開戦の原因は石油?連勝から暗転へ、「大東亜戦争」とは?

皆さんは日中戦争や太平洋戦争の名前は聞き覚えがあるかと思いますが、「大東亜戦争」という名前は聞いたことがありますか?

当時の軍の狂気の象徴のような言葉と思う人もいるかもしれません。というか私もそうでした。

ここでは、この戦争がどのようなきっかけと理由で始まり、日本とアメリカが開戦に踏み切ったのはなぜ?戦況はどちらに有利に進み、どう変化していった?

そして、最後は日本人なら誰でも知っているとはおもいますが、どういう結果に終わったか?

悲惨過ぎて重たいのですが、説明していきたいと思います。

大東亜戦争開戦のきっかけは?

「大東亜戦争」とはどこからどこまでの戦争を指す?

「大東亜戦争」とはどこからどこまでの戦争を指す?

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大東亜戦争とは、大日本帝國と英米蘭中などの連合国との間で発生した戦争に対する呼称で、1941年に東條内閣が日中戦争も含めて「大東亜戦争」とすると発言。

敗戦後にはGHQによって「戦時用語」として使用が禁止されましたが、一方で大東亜戦争の名前を用いるべきという主張もあり、歴史認識問題という点でこの戦争の呼称については議論されています。

要するに、太平洋戦争と日中戦争を合わせた呼び方が「大東亜戦争」ということで良いでしょうか?「大東亜共栄圏」も日本に中国・満州に加え、フランス領インドシナ、オランダ領東インドを含めた範囲ということなので、太平洋戦争と日中戦争を合わせたこの方向で説明していきたいと思います。

戦争はなぜ起こった?

明治37年(1904年)の日露戦争で日本はロシアに勝利し、満州での権益を手に入れました。
これは中国に権益を持つイギリスや、中国の権益を狙うアメリカと対立を引き起こす羽目に。

さらに第一次世界大戦で日本は連合国側に立って参戦し、東アジアおよび南太平洋のドイツ領を攻撃し、これを手に入れましたが、これにより、フィリピンを植民地とするアメリカと太平洋でも対立することに。
さらに日本政府は中国に山東省の旧ドイツ権益を譲渡させましたが、中国国民は反発し、中国との対立も起きました。

目ざましい勢いで進出する日本を抑制するため、大正10年(1921年)英米はワシントン体制を確立。
ワシントン軍縮条約で日本の主力艦の保有数を制限し、日英同盟も破棄されることに。
さらに9ヵ国条約で日本が得たばかりの山東省の旧ドイツ権益を破棄させ、これにより英米と日本との対立が本格化しました。

英米と対立しドイツと組んだ日本軍は?

英米と対立しドイツと組んだ日本軍は?

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昭和4年(1929年)に世界恐慌が起き、欧米列強は「ブロック経済化」を進め、イギリスやアメリカはそれぞれの植民地や勢力圏を関税障壁で囲い込みました。

しかし、これが植民地の少ない日独の孤立を深め、「植民地を持たなければ」という野心を刺激。

そして昭和6年(1931年)9月に満州事変が勃発し、日本は武力で勢力を広げ、満州国を建国。
溥儀(ふぎ)を執政に祭り上げ、事実上の植民地を建設。

しかし米英の反応は早く、国際連盟に働きかけてリットン調査団を派遣。
「満州の日本傀儡(かいらい、操り人形にすること)政権を認めない。
日本は撤退し、新自治政府を樹立せよ」と勧告しますが、日本はこれを拒否。
昭和8年(1933年)に国際連盟を脱退し、外交交渉のチャンネルを自ら閉ざすミスを犯しました。

そして日本はドイツと接近し、昭和11年(1936年)にソ連包囲のための日独防共協定を締結。
日本陸軍にとっての仮想敵国は日露戦争以来からソ連(ロシア)で、事実、昭和14年には満州国付近で日本陸軍とソ連軍が衝突し、大敗北を喫していました(ノモンハン事件)。

一方で海軍は太平洋での対米戦争を想定し、戦力の配備と作戦立案を進め、陸軍は大陸での対ソ連戦、海軍は太平洋での対米戦を指向。
ここで陸海軍が対立し、太平洋戦争にも大きな影響を与えることになるのです。

ドイツの連勝が日本の野心を引き出した

昭和12年(1937)年、北京郊外の盧溝橋(ろこうきょう)で日中の軍隊が衝突し、この盧溝橋事件を発端に、日本は中国との全面戦争に突入。

米英はもちろんこれに反発し、アメリカは日米通商条約の破棄を宣告し、イギリスは中国国民党へ膨大な物資を輸送し支援。

昭和14年(1939年)9月にはヨーロッパでも、ヒットラー率いるドイツがポーランドに侵攻し、これに対し英仏はドイツに宣戦布告。
第二次世界大戦が開始されました。
ドイツは翌年5月にフランスなど西欧への攻撃も開始し、オランダ・ベルギーが降伏し、6月にはパリが陥落しフランスも降伏。

日本は連戦連勝のドイツを見て「いずれはイギリスもドイツに敗北するはず。
アジアにかまっている余裕はなくなるはずだ」と考え、しかも仏印や蘭印の宗主国のフランスやオランダはドイツに降伏し、政治的な余白が生じていて、南進して日本の勢力圏を拡大する絶好のチャンス!

戦国時代で言えば、敵のいない城に攻め込む様なものでしょうか。
とにかく日本は油田を持たないため、特に豊富な油田を持つ蘭印を獲得すれば日本の石油問題は一気に解決するため、喉から手が出るほどに欲しがっていたのです。

太平洋戦争開戦のきっかけは「石油」

太平洋戦争開戦のきっかけは「石油」

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昭和15年(1940年)9月、日本はまず北部仏印に進駐。
イギリス・アメリカが妨害しますが日本の南進は止まらず、ここでアメリカは日本への石油輸出を全面禁止するという措置に。

近代国家の血液ともいえる石油がなくなれば、海軍は2年以内に行動不能となり、重要な産業は1年以内に生産を停止することになります。
日本の命運が明らかになり、「これならばいっそ」と対米戦争は決定的な状況に。
太平洋戦争の直線的な引き金は「石油」だったのです。

そして、昭和16年(1941年)12月8日、日本はハワイの真珠湾を攻撃。
当日、アメリカ太平洋艦隊には危機感はなく、なにしろ日本とハワイは約6500kmも離れていて、まさか日本軍が攻めてくるなど思いもしなかったのです。

日本機動部隊が択捉島単冠湾(えとろふとうひとかぷわん)を出港したのは11月26日のこと。
以後、アメリカに発見されることなく12日間もかけてハワイに忍び寄ったのです。

日本は航海中もアメリカと外交交渉を続けていましたが、アメリカのコーデル・ハルは日本への最後通牒に等しい「ハル・ノート」を突きつけてきて、これは「中国・仏印から撤兵せよ。
そして満州国は認めない」というもの。
これは日本にとって呑めるものではなく、日米開戦は避けられないものに。
この結果を受け、すぐさま機動部隊に「ニイタカヤマノボレ二〇八」という暗号電文が送られました。

真珠湾攻撃はどのような結果を引き出した?

12月8日、ハワイ北方約400kmの地点に、南雲機動部隊が展開。
日本は持ちうる正規空母6隻すべてを真珠湾に投入。
午前7時49分、第一次攻撃部隊が真珠湾に到達。
米軍は虚を突かれ反応が鈍く、全機突撃を命じ、「トラトラトラ」を無線で打電。
意味は「ワレ、奇襲に成功せり」。

浅深度魚雷を抱いた九七艦攻や爆弾を搭載した九九艦爆が次々と米軍艦に襲いかかり、2時間弱の戦闘で戦艦5隻が沈没し、米太平洋艦隊にとって壊滅的な打撃。
さらに200機以上の航空機を破壊し、米軍の死傷者は3600名を超え、一方日本側の損害は少なく、日本の圧勝となりました。

そして、ワシントンの駐米大使館員は宣戦布告の文書を誤って真珠湾攻撃の後に渡してしまい、「だまし討ち」となってしまい、戦争での参加に消極的だったアメリカ世論はこれにより「リメンバー・パール・ハーバー」となり、「日本とドイツを叩くべき」ということに。
アメリカも戦争はやりたくなかったのに、日本への怒りで戦うことを決意したということですね。

日本軍はどのように連勝した?

バターン死の行軍とは?

バターン死の行軍とは?

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そして日本は真珠湾と同時にマレーやフィリピンも攻撃。
「マレーの虎」山下奉文(ともゆき)将軍がマレー半島を制圧し、難攻不落の要塞・シンガポールも陥落。
当時はイギリスの要塞島だった香港も2週間で陥落し、東アジアから英軍勢力は一掃されました。

次に日本はフィリピンの攻略を開始し、マニラを占領。
しかし、バターン島の戦いで苦戦。

またバターン島を攻略した日本軍に約8万人もの米比兵が投降し、90km離れた収容所まで捕虜を歩かせ、食料が不足しマラリアが感染し1万人以上の捕虜が命を落とし、これを「バターン死の行軍」と米軍は残虐行為として世界に喧伝しました。

蘭印奪取も石油不足は解決できず、そして連勝もストップ

そして日本軍は蘭印を攻略しましたが、石油不足問題を解決することはできませんでした。
日本海軍にはタンカーなどの輸送船とそれを護衛する軍艦が大幅に不足し、また「海上護衛戦」の意識も欠落しており、タンカーは連合国軍に次々と撃沈され、日本は蘭印を手に入れても石油不足に苦しむことになるのです。

また日本はスラバヤ沖海戦で、イギリスが中国の蒋介石(しょうかいせき)国民党政権を支援するための「蒋援ルート」を遮断しようとしますが、ビルマでは敵主力を取り逃がし、援蒋ルート遮断も降下は上がらず。

そして日本軍は戦争の終わらせ方など次の作戦が決まっておらず、第二弾作戦は妥協の産物でした。

そして、日本機動部隊はオーストラリア領ニューギニアにある軍事基地ポートモレスビーを攻略するため珊瑚海でアメリカ軍と戦いますが、海戦には勝利するもポートモレスビー攻略作戦は失敗に終わり、日本軍の連戦はここでストップ。
一方アメリカにとっては価値ある勝利でした。

戦況が悲惨に暗転し、敗戦へ

連勝から暗転へ

連勝から暗転へ

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そしてミッドウェー作戦(MI作戦)が発動されますが、作戦研究はあまりにお粗末で、しかもアメリカに筒抜け。

対空防御の大幅な差があったことと、攻撃一辺倒で索敵を軽視したことが原因で日本軍はミッドウェー海戦で衝撃の敗北を喫し、4隻の空母をすべて失うのです。

またガダルカナル島を巡る激戦が開始され、第一次ソロモン海戦で日本軍は得意の夜戦で米・豪艦隊に大勝利しますが第二次ソロモン海戦では一木支隊が全滅。

サボ島海戦では得意の夜戦でも敗北を喫し、日本戦艦艦隊はガダルカナル島のヘンダーソン飛行場を砲撃しましたが戦果には繋がりませんでした。

さらに南太平洋で航空部隊が壊滅。
第三次ソロモン海戦では戦艦比叡が沈没し、日本は初めて戦艦を失いました。

ルンガ沖では逆転勝利しますが、ガダルカナル島からの撤退が決定。
撤退作戦は奇跡的に成功しますが、2万名もがガ島(餓島とも)で屍となり、その内戦士は約8000名で、残りの大部分は餓死もしくはマラリア等による病死だそうです。

悲惨な戦闘が続く

ニューギニアの戦いで南海支隊が壊滅し、ビスマルク海戦では3600名が海の藻屑に(ダンピールの悲劇)。

山本五十六(いそろく)長官は反対を押し切り「い号作戦」を決行しますが失敗。
また山本長官の前線視察を知った米軍が「真珠湾の仇」として山本機を襲い、山本五十六の死は全国民が悲しみに暮れました。

極北のアリューシャン列島も戦場になり、アッツで日本軍は米艦隊に突撃し全滅。
ここで初めて大本営から「玉砕」の二文字が報じられました。

日本は新防衛ライン「絶対国防圏」を設定しますが、米軍の進撃スピードは予想以上で、もろくも絶対国防圏は瓦解。
またろ号作戦で生き残った数少ないベテラン搭乗員たちも死に、「日本の誇った航空部隊は死んだ」ということに。

マキン・タラワから太平洋の「玉砕」が始まり、多くの輸送船が撃沈され、兵站(へいたん)が破綻。
連合艦隊の大基地トラックは空爆で壊滅し、古賀連合艦隊司令長官も遭難死するという悲惨なことに。

マリアナ沖海戦では米軍がサイパンに上陸し、日本機は次々と撃ち落とされ、米軍は「マリアナの七面鳥撃ち」と呼びあざ笑いました。
新型空母大鳳(たいほう)も歴戦の空母翔鶴(しょうかく)も沈み、日本の機動部隊は壊滅。

また米軍がサイパンに上陸し、日本軍はまたも「玉砕」。
多数の民間人も犠牲になり、インパール作戦の「白骨街道の悲劇」では3万人以上がビルマで亡くなりました。

レイテ沖海戦では戦艦武蔵がシブヤン海に散り、西村艦隊は壊滅。
志摩艦隊も撤退し、歴戦の空母瑞鶴も撃沈。
しかし、栗田艦隊が米護衛空母艦隊を圧倒しますが、ここで栗田艦隊は謎の反転をしレイテから撤退し作戦は失敗。

この後特攻が行われ、数千名の若き命が特攻で散り、米軍はこの特攻に恐怖。
世界最大の空母信濃は潮岬に沈みました。
この辺りは悲惨過ぎて私はなんとも言えません。

硫黄島から空襲へ、そして敗戦へ

硫黄島から空襲へ、そして敗戦へ

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そして、米軍B-29の本土空襲とリンクした硫黄島攻略作戦が始まり、栗林中将の指揮下日本軍は奮闘しますが硫黄島の守備隊は散り、「超空の要塞」B-29は本土へ爆撃を開始。

昭和20年(1945年)3月10日深夜には東京大空襲が行われ、合計20トンの焼夷弾(しょういだん)が降り注ぎ、10万人もの市民が死亡したと言われています。
また名古屋・大阪などの大都市だけでなく、岡山・姫路などの中規模都市にも空襲が行われ、日本は文字通り焼け野原となりました。

また沖縄では米軍の猛烈な砲撃が行われ、内陸での持久戦にとなり、10万人以上の市民が犠牲に。
そして、戦艦大和(やまと)が沖縄で水上特攻し撃沈。
「連合艦隊の最期」と言われています。

そして、広島・長崎へ原爆が投下され、またソ連が中立条約を一方的に破棄し満州と北方領土の千島列島に攻め込み、8月15日以降も戦闘を続行。

そして、ポツダム宣言が受諾され、昭和20年(1945年)8月15日に天皇「堪え難きを堪え…」の一説で知られる終戦の詔書を天皇自らが読み上げた玉音(ぎょくおん)放送日本全国に流れ、よく晴れた暑い日だったといいます。
大日本帝国の終焉と共に自刃や特攻した軍人もいれば、多くの市民も自決したそうです。
そして8月28日には連合国軍最高司令官マッカーサー元帥が厚木基地に降り立ち、9月2日、戦艦ミズーリの上で降伏文書調印が行われました。

石油と真珠湾攻撃が原因で日米開戦、そして連勝から敗退へ

英米からの日本への石油封鎖と、世界恐慌での締め出しで日本は蘭印の油田への野心を燃やして出兵。

そして真珠湾攻撃でアメリカを本気にさせ、太平洋戦争が勃発。

最初は連勝した日本軍でしたが、ずさんな戦法で負けが多くなり、壊滅状態へ。

さらに本土に空襲を受け、広島・長崎へ原子爆弾が投下され、直後にポツダム宣言を受諾し、敗戦となりました。

私はちょうど8月6日にこの記事を書いたのですが、「軍人も民間人も、なんと多くの人たちが死んだのだろう」という辛い気持ちになりました。

よくある言葉ではありますが、どうかこの過ちを繰り返さず、戦争が起こらず、人々が平和に暮らせるようになって欲しいものだと思いました。

また、私は城が好きなのですが、「空襲がなければ地元の岡山城も江戸時代からの姿を残せたのに…」なんてことも思ったりします。

それではここで失礼します。
読んでくれてありがとうございます!

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