アフリカ系アメリカ人選手が活躍した野球リーグ「ニグロリーグ」の歴史とは?

かつて「アフリカ系アメリカ人」選手が多く活躍した野球リーグ「ニグロリーグ」。現在の選手たちは最高峰の舞台「メジャーリーグ」でプレーすることが多くなりましたが、人種差別が強く残りメジャーでのプレーを許されなかった選手はかつてこのリーグに在籍、ここからのちにメジャーリーグへ進み伝説を残すことになる名選手もいます。そんな「ニグロリーグ」とはいったいどのようなリーグであったのか、その歴史を見てみましょう。

1860年代から始まった歴史

1860年代から始まった歴史

image by iStockphoto

ニグロリーグの歴史は1860年代から始まったとされており、アフリカ系アメリカ人の人々で構成された野球チームによる試合が始めて行われたのは1860年9月28日。
ニュージャージー州ホーボーケンにあったエリシアン・フィールドで行われた試合とされています。
その後南北戦争中の1862年にアメリカ大統領エイブラハム・リンカーンによる「奴隷解放宣言」が出されると、東海岸を中心としてアフリカ系アメリカ人による野球チーム設立の動きが高まり各都市にチームが形成されることに。

この流れの中で1860年代後半になると、ペンシルベニア州フィラデルフィアにあった野球チーム「ピュティアンズ」を運営していたオクタヴィウス・カットーが当時の野球協会「全米野球選手協会(NABBP)」へ加盟申し込み。
しかし協会側は参加決議をせず参加を拒否。
宣言によって平等となった中でも参加は難しかったのです。

プロ化する選手・新チームの登場

野球協会「全米野球選手協会(NABBP)」への加盟を拒否されながらも、アフリカ系アメリカ人によるチームは増加。
プロ化する選手が登場するなど盛り上がりを見せていきます。

1878年にマイナーのインターナショナルリーグに登場したバド・ファウラーは1884年に白人野球のマイナーリーグ「ノースウエスタン・リーグ」のチームに入団して打撃三冠王に輝くなど活躍。
1879年に当時のメジャーリーグ・ナショナルリーグに所属していた「プロビデンス・グレイズ」からデビューしたウィリアム・エドワード・ホワイトは最初にメジャーリーグに出場した選手とされ、1884年に「トレド・ブルーストッキングス」に在籍したモーゼス・フリート、ウェルデイのウォーカー兄弟がメジャーデビュー。
有望な選手は次々出てきますね。

その後1885年には「キューバン・ジャイアンツ」が誕生、これがアフリカ系アメリカ人による最初のプロ野球チームに。
その流れに乗ってアフリカ系アメリカ人チーム10球団を集めた「サザンリーグ・オブ・ベースボーリスツ」など複数のリーグが新たに創設されますが、どれも短期間で運営破たんすることに。
流れに乗っても運営を続けるのは難しいものですね。

吹き始めた逆風

吹き始めた逆風

image by iStockphoto

プロデビューする選手の登場、短期間ながら新たなリーグが誕生するなど、盛り上がりを見せる「アフリカ系アメリカ人選手による野球」でしたが、そこに逆風が吹き始めます。
1880年代後半になるとメジャーリーグにおいて有色人種を排除しようとする動きが高まり、シカゴ・ホワイトストッキングス(現在のシカゴ・カブス)のキャップ・アンソンはアフリカ系アメリカ人選手など有色人選手の在籍するチームとの対戦を拒否。
アンソンはメジャーリーグ史上初の3000本安打・2000打点を達成した名選手で、リーダーシップの強い選手と言われていましたが、そうした選手の行動は影響力が強いですからね。

こうして有色人種排除の動きが高まるとアフリカ系アメリカ人選手はメジャーリーグから去っていき、1900年頃までにはメジャー、マイナーリーグから姿を消すこととなってしまいます。
こうしてアフリカ系アメリカ人選手がメジャーリーグでプレーできない時代が続くことになります。

巡業の成功・多国籍化するリーグ

アフリカ系アメリカ人選手メジャー、マイナーリーグから姿を消した頃、プロチームは巡業を行いながら戦うことになります。
1885年に誕生した「キューバン・ジャイアンツ」は1890年代からリーグに所属しない形を取り、各地を巡業する形で戦い成功を収めるように。
この流れに乗ったほかのチームも次々と同じ方針を取るようになり、1900年にキューバの野球リーグがアフリカ系アメリカ人の参加を認めたことで、クリストバル・トリエンテやホセ・メンデスといったキューバで活躍する選手のアメリカ行きも行われることに。

こうして2国間での交流が盛んに行われるとキューバ、アジア人なども所属する「多国籍化」が進行、ニグロリーグ元球団オーナーであったJ.L.ウィルキンソンが設立した「オール・ネイションズ(アメリカ中西部を巡業した球団)」には当時日本人選手もプレーした記録も。
活躍の場が限定される中でもなんとか盛り上げようとする姿勢が見えてきますね。

2リーグ制の導入・一時破たんへ

2リーグ制の導入・一時破たんへ

image by iStockphoto

リーグの「多国籍化」が進む中で次に行われたのは「2リーグ制」の導入でした。
第1次世界大戦が終息しようとしている1920年、シカゴ・アメリカン・ジャイアンツを所有していたルーブ・フォスターは他の球団所有者たちとミズーリ州カンザスシティで会合を開催。
この会合の結果アメリカ北西部を中心とした球団による「ニグロナショナルリーグ」発足が決定、3年後の1923年にはアメリカ東部を中心とした「イースタン・カラード・リーグ」が発足。

両リーグからは俊足の外野手クール・パパ・ベル、2度の本塁打王に輝いたマーティン・ディーゴ、強打の遊撃手であったウィリー・ウェルズといったスター選手も輩出しますが、1929年に発生した世界恐慌の影響などを受け1928年にイースタン・カラード・リーグが、1931年にはニグロナショナルリーグが破たん。
再び野球リーグは危機を迎えようとしていました。

リーグ全盛期・晩年の動き

2リーグ制が崩壊してしまったあとも「ニグロリーグ」の盛り上がりは絶えることがありません。
1933年に「ニグロナショナルリーグ」再編成されると、1937年には「ニグロアメリカンリーグ」が結成、再び2リーグ制が復活することに。
この頃からは東西対抗形式のオールスターゲームも行われ、多くのスター選手が登場。
メジャーリーグ選抜との交流戦も行われるようになり、ニグロリーグは全盛期を迎えることに。

しかしこうした盛り上がりを見せる中で選手に対する差別が止むことはありません。
選手が訪れたレストランやホテルでは入場を拒否され、食事はバスの中でとることも。
このほか白人至上主義団体「クー・クラックス・クラン(通称KKK)」による襲撃も受けており、どこへ行っても扱いは厳しかったのです。

こうして時代が進んだ1945年、当時ブルックリン・ドジャース(現在のロサンゼルス・ドジャース)のオーナーであったブランチ・リッキーが傘下のマイナー球団にアフリカ系アメリカ人選手を所属させるように。
有望な選手をニグロリーグに求めていたリッキーがニグロリーグ選手活躍の場を広げるようになると、リーグから選手を引き抜くメジャーリーグ球団が増加。
選手を引き抜かれたニグロリーグは1948年にニグロナショナルリーグ、1960年にはニグロアメリカンリーグが解散したことで消滅。
リーグの消滅は「選手たちの活躍の場が広がった」と捉えることもできますね。

ニグロリーグでプレーした名選手

かつてのメジャー最多本塁打の記録保持者

1934年にアラバマ州モービルに生まれたハンク・アーロン(ヘンリー・ルイス・アーロン)は1952年にニグロリーグの「インディアナポリス・クラウンズ」に入団。
遊撃手として頭角を現すと、その才能が当時のボストン・ブレーブス(現在のアトランタ・ブレーブス)にスカウトに注目され契約することに。

1954年にメジャーリーグデビューを果たすと、すぐに外野手としてレギュラー定着。
1957年には44本塁打、132打点で2冠王を獲得し、本塁打王はその後1963年、1966年、1967年の3度を含めて計4度獲得。
積み重ねた本塁打は、1973年のシーズン終了後に当時メジャーリーグ通算本塁打記録を持っていたベーブ・ルースの記録まであと1本に迫っていました。

そのアーロンにはシーズンオフになると「黒人であるアーロンが白人であるルースの記録を破ることは許さない」と考える人物から嫌がらせを受けますが、1974年4月4日シンシナティ・レッズ戦で714号を放ちルースの記録に並ぶと、4月8日ロサンゼルス・ドジャース戦でルースの記録を抜く715号を記録。
この年には日米野球で来日、当時日本を代表する選手であった読売ジャイアンツ・王貞治と本塁打競争を行って話題になっています。

メジャー史上最高齢新人投手「サチェル・ペイジ」

サチェル・ペイジ(リロイ・ロバート・ペイジ)は「野球の歴史上最高の投手」のひとりとされる名投手で、ニグロリーグ時代には登板した試合が約2500試合、勝利数2000勝以上でノーヒットノーラン(1試合で1本も安打を許さず投げ切ること)55試合など、残したとされる成績はメジャーリーグの歴史では考えられないような驚愕の数字。
ボルティモア・ブラックソックスに在籍していた1930年にはメジャーリーグ選抜軍を相手に22奪三振、1934年にはワールドシリーズで優勝したカージナルスと対戦して2勝しか許さず(9試合制)、メジャーでも通用することを証明。
メジャーリーグ選抜から見れば「未知の世界」でしょう。

そんなペイジは1948年、シーズン途中にクリーブランド・インディアンスに入団。
このときすでに42歳と晩年を迎えていたペイジですが、史上最高齢新人投手として6勝1敗、防御率2.48の好成績でチームはリーグ優勝。
1952年には46歳で12勝10敗に好成績を記録し、メジャー通算成績で28勝31敗を記録。

その後は一度1953年に引退したのち1965年にカンザスシティ・アスレティックス(現在のオークランド・アスレティックス)と契約。
このときペイジはなんと「59歳」で登板は1試合だけでしたが、彼の登板記録は現在まで最高齢登板記録に。
40代後半まで現役を続けることが多くなった現代でも、還暦寸前まで続ける選手は出てこないでしょうね。

現在カンザスシティにあるサチェル・ペイジ球場はペイジを記念して造られた球場で、1982年6月5日に75歳のペイジが亡くなる3日前に始球式を行った球場であります。
住所:E. 51st & Indiana Ave., Kansas City, MO

黒いベーブ・ルース「ジョシュ・ギブソン」

ジョシュ・ギブソンは「黒いベーブ・ルース」と呼ばれたニグロリーグ屈指の強打者で、通算で972本放ったと言われる本塁打には数々の伝説が存在。
ある試合で「ギブソンが放った打球が球場外に消え、翌日フィラデルフィアの球場に打球が落ちてきた」伝説を残し、そのほかヤンキー・スタジアム(現在のスタジアムではない先代のスタジアム)では飛距離約180m、スタジアム唯一の場外本塁打を記録。
このスタジアムは左翼側が右翼側より広く、ギブソン以降は通算536本塁打のミッキー・マントルが屋根に当てただけ。
これほど破壊的な長打力を持つ選手はそう出ては来ませんよね。

しかしそんなギブソンがメジャーリーグでプレーすることは叶いませんでした。
選手生活終盤から過度の飲酒を繰り返すようになったギブソンは体調を悪化させ、1947年に35歳の若さで急死。
ギブソンが酒浸りの生活に走ったのは「黒人選手で最初にメジャーへ行くのは自分」と信じていながらロビンソンに先を越されたショックからとされています。
圧倒的な力を見せながら大舞台に届かない無力感もあったのでしょう。

ニグロリーグを振り返るスポットもある

1960年まで続いたニグロリーグの歴史はミズーリ州カンザスシティの「ニグロリーグ野球博物館」で振り返ることができ、館内はリーグが歩んできた歴史を伝えるバットなどの貴重品を展示。
現在も観光客が訪れるカンザスシティの名所になっており、年間約5万人が来場。
メジャーリーグ観戦も良いですが、野球ファンであれば一度訪れてみたいところですね。
photo by iStock