猛攻、謀略、虐殺、そして敗退へ「日中戦争」とは?

日中戦争とはどんな戦争だったのでしょうか?もちろん昼間にやった戦争だから日中戦争というわけではありません(すいません)。日本史の教科書ではただ太平洋戦争と同時期に勃発したというだけで片付けられがちですが、ここでは細かい戦争の推移を説明していきたいと思います。

満州事変のポイントとは?日中戦争開戦のきっかけ「盧溝橋事件」とは?そして、この戦争で日本人が知っておくべき悲劇「南京大虐殺」とは?汪兆銘の南京傀儡政権とは?そして、日本が敗退に向かっていったのはなぜ?ということについて見ていきたいと思います。

満州事変とは?

満州事変を押さえるポイントは?

満州事変を押さえるポイントは?

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1931年9月18日、柳条湖(りゅうじょうこ、現在の瀋陽郊外)付近の鉄道線路を爆破した関東軍は、これを張学良(ちょうがくりょう)らの仕業として奉天軍閥がこもる北大営を奇襲攻撃して占領。
敗走する関東軍を追って奉天、吉林省を鉄道に沿って侵攻、さらに北の黒龍江省の主要都市と南の錦州を攻撃。
満州事変の勃発です。

さらに1932年1月には海軍の陸戦隊も上海で中国軍と戦闘を開始し、頑強な抵抗にあって前進できず、3月に停戦に持ち込まれます。
有名な「爆弾三勇士」の美談が作られたのはこの時の戦争。

関東軍は満州占領作戦を進める一方で1932年2月以降、連日のように新国家建設幕僚会議を開き、建国構想を論議。
そして味方にできる旧奉天軍閥系の領将を担ぎ出し、清朝最後の皇帝だった宣統帝溥儀(ふぎ)を執政という名の傀儡(かいらい、操り人形にすること)にすえて、国際連盟が派遣するリットン調査団が満州に到着する直前の1932年3月、「満州国建国」を内外に宣言。
9月15日には日本政府は満州国を承認して日満議定書に調印しました。

ここで注目すべきポイントが3つ。
1つは、満州事変は日本にとって、英米などの強国の事前了承がなく大規模な領土拡張戦争を開始した最初のケースだということ。

2つめは、関東軍と比較して奉天軍閥の軍事力は圧倒的だったにもかかわらず、関東軍が短期間に満州を制圧できたこと。

3つめは満州国において関東軍が、これまで朝鮮や台湾で行ってきた総督による直接軍政という統治形態を放棄し、実態はともかくとして溥儀を執政にすえた独立国という形態を取ったことです。

日中関係は小康状態を得るものの、幣制改革で中国が巻き返し

日中関係は小康状態を得るものの、幣制改革で中国が巻き返し

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満州事変は満州国の成立でひとまず終結。
しかし、関東軍はその後も33年初頭に熱河(ねっか)占領作戦を展開し、4月には長城線を突破。
5月には華北の東北地区に非武装地帯を設ける塘沽(タンクー)停戦協定を締結。
こうして関東軍は冀東(きとう)地域に華北侵攻の橋頭堡を置くことに成功。
この間、中国共産党との戦いに忙殺されていた蔣介石(しょうかいせき)の国民政府は、対日摩擦を回避するため、関東軍の要求を甘受し続けています。

1933年から35年までの2年間は日中関係に小康状態が。
33年7月に北平(ペイピン)ー奉天間の通車問題が解決し列車乗り入れが解決し、日中関係に「日華親善」「日中国交正常化」の動きが生まれ宥和ムードが。

そうした中、1935年6月、日本の支那駐在軍は半日派の活動を口実に、排日派の華北、河北省での活動の禁止を盛り込んだ梅津・何応欽(かおうきん)協定を締結。
また関東軍も内蒙のチャハル省内に非武装地帯を設けることを盛り込んだ土肥原・秦徳純協定を締結しました。

しかし、注目すべきはこの時期に南京の国民政府が幣制改革を実施したこと。
これにより日本は幣制改革による外貨締め出しで経済面で思わぬ巻き返しを受け、これにより華北への進出は頓挫することになるのです。

どのように開戦され、戦争は進行した?

盧溝橋事件で日中戦争が開戦

盧溝橋事件で日中戦争が開戦

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1937年7月7日午後10時過ぎ、豊台(ほうだい)の兵営を出発した支那駐屯軍の歩兵第1連隊第3大隊所属第8中隊が盧溝橋(ろこうきょう)付近で夜間演習を行いましたが、その終了直後、龍王廟付近から10数発の銃弾が発射。

この犯人は今もって定かでなく、その際に1人の日本兵が行方不明になったことで日中双方の対立が激化し、小競り合いが始まりました。
盧溝橋事件の勃発で、戦争はいつの時代もこんなわずかな銃弾の行き交いとかそんなもので始まりますよね。

しかし、元々両軍の兵営の距離は線路を挟んで300mしか離れておらず、つねに一触即発の状態だったといいます。

「盧溝橋事件で最初に発砲したのは誰か?」というのは見解が分かれ、いまだに定説がありません。

ともかく、この後から軍事力・制裁・威嚇といった手段を主体とする「拡大派」と誘導や合意を含む外交力を優先させる「不拡大派」の対立は激しさを増し、戦線は拡大。

そして日中の対立は7月25・26日の廊坊、公安門での日中衝突、29日の通州事件の発生を通じて本格化。
さらに8月9日に上海で大山事件が起こると、緊張は中国北部から、政治経済の中枢にして欧米の利権が集中する上海へと拡大。

そして。
双方後に引けないままついに8月15日、日本政府は「支那暴戻膺懲」(しなぼうれいようちょう、「暴虐な支那を懲らしめよ」の意)の声明を発し、海軍機による南京への渡洋爆撃を開始して、日中戦争が火蓋を切られたのです。

戦線は拡大し、日本軍の猛攻、しかし

戦線は拡大し、日本軍の猛攻、しかし

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戦線の拡大は急で、1937年7月30日、北平・天津を占領した日本軍は華北鉄道戦線に沿って攻撃を開始。
9月には大同・保定(ほてい)を占領、10月には徳州・石家荘(せっかそう)・包頭(パオトウ)へと進み、11月には彰徳(しょうとく)・太原(たいげん)を、12月には済南を占領。

その間中国軍も随所で交戦しますが大半が地方の軍閥軍の寄せ集めだったため、強大な日本軍の軍事力の前に大局的には後退を続けました。

軍事力を主体とする日本の殲滅(せんめつ)戦略は成功したように見えましたが、8月中旬からの上海を中心とした戦闘が日本にとって大きな誤算。

上海に上陸した日本軍は海軍戦隊を支援した二個師団で作戦を展開しましたが、その10倍以上の兵力を持ち、ドイツ軍事顧問団の指導を受けて築き上げた陣地に蔣介石直属の精鋭中央軍を配して待つ中国軍の強力な抵抗に直面して、戦線は進んでいませんでした。
その後万全の構えを見せた蔣介石に対し、日本軍は攻撃を継続、長江と華北から上海南方の杭州湾に上陸。
上海防衛軍の背後をついて猛攻を浴びせ、ようやく防衛軍は崩れたのでした。

しかし、日本軍がその後休まず首都・南京の攻略に向かうと、陥落直前に蔣介石らは南京を脱出。
さらに四川省の重慶に遷都し抗戦続行の意思を宣言。
長期消耗戦に引きずり込もうという戦略に沿った行動で、ここからは華中が主戦場に。

日本軍からすれば「ここで蔣介石を捕らえれば勝っていたのに!」と悔しがった所でしょうか。
実際に日本にとってこれが致命傷になったということです。

南京大虐殺事件と中国ナンバー2への謀略

南京虐殺事件とは?

南京虐殺事件とは?

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上海作戦を終了した日本軍が国民政府の首都・南京の攻略を開始したのは、日中開戦から4カ月後の1937年12月のこと。
当初の上海作戦の目的は上海周辺の在留邦人の保護でしたが、蔣介石が40万人の兵力と、ドイツ軍顧問団直伝の防御陣地を配して抗戦するのを見て、日本軍は強大な軍事力を増援。

なりふり構わず「大上海地域」を占領して、ここで作戦終了、内地帰還かと思いきや、将兵たちに休む間も無く、首都南京攻略の命令が。

上海から南京までは300km、東京から名古屋くらいまでの距離ですが、さすがに軍の中央部でも「上海の在留邦人の保護が目的だったため、満足な補給部隊も持たない現状では、南京攻略は困難だ」という声が強かったのですが、後退する国民政府軍主力を追撃する形で戦線は次第に西方へ。

この間、補給を受けられない日本軍は行く先々で食糧の現地徴発を繰り返すしかなく、物心ともに余裕のない作戦遂行は日本兵を荒んだ戦場心理に陥らせ、捕虜殺戮や婦女暴行を頻発させました。

北方と西方を長江に囲まれ、東方と南方に開いた南京城壁に日本軍が取り付き、攻撃を開始したのが12月初頭。
城壁を突破した日本軍が乱入すると、脱出路を塞がれた場内で市民たちは袋のネズミも同然。
残敵掃討の名目で投降兵や捕虜の殺戮、婦女子への暴行が重ねられました。

軍司令官の松井石根(いわね)を先頭に日本軍が南京入城パレードを実施し、内外に占領を宣言したのは12月17日のこと。

大分無理のあった作戦で、それが日本兵の心を無くしてしまい、それで中国の人に恨まれることになったのですね。

中国のナンバー2をだまして日本に有利な和平の条件を引き出した?

中国のナンバー2をだまして日本に有利な和平の条件を引き出した?

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1938年10月の武漢作戦終了後、戦線は膠着。
殲滅作戦の遂行が不可能になった日本軍は謀略によって重慶に移った国民政府の分断をはかろうとします。

日本がターゲットに選んだのは、蔣介石に次ぐ国民政府ナンバー2の汪兆銘。
汪は蔣介石としばしば対立し、袂を分かっては和解し合流することを繰り返していました。

対日関係では戦局が進むにつれて宥和的に。
重慶の国民政府では数少ない和平派でした。

日本軍の武漢作戦が大詰めを迎えた1938年初頭、汪はドイツの記者たちに和平交渉に応ずるような発言をし、この時日本はすでに汪と接触。

秘密交渉は地下水脈を通じて続けられ、11月には合意が成立。
両者の密約が「日華協議記録」と「日華協議記録諒解事項」で、そこには、日華防共協定の成立や満州国の承認などが盛られていました。

しかし、この密約成立からわずか10日後、日本国内で開催された御前会議で、これとは全く違った対中方針が決定。
それは「日支新関係調整方針」というもので、「中国側に日本軍の駐屯と日本企業の進出を大幅に認めさせる」「政治は日本人顧問にゆだね、中国人による中央政府を認めない」など、中国側にとって、あまりにも屈辱的な内容。

これは軍のみならず政府までも加担しての謀略で、日本は和平交渉に応じた汪と偽りの条件で合意を結び、抗戦を続ける蔣介石と汪との分裂を狙ったのです。

それを知らず汪は「日華協議記録」などの実現に向け、蔣と訣別する政治活動を始め、重慶を脱出。
しかし、その後重慶の国民党臨時中央常務委員会は汪兆銘の党籍を永久に剥奪。
まんまと日本にはめられた汪が「日支新関係調整方針」について知らされるのは、それから半年後に来日した時のこと。

外交相手をだますということは許されることではなく、日本の謀略は後にそれが露見した後、国際的信用を大きく失墜させることになりました。

傀儡政権を作るも、太平洋戦争での戦線拡大で敗退へ

汪兆銘の南京傀儡政権の誕生

汪兆銘の南京傀儡政権の誕生

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1940年1月24日、山東半島の青島(チンタオ)で汪兆銘・王克敏(おうこくびん)・梁鴻志(りょうこうし)の3者による新政府の頂上会談が開かれました。

会議は汪の司会で2日間行われ、誕生が予定されている新政権の組織のコアをなす「中央政治会議」「中央政治委員会」「中央政治機構」が論議され、また華北の臨時政府は、新政権下では華北政務委員会に改組されること、華中の維新政府は解消されて新政権に吸収されること、3月をめどに汪兆銘政権が樹立されることなどが決定。

この青島会談に基づき、3月20日から中央政治会議が開催され、汪政権基本骨格が発表。
同時に新政権の機構、役職などが発表されました。

こうして30日に南京において遷都式典が挙行され、汪政権が誕生。

日本の新聞は「簡明直裁にこの遷都式を終えた」と報じましたが、新聞記者出身の弁護士で周仏海の側近だった金雄白(きんゆうはく)は、このセレモニーを「歴史的悲劇の除幕」と述べ、悄然とした会場の雰囲気を「石頭城畔一片凄涼の景」と表現しました。

日本に騙されて傀儡となった中国の人たちから見れば、この遷都式典はおぞましいものだったでしょうか。

太平洋戦争が始まり日本軍は敗退へ

太平洋戦争が始まり日本軍は敗退へ

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日中戦争第3期にとなる1941年12月から45年8月までは、それまでの時期といくつか異なる点があります。

1つは太平洋戦争の開戦で主戦場が中国と太平洋に分断されたこと。
兵力を2つに分けて割かないといけなくなったため、やり辛くなったのですね。

2つは英米の蒋重慶政権への支援が明確となり、中国軍の軍事力が急速に強化されたこと。

3つは日本が同盟していたドイツ・イタリアはいずれも連合国の攻勢の前に敗退、そして降伏し、日本も撤退と降伏を続け、戦線が寸断される状況に陥ったことです。

1941年12月8日、真珠湾攻撃によって日本が太平洋戦争に突入することで、中国戦線の状況は一変。
日本は太平洋においても壊滅戦略型の基本方針。
南太平洋の英米蘭の陸海軍主力を粉砕すれば、短期和平に持ち込めるという発想でした。

初戦は圧勝し、日本軍は開戦半年後までに北はアリューシャン列島のアッツ、キスカ両島、南はチモール島、東はビスマルク諸島、西はビルマに至る広範囲な地域を占領し軍政を開始。

しかし、これは日本軍が戦った軍隊が植民地軍主体で、士気が低く、装備も劣っていたからに過ぎず、緒戦の段階ではヨーロッパ戦線を重視していた英米の主導者たちがアジア戦線に本格的な支援を行っていなかったことも幸いしました。

つまりは日本軍の勝利は「ラッキーだった」というだけのことに過ぎなかったのです。

しかし、1942年5月に日本軍は珊瑚海(さんごかい)海戦で、ニューギニアのポートモレスビー攻略に失敗。
さらに6月、ミッドウェー島攻略に失敗し、空母を基幹とする主力海軍部隊を喪失すると、緒戦の勢いを失って守勢に回り始めます。

8月には早くもソロモン諸島のガダルカナル島への米軍の反撃が始まり、英米軍の反攻は時とともに強まっていきました。

日中戦争と同様に日本の壊滅戦略戦争は半年で破綻し、物量で勝る英米によって、じりじりと消耗戦略型戦争へと引きずり込まれていきました。

中国を騙して傀儡政権を作るも、太平洋戦争で戦線が拡大し敗退の道へ

満州事変は日本にとって最初に英米など強国の事前了承を得ずに始めた戦争で、直接ではなく溥儀を執政に据えた独立国の形を取ったことがポイント。

盧溝橋事件で開戦し、日本軍は戦線拡大・猛攻しますが南京占領するも蒋介石は重慶へ遷都。

そして南京虐殺事件が起こり、日本軍は中国ナンバー2の汪兆銘を騙して南京に傀儡政権を作り、太平洋戦争が起こって戦線が分断され、日本は敗退の道を辿ることに。

私は日中戦争は細かく見たことがなかったのですが、今回細かく調べることによって、いろいろわかってきたことがあります。
なぜ日本軍は卑劣なことばかりしたのか?また稚拙な戦略ばかり取ったのか?これはこれから後に考えていくことになるのでしょう。

それでは今回はこの辺で。
読んでくれてありがとうございます!

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