黒人メジャーリーガーの歴史を変えた男「ジャッキー・ロビンソン」とはどのような人物?

150年以上の長い歴史を誇る世界最高峰の野球リーグ「メジャーリーグ(MLB)」。現在のMLBはアメリカだけでなく南米、アジアと幅広い地域から選手が参戦する大きな舞台に成長しましたが、これだけの舞台になるまでには過去に活躍した選手たちの活躍が欠かせないものになっています。今回はそんなMLBの舞台で活躍した選手から、1940年代後半に活躍した名選手「ジャッキー・ロビンソン」について見ていきましょう。

貧しい生活を送る幼少期

貧しい生活を送る幼少期

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1919年1月31日、ジョージア州カイロに生まれたジャック・ルーズベルト・ロビンソン。
父親はカイロ近くのプランテーションで働く小作人でしたが、生後6か月で父親が蒸発するとカリフォルニア州パサディナへ移住。
白人の郊外住宅地であったこの地に来たあとの生活は大変厳しいもので、母親がメイドの仕事で稼いだ金だけでは生活できず生活保護を受けて生活。

そのような生活の中でジャッキーは近所の不良と関わるようになり、警察沙汰になることも増えるように。
しかしこの状況を見た近所の機械工カーク・アンダーソンはジャッキーを気にかけ「このようなことをしていては母が悲しむ。
君がやっていることは人と同じようなことで、大事なのは個性を発揮すること」とジャッキーを諭すことも。
道を外れかけていたジャッキーを寸前で救ったのです。

こうして忠告を受けたジャッキーはスポーツで頭角を現すことに。
ジャッキーの兄マシューが1936年のベルリン・オリンピックで銀メダルを獲得する活躍を見せると、ジャッキー自身もフットボール、バスケットボール、野球、陸上の4種目で奨学金を受け取る活躍で高校へ進学。
1937年にはパサディナ短期大学(現在のパサディナ私立大学)へ進学したあともスポーツで目覚ましい活躍を見せ、1939年にはカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)に進学。
ここではのちの妻となるレイチェルとも出会いますが、1941年になると大学を名誉退学。
白人社会であった当時の社会では「黒人の人々が大学を出ても役に立たない」と考えていたのです。

冷遇された軍人時代

冷遇された軍人時代

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大学を名誉退学する形で去ったジャッキーは厳しい生活を続けることになります。
退学後はアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトの妻エレノアが推進する青年局のスポーツ指導者の職を得たものの、第2次世界大戦の開戦により曲が閉鎖されると職を失うことに。

職を失ったジャッキーを待っていたのはアメリカ陸軍からの招集でした。
1942年5月にカンザス州フォートライリーで訓練を受けたジャッキーは幹部候補生学校の入学試験を受け試験に合格、学校へ入学することとなります。

その後学校を卒業して少尉になったロビンソンでしたが、軍が持っていたスポーツチームには「黒人である」ことを理由に参加できず。
その後も厳しい対応は続き、人種隔離が厳しいテキサス州フォートヘッドに配置転換された際にはバスで黒人席への移動を迫られることもあり(このときジャッキーは陸軍がバス内での隔離を禁じていることから移動拒否)、1944年に名誉除隊の形で軍を去っていきます。

ニグロリーグでの活躍・ある人物との出会い

ニグロリーグでの活躍・ある人物との出会い

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軍を去ったロビンソンが次に進んだ舞台は「ニグロリーグ」でした。
このリーグは主にアフリカ系アメリカ人の選手が中心となって構成される野球リーグ戦で、ジャッキーは1945年にこのリーグの「カンザスシティ・モナークス」に入団。
この頃ホテルが黒人選手を宿泊させないなどの差別を行っていたことからバスを食堂・寝室代わりにする生活が続きますが、ジャッキーはそうした中でもオールスターゲームに出場するなど活躍。

こうした活躍に注目したのがブルックリン・ドジャース(現在のロサンゼルス・ドジャース)の会長を務めていたブランチ・リッキー。
リッキーがジャッキーを見つけたのは優秀な選手をスカウトするためこのリーグに目を付けたのがきっかけで、1945年8月23日にジャッキーはドジャース傘下モントリオール・ロイヤルズと契約することに。
このときジャッキーは「君はこれまで誰もやっていない困難な戦いを始めなければならない。
仕返しをしない勇気を持つんだ」と言葉をかけられており、2人にとってこれは「人生をかけた決断」であったことに違いありません。
こうしていよいよジャッキーがメジャーリーグの舞台へ駆け上がろうとしていました。

マイナーでの活躍・メジャーリーガーへ

メジャーリーグへの第1歩を踏み出したジャッキーでしたが、やはりそこにも困難は待ち受けていました。
ジャッキーを受け入れたチームの監督が「黒人選手がいたらミシシッピ州にいられなくなる(監督は差別の激しかったミシシッピ州生まれ)。
やめさせてくれ」と発言したり、試合を見に来た観客から「親戚だ」と皮肉られ黒猫を投げ入れられたり、黒人選手がいるとの理由で試合が中止になったり、周囲の見る目は厳しいもの。

そうした厳しい目の中でプレーするジャッキーでしたが、成績は上々。
ロイヤルズが所属する「インターナショナル・リーグ」において打率.349、113打点を記録する大活躍でチームの人気選手になるとリーグ優勝に貢献。
ロイヤルズはプレーオフを勝ちマイナーリーグの王者を決める「リトルワールドシリーズ」においても勝利。
観客の中にはジャッキーを肩に担いでグラウンドを一周する者もおり、ジャッキーが信頼を勝ち取った様子がわかりますね。
こうした活躍を見たリッキーはついにメジャー昇格を決断することに。
こうして「メジャーリーガー」ジャッキー・ロビンソンは誕生。

耐え続ける日々・勝ち取った信頼

耐え続ける日々・勝ち取った信頼

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こうしてメジャーリーグの舞台に立つことが決まったジャッキーは、1947年4月15日にデビューを迎えることに。
当時の本拠地エベッツ・フィールドで迎えた開幕戦に多くの人々が訪れる中メジャーデビューを果たします。

しかしメジャーデビューを果たすジャッキーにも周囲は容赦ありません。
デビューしたドジャースのチームメートの中には「ジャッキーを受け入れるならプレーしない」という嘆願書にサインする選手もおり(この存在を知ったリッキーはサインした選手を呼び激怒)、その他にもドジャースとの対戦を拒否するチーム、試合中に汚い言葉を浴びせるチームもありプレーするだけでも厳しい環境でした。

しかしリッキーと「なにがあっても仕返ししない」ことを誓ったジャッキーは耐えます。
厳しい差別を受けても紳士的な態度で試合に臨み、この姿勢がチームメート、監督の信頼を勝ち取ることに。
当時の監督は「自分は肌の色が何色であろうとチームに貢献できる選手を起用する。
それが気に入らないならチームを去れ」と発言、選手もジャッキーと肩を組むなどジャッキーを支持するように。

この年ジャッキーは打率.297、12本塁打、48打点と1年目から好成績を残し、この年から制定された「新人王」の第1号に選出。
ジャッキーはチームにとって「なくてはならない存在」になっていきます。

フィラデルフィアでの苛烈な野次

フィラデルフィアでの苛烈な野次

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メジャーデビュー前後で厳しい対応をされたジャッキーですが、それが頂点に達したのがデビューした年のフィラデルフィアでの試合。
この地で地元のフィリーズと対戦していたジャッキーでしたが、打席に入るときに聞こえるのは激しく浴びせられる罵声。
当時のフィリーズを指揮していたベン・チャップマンは相当な黒人嫌いで知られており、このチャップマンが指揮してジャッキーに罵声を浴びせていたのです。
リッキーと「仕返ししない」ことを誓っていたことから反撃できないジャッキーにとっては耐えがたいものでしょう。

ここに立ちあがったのはジャッキーのチームメートたち。
ベンチから飛び出すと「臆病者よ、なぜ言い返せる奴にはヤジを飛ばさないんだ」と忠告。
最初はジャッキーの存在を反対していたチームメートも「人間の尊厳を冒す」行為に「1人の人間として」我慢ならなかったのかもしれません。

この出来事から69年が経過した2016年、フィラデルフィア市は市としてこの行為を公式に謝罪。
謝罪文をレイチェル夫人に渡すとともに、デビュー日の4月15日を功績を称える日に制定することとなりました。

不動の存在へ・引退後

メジャーリーグに新たな歴史を刻んだジャッキーは、その後チームでの地位を「不動のもの」とします。
翌1948年は途中不振の時期はありながらシーズン合計85打点、さらに数字を伸ばした1949年はシーズン203安打、136打点を記録して打率.342、盗塁37についてはリーグトップの数字。
この年からはメジャーリーグのスター選手が集うオールスターゲームにも初出場を果たし、以降6年連続で出場。
これだけの成績を残せばもうジャッキーの存在を否定する人は出ませんよね。

その後1955年から成績が低下したジャッキーはこの年自己最少の105試合出場に終わり、成績も打率.256、8本塁打、36打点と自己ワースト。
しかしチームは順調にシーズンを勝ち進み、初のワールドシリーズ制覇を達成。
ジャッキーは翌年までドジャースでプレーしたのち1957年に現役引退を表明。
通算成績は10年間で出場1382試合、打率.311、137本塁打、734打点。
ジャッキーが残した記憶は成績以上のものがあったと言って良いですね。

現役を退いたジャッキーは公民権運動に携わるなど精力的な活動を行い、1962年に資格取得初年度で野球殿堂入りを達成、1972年には彼が付けていた背番号「42」がドジャースの永久欠番に指定。
自身がメジャーデビューを果たしてから25年となる1972年にはワールドシリーズ第2戦で始球式を務めますが、この始球式から9日後の10月24日、53歳で波乱の生涯を終えることになります。

死後の影響力・映画化

ジャッキーが残した功績は死後も称えられることになります。
1972年にチームの永久欠番となった背番号は1997年にメジャー全球団共通の永久欠番に指定され、ジャッキーがメジャーデビューした毎年4月15日の「ジャッキー・ロビンソンデー(2004年に制定)」は全球団の監督、コーチ、選手が背番号「42」をつけて試合に臨むメジャーリーグの恒例行事に。

また2013年にはジャッキーの人生が「42~世界を変えた男~」として映画化。
野球映画として史上最高となる公開3日での収入2730万ドル(当時の約27億円)を記録する大ヒットに。
すでにジャッキーがデビューしてから70年近くが経とうとしていますが、いまだにジャッキーの影響力は絶大ですね。

ジャッキー以前に存在した黒人選手

ジャッキー以前に存在した黒人選手

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ジャッキーは一般的に「黒人選手初のメジャーリーガー」とされていますが、ジャッキーがデビューする前にすでに黒人メジャーリーガーは存在していました。
1856年にオハイオ州に生まれたモーゼス・フリート・ウォーカーは1884年にオハイオ州トレドを本拠地として「アメリカン・アソシエーションズ(19世紀アメリカで運営されていたプロリーグ)」に加盟した「トレド・ブルーストッキングス」に加入。
このとき弟であったウェルディ・ウォーカーもチームに加入しており、彼らは兄弟で「アフリカ系アメリカ人最初のメジャーリーガー」となったのです。

しかし2人がチームに加入すると試合開催を拒否するチームが登場、モーゼスはメジャーデビューこそ果たすもののケガもあり目立った活躍はできず。
チームが破たんしたあとは細々と野球を続け引退。
その後メジャーリーグで「カラーライン(白人が黒人を拒否する人種差別制度)」が確立されるとアフリカ系アメリカ人選手の参加制限が行われ、彼らは活躍の場を奪われるようになっていきます。
ジャッキーがデビューするのはそれから約60年後ですから、人種差別の壁を打ち破るのは容易でないはずですね。

現在も差別は話題になる

ジャッキーの活躍によって黒人選手の活躍できる舞台が出来上がったMLBですが、人種差別は現在も完全根絶されたわけではなく「観客による人種差別発言」が話題になることも。
こうした差別の完全根絶はまだ先の話かもしれませんが、完全根絶されることが「ジャッキーに対して敬意を表する」ことにつながりますし、幅広い選手の活躍の場が保証されるためにも必要なことですね。
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