【諸葛亮孔明】赤壁の戦い、天下三分の計、数々の発明…天才軍師の歴史ざっくり復習

中国は後漢(25年~220年)の時代、その末期に多くの英雄による戦いが繰り広げられました。そして魏・呉・蜀と3つの国が建国され、その歴史を三国志としてまとめられたのです。今回はその1つの国である蜀に仕えた「諸葛亮(しょかつりょう)」についてです。あらゆる書物では天才と記載され、諸国を放浪していた主君を、1国の王にさせた人物です。自ら君主になれる才能を持ちながらも、蜀王の臣下として一生を遂げた「諸葛亮」。その人物について簡単にまとめてみました。

伏龍・臥龍と呼ばれた男

後漢末期の争いごとに巻き込まれていた「諸葛亮」

後漢末期の争いごとに巻き込まれていた「諸葛亮」

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「諸葛亮」は181年、徐州琅邪郡陽都に戸籍が置かれていますが、出生地は不明。
字は孔明。
父は「諸葛珪(しょかつけい)」。
「諸葛珪」は、前漢の政治家であった「諸葛豊(しょかつほう)」の子孫であり、「諸葛珪」も泰山郡の副長官を務めた優れた人物であった。

しかし「諸葛亮」が幼い時に、父「諸葛珪」と母が亡くなり、苦難が訪れることになったのです。

父母とも亡くしてしまった「諸葛亮」は弟である「諸葛均(しょかつきん)」と共に、従父である「諸葛玄(しょかつげん)」に連れられ南方に移住、「諸葛玄」は「袁術(えんじゅつ)」により豫章太守に任命され安息の地を得ることに成功したかのように見えましたが、すぐさま後漢の朝廷から正式に豫章太守として来た「朱皓(しゅこう)」と争うことになってしまったのでした。
その間「諸葛亮」は「劉表(りゅうひょう)」の保護を受けるため、弟と荊州に移動。
しかし「諸葛玄」は勢力争いに敗れ、殺されてしまったのでした。

このような戦乱に巻き込まれたからか、その後「諸葛亮」は弟と共に荊州の奥地に住み、晴耕雨読の生活を送ることにしたのでした。

主君となる「劉備」

主君となる「劉備」

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「諸葛亮」がそのような生活を送っていた時、「劉表」を頼って落ち延びてきた人物が居ました。
その名は「劉備(りゅうび)」。
黄巾の乱から20年あまり、各地で戦果をあげながらも、自らの所領を獲得することができず、荊州に来たのでした。

「劉表」は「劉備」を可愛がり、新野城を与え、「劉備」もその期待に応えるように、対立していた「曹操(そうそう)」の軍を打ち破り、荊州侵攻を食い止めたりしたのでした。

しかし「劉備」が活躍すればするほど、猜疑心の強い「劉表」は「劉備」を疑うようになり、また「劉表」自身外征に消極的であったため、「曹操」を打ち破るという目標がある「劉備」と次第にすれ違うようになってしまったのです。

戦場を駆けずり回っていた「劉備」が、荊州は比較的平和なため馬に乗ることがなくなり、トイレに行った際に自分の太もも贅肉を見て、さらに年齢だけを重ねてしまい、何の功績も上げていないと涙したエピソードがありました。

「劉備」が「関羽(かんう)」や「張飛(ちょうひ)」といった豪傑を従えながらも、1国の主になることができないのは、戦略を組み立てたり、情勢を見抜く力に優れている軍師が居なかったからでした。

三顧の礼

三顧の礼

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軍師に据えることのできる人物を探していた「劉備」は一人の人物と出会ったのでした。
その人物は「徐庶(じょしょ)」といい、少し話しただけでその人物の聡明さに感服、軍師として採用し期待に応え活躍したのですが、敵である「曹操」は「徐庶」を味方に引き入れるべく、母を人質として捕えたのです。
母を捕えられた「徐庶」は助けるべく、泣く泣く「劉備」の元を去ることに、去り際に「諸葛亮」を推挙したのでした。

「劉備」は最初20歳近く年が下な上、天下に名がとどろいていない「諸葛亮」に対し、呼び寄せようとしましたが、「徐庶」に「諸葛亮」はこちらから会いに行けば会ってくれますが、連れてくることはできませんといわれたため、会いに行くことにしたのです。

しかも「劉備」が「諸葛亮」の元を訪れたのは一度のことではありませんでした。
一度目は不在、二度目も不在。
またいつ帰ってくるかは不明なため、次の日程の予定を立てることすらできないと留守を頼まれていた人物にいわれたのでした。
そのような中でも三度目の訪問をおこなった「劉備」はようやく会うことができたのです。
しかしその三度目も「諸葛亮」は昼寝をしていたようで、周りの者が起こそうとしたのですが、「劉備」は「諸葛亮」が目覚めるまで待っていたのでした。

「諸葛亮」は、無名の私にそこまでの行動をおこなってくれた「劉備」に感動し、策を授けたのです。
その策とは、北は「曹操」南は「孫権(そんけん)」が巨大な力を持っているため、いきなりは衝突することは避け、荊州・益州を領有し、その後に天下を争う天下三分の計でした。

この策を聞いた「劉備」はいたく感動し「諸葛亮」を軍師にスカウト、「諸葛亮」も「劉備」の人柄や度量に感動し、生涯仕えることを決意したのでした。

表舞台に突如現れた天才「諸葛亮」

表舞台に突如現れた天才「諸葛亮」

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突如表舞台に現れた「諸葛亮」が「劉備」の軍師として登場した時、荊州では激しいお家騒動がおこなわれていました。
「劉備」を保護していた「劉表」が不治の病に冒され、その跡継ぎ争いとして兄の「劉琦(りゅうき)」と弟の「劉琮(りゅうそう)」が争っていたのです。

形勢は「劉表」の正室の子であった「劉琮」が跡継ぎとなることがほぼ決定的になり、命までとられかねない状況になった「劉琦」は一つ計略を仕掛けたのでした。

天才と言われる「諸葛亮」の知恵を借りようと。
そのために「劉琦」は「諸葛亮」に助言を求めたのでした。

「諸葛亮」は「劉表」の跡継ぎ争いに「劉備」共々巻き込まれたら災難として今まで上手くかわしてきたのです。
しかし「劉琦」の必死の願いに心を打たれたのか、一つ方法を伝えたのでした。

それは昔中国の春秋時代の王である文公の故事を例に、「劉琦」に「劉表」の近くから離れるように勧めたのです。
そして行き先として江夏を勧め、そこで身の安全を守るようにと助言したのでした。

感服した「劉琦」はすぐさま「劉表」に「江夏の守りに就きます」と進言、受け入れられた「劉琦」は江夏の太守として「劉表」の元を離れ、身の安全の確保に成功したのでした。

主君を王とするために

最大のピンチであった長坂の戦い

最大のピンチであった長坂の戦い

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「劉琦」が江夏へ移動して間もなく「劉表」が亡くなったのです。
そしてすぐに「劉琮」が即位、ただ幼少だったため、実権は「劉琮」の母である「蔡氏(さいし)」とその弟である「蔡瑁(さいぼう)」が握ったのでした。

「劉表」死す。
その言葉を聞いたのは「曹操」も同じでした。
今がチャンスとばかり、大軍を率いて荊州に侵攻してきたのです。
そして「劉琮」一派には降伏を勧めたのでした。

寄せる「曹操」の大軍に「諸葛亮」は一計を案じ、見事撃退。
その作戦とは新野城を空城に見せかけ、いったん占領させ、油断したところを伏兵で攻撃させるものでした。
まんまと作戦を成功させた「諸葛亮」ですが、「曹操」の足止めくらいにしかならないと判断、「劉琮」の籠る襄陽城に退却、援軍を依頼したのでした。

しかし「曹操」と徹底抗戦を望む「劉備」と「劉琦」の意向は無視していた「劉琮」一派は先に「曹操」に降伏してしまい、襄陽城に近寄ってきた「劉備」に矢を射かけてきたのでした。

「劉琮」と「曹操」に挟み撃ちにされる形になってしまった「劉備」ですが、「諸葛亮」はすぐさま一計を案じたのです。

いったん主君は江陵をめざし、自身は江夏に籠る「劉琦」の援軍を連れてきますと。
そして自らは江夏を目指したのでした。

領民思いであった「劉備」の軍には、兵だけでなく新野城の民までがついてきました。
そのため行軍が遅く「曹操」軍による攻撃で大きな被害を受けたのでした。
その被害は「劉備」の妻や子たちが一度は「曹操」軍に捕らわれ、そして足手まといになることを恐れた「劉備」の妻が自殺するほどでした。
「劉備」の子は配下であった「趙雲(ちょううん)」の活躍により奪還することに成功しましたが、いつ殺されても問題ない状況でした。

何とか「曹操」の追撃をかわせた「劉備」の元に、「諸葛亮」が「劉琦」の軍を連れて戻ってきたのです。

天下三分の計を実行するための策略

天下三分の計を実行するための策略

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「曹操」荊州を奪取する。
その一方を聞いて驚いたのは南方を治めていた「孫権(そんけん)」でした。
「孫権」は、今までは「劉表」が居たから直接攻撃をされることも少なかったが、荊州を占領した「曹操」は間違いなく次はこちらに来ると踏んだのです。
荊州の動向を探るため「魯粛(ろしゅく)」という人物を「劉備」の元に送り込んだのでした。

「諸葛亮」は「孫権」を味方に引き入れないことには勝ち目がないと理解、「劉備」に入れ知恵をさせた上で「魯粛」と面会させたのです。
そして自らも「魯粛」と面会。
「孫権」と会える約束を取り付けたのでした。

「魯粛」と共に「孫権」の元に行った「諸葛亮」ですが、そこでは「劉備」を敵として見る目がほとんどだったのです。
彼らの言い分は「数十万の大軍を有する「曹操」軍に対抗できる兵力が「孫権」軍にも「劉備」軍にもない。
戦っても負けるであろうから降伏するのが良い」というものでした。

そのような空気の中、「諸葛亮」は「孫権」にこう言い放ったのです。

「あなた様は王であります。
その王が降伏すれば、どのような地位になるのでしょうか。
一国の王ではなくなってしまいます。
また「曹操」軍は大軍と言いますが、ほとんどが陸戦しか経験のない者ばかりです。
また各地の降伏兵を集めているだけで、まとまりはほとんどありません。
反対にあなた様の軍は百戦錬磨の水軍を有しているため、兵が少なくとも、勝ち目はあなた様にあります」と。

「孫権」のそばに居た都督の「周瑜(しゅうゆ)」も同意見。
「孫権」は「劉備」と共に、「曹操」に立ち向かうことにしたのでした。

赤壁の戦い

赤壁の戦い

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「曹操」軍と「孫権」「劉備」連合軍は長江に沿う赤壁で対峙することになったのです。
「孫権」軍の総司令官であった「周瑜」は火計でないと勝てないと判断。
様々な策をおこなっていくのです。

まず「孫権」軍の脅威となる「曹操」軍の中で水軍を率いる「蔡瑁」を計略で謀殺。
「蔡瑁」を殺してしまったことに反省をした「曹操」は「蔡瑁」の甥を利用することに。
「蔡瑁」の甥を「周瑜」に降伏させ、「曹操」軍に嘘の情報を流させたのでした。
しかし「周瑜」は、「蔡瑁」の甥の投降を偽りと見抜き、そして「龐統(ほうとう)」を使い、火計を成功しやすくするため、「曹操」に船と船を連結して揺れを少なくするよう進言させたのでした。

しかしこれだけでは「孫権」の完全勝利には至らないと感じた「周瑜」は「諸葛亮」に頼みごとをするのでした。

「10万本の矢を集めて欲しい。」と。
「周瑜」は「諸葛亮」を心底恐れていました。
10万本の矢を集められたらそれは良し、無理なら処罰するつもりでいたのです。

しかし「諸葛亮」は、「3日で集めてまいります」といい、夜霧にまぎれて船を出し、「曹操」軍から10万本の矢を射かけさせて、まんまと集めることに成功。

そして「周瑜」を最後まで悩ませていた東南の風も「諸葛亮」が祭壇を作り祈祷すると吹き出したのでした。

「周瑜」はここぞとばかりに「曹操」軍に猛攻、藁を載せた船を次々と送り込み、火をかけたのです。
船は「龐統」の策により連結され脱出できず火の海に。
また東南の風の影響で陸地に陣を敷いていた「曹操」軍にも燃え広がったのです。
「孫権」軍の戦は大勝利に終わったのでした。

しかしこれで「周瑜」の決意も決まったのでした。
「「諸葛亮」を活かしておいては、「孫権」様のためにならない。」と。
「周瑜」はすぐさま祭壇に追手を仕掛けたのでした。
しかし「諸葛亮」も「周瑜」に狙われているのは承知の上だったため、東南の風が吹いてすぐに、「劉備」の元に逃げ去ったのでした。

「劉備」の元に帰還した「諸葛亮」は様々な策をたて、「曹操」を追い詰めていくのでした。
しかし「曹操」の命運は付きていない上、もし「曹操」を滅ぼしたら「孫権」の力が巨大になるだけと判断、以前「曹操」に恩義を受けていた「関羽」を追手として使い、「関羽」が「曹操」への恩を返す機会を与えたのでした。

荊州攻略

荊州攻略

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「曹操」が赤壁の戦いで大惨敗をした後、荊州は「孫権」と「劉備」の係争地になりました。

赤壁の戦いの貢献度から考えたら、荊州は「孫権」と「周瑜」たちのものですが、天下三分の計をおこなうためにも荊州は「劉備」にとって大事な拠点であり、「諸葛亮」はみすみす簡単に渡すことはできなかったのです。

「劉備」は、荊州の太守に「劉琦」を立てた上、自らは南郡である、零陵・桂陽・武陵・長沙を攻略することにしたのでした。

「諸葛亮」の策も当然ながら、零陵は「張飛」と「趙雲」、桂陽は「趙雲」、武陵は「張飛」の活躍により奪い取ることに成功。
「劉備」は大満足でしたが、プライドの高い「関羽」だけはこのことに納得がいかないようでした。

「なぜ張飛や趙雲ばかり活躍させておいて、私の出番がないのか」と。

この「関羽」のセリフに「諸葛亮」はこう言い放ったのです。
「あなたは以前「曹操」を取り逃しています。
そのような人物に大事なところは任せられません。」と。
これも「諸葛亮」の作戦でした。
こういえば、「関羽」が失敗することはないと踏んだのでしょう。

そして最後の長沙攻略には「関羽」を使ったのです。
またなぜ長沙攻略に「関羽」を利用したかというと、この地には「黄忠(こうちゅう)」という素晴らしい将が居て、苦戦が間違いないほどの地であったため失敗が許されない「関羽」を使うことにしたのでした。

結果「関羽」の活躍により長沙は陥落。
「黄忠」だけでなく、後の漢中攻防戦でも活躍してくれる「魏延(ぎえん)」という将まで手に入れることができたのです。

長年、土地を持たず主君を変えながら放浪してきた「劉備」にようやく領土が手に入った瞬間でした。

「劉備」の入蜀

「劉備」の入蜀

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赤壁の戦い後、「曹操」と「孫権」の間隙をぬった「劉備」は、荊州の南部の4郡を平定したのでした。
「諸葛亮」軍師中郎将に任命され、荊州4郡の統治にあたったのです。
そのような時、赤壁の戦いに活躍した「龐統」が「劉備」の陣営に新たに加わったのでした。
それは伏龍と鳳雛がともに「劉備」の配下となったことを意味しました。

そのような時、隣の益州から「張松(ちょうしょう)」という人物が荊州にやってきたのです。
「張松」は主君である「劉璋(りゅうしょう)」の暗愚さに嫌気がさし、益州を売りに出すつもりで最初は「曹操」のところに行ったのですが冷遇され、失意のうち荊州に寄った際、「劉備」やその配下の者に厚遇され、心変わりを起こしたのでした。

益州に戻った「張松」は「曹操」や漢中の「張魯(ちょうろ)」の脅威を抑えるために、荊州の「劉備」の力を頼りましょう。
と言ったのです。

「劉璋」の周りの者にも反対する者は居ましたが、「劉璋」は「張松」の意見を採用、「劉備」を益州に招き入れることにしたのでした。

これ幸いと「劉備」は軍を整え、軍師として「龐統」を連れて益州に向かったのです。

しかしこの企みは「劉璋」の知るところとなり、「張松」は処刑され、「劉璋」と「劉備」は対立することになったのでした。

ここ数年戦をしていない「劉璋」軍でしたが、意外と手強く、「劉備」は苦戦の連続でした。
そして軍師である「龐統」まで失うことになってしまったのです。

このまま一進一退の攻防を続けていたら、またいつ「曹操」や「孫権」が動き出してくるのかわからない「劉備」はすぐに荊州を任せている「諸葛亮」に連絡。
「諸葛亮」は荊州の留守番に「関羽」を任せ、「張飛」や「趙雲」を連れてすぐ「劉備」の元に向かったのでした。

「諸葛亮」が加わってからは連戦連勝、「劉璋」がこもる成都を取り囲むことに成功したのです。

「劉璋」は非常に優しい人物であったようで、抵抗する力は持っていたが「これ以上領民を苦しめたくない」という理由で降伏したのでした。

これにより「諸葛亮」が唱えた、北に「曹操」、東に「孫権」、荊州と益州に「劉備」という天下三分の計が成功したのでした。

辺境の王から中華統一に向かって

「曹操」・「孫権」・「劉備」の思惑

「曹操」・「孫権」・「劉備」の思惑

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「劉備」が益州を落とし、領土としたことは「曹操」と「孫権」を刺激したのでした。
「曹操」は「劉備」との間に位置する漢中を占領しようと軍を動かし、漢中を所有していた「張魯(ちょうろ)」を降伏させたのでした。
その際、「勝利の勢いを持って「劉備」を攻撃すべし」との声も上がったが、「曹操」はひとまず漢中制圧の目的は達成されたものとし、「夏侯淵(かこうえん)」に漢中を守らせ、帰ってしまったのでした。

「劉備」にとって漢中に籠る「夏侯淵」は非常に目障りな存在でした。
219年「劉備」は漢中に侵攻を開始、軍師「法正(ほうせい)」の軍略、「張飛」や「黄忠」の武力で漢中を奪い取ることに成功、「夏侯淵」を討ち取ったのでした。

「孫権」とはかねてから「劉備」と約束していた「益州を取ったあかつきには荊州を譲る」という約束を守ってもらうため、「魯粛」を派遣したのでした。
しかし「劉備」「諸葛亮」「関羽」ら全てに荊州を譲る気持ちはなく「涼州を取った後、荊州をお渡しします。」と伝えたのです。

このことは実質の拒絶でした。
今の情勢で「劉備」の勢力のはるか北にある涼州を所有することはほぼ不可能、激怒した「孫権」は「呂蒙(りょもう)」に命じて4郡中3郡を攻略させたのでした。

親「劉備」派の「魯粛」の動きで、長沙と桂陽を「孫権」に譲ることで和睦、それ以上の戦果の広がりをなくしたのですが、217年「魯粛」が亡くなってから、「劉備」と「孫権」との間にふたたび隙間風が入るようになってしまったのです。

夷陵の戦い

夷陵の戦い

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「魯粛」が亡くなった後、「孫権」の周りには反「劉備」派が勢力を持つようになってきたのでした。

荊州の危機を感じた「諸葛亮」は、荊州を守る「関羽」に「東の「孫権」とは手を結び、北の「曹操」と対峙せよ。」と伝えていたのですが、プライドの高い「関羽」は「孫権」と仲良くすることができませんでした。
荊州は「劉備」のものとかたくなに意地を張る「関羽」と、執拗に荊州の返還を求める「孫権」と対立するのは時間の問題でした。

219年「劉備」が漢中に侵攻、「関羽」は同時に「曹操」領である樊城を攻撃。
しかしこれを好機と見た「孫権」は「曹操」と同盟。
「関羽」を挟み撃ちにし、捕え、処刑したのでした。

荊州は「孫権」のものとなったのでした。

「劉備」と義兄弟であった「関羽」は「孫権」に殺され、その数か月後、「張飛」も暗殺されたのです。
そして「張飛」を殺害した首謀者は「孫権」のもとに逃げて行ったのでした。

怒り狂った「劉備」は「関羽」「張飛」の弔い合戦として夷陵の戦いを起こしたのでした。
しかしこの戦いに「諸葛亮」は反対。
しかし「劉備」「関羽」「張飛」のきずなの強さを知る「諸葛亮」に止めることはできませんでした。

「劉備」軍は連戦連勝でしたが、次第に「孫権」軍に反撃され火計を持って「劉備」軍を壊滅状態にしたのでした。

とある将は討ち死に、とある将は降伏するなどして「劉備」軍はボロボロ、「劉備」自身も命かながら白帝城に逃げ込んだのでした。

しかし夷陵の戦いでの大敗北で失意した「劉備」は病を発症し死亡。
後世を子である「劉禅(りゅうぜん)」と「諸葛亮」に託したのでした。

「劉禅」即位後の「諸葛亮」

七縦七禽

七縦七禽

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「劉備」が亡くなった後、益州建寧郡の三名の太守が反乱を起こしたのです。
「諸葛亮」は自ら軍を率い、それぞれの太守を鎮圧したのですが、殺害された太守に代わり、南蛮王「孟獲(もうかく)」が指導者として反乱を継続させたのでした。
この「孟獲」という人物は、漢民族からも異民族からも大変信頼されている男で、苦戦が予想されました。
南方の憂いを断つため「諸葛亮」は、武力による鎮圧ではなく、「孟獲」を心から心服させようと考えたのでした。

そのためにとった行動は「孟獲」と戦い、一度捕えては放ち、二度捕えては放ち、というようなことを繰り返したのです。

その間に戦はおこなわれているので、「諸葛亮」の軍にも影響は出ています。
「孟獲」が差し向けてくる「曹操」や「孫権」との戦いでは見たことが無い、蛮族の戦い方に苦戦することもありました。
毒の泉による攻撃、猛獣や毒蛇による攻撃、刀や矢が通じず、水にも浮かぶ藤甲を来た軍との戦い、苦戦しながらも何度も「孟獲」を捕えては逃げ放していたのです。

そして七度目に放された時、ついに「孟獲」は「諸葛亮」の度量の広さを認め、心から「諸葛亮」に心服することを誓ったのでした。

これにより「諸葛亮」は南方から攻められることの憂いを無くし、北に居る「曹操」の子である「曹丕(そうひ)」孫である「曹叡(そうえい)」との戦いに集中できるようになったのです。

先帝との誓いを果たすために

先帝との誓いを果たすために

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南方の憂いを断った「諸葛亮」は先帝との誓いを果たすため「劉禅」に「出師表」を上奏、227年北伐を開始したのでした。

しかし「諸葛亮」の北伐は苦難の連続でした。
味方に引き入れようとした敵軍の「孟達(もうたつ)」が「司馬懿(しばい)」に見破られて失敗。

228年二度目の北伐では「諸葛亮」が才気ある将として目を掛けていた「馬謖(ばしょく)」が配下の進言を無視して大敗。
同年冬場にも北伐を決行したが、攻め込んだ陳倉城を陥落できないまま食糧不足で撤退せざるをえなかったのでした。

229年三度目の北伐では武都と陰平の二郡を平定して、勢力を北に広げることに成功したのでした。

231年四度目の北伐では魏の軍師である「司馬懿」との対決になりました。
「諸葛亮」は局地的には戦果を得ることには成功しましたが、長雨が続き食糧難に陥り撤退。

235年五度目の北伐では今までと方針を変え、五丈原で屯田をおこない、持久戦に持ち込んだのでした。
しかし頼みの綱としていた「孫権」が「曹叡」との戦いに敗れ、また「司馬懿」も「諸葛亮」の挑発に乗らず、徹底防御の構えを見せていたのでした。

そして「司馬懿」と対峙していたまま、「諸葛亮」は陣中で病を発し、亡くなってしまったのでした。

意外な発明家であった「諸葛亮」

木牛と流馬

木牛と流馬

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「諸葛亮」の北伐の失敗は、ほとんどが食糧輸送が原因でした。
遠征先に持っていくことのできる食糧は限られているため、相手に強固な守りと多大な食糧を持たれると、食糧切れで退却せざるを得なかったのです。

そこで「諸葛亮」は効率よく食糧が運べるようにと開発したのが木牛と流馬でした。

木牛とは長柄をつけた四輪の車、流馬とは一輪車であるといわれています。

「諸葛亮」が発明した木牛と流馬は第四次北伐から使われることになっています。

しかし効果のほどはというと、はなはだ疑問だったようです。

第五次北伐で「諸葛亮」が陣を敷いた五丈原では屯田をおこなっています。
仮に木牛と流馬が活躍をしているのであれば、そこで屯田をおこなう必要はないのです。

漢中から五丈原までは片道200kmぐらいであり、木牛で食糧輸送をした場合1日8kmほどしか進めなかったといわれています。
そう考えると五丈原までたどり着くには25日ほどの日程が必要になります。

こんなにかかっては戦どころではないですよね。

実戦にはほとんど効果が無かったのかもしれませんね。

饅頭(肉まん)・カブの発見

饅頭(肉まん)・カブの発見

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「孟獲」が治めていた蛮族の地では、川が荒れていたり、自然災害があったりすると、人間の生首を祭壇に捧げ、祈祷するといった風習がありました。

「孟獲」を心服させた「諸葛亮」は、このことを聞くと「残酷で野蛮な行為」として禁止することにしたのです。
しかしそれでは神の怒りが静まらないとする「孟獲」たちに対し、代わりに小麦粉の皮に豚や羊の肉を詰め、人の顔の形をしたものを作り上げ、それを祭壇に捧げるようにしたのでした。

代わりに捧げた人の顔の形をしたようなものでも、川の氾濫も自然災害もおさまったといわれています。

この供え物を最初は蛮頭と呼んでいましたが、後に饅頭として広まったといわれています。

この饅頭の発明で、無用な殺生がなくなったのです。

またこの「孟獲」討伐戦において「諸葛亮」はカブの一種の野菜を発見しています。

その野菜は今でも諸葛菜と呼ばれ、人々の生活に欠かせないものとなっています。

主君を中華の皇帝にできなかった天才軍師

いかがでしたでしょうか。
アニメやゲームから常に高い評価を得ている「諸葛亮」ですが、結果主君である「劉備」は蜀という辺境の地で王になったにすぎませんでした。
しかし彼の評価はこれで下がる訳ではありません。
「諸葛亮」が「劉備」に仕えたころは、彼はまだ流浪人でした。
その彼に天下三分の計を説き、蜀王に就けたのは見事な手腕であります。

また魏の「司馬懿」も呉の「周瑜」も常に「諸葛亮」を警戒し、「司馬懿」は「諸葛亮」が亡くなってからの計略にはまっていますし、「周瑜」も赤壁の戦いの時点では味方でありながら殺害しようとしていたほどの要注意人物でした。

後に中華を統一する晋の「司馬炎(しばえん)」も「諸葛亮」の宰相としての能力は評価しています。

「諸葛亮」が「曹操」や「孫権」に仕えず「劉備」に仕えたから、三国志という物語ができたのかもしれませんね。

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