人間の暴力と悲劇の20世紀を語る!ピカソの大作『ゲルニカ』が防弾ガラスに守られていたのはなぜ?

世界的に有名な画家「パブロ・ピカソ」は、生涯において約14万7800点もの作品を残しギネスブックにも認定されています。彼の代表作の一つとされる『ゲルニカ』だけが、なぜかプラド美術館別館に展示されていた1992年まで、厳重警備され防弾ガラスで囲まれていたんです。今回は、その理由に少しだけ触れてみたいと思います。

スペイン内戦と『ゲルニカ』の誕生秘話

スペイン内戦と『ゲルニカ』の誕生秘話

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スペインでは、ソ連を後ろ盾にした共和国軍の左派(社会主義)とナチスドイツのコンコルド旅団やイタリアなど枢軸国と手を組んで反乱を起こしたフランコ率いる右派(保守勢力)が、スペインの主権を争って内戦が起こっていました。
実はピカソは左派を支持しており、共和国政府から、パリ万国博覧会のスペイン館の壁画を書いてほしいと要請を受けていました。

しかし、ピカソは、漠然とした依頼に何を題材にすべきかを悩んでいました。
1937年4月26日にドイツ空軍が右派のバスク地方のゲルニカに向けて「都市無差別爆撃」を行いました。
これは世界史上初の都市無差別空爆と言われており、当時このニュースはヨーロッパを始めアメリカにまで届きました。
パリにいたピカソが、「ゲルニカが全滅した」と聞き、パリ万博の題材には、このゲルニカで起こった悲劇にしようと決めました。
そして、45枚もの下絵を描き、1ヶ月でこの『ゲルニカ(Guernika)』を書きあげたのです。
こうして、『ゲルニカ』が誕生しました。

『ゲルニカ』ってどんな作品?

パリ万博のスペイン館の壁画として描かれたゲルニカは、縦3.5m、横7.8mの巨大なカンヴァスに、黒と白とグレーのモノトーンで描かれています。
ここには、たった3時間の空爆で約1600人もの命を奪った都市無差別爆撃を受けた故郷スペインを思い、試行錯誤を繰り返しながら描いたピカソの、平和に対する思いが詰まっています。

戦争に対する怒りと悲しみを表現した『ゲルニカ』には、死んだ子供を抱きかかえた母親が泣き叫ぶ絵があり、よく見ると母親の舌は短剣のように鋭くとがっています。
またバラバラになった人体、天を仰いで救いを求める人、狂ったように嘶く馬、スペインの象徴的な存在の闘牛などが、コラージュ風に描かれています。
また、中央上にある電球は、空爆を行ったドイツの爆撃による爆弾の閃光だとか。

ピカソがゲルニカに込めた思い

ピカソがゲルニカに込めた思い

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このような悲劇の中にたった一つの希望が書かれています。
それは中央下部にある、一輪の花「アネモネ」です。
とはいっても、アネモネはヨーロッパでは古くから、美と儚さの象徴とされており、花言葉は、「恋の苦しみ」や「見捨てられた」という意味を持っています。
ピカソは、希望という意味で一輪のアネモネを描いたのでしょうか?

このゲルニカの絵に対するピカソのエピソードはたった一つ、中央にいる瀕死の馬を「世界の人類すべて」と話しただけだったようです。
ピカソとドイツ国防軍の将軍には、ちょっとしたエピソードが残されています。
ある日、ピカソのアトリエに、パリを占拠したドイツの将軍がやってきて「ゲルニカの作者はお前か!」と問いただすと、「しかし、ゲルニカの悲劇を描かせたのはお前たちだ!」と答えたようです。
その後で、怒りを込めて描いた『ゲルニカ』の絵葉書をお土産に持たせたというもの。
なんだか、フランスで暮らすピカソの故郷に対する強い思いが伝わってくるようですね。

ピカソとゲルニカ

ゲルニカの著者パブロ・ピカソは、1881年にスペインで生まれました。
絵画を始め、版画や彫刻などあらゆる芸術作品を残し、長い人生の中で、絶望の青の時代からバラの時代、キュビスムの時代、新古典主義の時代を経て、反戦や苦悩を描いた幻想の時、晩年の時代へと作風が変わっていきました。
この『ゲルニカ』は、まさに「幻想の時代」に描かれています。
しかし、ピカソ自身は内戦に直接関わるような人物ではなく、こよなく平和を愛した人物ではないかと言われています。

ピカソは、芸術家は政治的な存在でもあると思っていたようです。
「悲しみや喜びなど常に世の中に寄り添い、印象にそって描くもので、絵は飾るだけのものではなく、絵は戦争の道具です」と、信念を語ったことがあり、ゲルニカにも、そのような思いを込めていたのでしょうか?絵を通して自身も、戦ったと自分の人生を振り返った言葉かもしれませんね。

戦火を逃れ保護されるゲルニカ

戦火を逃れ保護されるゲルニカ

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4月26日に起こった都市無差別空爆の後、ピカソが下絵を描き始めたのは、5月1日だったと言われています。
たった、6枚の下絵から巨大な絵画『ゲルニカ』の制作が始まりました。
5月11日にデザイン画を元にカンヴァスに初めて描き始め、6月4日に完成しました。
しかし、パリ万博での評価は芳しくありませんでした。

『ゲルニカ』は、フランコ政権の残虐さを広めるために、亡命した共和国政府のプロパンガンダとして、ロンドンなどヨーロッパやアメリカを巡回させました。
その後、第二次世界大戦の戦火から守るために、ニューヨーク近代美術館に預けられました。
スペイン内戦は、ピカソの思いとは逆に、フランコ率いる右派の勝利で終結しました。
第二次世界大戦後も独裁者フランコの政権下にあったスペイン政府は、『ゲルニカ』を返還するように求めています。
しかし、ピカソは、「スペインが自由になるまで、この絵を戻すことはない」ときっぱり拒否したようです。

スペインに返還された『ゲルニカ』

スペインに返還された『ゲルニカ』

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1973年に残念ながら、スペインにゲルニカを戻すことができないまま、ピカソは亡くなりました。
その2年後に、フランコもこの世を去っています。
こうして、政府の体制が変わったことで、スペインとニューヨーク近代美術館の間で、ゲルニカの返還についての話し合いが再開されました。
当初ピカソと美術館の間で「スペインに自由が戻ったら返還する」という約束が交わされていました。
これにより1981年9月1日に42年の歳月を経て、初めてゲルニカはスペインに渡ることができました。

ピカソは実はゲルニカ空爆の前に、フランコに対する銅版画の風刺画「フランコの夢と噓」を作製し、名指しで抽象しています。
ピカソが反フランコだということは明白でした。
スペインに『ゲルニカ』が返還されたころには、まだ、フランコの残党がおり、マドリードで開かれたピカソ展を右派が襲撃しました。
しかも、返還交渉中に、スペイン議会を極右が占拠し、軍事政権の樹立を要求する事件が起きてしまい、アメリカの信頼を失墜してしまったのです。

このことから、スペインはアメリカに対し、絵の安全を確保し管理していくことを約束していました。
プラド美術館別館には巨大な防弾ガラスが取り付けられ、この中に『ゲルニカ』を展示しました。
その周りには機関銃で武装した兵士が警備にあたっていたのです。

どうしてこれだけの重装備が必要だった?

どうしてこれだけの重装備が必要だった?

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美術館に入るには、かなり厳しいボディチェックと手荷物検査があり、飲食物など館内への持ち込みは厳禁です。
ガイドさんからも「走ったら打たれるから気を付けろ!」と注意までされていました。
「美術館で走って打たれるってどうよ!」って感じですよね。
当時はまだ、『ゲルニカ』は、政治背景上において安心できる状態ではなかったのです。
旧フランコ派とバスク独立運動に絡むテロが起こるかもしれないと懸念されていたからだと言われています。

現在は、ソフィア王妃芸術センターにあり、2m程手前の床にシールが貼られているだけで、防弾ガラスは取り外されました。
でも床には防犯ブザーが備わっています。
しかし、このようにセキュリティが厳しいのは、落書き防止と、政治的背景があるからだそうです。
ゲルニカの小都市のあるバスク州ビスカヤ県の県都であるビルバオに、グッゲンハイム美術館が建設されており、マドリードのソフィア王妃芸術センターとの間で、『ゲルニカ』所蔵の論争が起こりました。
このことも起因しているのかもしれません。

政治と戦争の悲しさは『ゲルニカ』にあり?

とかく『ゲルニカ』が背負った運命は、スペイン政治に翻弄された絵だということは事実です。
ピカソが、この絵に託した思いは、やっぱりピカソ自身に聞かなければ分からないことかもしれませんね。

『ゲルニカ』の存在価値を確かめに、スペインに訪れてみませんか?

ゲルニカを見るためか、ソフィア王妃芸術センターには、毎年100万以上の人が訪れています。
スペイン内戦から約50年の年月が経ち、『ゲルニカ』自身の存在価値も変化を見せているように思います。
ぜひ、訪れてどのような意味で、ピカソがこの絵を描いたのか、また現在の私たちにとって、どんな意味を持つのか考えてみるのも『ゲルニカ』という絵の楽しみ方かもしれませんね。
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