いまだ解明されていない日本史の謎

過去のことなのに、日々新しい発見があるのが歴史の世界。映像や音声による記録が残っていない古い時代の出来事を、わずかな文献や物証から少しずつ紐解いて明らかにしていくところが、歴史の楽しさ・面白さに繋がっているのではないでしょうか。その中には、いまだ解明されていない、謎の多い出来事や人物もたくさんあります。歴史好きたちを惹き付けて止まない日本史の謎の数々。あなたはいくつ知っていますか?

聞いたことはあるけどよく知らない日本史の謎

平将門の呪いとは?

平将門の呪いとは?

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歴史の謎、というよりはむしろ、”現代の謎”と言うべきかもしれません。

東京のど真ん中、ビジネスマンが行き交う大手町のビルの間にある、大都会から切り取られたかのように抜け落ちた一角。
緑に囲まれひっそりとしたその場所は、平安中期の豪族、平将門の首塚と呼ばれています。

千代田区大手町一丁目。
大都市計画の中核を担う場所でありながら、まるで将門の首塚を避けるように区画が作られ、高層ビルが建てられています。
近々、大手不動産会社が中心となって一帯に高層ビルを建設する予定だそうなのですが、将門の首塚は計画には含まれていません。
実はこの付近、昔から将門の怨念に苦しめられていたと言います。
近代に入ってからも、整地して何かを建てようとするたびに、工事に関わる人に不幸が起きるなど、偶然とは思えないことが続きました。
そのたびに「将門の呪いではないか」と噂がたち、今日に至っています。

時は平安、930年代。
朝廷は堕落し、世の中は乱れていました。
そんな中、関東で力をつけていた平将門は反乱を起こし、国を興して自ら天皇と名乗るのです。
世に言う「平将門の乱」。
しかし反乱は失敗に終わり、将門は他の豪族たちに討たれて死んでしまいます。
首を落とされ、京都で晒し首に。
しかしこの首、腐ることなく目を見開いたまま夜な夜な大声を上げていたとか。
よほど無念だったのでしょうか。
ある日とうとう、光を放って宙を舞い、失った体を求めて東の方角へ飛んで行ったとの伝説があるほどです。
首は何か所かに落ちたと伝わっており、大手町はそのひとつ。
志半ばにして無念の死を遂げた将門公の怨念が、今も伝わっているのでしょうか。

それなら、あまり露骨に避けるようにビルを建てたりしたら、余計、将門公の逆鱗に触れそうな気もしますが…首塚の周囲は緑地になるのだそうです。

新田義貞と稲村ヶ崎の太刀

新田義貞と稲村ヶ崎の太刀

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歴史上の出来事の中には、物理的に不可能と思われることや説明がつかないことも多々あります。
「神風が吹いた」「大雨で戦況が変わった」等、不利な戦況下で不意に奇跡が起きて状況が一変。
天候の急変ならまだ可能性がありそうですが、中には「そんな馬鹿な」と思ってしまうような伝承も数々残っています。
その筆頭はおそらく、新田義貞の伝承でしょう。

1333年、およそ150年続いた鎌倉幕府に対し、討幕の動きが高まります。
楠木正成、足利高氏(尊氏)、後醍醐天皇、そして新田義貞。
錚々たる顔ぶれが”打倒鎌倉”に決起。
新田義貞は現在の群馬県のあたりを治めていましたが、高い税金に不満が募り、ついに兵を起こし、20万の大軍を率いて一路鎌倉へ向かいます。

鎌倉を包囲した新田義貞の倒幕軍は天然の要塞である鎌倉の固い守りに苦戦。
山間三方からの攻撃はいずれも撃退されてしまいます。
多くの兵を失った義貞は体勢を立て直して極楽寺坂へ。
陸路が難しいなら海から攻めるより他にありません。
その夜、新田軍は稲村ケ崎を突破し、鎌倉内への侵入に成功したのです。
引き潮に乗じたと考えられていますが、古典『太平記』には、潮が引くように念じた義貞が海に太刀を投げたところ、竜神がこれに応じてたちまち潮が引いたため、攻め入ることができたと記されています。

一気になだれこんできた敵兵を前に幕府軍は壊滅。
北条一族は自害して果て、歴史は大きく動きます。

現代の研究では、新田軍が稲村ケ崎より攻め入った1333年5月21日の夜は干潮であったことがわかっているのだそうです。
新田義貞がどこまで承知していたか定かではありませんが、目の前で潮が引き、海に陸路が現れる様子を見た新田軍の士気は高まったに違いありません。
太刀を海に投げ入れたのは、兵たちを奮い立たせるための演出だったのか?あるいは単なる引き潮ではなく、本当に大勢の兵の士気が高まるようなことが何か、起きたのかもしれません。

徳川埋蔵金ってホントにあるの?

徳川埋蔵金ってホントにあるの?

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「徳川埋蔵金」。
歴史に興味ない人でも、一度は耳にしたことがあるでしょう。
江戸幕府がどこかに埋めたと伝えられている金品で、その金額は400万両とも噂されています。
現在の貨幣価値に換算すると?数百億~数千億円、あるいは数十兆円とも言われており、そのありかを探求し続けている研究者も数多く存在するという、ロマンあふれるミステリー。
テレビ番組などでも話題になっているので、どうせネタだろう?とお思いの方も多いのかもしれません。

1868年4月、江戸城が無血開城され、時代は幕末から明治へ大きく動きました。
明治新政府は江戸幕府のお金を資金に充てようと城内の蔵を開けますが、なんと中は空っぽ。
260年続いた徳川幕府の御用金です。
これはおかしい。
そう考えた政府は、開城前まで勘定奉行で財政責任者だった小栗忠順(ただまさ)が金を持ち出してどこかに隠したのだろう、と目をつけます。
小栗の領国は上野国(現在の群馬県)。
奉行職辞任後、権田村というところでしばらく隠遁生活を送っていたとの話もあり、小栗が赤城山のどこかに金を隠したのだろう、という噂が広まります。
実際に赤城山周辺での発掘が繰り返し行われましたが、残念ながら御用金は見つかりませんでした。

明治新政府は発足当時から財政難に陥っていたため、徳川御用金をあてにしていました。
その分、期待も大きかったのでしょう。
また、幕府の関係者が「いつかまた徳川幕府の再興を」と願い、その資金をどこかに隠したとしても不思議はありません。
豊臣秀吉しかり、武田信玄しかり。
歴史に名をはせた君主たちにはいずれも”埋蔵金伝説”がつきまとうもの。
260年間、平和と栄華を極めた徳川幕府御用金への期待と当時の財政難から、噂話が飛び交い、話がどんどん大きくなっていったのかもしれません。
赤城山で見つからなかったことから、別の場所に隠したのでは?と考えるようになりました。
日光東照宮か?榛名山ではないか?こうやってあちこち探しているうちに、全国各地に「徳川埋蔵金伝説」が誕生していきます。

もっとも、幕末の徳川幕府はかなり大赤字であったとも考えられており、お金は全然なかった、との見方もあるようです。
永遠に謎のまま…そんな謎がひとつくらいあっても、いいのかもしれません。

歴史に名を残した謎の人物たち

天才浮世絵師・東洲斎写楽って何者?

天才浮世絵師・東洲斎写楽って何者?

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「大谷鬼次の奴江戸兵衛」を始め、数々の役者絵を残したことで知られている絵師、東洲斎写楽。
現在でも国内外問わず大変人気がありますが、この写楽、とても謎めいた人物なんです。

写楽が絵師として活動したのは1794年6月から翌年にかけての10ヶ月だけ。
この間に150点近い作品を世に送り出しているのですが、突然現れて大量の絵を発行した後、忽然と姿を消しています。

江戸時代の浮世絵師といえば花形職業。
同時代には葛飾北斎や喜多川歌麿など錚々たる面々が活躍していますが、彼らの素性はいずれも明らかになっています。
しかし一方の写楽については、期間が短かったということもあってすべて謎。
個人を知る出来事などもほとんど知られていません。
突然現れ、消えていった、まるで「実在しない、作られた絵師」のような存在なのです。

いくら才能があったとしても、一個人の力では絵を世に送り出すことはできません。
当時の浮世絵は版元と呼ばれる、今でいうところの出版社とスポンサーが一緒になったような人物に認められて初めて形になります。
写楽を世に送り出したのは蔦屋重三郎という版元。
蔦屋がどうやって写楽を見出し、彼の浮世絵を形にするに至ったのか、その辺もよくわかっていないのです。

近年の研究では、斎藤十郎兵衛という名の能役者が写楽ではないか、との説が有力候補をなっています。
能役者が歌舞伎役者などの絵を描くのはいかがなものか、というところから、ペンネームを使い、正体を隠して活動していたのかもしれない。
そう考えれば合点がいくところもあります。
しかし、どういういきさつで浮世絵を描くことになったのか、なぜ10ヶ月で描くのをやめてしまったのか等々、まだまだ、謎多き人物であることには違いありません。

斎藤十郎兵衛説の他にも、歌麿や北斎など既に活躍している人気絵師や、円山応挙や十返舎一九など畑違いの著名人が写楽を名乗って絵を描いていたのでは?との説も囁かれていました。
また、版元である蔦屋自身であった可能性も。
それなら、無名の絵師の絵を大量に扱った理由も理解できます。

写楽の正体は?できれば永遠に解明されず、推理し続けていたい。
そんな思いさえ生まれてくるほど、浮世絵は今も昔も、現代人が考える以上に”エンターテイメント”なものなのです。

徳川家康の側近「天海」はあの人物?

徳川家康の側近「天海」はあの人物?

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時代は少し戻りまして、江戸幕府初期の頃。
徳川家康の側近に天海(てんかい)という名の天台宗の僧がいました。
この人物にも数々の謎があるのです。

天海は南公坊天海智楽院(なんこうぼうちらくいん)といい、生まれは会津。
比叡山などで修業し、仏教界ではかなりの人物であったと言われています。
関ケ原の戦いの後に、徳川家康に望まれて江戸の町づくりや幕府の宗教行政に携わることになりました。
家康は彼のアドバイスによく耳を傾けていたそうで、「黒衣の将軍」とまで呼ばれていたそうです。

特に奇妙なところもなさそうな話ですが、徳川家康という人物、よく言えば用心深く、悪く言えば疑い深くこすっからい性格。
いくら仏教界の大御所で陰陽や風水にも精通していたといっても、素性のはっきりしない僧侶など突然召し抱え、しかも意見を述べさせるなんて異例中の異例。
そんなことが果たしてあり得るのでしょうか。

もしかしたら天海は、家康が政治面でも信頼を置くに値する経歴を持つ人物だったのかもしれません。
そうしたことから、天海=名のある戦国武将という説が唱えられるようになりました。
最も有力なのが明智光秀。
織田信長を本能寺で討ち、”三日天下”と呼ばれたあの武将です。

主人に逆らった逆賊と見られることが多い光秀ですが、実は非常に優秀な人物であったと言われています。
家康が光秀の能力を惜しんでひそかにかくまっていた可能性も無きにしも非ず。
光秀であれば、そのままの名を名乗らせるわけにもいきませんので、別の名を名乗らせ、その知力を江戸の町づくりに利用したとも考えられます。

天海の生年ははっきりしていないため正確な年齢は不明ですが、100歳以上生きたことは確か。
果たしてその正体は?明らかになる日は訪れるのでしょうか。

女王卑弥呼は実在したのか?

女王卑弥呼は実在したのか?

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邪馬台国はどこにあったのか…?日本史上最大の謎と言ってもいいかもしれません。
その邪馬台国を治めていたとされる女王卑弥呼は実在の人物なのでしょうか。

そもそもなぜ、邪馬台国は存在していた場所すらわからず、謎めいているのでしょう。
それは、国の記録や文書が一切、日本には残っていないから。
ではどうして邪馬台国の存在が明らかになったのかというと、海の向こう、中国の古い文書の中に、邪馬台国に関する記述が残されていたためなのです。

中国の正史『三国志』の中の「魏志倭人伝」に、日本を訪れた魏(三国のうちのひとつ)の使者が見た邪馬台国の様子が描かれています。
おそらく2~3世紀頃のことであったと思われるため、そのころ、邪馬台国が存在していたものと考えられるようになりました。
『倭』とは、古代中国から見た周辺諸国や国家のことを指した総称。
「魏志倭人伝」によると、倭国、つまり日本には元々男の王がいたが、争いが絶えなかったため、卑弥呼(卑彌呼)という名の女子を王にした、という記述があります。
卑弥呼は高齢で夫がなく、鬼道を使って人々を束ねており、人と会うことは少なく、1000人の侍女がいて、住居は柵が設けられ、多くの兵士が守っていた、と、かなり細かく書かれているのです。
女王卑弥呼は確かに実在していました。

しかし、邪馬台国がどこにあったのか、肝心なこはまだ解明されていません。
卑弥呼はどこに暮らしていたのか、今後の調査研究に期待が集まっています。

本当はどうだったの?謎多き歴史的事件

本能寺の変は謎だらけ!

本能寺の変は謎だらけ!

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戦国最大の出来事といえば何といっても「本能寺の変」でしょう。
1582年6月21日早朝、京都にある本能寺に泊まっていた織田信長が、家臣の明智光秀に襲撃されたという一大事。
信長は自ら寺に火を放ち、自害して果てたと伝わっています。
誰もが知っている有名な事件ではありますが、説明がつかない謎の部分も多いのです。

そもそもなぜ光秀は信長を襲撃したのでしょうか。
信長から手酷い扱いを受けて恨みを抱いていたとの説が有力ですが、後の世の創作物で脚色された話と入り混じっている可能性も。
他に首謀者がいてそそのかされたのではないか、あるいは、長年の心労が祟ってノイローゼ気味だったのでは、等々、様々な説が浮上していますが、解明には至っていないようです。
光秀自身の手記などが見つかれば急展開、となるかもしれません。

また、当時、天下統一に王手をかけていた信長が、さしたる警戒態勢も引かずわずかな人数で本能寺に滞在していたのか、その点も大きな謎と言われています。
命を狙われる危険については、信長自身が一番自覚していたはずです。

最も興味深い謎は、信長の亡骸が見つからなかった点でしょう。
信長を討ったからには、証拠が必要です。
光秀は焼け跡から信長の遺体を探させましたが、結局、見つかりませんでした。
信長は逃げて生きながらえたのか?それとも家臣たちがひそかに焼死体を運び出し弔ったのかもしれません。
あるいは、人間と判別がつかないほど黒こげになるほどの炎だったのか…。

本能寺の変は、解明不能な歴史ミステリーなのか?今後の発見に期待したいところです。

大化の改新って具体的に何があったの?

大化の改新って具体的に何があったの?

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一方、資料が少ないがために真相が見えにくく、謎めいてしまう出来事というものも、歴史上には数多く存在します。

1300年以上昔の出来事となると、頼りになる資料は『日本書紀』、『古事記』など限られたものに。
特に『日本書紀』は難解な部分が多く、事実を読み解くのが難しいとも言われています。

誰もが知っている「大化の改新」という出来事。
飛鳥時代中期、権勢をふるっていた蘇我氏を、中大兄皇子と中臣鎌足が打ち滅ぼし、改新の詔を示して天皇中心の世の中を取り戻した、というもの。
蘇我入鹿を暗殺した部分が有名ですが、その部分は乙巳の変(いっしのへん)と呼ばれており、その後に中大兄皇子が中心となって新しい政策を打ち出したことを「大化の改新」と呼んでいます。

蘇我氏とは、聖徳太子と共に政治にあたった蘇我馬子の血筋で、名門中の名門。
当時の当主は蘇我入鹿で、天皇を差し置いて政権を握っていたといいます。
そんな世の中を変えたいと立ち上がったのが、役人であった中臣鎌足で、蘇我氏を退けるべく、中大兄皇子を担ぎ上げ、蘇我入鹿暗殺計画を実行。
その後、中大兄皇子は年号を”大化”と改め、豪族たちが牛耳っていた私有地を返却させ、土地はすべて天皇のものとして天皇中心の政治を取り戻していくのです。

しかしこの改新の詔の部分、近年の研究で、『日本書紀』の編纂時に書き換えられた可能性が出てきました。
公平な正史というよりは、勝ち組側に偏った記述も多いようで、後に天智天皇となる中大兄皇子の功績とするべく、話を少し盛った可能性もありそうです。
そうなると果たして、蘇我入鹿=悪者という見方でよいのかどうか、疑問も生まれます。

1300年以上もの間、中大兄皇子・中臣鎌足=善、蘇我入鹿=悪、という構図が確立していた大化の改新という出来事。
今後の研究ではっきりと覆されるのか、あるいは謎が深まっていくのか。
残された文献をどう読み解くかが鍵となっていきそうです。

赤穂浪士討ち入りの真相とは?

赤穂浪士討ち入りの真相とは?

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年末になると語られる機会が多くなる、赤穂浪士の討ち入り。
テレビドラマや映画、舞台などで繰り返し演じられてきた「忠臣蔵」は、誰もが知る出来事です。

元禄15年(1702年)12月14日から15日にかけて、47人の赤穂浪士たちが主君の仇を討つべく吉良邸に討ち入る、という事件。
事の発端はこの前の年の3月、赤穂藩主浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が、江戸幕府の礼式を取り仕切る高家筆頭の吉良上野介(きらこうずけのすけ)を江戸城内松之廊下にて切りつけるという大事件が起きます。
浅野には即日切腹が申し渡され、赤穂藩取り潰しの沙汰が下る一方、吉良はお咎めなし。
大石内蔵助(おおいしくらのすけ)を筆頭に赤穂の浪士たちは、長い時間をかけて周到に計画を練り、赤穂浪士に仇討の兆しなしと周囲が油断した頃に事を起こします。
未明、火消の扮装で雪降る中を一路吉良邸へ。
事前に集めた吉良邸の情報をもとに討ち入りを果たします。

小説や芝居など後の世の創作物では、吉良は打ち取られ浪士たちは見事本懐を遂げたことになっていますが、実はそこが謎。
吉良が本当に打ち取られたのかどうか、影武者だったのではないか、との見方も。
浪士たちは誰も、吉良の顔を知らなかったのです。

そもそも浅野内匠頭はなぜ、吉良を切りつけたのか、しかも刀を抜くことなど許されない城内で。
そこも謎です。
いくら何でも、そんなことをしたらどんな末路を辿ることになるかわかっていたはず。
吉良が浅野を田舎者扱いしてイビッていた、という説もありますが、後の世の創作物上では吉良が悪役として扱われているせいもあって、何が史実であったのか判別しにくい状態に。
多くの人に愛され語り継がれたが故に深まってしまった謎も、歴史上にはたくさんあるのかもしれません。

歴史は極上のミステリー!

歴史を読み解くとは、単に年表を頭に入れるだけに非ず。
残された情報と当時の時代背景から、時間の空白を埋め謎を解いていく、そのプロセスはまるで極上のミステリーを読んでいるかのよう。
謎が深ければ深いほど歴史は面白い。
謎が深いからこそ、多くの人が歴史に惹きつけられ、そのことが新しい発見や探求へと繋がっていくのでしょう。
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