成立から滅亡まで。ソビエト連邦(ソ連)が歩んだ歴史とは?

1922年から1991年まで存在した国家「ソビエト社会主義共和国連邦(ソビエト連邦。ソ連)」。世界最初の社会主義国として誕生した「ソ連」は1950年代までに世界の最先進工業国になるなど世界的な大国になりますが、その後の低迷や1980年代後半の改革を経て、1991年12月に崩壊します。「ソビエト連邦(ソ連)」はどのような歴史をたどり、崩壊に至ったのでしょうか。

ロシア革命から始まった歴史

ロシア革命から始まった歴史

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ソビエト成立の歴史はニコライ2世が率いたロシア帝国時代、1910年代の「ロシア革命」から始まっていました。
日本との間で「日露戦争」を戦っていた1905年、戦争の中止・労働者の権利保護を訴えた人々がゲオルギー・ガポン神父に率いられ、サンクトペテルブルクで平和デモ行進。
しかしこのデモ行進に対して兵士が発砲、多くの死傷者を出す「血の日曜日事件」に発展。
人々は「皇帝に言えば状況は改善できるかも」と信じたのかもしれませんが、その願いは打ち砕かれます。

この事件はロシア全国で大きな波紋を呼ぶことになり、労働者によるストライキも発生。
この事態を受けた政府は資本家セルゲイ・ヴィッテを首相に任命、解決に向かうことになり、10月17日に皇帝ニコライ2世の名で思想・言論・集会・結社の自由、国会(ドゥーマ)の開設を認める「十月宣言」を出します。
政府としては「これで国民の怒りも収まるであろう」そう考えていたのかもしれません。

第1次世界大戦・二重権力状態へ

第1次世界大戦・二重権力状態へ

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国民の怒りは一度収まりかけたかに見えましたが、再び国民を刺激する出来事が発生します。
1914年に勃発した「第1次世界大戦」は世界を巻き込む大戦に発展、各国総力戦に突入して国内産業は停滞、物の価格高騰や生活物資の不足に見舞われてしまいます。

こうして国内情勢が悪化すると再び国民の怒りは頂点に。
国際婦人デーの1917年2月23日、首都ペトログラード(現在のサンクトペテルブルク)で繊維工場の女性労働者らが食料配給の改善を求めてのデモを実施するとデモは次第に全国規模に。
このデモによりニコライ2世は皇帝の座を追われることになり、これが1721年から続いたロシア帝国終焉の瞬間に(2月革命)。

人々の怒りによって長きにわたった帝国に終止符が打たれたロシアでは、労働者と兵士の代表による評議会「ソビエト」を結成。
彼らが首都支配権を握ることになりますが、ここでは政権を握る人物がいません。
そこで誰が政権を握ることになったのが資本家や立憲民主党で構成される「臨時政府」でした。

しかし帝国打倒後に「臨時政府」が政権を握ったロシアではその後も混乱は収まりません。
ここには「ソビエト」もいますから、2つの力を持った集団が存在する「二重権力」状態になってしまうのです。
さらに国民は戦争をやめたがっていながら「臨時政府」はそれを聞きません。
政府の中には資本家が大勢おり、そうした人々は戦争中の軍需産業で儲かることが「自分たちの得になる」ことであることを知っていたためです。
彼らにとってみれば「自分たちが儲かる権利をわざわざ手放す」意味はなかったでしょうからね。
こうした臨時政府の姿勢に「ソビエト」は反発、2つの巨大な権力が対立することに。

レーニン登場・ソビエト誕生

レーニン登場・ソビエト誕生

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ロシア国内で「2重権力」がぶつかる状態になっていた頃、ある1人の男がやってきます。
ウラジーミル・レーニン。
帝国時代のウリヤノフスクに生まれたレーニンは社会主義思想の1つ・マルクス主義の運動家として活動を始め、1895年に「労働者階級解放闘争」を結成しますがのちに逮捕・投獄。
1900年のシベリア流刑終了後にスイスへ亡命したのち帰ってきたのでした。

母国へ帰ってきたレーニンは早速活動を開始すると、「権力を奪おう」と労働者や兵士に呼びかけ。
この呼びかけは臨時政府により鎮圧され自身はフィンランドへ逃亡しますが、臨時政府側は社会主義者であると考えられているアレクサンドル・ケレンスキーを首相に任命。
彼らの力を恐れていたのかもしれませんね。

この中では別の反乱も発生し、帝政派の将軍ラーヴル・コルニーロフが反乱を起こしますが失敗、反乱鎮圧の為にケレンスキーはレーニン率いる「ボリシェヴィキ」を借りることとなり、これで勢いづいたレーニンは臨時政府打倒に成功。
この権力奪取を果たした11月7日は「ロシア革命記念日」となり「ソビエト」による体制、新たな政府となる「人民委員会議」が成立することになりました。

革命後・独裁制の完成

革命後・独裁制の完成

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レーニンによって新しい政権が誕生すると次々組閣がされていき、トップとなる人民委員会議議長はレーニン自身、外務人民委員は親友・トロッキー。
少数民族人民委員会委員長にはヨシフ・スターリンが就任しますが、物事はそう簡単にはいきません。
1917年11月25日に「十月革命」後最初の普通選挙議会「憲法制定議会」が開催されますが、ここではレーニン率いる「ボリシェヴィキ」より「社会革命党(エスエル)」の支持率の方が高かったのです。

この結果に衝撃を受けたレーニン。
「権力を握った自分たちの支持率がなぜ1番ではないのか」と思ったのでしょう。
結果を知ったレーニンはなんと議場を封鎖、解散させてしまうのです。
「支持が得られないなら「力ずく」で実力を知らしめていやる」ということでしょうか。
こうして「憲法制定議会」を解散させたレーニンは1918年に「ボリシェヴィキ」を「ロシア共産党」に改名して共産党以外の政党を禁止。
自身が政治を取り仕切る「独裁制」を確立するのでした。

またこの時期は第1次世界大戦の全交戦国に「平和に関する布告」を布告。
ここで「無賠償」・「無併合」・「民族自決」を提唱。
無視したイギリス、フランスなどの国にはイギリス・ロシア・フランス間で結ばれたオスマン帝国領の分割に関する「サイクス・ピコ協定」の内容を暴露。
「布告に従わないからその罰だよ」ということかもしれませんが、ほかの2国にとっては「たまったものではない」でしょうね。

スターリンの台頭・大粛清の実施

スターリンの台頭・大粛清の実施

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一党独裁体制による政治を進めるレーニンですが、そのレーニンは病に倒れることに。
1922年5月にレーニンは脳出血で倒れ、スターリンが党を取り仕切る書記長に就任。
この頃にはスターリンとトロッキー間での後継の座を巡る対立が激化、スターリンはトロッキーを追い出すことに(トロッキーは1940年にメキシコで暗殺)。
国内ではその後12月30日に「ソビエト社会主義共和国連邦」の樹立が宣言され、翌1924年1月31日に最初のソビエト連邦憲法が成立することに。

病気を患っていたレーニンは1924年に亡くなるとスターリンの行動はさらに過激に。
グリゴリー・ジノヴィエフやレフ・カーメネフといったレーニンの側近たちを党から除名すると、反対勢力に対する弾圧「大粛清(だいしゅくせい)」を強化させるように。
有力党員や軍人を次々に処刑し、シベリアの強制収容所に送るなどの厳しい処分を実施します。
これでは周辺の人間も「自分が殺される」と思って意見を言いづらくなりますね。
こうした粛清を経て政治の重要決定はスターリンによって行われるようになり、スターリンの地位は揺るがないものになっていくのでした。

ドイツとの「独ソ不可侵条約

ドイツとの「独ソ不可侵条約

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スターリンの地位が揺るがないものになったころ、ドイツと「独ソ不可侵条約」を結ぶことになります。
これは「2国間で「お互いに領土を侵すことのないように約束する」という条約。
当時のドイツは敵国であるイギリス・フランスが、ソ連側にとっては「ノモンハン事件」で争っていた日本が近くにある状態。
争う相手がいる状態で「挟み撃ち」されるのは両国にとって良くないことで、それを避けるために条約を結んだのですね。

条約には秘密協定として「バルト3国のエストニア・ラトヴィアをソ連の勢力範囲にする」とあり、もう1つのリトアニアはドイツのポーランド侵攻後の話し合いでソ連の勢力圏に。
ポーランドは西をドイツ、東をソ連で分割。
条約を結んだ後の1939年9月1日、ポーランド領に侵攻することでイギリス、フランスはドイツに宣戦布告、「第2次世界大戦」が勃発することになります。

開戦後のソ連はバルト三国(エストニア、ラトヴィア、リトアニア)、1939年11月30日にはフィンランドへ侵攻して「冬戦争」が勃発。
戦争が翌年3月13日まで続いた末にフィンランドは降伏、後に締結された「モスクワ講和条約」においてフィンランド国土の約10%をソ連が獲得することに。
しかしこの行為が「侵略行為である」と非難を受けたソ連は国際連盟から追放されることになります。
戦争の代償は大きいですね。

ドイツとの戦争・ドイツ降伏へ

ドイツとの戦争・ドイツ降伏へ

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国際連盟を追放されながらフィンランドの領土を獲得したソ連でしたが、そこに攻め込んできたのは不可侵条約を結んでいた「ドイツ」でした。
第2次世界大戦中であった1941年6月22日、ドイツはソ連奇襲攻撃作戦「バルバロッサ作戦」を発動、条約を破りソ連国境に侵入して戦いの火ぶたが切られることに。
条約は破られるものであったのですね。

開戦後はドイツが優位に戦いを進めモスクワに迫ろうとしますが、ソ連軍もこのまま黙っているはずがありません。
1942年6月から「スターリングラード攻防戦」が始まるとソ連軍がドイツ陸軍・第6軍を壊滅させる大勝利をおさめ、これ以降はソ連有利の展開に。
最後は1945年5月2日にドイツの首都・ベルリンを陥落させドイツを降伏させることに。

ドイツを破ったソ連は1945年8月8日に日本との「日ソ中立条約」を「ヤルタ協定」に基づいて破棄・宣戦布告。
日本の千島列島や日本の同盟国・満州国に侵攻、これが日本降伏への決定打になります。
戦勝国側になったソ連は戦後に東欧諸国への影響を強め、ドイツなどから領土の獲得、ルーマニアから獲得したベッサラビア(現在のモルドバ)の住民をシベリアなどに強制移住。
地位固めに抜かりなしというところですね。

大戦後・崩壊への道

大戦後・崩壊への道

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戦後のソ連はアメリカなどの「資本主義」陣営に対抗することになり、ここに「冷戦」関係が形成されることとなり、ソ連崩壊寸前まで続くことに。
この頃の国内では1953年にスターリンが亡くなり、スターリン時代の独裁政策を大幅緩和。
1955年に書記長就任したニキータ・フルシチョフ時代にはスターリン批判・大粛清への告発、スターリン体制からの決別表明も。
時代は変わりつつありますね。

この時代フルシチョフは農業政策に力を注ぎ成功しますが「生産第一主義」で土地、気候や伝統的農法を無視したことで1963年には大凶作に。
この結果食料を国外から輸入しなければならない事態に陥り、フルシチョフは指導者の座を追われることに。
また外交では1979年12月にアメリカと関係を結ぼうとしたことからアフガニスタンへの侵攻(1989年まで続く)を実施。
一部のイスラム諸国の反発を受け国際社会からは孤立、アメリカとの関係は悪化することに。

フルシチョフの跡を継いだブレジネフ政権では安定した代わりに改革は行われず、経済成長率も次第に鈍化して国民生活に影響。
小麦生産量で世界一を誇った農業にも陰りが見え始め、アメリカから輸入するように。
技術競争でもアメリカ・日本に遅れを取り始め、1980年代に入ると国民は体制への不満を強めることに。
これだけ崩壊してはもはや体制維持は不可能でしょうね。

こうした状況打破のため1985年3月に就任したミハイル・ゴルバチョフ政権は社会主義体制の改革を掲げた「ペレストロイカ(改革)」を実施。
一党独裁体制下で腐敗した政治体制改革を推し進めることになります。

改革の実施へ・冷戦終結

改革の実施へ・冷戦終結

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ゴルバチョフによる改革が計画される中、1989年3月26日にはソ連初の民主的選挙「第1回人民代議員大会選挙」が実施、人民代議員を国民直接選挙で選ばせることとなり、このほか連邦当局が持つ情報を一般公開する「グラスノスチ」を本格化。
こうした動きの中で国民の間で民主化要求は拡大、一党独裁の放棄が決定すると1990年3月15日にはゴルバチョフが初代ソ連大統領に。

しかしこうした改革の中で共産党内の内部抗争が激化、ボリス・エリツィンらが率いる急進改革派、ゴルバチョフらの穏健改革派、保守派グループに分裂。
エリツィンはのちに離党して共産党に対抗。
こうしている間にも国内でインフレ・物不足は深刻化。
市民の共産党に対する批判が高まることに。
国民にしてみれば「改革はいつやるんだ」とイライラしていたことでしょうね。

こうする中で1987年12月にアメリカとの間で「中距離核戦力全廃条約」が締結、翌1988年5月からはソ連軍がアフガニスタンから撤退を開始。
1989年12月2日から2日間に地中海・マルタで「マルタ会談」が行われ、正式に冷戦終結を迎えることに。

クーデター勃発・ソ連崩壊

クーデター勃発・ソ連崩壊

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冷戦が終結したあとは各地で民族紛争も多発。
1990年になると3月11日にはリトアニア、3月30日にはエストニア、5月4日にはラトビアといった第2次世界大戦時に併合された「バルト3国」が独立を宣言。

1991年8月にはゴルバチョフに反対する保守派が「ソ連8月クーデター」を起こしますがエリツィンら改革派の活躍により失敗。
ここまで来たらもうソ連存続は不可能でしょうね。

こうして求心力を失ったゴルバチョフは8月24日に共産党書記長を辞任、共産党中央委員会解散を要求。
12月17日に「年中で連邦政府の活動停止」を宣言、12月25日にゴルバチョフがソ連大統領を辞任、最高会議で連邦解体を宣言することでついにソビエト連邦は崩壊に至りました。

国家運営は非常に厳しいもの

人々の運動から帝国が倒され誕生した「ソ連」は途中で独裁政治を敷き始め、大国に登り詰めたあと低迷を経て崩壊に至りました。
大国になった国でも何かのきっかけであっさりと没落の道をたどるのですから、国家運営は非常に厳しいものですね。
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