功績によって太子となりました。

この李隆基こそ、後に楊貴妃とのロマンスで有名となる玄宗なんですよ。
当時彼は25歳、若く勇敢な青年だったんです。
つまり、彼は則天武后にとっては孫に当たるというわけなんですよ。

もし則天武后が男だったなら?

我が子を手にかけてまで上を狙う則天武后の上昇志向は、今の私たちには考えられないほどすさまじいものでした。
酷吏が大きな顔をしても、治世自体は安定していたと評価されていますし、臣下の諫言を聞き入れる度量の広さも持ち合わせていました。
もし彼女が男だったならば(そうすると後宮からのし上がることはできませんが)、さらに強大な国ができ上がっていたかもしれません。
それに、中国三大悪女なんてあまり嬉しくない称号は、彼女が男だったなら決して受けることのないものだったように思います。
「女」だからこそすべてがクローズアップされた則天武后のすごさ、いかがだったでしょうか。
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