しきたりも人も大嫌い!だけど絶世の美女・皇妃エリザベート

日本ではミュージカルの題材としてもかなりポピュラーなオーストリア皇妃エリザベート。名前を聞いたことがある方も多いかと思います。当時のヨーロッパ宮廷ではナンバーワンの美貌をうたわれ、「美神」とまで呼ばれました。そんなエリザベートですが、私生活は皇后らしさとはまったくかけ離れたものだったことをご存知でしょうか。その陰には、彼女の抱えた苦悩がありました。今回は、美しき皇妃エリザベートの生涯に迫ってみたいと思います。

エリザベートってどんな女性?

エリザベートってどんな女性?

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エリザベートは、フルネームを「エリザベート・アマーリエ・オイゲーニエ・フォン・ヴィッテルスバッハ」といい、オーストリア=ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の皇后です。
愛称は「シシィ」。

夫のフランツ・ヨーゼフ1世は、650年の歴史を誇る名門ハプスブルク家の当主で、オーストリア帝国最後の栄光を演出した名君であり、オーストリアの国父と呼ばれて敬愛されました。
エリザベートに生涯愛を注ぎ続けたことでも知られています。

夫には愛されたエリザベートですが、宮廷のあるウィーンにはほとんど滞在せず、まるでそこから逃げるようにして、各地を旅行し続けていました。

そんな中、滞在先で暗殺されて突然生涯を終えることとなったのです。

こうしてご紹介すると、とても謎多き女性ですよね。

それでは、エリザベートの生い立ちから順に見ていきたいと思います。

生い立ちと自由な少女時代

生い立ちと自由な少女時代

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エリザベートは、1837年12月24日にドイツ南部・ミュンヘンを首都とするバイエルン王国ヴィッテルスバッハ家の傍系の姫として生まれました。

父のバイエルン公マクシミリアンはかなり変わった人物で、しきたりを嫌う自由奔放な人物でした。
家族すらほったらかしで自分のやりたいように生きていた、いわば変人だったんです。
しかしそんな父に愛されたエリザベートは、父の旅行や狩りへ一緒に出かけ、時には素性を隠して街に出たりもしていました。

と、かなり自由な暮らしをしていた少女時代だったため、これが彼女の人格形成と思想に大きな影響を与えたことは言うまでもありません。
そして、こうした生活しか知らなかったため、彼女はいわゆるお姫様的なこととは無縁であり、苦手だったんです。

思いもかけないプロポーズ

思いもかけないプロポーズ

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転機は1853年に訪れました。

母と姉と一緒に避暑地バート・イシュルを訪れたエリザベートは、そこで従兄弟に当たるオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と顔を合わせます。

実は、これは姉とフランツ・ヨーゼフ1世のお見合いだったんですが、皇帝は何とエリザベートに一目ぼれしてしまったんです。
母であるゾフィー大公妃の言うことは何でも聞いていた彼が、この時だけは母の反対を押し切り、エリザベートにプロポーズしたんですよ。

そしてめでたく婚約となったわけですが、自由奔放に生きてきたエリザベートには、お妃教育は苦痛でしかなく、ヒステリーまで起こしたといいます。
プロポーズを受けた晩には不安のあまり泣いていたそうですから、16歳の少女にはとても荷が重かったんですよね。

それから間もなく、彼女はフランツ・ヨーゼフ1世と結婚し、16歳でオーストリア皇后となったのです。

しかし、それは彼女にとって苦痛の始まりでした。

窮屈な宮廷生活は、まるで檻の中のよう

窮屈な宮廷生活は、まるで檻の中のよう

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夫フランツ・ヨーゼフ1世はエリザベートを愛し、大事にしてくれましたが、ちょうどその頃、クリミア戦争などの対処に追われてなかなか一緒の時間を持つことができませんでした。

代わって、彼女の側で彼女に皇后としての教育を授けたのが、大公妃のゾフィーだったんです。
つまりは、姑ですね。
しかもゾフィーは宮廷のしきたりが第一の、エリザベートにとっては「超」苦手な部類の女性でした。

ゾフィーは彼女に対して、600年超の歴史と伝統を誇るハプスブルク家のしきたりを教え込もうとしました。
そうした教育は、元々勉強嫌いでもあった彼女にとっては耐え難い苦痛だったんです。

また、ゾフィー自身は自由奔放なエリザベートを良く思っておらず、教育は余計に厳しいものとなりました。
しかも夫フランツ・ヨーゼフ1世は母に逆らえず、陰ではエリザベートの味方だったものの、表向きは母寄りの態度を取っていたため、エリザベートにとっては辛いものがあったんですよ。

優しいけれど姑寄りの夫…どう思いますか?夫婦の危機になっても仕方ないような気がしますよね。

そして、姑ゾフィーの干渉は子育てにまで及んだのでした。

流浪の皇妃となる

流浪の皇妃となる

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子供が生まれても、エリザベートはその子を自分で育てることはできませんでした。
彼女に将来の帝国を背負う子供の教育はできないと、ゾフィーが取り上げてしまったんです。
そのため、彼女が育てることができたのは、4人の子供のうち末っ子だけでした。

ストレスの多い生活の中で、エリザベートはやがて体調を崩してしまいます。
対人恐怖症にまでかかっていたといいます。
そのため、療養生活のためにウィーンを離れることとなりました。
これがきっかけで、彼女は宮廷から遠ざかり、同時に皇后としての役割もほとんど果たそうとはしなくなったんですよ。

そして彼女は、逃げるように各地を旅行して回るようになりました。
ウィーンに帰ることはほとんどなくなり、人嫌いには拍車がかかりました。
人前に姿を見せなくなった彼女のことを、人々は風変わりな女性だと噂し合うようになっていったのです。

エリザベートのエキセントリックな一面

エリザベートのエキセントリックな一面

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風変わりだと言われたエリザベートですが、確かにそれは間違いではありません。

ヨーロッパ一と言われる美貌を誇る彼女は、その美を維持することに異様な執着を見せました。

身長172㎝、体重43~47㎏、ウエスト50㎝というモデル体型をキープするため、数々の過酷なダイエットにいそしみました。
背筋をまっすぐにするため、枕を使うこともなかったそうです。

また、長い髪の手入れには2,3時間をかけ、シャンプーとして卵30個分の黄身とコニャックをブレンドしたものを毎回使っていました。
侍女が誤って髪を抜こうものなら、厳しく叱りつけたそうですよ。
シャンプーしたら、髪くらい抜けそうなものですが…。

また、侍女たちには自分の旅行へ必ず同行することを求めました。
しかも生涯独身でいるように求めたんだそうですよ。

ちょっとした失敗は怒られるし、自由な時間は皆無ですし、エリザベートの侍女にはちょっとなりたくありませんね…。

しかし、そんな変わった女性であっても、夫フランツ・ヨーゼフ1世にとっては絶対的な愛する妻でした。
彼は自分の服がほつれていても直そうとはせず、妻のすることにはすべてお金を出し続けたんです。
加えて、執務室の机の前には、彼女の肖像画が掲げてあったんですよ。
ほとんど宮廷にいないのに愛は不変。
よほど惚れていたんでしょうね。

王族なのに君主制を否定!?

エリザベートは王族の出身でありながら、その思想は君主制を否定した共和制よりのものでした。
これには、父マクシミリアンの影響もあったようです。
そして、革命詩人と呼ばれたハイネを愛読していました。
ハイネは急進的な自由主義者でもあり、エリザベートが彼に傾倒することに関しては、さすがの夫フランツ・ヨーゼフ1世も苦々しく思っていたそうですよ。

生き方も思想もすべて、王族の枠から大きく外れていたというわけです。

これがいいのか悪いのか、なかなか判断は難しいところですね。

ハンガリーでは絶大な人気!

ハンガリーでは絶大な人気!

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ウィーンから遠ざかり、皇后としての役割を半ば放棄したエリザベートに対しては、批判の声もありました。
旅行先での多大な浪費も批判の種ではあったのです。

しかし、ハンガリーにおいては、彼女の人気は絶大なものでした。

というのも、彼女はハンガリーにだけは大きな関心を持ち続けていたからなんです。

当時オーストリアの支配下にあったハンガリーでしたが、そこが自治権を得るために、わざわざ夫にはたらきかけまでしたんですよ。

彼女が最初のお妃教育を受けた相手が、ハンガリーの民族であるマジャル人であったことが大きいとされています。
また、姑ゾフィーがマジャル人嫌いであったことが拍車をかけ、侍女はすべてマジャル人とするなど、重用したんです。
娘にハンガリー語の教育まで授けたほどでした。

また、彼女自身誰よりも早くハンガリー語を覚え、通訳までこなしたそうなんです。

こうした親ハンガリーの姿勢が、今でもハンガリーの人々が彼女を愛する要因となっているんですよ。

晩年の悲劇:近しい人々の死

晩年の悲劇:近しい人々の死

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エリザベートが弟のように可愛がり親しくしていたのが、バイエルン国王ルートヴィヒ2世でした。
彼もまた風変りな人物であり、狂王とまで呼ばれましたが、エリザベートとはウマが合ったようです。
しかし彼は湖で謎の溺死を遂げ、これは彼女にとって大きな衝撃となりました。

そして、追い打ちをかけるかのように、彼女の息子であり皇太子だったルドルフが自殺してしまったのです。

実はルドルフもまた彼女と同様の思想を持ち、どちらかと言えば繊細で打たれ弱い人物でした。
そんな彼が、親しくなった男爵令嬢を道連れに心中事件を起こしてしまったのです。
後にこれには暗殺説も浮上しますが、すでに50歳となっていたエリザベートにとっては、これ以上のショックはありませんでした。

以降、彼女は常に喪服を身にまとうようになり、さらにふさぎ込むようになっていったのです。

旅行先での予期せぬ暗殺劇

旅行先での予期せぬ暗殺劇

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1898年9月、エリザベートはスイスのジュネーヴにいました。
この旅行に関しては、夫フランツ・ヨーゼフ1世は懸念を示していたのです。
というのも、スイスは無政府主義者の活動が活発であり、その標的となることが予想されたんですね。

しかし、そんなことをエリザベートが気にするわけもありませんでした。

そして、悲劇が起こったのです。

レマン湖を渡る船の船着き場へと向かっていたエリザベートに、突然何者かがぶつかってきました。
衝撃で彼女はいったん倒れますが、すぐ何事もなかったかのように船へと乗り込みます。
しかしそこで再び倒れ、そのまま目を覚ますことはありませんでした。

この時ぶつかってきた相手は、イタリア人の無政府主義者ルイジ・ルケーニでした。
彼は鋭く研ぎ澄ましたヤスリで彼女の心臓を一突きにしたのです。
傷があまりにも小さく、その場では出血もなかったんですよ。

ルケーニは「王侯貴族なら誰でもよかった」と供述しました。
エリザベートがスイスを訪問していることは、新聞で偶然知ったのだそうです。

フランツ・ヨーゼフ1世が彼女を止めていたら、ルケーニが新聞を読んでいなかったら…多くの「たられば」が脳裏をよぎりますが、すでに遅し。
流浪の皇妃は、国から離れた場所であえなく命を落としたのでした。

エリザベート亡き後の帝国

エリザベート亡き後の帝国

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エリザベートの死後、オーストリア帝国は歴史の渦に巻き込まれていきます。

民族独立運動が激化し、皇太子フランツ・フェルディナンド(エリザベートとフランツ・ヨーゼフ1世の甥に当たる)夫妻がサラエボでセルビア人に暗殺され、これがきっかけで第一次世界大戦が勃発しました。
フランツ・ヨーゼフ1世は何とか国を維持しようとしますが、戦争の最中に病で亡くなってしまいます。
そしてその死から2年後、帝国は崩壊することとなったのでした。

評価は二分、しかし今も愛される美貌の皇妃

エリザベートの生涯は、自由気ままに生きた側面と、王家の財力を浪費して維持した現実逃避の生活という側面があります。
そのため、彼女の美しさと奔放さが賞讃される一方、皇后としての務めを放棄したという批判もあるんですよ。
しかし、彼女の美しさに誰もが魅了されていることは事実です。
宮廷画家ヴィンターハルターによる彼女の肖像画は、彼女の美貌を余すところなく今に伝えています。
美しくも多くの苦悩を抱えて生きた彼女の生涯は、やはり魅力的だと思いませんか?
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