ミュンヘン観光で行きたい、世界遺産&歴史スポットあれこれ

ミュンヘンといえばビールで有名ですが、ビールのお祭りとも言えるオクトーバーフェストはミュンヘンが発祥の地。ベルリン、ハンブルクについでドイツで3番目に人口の多い大都市なのに、北ドイツからは「バイエルンの人口百万人の田舎町」と呼ばれています。しかし逆に言うとそれは、この大都市の住民が陽気で楽しい「村人」だということですね。ドイツ観光でよく見かける羽根付きの帽子を帽子をかぶった男性やディヤンドルというエプロンのような衣服を着た女性は、バイエルンやスイスやオーストリアの民族衣装。ドイツ観光の目玉であるノイシュヴァイン城も、バイエルン王ルートヴィヒ2世が建設したものですよ。ミュンヘンには、いろいろな観光スポットが集まっていますから、時代の歩みに合わせてミュンヘン市内を歩いてみることにしましょう。

ミュンヘン中心部を歩いてみましょう

ミュンヘンに限らずドイツの都市は、中央駅が町外れにありそこから地下鉄やバスなどで都市の中心部に行くことになります。
ミュンヘンの場合は比較的中央駅から都市の中心部は近いので、地下鉄でも行けますが歩いても大丈夫。
都市の中心部には広場があり、その広場には市場と噴水があり、広場の周囲にはその都市の中心となる教会と市庁舎が建っているというのが定番。
ミュンヘンの場合はマリーエンプラッツという広場があり、そこにはフラウエンキルヒェと呼ばれる大聖堂が建っているのですよ。

マリーエンプラッツがミュンヘンの中心です

マリーエンプラッツがミュンヘンの中心です

image by iStockphoto

かつて市壁に囲まれていた都市は、東西と南北に走る通りによって四等分されているのですが、ミュンヘンの場合は東西の通りの東にイーザル門、西にカール門があり、南北の通りの北にゼンドリング門、南にシュヴァービングがあります。
イーザル門のイーザルはドナウ川の支流であるイーザル川にその名前の由来があり、ミュンヘンは「イーザル川のアテネ」などと呼ばれることもあるのですね。
ゼンドリングとシュヴァービングはかつてはミュンヘン近郊の村。
今ではもちろんミュンヘン市内で、とくにシュヴァービングは19世紀末に多くの芸術家や詩人が集まった場所なのですよ。

この十字路の中心にあるのがマリーエンプラッツで、「マリーエン」を日本語に訳すと「マリアの」という意味。
この広場に建っているミュンヘンの象徴とも言えるフラウエンキルヒェから「マリアの広場」という名前ができていますが、これはあとで説明することにしましょう。
この広場はもともとは市場で、ベック百貨店の角にある泉はフィッシュブルンネン、つまり「魚の泉」と呼ばれていているのですが、これがまた当時はこの広場の名前でもあって、魚をはじめ卵や小麦粉やワインなどが売られていたのですね。
1854年にこの市場がブルーメン通りに移転してからは、マリーエンプラッツと呼ばれるようになったのですよ。
400年前には旧市庁舎しかなかったこの広場は、今ではミュンヘン観光の拠点になっています。

フラウエンキルヒェは聖母マリアのための大聖堂です

フラウエンキルヒェは聖母マリアのための大聖堂です

image by iStockphoto

ミュンヘンのような都市はまたカトリックの司教区の中心都市にもなっていますから、司教ないし大司教のいる大聖堂があり、これがその都市の象徴の役割も果たしています。
ミュンヘンではフラウエンキルヒェと呼ばれている双塔の大聖堂です。
フラウとは「女性」という意味で、この教会の正式名称は「われわれの愛する女性の大聖堂」。
この女性はもちろん聖母マリアで、パリのノートルダムが「私たちの女性」という意味であるのと同じですね。
15世紀のゴシック様式で建設されている大聖堂ですが、ふつうゴシック様式の大教会の尖塔は天に向かってとがっていますが、フラウエンキルヒェの尖塔の頂点はバロックを思わせるような丸屋根。

フラウエンキルヒェの2つの尖塔の高さは98.57メートルと98.45メートルで、微妙に違っていますね。
大聖堂の伽藍は長さが109メートルで幅が40メートル、高さが37メートルありなんと2万人の人がここに座ってミサを受けることができるのですよ。
もちろん立派なオルガンもあり、日曜日の朝10時のミサではオルガンの演奏と聖歌隊によるコーラスも聴くことができます。
ここにはまた1314年にドイツ王、1328年に神聖ローマ皇帝になったヴィッテルスバッハ家のルートヴィヒ4世の墓標があります。
ルートヴィヒ4世がヴィッテルスバッハ家の頂点とも言えますが、バイエルンが王国になるよりずっと以前からこの地を治めてきたヴィッテルスバッハ家の君主たちの肖像を、この大聖堂で見ることができるのですね。

新市庁舎の時計はミュンヘンの歴史を演じています

新市庁舎の時計はミュンヘンの歴史を演じています

image by iStockphoto

この荘厳な大聖堂から一歩外に出るとマリーエンプラッツ。
聖なる世界と世俗社会とが聖堂の扉一枚で区切られているのですね。
都市の中心部の広場にどうしてもなくてはならないものがもう一つ、それは都市を実質的に支配している市民たちにとって欠かせない市庁舎。
市庁舎のことをドイツ語でラートハウスと言いますが、この「ラート」は「助言する」という意味の動詞に由来する言葉で、都市を取り仕切っている言わば「町名主」のような人たちのこと。
ですから市庁舎ではかつては裁判までが行われたということですね。
マリーエンプラッツには古い市庁舎と新しい市庁舎が建っていますが、もともとこの広場にはゴシック様式の古い市庁舎しかありませんでした。
新市庁舎ができたので旧市庁舎は、広間でシンポジウムやパーティーをするために使われています。

見所はやはり新市庁舎。
その塔にのぼるとミュンヘン市街が一望できます。
この眺めだけでもここに来る価値はあるのですが、絶対に忘れてならないのは新市庁舎の中央にある時計。
現在のようにスマホで時刻がわかるような時代ではありませんから、都市の中央にある市庁舎の時計がその時々の時刻を教えてくれるほとんど唯一のものだったのですよ。
日本でもお寺の時の鐘が時刻を知らせてくれますが、市庁舎の時計も一定の時刻になると鐘が鳴って市民に時刻を知らせますね。
ミュンヘンの新市庁舎の時計はただそれだけではなく、音楽に合わせて時計の奥から人形が出てきて躍るのです。
しかもその人形は1158年以来のミュンヘンという都市の歴史を表現。
これは1568年にバイエルン公ヴィルヘルム5世の結婚を記念して16体の人形と43の鐘がここに取り付けられて以来のもの。
その時間になるとマリーエンプラッツは人だかりができます。

ミュンヘンで一番古い教会はペータースキルヒェです

マリーエンプラッツに面してはいませんが、ミュンヘンで一番古い教区教会がこの広場のすく近くに建っています。
ペーターというのはキリストの十二使徒の一人ペテロのこと。
キリストから天国への鍵を預かった弟子で、初代ローマ教皇と見なされていますね。
このペテロの名前を与えられた小さな丘にペータースキルヒェの起源があります。
今ではペータースベルクル(日本語に訳すと「ペーターの小山」)と呼ばれる丘の上に小さな教会が建てられたのは12世紀にまでさかのぼれるのですよ。
その後800年以上もの時間をかけてこの教会は、その時代その時代のさまざまな建築様式で増改築。

1181年にはロマネスク様式の教会だったことがある古文書に記されていますが、1278年にゴシック様式の教会に改築。
17世紀から18世紀にかけて塔と祭壇がバロック様式で作り替えられました。
南ドイツには丸屋根が特徴のバロック様式の教会が多く見られますが、バイエルンではその丸屋根が独特の玉葱型だということですね。
ミュンヘンで一番古い教会もその屋根だけを見たらバロック教会。
第二次世界大戦中に爆撃で破壊され、再建工事はなんと2000年まで続きましたが、300段の階段をのぼった91メートルの塔からの眺めは最高です。

ミュンヘンのヴァイスヴルストの伝説はここで生まれました

ミュンヘンのヴァイスヴルストの伝説はここで生まれました

image by iStockphoto

ドイツと言えばビールとソーセージというのが定番ですね。
もっともこれは日本と言えば富士山に芸者に武士というのと同じステレオタイプではありますが、それでもドイツ各地にその土地でしか味わえないビールやソーセージがあります。
第一次世界大戦でバイエルン王を退位したヴィッテルスバッハ家ですが、いまだにビール醸造所を所有しているとか。
ウィーンを追われたままウィーンに帰ることができないハプスブルク家とは違いますね。
それはさておきソーセージですが、太くて白くてお湯に入った状態でテーブルに運ばれてきて、それをジャムのような甘いソースをかけて食べるヴァイスヴルスト。
ドイツ各地のソーセージとは文字通りひと味もふた味も違っているこのソーセージの由来には、次のような伝説があるのですよ。

1857年のカーニバル(ミュンヘンではファッシングと言います)の日曜日、マリーエンプラッツで焼きソーセージを売っていたツム・エーヴィゲン・リヒト(日本語に訳すと「永遠の光亭」)の肉屋さんが羊の腸をきらしてしまい、困ったあげく豚の腸を使うことにしたのでした。
しかしそれでは太すぎて焼きソーセージには向いていませんし、鉄板のうえで焼いたら破れてしまうかもしれません。
それに気づいた肉屋さんは、その豚の腸で作ったソーセージをゆでてみたのですね。
それがヴァイスヴルストの起源伝説なのですが、その伝説が真実を語っているかどうかは別にして、少なくともベルリン名物カリーヴルストよりは伝統のあるミュンヘンおよびバイエルンのヴァイスヴルスト。
一度口にするとドイツのソーセージのイメージが変わってしまいますよ。

ミュンヘンはヴィッテルスバッハ家の宮廷都市でもありました

「都市の空気は自由にする」ということわざがありますが、ラートハウスに象徴されるように都市には市民の自治権が保障されていたのですね。
帝国自由都市ともなるとその都市の周囲を支配する領邦君主から独立。
現在でもドイツ連邦共和国の16の連邦州のうちベルリンとハンブルクとブレーメンは一つの都市として連邦州。
ミュンヘンも都市の規模から言えば連邦州になってもおかしくはないのですが、そうならないのはやはりヴィッテルスバッハ家の宮廷都市だったからでしょうか。

マリーエンプラッツから少し離れたところに古い宮廷があります

かつては君主の住居であった宮廷ですが、今は一般に開放されて博物館やショップやレストランなどになっていますね。
アルターホーフ、日本語に直訳すると「古い宮廷」はまさにそれです。
中世以来ここに宮廷があったのでいろいろ増改築されましたし、第二次世界大戦の爆撃によって破壊された部分もありますが、「古い宮廷」の名前の通り古き良き時代がここにはまだよく残っていますよ。
一般的にホーフを宮廷と訳しますが、もともとは中庭のある大きな建物のことで、「屋敷」とでも訳した方がいいかもしれません。
12世紀にアルターホーフはありましたが、正式にヴィッテルスバッハ家の宮廷になったのは1255年、バイエルン公ルートヴィヒ2世のときでした。
19世紀後半にノイシュヴァイン城を建設したバイエルン王ルートヴィヒ2世とはもちろん別人。

15世紀まではここがヴィッテルスバッハ家の宮廷だったのですが、1385年に新しい宮殿(レジデンツ)が建設されて以来、宮廷としての存在意義を失っていきました。
現在では地下に「ミュンヘンの皇帝城の展示」がされていて、ヴィッテルスバッハ家とその宮廷都市ミュンヘンの歴史を見ることができるのですね。
ヴィッテルスバッハ家からたしかに何人かの皇帝が出現しましたが、ほとんどハプスブルク家に独占されていた皇帝。
ヴィッテルスバッハ家にとってやはり皇帝になることが夢だったのでしょうね。
バイエルン公ルートヴィヒ2世がここを宮廷にしたとき、一頭の猿が宮廷のあちこちを走り回っていて、赤ん坊を抱えたまま塔にのぼったとか。
この赤ん坊がのちに神聖ローマ皇帝になったので、それ以後この塔はアッフェンテュルムヘン(猿の小塔)と呼ばれるようになったという伝説が残されています。

もう一つの広場オデオンスプラッツに新しい宮殿があります

もう一つの広場オデオンスプラッツに新しい宮殿があります

image by iStockphoto

さらに北に歩いて行くと、レジデンツと呼ばれる宮殿の正面が見えてきます。
この宮殿も第二次世界大戦中の爆撃で破壊されましたが、今では見事に修復されていますね。
アルターホーフに比べるとかなり大きな宮殿ですが、もともとはノイヴェステと呼ばれていて、バイエルン公の位を譲って退位した公たちの隠居所。
ヴィッテルスバッハ家の公たちには趣味人が多いのか、このノイヴェステに建てられた新宮殿の最初の部分はなんと水族館で、1571年にその水族館が完成。
それがアルプスから北の地域で最初の博物館だったということですね。
その後にグロッテンホーフ(洞窟宮廷)やシュヴァルツェザール(黒の大広間)などが次々と建設され、ブルンネンホーフ(泉の宮廷)もこの頃に建設されたのですが、それはちょうどルネッサンス様式の時代。

レジデンツが今日の姿になったのは、19世紀のバイエルン王ルートヴィヒ1世の時代。
1842年までにマックス=ヨーゼフ=プラッツに壮大な王宮が建てられ、それに付随してホーフガルテン(宮廷庭園)に大広間が建設。
残念なのは第二次世界大戦中に破壊された宮廷教会や、オデオンスプラッツにあったオデオンですが、そのかわりヘラクレスザールという大広間がその場所に建築されました。
レジデンツの見所としては宝物館でしょうね。
また2013年に宮廷庭園のホーフガルテンが400周年を祝ったのでした。

芸術都市ミュンヘンには複数の美術館があります

都市に欠かせないものとしてはやはり、美術館や博物館、そして劇場ですね。
宮殿に水族館が建設されたミュンヘンのことですから、美術館にも大いに期待ができますよ。
ただしそこに収蔵された美術品の多さには驚かされてしまいます。
ゆっくり見て歩いたら、とても1日では見ることができません。
それから博物館としてはドイツ博物館があるのですが、これがまた巨大な博物館。
ここでそれらを簡単に紹介しておきましょう。

14世紀から18世紀の絵画を集めたアルテ・ピナコテーク

ケーニヒスプラッツ(王の広場)にあるアルテ・ピナコテーク。
その名の示すとおり、ノイエ・ピナコテークに対して比較的古い絵画が展示されています。
14世紀から18世紀に描かれたヨーロッパの絵画、そのなかには数メートルの高さのものまであり、圧倒されてしまいますね。
バイエルン王ルートヴィヒ1世は熱狂的な芸術品の収集家でしたが、1820年に自分の集めたものを一般に公開しようと決意。
こうして1826年にこの美術館の建設が開始されたのですが、当時としてはヨーロッパ最大の美術館だったということです。
1836年にアルテ・ピナコテークとノイエ・ピナコテークが同時に完成。

アルテ・ピナコテークの目玉としては、最上階にある17世紀のフランドル絵画の広間。
そこにあるペーター・パウル・ルーベンスの油彩画『最後の審判』は、なんと6メートルを超える高さの絵で、これには圧倒されてしまいますね。
この美術館もやはり第二次世界大戦中に爆撃を受けましたが、収蔵されていた美術品はそれ以前に安全な場所に運び出されていたということですよ。
1957年に建物が修復されたとき、ふつうはもとの建物を再現するのですが、アルテ・ピナコテークは爆撃で受けた建物の傷がわかるようになっていますね。
ただ残念なことに、2018年までアルテ・ピナコテークは近代化工事のため閉鎖されているとか。
その工事が完成したらどんな建物が出現するのか、楽しみですね。

19世紀半ばの「現代絵画」を集めたノイエ・ピナコテーク

ノイエ・ピナコテークはその名の通り新しい絵画が収蔵された美術館ですが、1853年の開館ですからその当時の「現代絵画」が多く集められていますね。
有名なものとしてはヴァン・ゴッホの『ひまわり』などがあり、18世紀の終わりから19世紀、さらに20世紀初めに描かれた400点近い作品を見ることができます。
バイエルン王ルートヴィヒ1世の趣味が生かされていて、ドイツ・ロマン派絵画の代表者とも言うべきカスパル・ダヴィッド・フリードリヒの風景画や、カール・フォン・ピロティーとミュンヘン派の絵画など、ほかではあまり見られないようなものも展示されています。
ピロティーはなんと35平方メートルの巨大な歴史画も描き残しているのですよ。

ノイエ・ピナコテークに一歩足を踏み入れた人は、迷宮の中に誘い込まれたような感覚に陥ってしまいます。
印象派というとフランスのドガ、モネ、マネやルノワールなどが有名で日本でもよく知られていますが、ドイツにも印象派があり、リーバーマンやコリントという画家がいるそうなのですが、これが同列に並んでいるところなど、バイエルンはやはりドイツなのだと思い知らされてしまいますね。
この美術館も第二次世界大戦の爆撃で被害を受けましたが、アルテ・ピナコテークに比べると軽い被害ですんだようです。
一部まだ評価の定まらない「現代絵画」の美術館ということなのか、1981年になってようやくポストモダンのスタイルで修復されました。

イーザル川の中州にある巨大なドイツ博物館

イーザル川の中州にある巨大なドイツ博物館

image by iStockphoto

かつてドイツは科学技術の分野で最先端を誇る国でした。
それはもちろん今でもある程度までは言えることですが、それでも自動車を最初に作ったダイムラーやベンツの時代とは違いますね。
ミュンヘンの市内を出てイーザル川まで来ると、その中州に巨大な科学博物館であるドイツ博物館があります。
われわれのような海外からの旅行者はつい美術館の方に足が向いてしまいますが、毎年150万人もの来館者があるのですよ。
2017年2月15日から2018年8月19日までは特別展「エネルギー転換」をやっていて、世界で最初に作られた電気自動車を体験できますね。
ドイツ博物館の面白いところは、ただ展示をしているだけではなく、自然科学や科学技術そのものを体験できるところにあるのです。

この博物館ができたのは1925年で、2025年の100周年に向けてあちこち手を入れられていますから、100周年記念式典のときにはどんな展示がありどんな体験ができるのか、今から楽しみですね。
1925年という年は、1918年に第一次世界大戦にドイツ帝国が敗北し、連合国とくにフランスから多額の賠償金を請求されたために物価が天文学的数字にまで跳ね上がった超インフレ時代が落ち着いて、いわゆる「黄金の二十年代」のちょうど真ん中にあたります。
「黄金の二十年代」という大衆文化の花を咲かせていたベルリンに対して、ミュンヘンは科学技術の巨大博物館を建設していたのでした。

ミュンヘンの「ヴェルサイユ宮殿」でしょうか?

パリの近郊にはヴェルサイユ宮殿、ウィーンの近郊にはシェーンブルン宮殿、ベルリン郊外のポツダムにはサンスーシ宮殿がありますね。
限られた土地しかない旧市街にはこのような壮大な宮殿を建設することは不可能。
バロックのあとに訪れたロココ様式の華麗な宮殿はミュンヘン郊外にもあります。
それがニュンフェンブルク宮殿で、日本語に訳すと「妖精の城」。
本当に妖精が住んでそうな庭園もありますよ。

ニュンフェンブルク宮殿であのルートヴィヒ2世は生まれました

ニュンフェンブルク宮殿であのルートヴィヒ2世は生まれました

image by iStockphoto / 90575343

この宮殿の歴史は1664年にさかのぼります。
当時はまだバロック時代で、小さなバロック式の宮殿が美しい草原に建っていただけではあったのですが、これはバイエルン選帝侯フェルディナント・マリアがようやく授かった嫡子マックス・エマニュエル誕生のプレゼントとして、妻のアーデルハイトに贈ったもの。
このときバイエルンは公国から選帝侯国に昇格していたのですが、王国になるのはもう少し先のことですね。
ミュンヘン市内のレジデンツからは少しは慣れていたので、シェーンブルン宮殿と同じように夏の離宮として利用されていました。
1792年には、ミュンヘン郊外のイギリス庭園とこのニュンフェンブルク宮殿の庭園は市民に公開されたのですね。

庭園には2種類あって、イギリス式は自然を生かした庭園で、フランス式はヴェルサイユ宮殿に見られるように人工的なカットを入れた庭園。
ミュンヘン近郊にはイギリス式とニュンフェンブルク宮殿のフランス式、2つの様式の大きな庭園があったということですね。
この宮殿の庭園には運河までが作られて舟に乗ることができるし、冬にはカーリングもできるのですよ。
ロココ式の宮殿では、ノイシュヴァンシュタイン城をはじめいくつかの宮殿を建設してバイエルン王国の財政を破綻させたルートヴィヒ2世の誕生した部屋もあり、こんなところで生まれ育ったルートヴィヒ2世のことだから、ワーグナーの音楽を愛し、中世以来の伝統に帰ろうとほとんど誇大妄想に近い夢を見たのですね。

ミュンヘンでオリンピックが開催されました

ミュンヘンでオリンピックが開催されました

image by PIXTA / 29993218

ミュンヘン郊外にはもう一つ、1972年に開催されたオリンピックの跡地が広い公園になっています。
そのときに建造されたオリンピックスタジアム、オリンピックホール、そしてオリンピック塔がそのまま残っており、スポーツだけではなくコンサートやさまざまなイベントなどに幅広く利用されているのですね。
全体が公園になっていますので、ただ散歩するだけでも十分な気晴らしになりますが、オリンピックプールで一泳ぎということも可能ですよ。
もちろんプールのあとはサウナで一汗流すということもできますね。
そのうえまたフィットネスジムも完備されていて、ミュンヘン市民の憩いの場になっていることは間違いないでしょう。

1972年のオリンピックでおもに使用されたスタジアムは、客席をおおうように張られたテントが世界的に有名で、雨が降っても選手たちは競技をしなくてはなりませんが観客は少しでも雨に濡れないようにとの配慮。
このスタジアムはオリンピックのあとはおもにサッカーのFCバイエルンが利用していましたが、2005年以降はアリアンツ・アレーナに移動したため、現在はおもにコンサートやイベントに使用されていますね。
オリンピックホールはもちろん音楽やイベントの拠点。
オリンピック塔は291.28メートルの高さですから、教会や市庁舎の塔の3倍の高さからの眺めはまた格別。
市内の歴史的建造物とは少し別な空間ではありますが、オリンピック自体はもう半世紀前のことですから、そろそろ「歴史」になっているかもしれません。

最後に、どうしても飲んでおきたいミュンヘンのビール

ミュンヘンのビールは日本でも飲めますし、ミュンヘンが発祥の地であるオクトーバーフェストも今や日本の各地で催されていますね。
季節もいろいろで10月ではありませんし、ミュンヘンでも10月という名前のついたこのビール祭りは10月の第一日曜日には終わってしまいます。
日本酒は樽廻船で揺られることで味が良くなると言われていますが、ビールやワインはやはり現地で味わってこそ、その美味しさを堪能することができるのですよ。

オクトーバーフェストはプリンスの結婚に始まりました

オクトーバーフェストはプリンスの結婚に始まりました

image by iStockphoto

1806年にドイツの諸侯のほとんどがフランス皇帝ナポレオンの指揮下に入ってしまい、神聖ローマ帝国は崩壊。
このときナポレオンによって貴族の位を昇格してもらうドイツ諸侯もいたのですが、バイエルン選帝侯はバイエルン王になり、バイエルン王国の歴史はこのときから始まるのですね。
1810年10月12日に王太子ルートヴィヒがテレーゼ・フォン・ザクセン=ヒルトブルクハウゼンと結婚。
これがのちのバイエルン王ルートヴィヒ1世になるのですが、王国になったバイエルンとバイエルン王を継承していくヴィッテルスバッハ家を天下に知らしめるため、結婚式の祝祭は5日間も続いたのですよ。
これがオクトーバーフェストの起源。

この祝祭は、民衆がミュンヘンの市壁の前の草原で馬を走らた10月17日に終わり、その草原がのちに花嫁の名前を取ってテレージエンヴィーゼと名付けられ、オクトーバーフェストの会場になった次第。
王家の結婚式は同時にまた国民の祝祭でもあるというバイエルン王国の伝統が生まれたわけです。
1786年以来廃止になっていた競馬がこのときに復活。
ナチスによるオーストリア併合の1938年までオクトーバーフェストの一環として続いたのですね。
民族衣装を着た人々が、歌ったり踊ったり、もちろんビールを飲んだりソーセージを食べたり、もともと賑やかなことが大好きなバイエルンの人々にはぴったりのお祭りになったのですよ。

ホーフブロイハウスはいつも超満員です

ヒトラーが1923年にミュンヘン一揆を起こした場所としても知られているホーフブロイハウスですが、当時のバイエルンは王国ではなくなっていたのでビュルガープロイケラーと呼ばれていました。
プロイはビール醸造の意味ですからホーフプロイハウスはまさに宮廷のビール醸造所。
第一次世界大戦後はビュルガー(市民)のビール醸造地下酒場と改名したのですが、現在はもちろん元の名前ですね。
ビールは地下の酒樽で発酵してできますから、地下にはビールの樽が並んでいるわけです。
これをその場で飲むのが一番だということで酒場はたいてい地下にあるのですが、ホーフブロイハウスは地下だけではありません。

3000名の客を収容できるネオルネッサンスの建物がこのビアホールで、名物料理や音楽や民族衣装を着たダンサーの踊りのなかで、やはり民族衣装の店員たちが大ジョッキをいくつも手に持って、ビヤ樽と客席とを行ったり来たり。
16世紀までヴィッテルスバッハ家の宮廷ではザクセンやカッセルからの輸入ビールが飲まれていたのですが、1518年にバイエルン公ヴィルヘルム4世がビール純粋令を公布したあと、1598年にバイエルン公ヴィルヘルム5世が宮廷にビール醸造所を建設。
このときはアルターホーフにありましたが、1608年に現在の場所に移転。
驚くべきことにホーフブロイハウスはなんと朝9時に開店。
バイエルンの人たちは一日中ビール三昧ということでしょうか。

ともかく楽しいミュンヘン観光です

ドイツ人というと生真面目で堅苦しいイメージですが、それはドイツ北部の話。
南に行くとドイツ人はこんなに陽気なのかと驚かされることばかりですが、ここに暮らしているのはドイツ人ではなくバイエルン人と考えた方がいいくらいでしょうか。
そのバイエルンの宮廷都市ミュンヘンはバイエルン人の陽気さが凝集した大都市。
「人口百万人の田舎町」と呼ばれている理由がようやくわかりましたね。
音楽や芸術もその陽気さから独特のものが生まれているのですね。
photo by PIXTA and iStock