金メダリストも戦った?唯一米軍の損害の方が多かった「硫黄島の戦い」とは?

皆さんは「硫黄島の戦い」についてはご存知でしょうか?何年か前に嵐の二宮和也さん主演で映画が公開されたので、名前ぐらいは知っておられるのではないでしょうか?

ここでは、硫黄島とはどんな島で、どんな戦略的価値があった?栗林中将率いる小笠原兵団は硫黄島にどんな陣地を作った?硫黄島の戦いはどう推移した?硫黄島で散った「バロン西」とは?そして、硫黄島の戦いの後、戦争はどう展開した?

ということについて見ていきたいと思います。

硫黄島は太平洋戦争でどんな価値があり、どんな陣地が構築された?

硫黄島とは?

硫黄島とは?

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硫黄島は東京の南約1080km、グアムの北約1130kmに位置し、小笠原諸島硫黄島村に属する火山島。
島の表面の大部分が硫黄の蓄積物で覆われていることから、この島名がつけられました。

長径は北東から南西方向に8km未満、幅は北部ではおよそ4km、南部ではわずか800m。
面積は21km2程度、最高点は島の南部にある標高169mの摺鉢山(すりばちやま)。
土壌は火山灰のため保水性はなく、飲料水等は塩辛い井戸水か雨水に頼るしかありませんでした。
戦前は硫黄の採掘やサトウキビ栽培などを営む住民が約1000人居住。
飲み水が不十分だったり、人が生活するには厳しい環境だとは思いますが、それでも1000人も人が住んでいたのですね。

そして、日本軍は昭和16年(1941年)12月の大東亜戦争(太平洋戦争)開戦時、海軍根拠地隊約1200名、陸軍兵力3700ないし3800名を父島に配備し、硫黄島をこの部隊の管轄下に置いていました。

開戦後、南方方面(東南アジア)と日本本土とを結ぶ航空経路の中継地点として硫黄島の重要性が認識され、海軍が摺鉢山の北東約2kmの位置に千鳥飛行場を建設し、航空兵力1500名および航空機20機を配備。
日本から硫黄島を経由して東南アジアへ飛行機が飛んでいたのですね。

硫黄島の戦いまで太平洋戦争はどう推移した?

硫黄島の戦いまで太平洋戦争はどう推移した?

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明治37年の日露戦争で満州の権益を得た日本は、その後中国の権益を巡り英・米と対立。
また昭和4年(1929年)に英・米が世界恐慌でのブロック経済で関税障壁で自分の植民地や勢力圏を囲い込み、しかしそれが植民地を持たない日本とドイツの植民地欲を刺激しました。

日本が南部仏印に進駐したことによりアメリカは日本への石油輸出の全面禁止を決定し、自国で石油を採掘できない日本は困り、アメリカとの開戦を決意。
そして、昭和16年12月8日、真珠湾を攻撃することによりアメリカを本気にさせ、太平洋戦争が開戦。

初めは連勝していた日本でしたが、徐々に戦術がずさんなものになり、また戦争の終わらせ方も考えていなく、やがて壊滅的な敗北が続くようになり、昭和18年(1943年)の「ろ号作戦」で生き残った数少ない航空部隊のベテラン搭乗員たちも死ぬこととなり、「日本の誇った航空部隊は死んだ」と言われました。

空母や戦艦も次々と沈んでいく中、特攻で若い命がたくさん散り、そして昭和18年(1943年)にとうとう米軍はマリアナ諸島を制圧し、B-29による日本本土空襲を開始。
その結果クローズアップされたのが硫黄島でした。

米軍が硫黄島を重視したのはなぜ?

米軍が硫黄島を重視したのはなぜ?

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東京〜サイパンのほぼ中間に位置する硫黄島には日本海軍のレーダー基地と飛行場があり、日本に向かうB-29を察知しては本土に警報を発する役目を担当。
またここから発進した日本軍機の空襲で、サイパン基地にも被害が出ていたのです。

米軍としては、この「目の上のたんこぶ」を潰したかった上に、米陸軍戦闘機の航続距離はB-29の半分程度しかなく、サイパン〜東京間の往復は不可能。
そのため、B-29は戦闘機の護衛なしで出撃せざるを得ませんでしたが、硫黄島を制圧して陸軍戦闘機を進駐させれば、B-29に護衛戦闘機をつけることができます。

さらに故障時や被弾時の緊急着陸基地としても硫黄島は使えるため、米軍は約6万1000名の兵力を硫黄島攻略に投入。

一方日本は硫黄島に米軍が来寇する可能性は高いと踏んではいたものの、あまり力を入れていませんでした。
海軍は沖縄での決戦準備を進めており、陸軍は台湾・中国方面が主戦場になると考えていたから。

硫黄島は「時間稼ぎの捨て石」程度に見られていて、守備兵の総兵力は約2万1000名でした。

少し見通しが甘い気がしますが、もうこの頃には物量的にも人材的にもそんな余裕はなかったのでしょうね。

栗林中将率いる小笠原兵団は硫黄島でどのように戦った?

栗林中将はどのように小笠原兵団を指揮し、地下陣地を構築した?

しかし、硫黄島守備隊司令官に着任した栗林忠道中将はそんな倦怠ムードを吹き飛ばしました。
昭和19年(1944年)6月、小笠原兵団長に就任した栗林中将は、防衛計画の見直しに着手。
それまでの水際撃滅戦をやめ、強固な地下陣地を構築して持久戦を行う決定を下したのです。

しかし、地下陣地建設作業は困難を極め、硫黄島は火山島なため、掘れば硫黄混じりの蒸気が噴き出して作業員を苦しめ、また米軍の攻撃で輸送船が沈められたため、コンクリートや木材なども不足。
ちなみに、輸送船を護衛するという概念がないのはこの時の日本海軍の困ったところでもありました。

さらに川がないため飲料水も不足し、チフスも流行。

しかし、栗林中将の存在が兵を励まし、栗林は毎朝現場を視察し、自ら率先して作業を指導。
一般兵と同じく硫黄臭いご飯を食べ、食糧や水を不正に独占する将校がいれば厳しく罰しました。

栗林中将の元、小笠原兵団は一致団結。
昭和20年(1945年)1月末、総延長18kmにも及ぶ地下陣地が完成。

「指揮官率先、軍紀粛清、上下一体」が栗林中将のモットーだったそうです。

頭が良くて、部下に優しい指揮官だったのですね。
こういう軍人がこの時代にいたのかと思うと、ホッとする思いです。

上陸初日の戦いは?

上陸初日の戦いは?

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昭和20年(1945年)2月16日、米軍は硫黄島攻撃を開始。
日本軍は元山に司令部を置き、西部落〜元山〜南部落を結ぶラインに防衛線を構築。
さらに硫黄島南端の擂鉢山(すりばちやま)も陣地化。
擂鉢山と防衛線の間に米軍を誘い込み、挟み撃ちにする狙いでした。

上陸前の砲撃は激しく、3日間で約5700トンもの砲爆弾が硫黄島に叩き込まれ、全ての木々が吹き飛び、擂鉢山の形が変わるほどでしたが、日本軍の死者はわずか95名。
苦労して建設した地下陣地が威力を発揮したのです。

19日、米海兵隊が上陸を開始。
米軍は水際での反撃がなくホッとしたのも束の間、いざ内陸に侵攻しようとすると、猛烈な反撃を受け、砲弾が米兵の頭上に降り注ぎ、対戦車砲が米軍戦車やLVTを撃破。
日本は5個大隊もの砲兵を配備していたのです。

また、サイパンやルソンで米軍戦車に苦しめられた教訓から、90門の47ミリ速射砲を用意。
3人1組の対戦車班も編成し、梱包(こんぽう)爆弾による肉薄攻撃訓練も行い、日本の士気は高かったのです。

上陸初日だけで米軍の死傷者は2420名を数え、160隻のLVTが撃破されました。
ある海兵隊の生存率はわずか17%だったといいます。

これまでの上陸作戦とは明らかに様子が違い、これほどまでの被害とは受けるとは米軍も想像しておらず、米軍も油断していたのではないでしょうか。

硫黄島の戦いはどんな結末に終わった?

硫黄島の戦いはどんな結末に終わった?

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2月21日、東海岸から上陸した米軍は西海岸に到達。
硫黄島を南北に分断し擂鉢山へ「馬乗り攻撃」を開始しました。
「馬乗り攻撃」とは対地下陣地戦法の一種で戦車で洞窟陣地の上に乗り、ドリルなどで開けた穴からガソリンを流し込んで洞窟内部を焼き払うというすさまじい戦法。

23日に擂鉢山は陥落し、山頂に星条旗が翻りました。
そのシーンはフィルムにおさめられ後に銅像になりました。
銅像は2001年の米同時多発テロの時によくテレビに出ていたといい、米軍は上陸から5日間で7800名もの死傷者を出していて、兵士が星条旗を掲げるシーンは苦難と敢闘の象徴。

一方、日本軍は健闘し、栗林中将は安易な玉砕を戒め、「一人十殺(各自敵10人を倒さざれば、死すとも死せず)」を掲げて粘り強い戦いを続けたのです。

米軍は1時間に10m進むのがやっとという有り様でしたが、27日には元山の飛行場を失い、防衛ラインが破綻。
栗林中将は残った部隊を玉名山、東山、大阪山、テーブル岩、北部落の陣地に後退させて持久戦を続けましたが、3月3日には陣地の一つ大阪山が陥落。
14日には残存兵力は2200名程度になってしまいました。

3月17日、栗林中将は大本営に決別の電文を送り、「将兵の敢闘は、真に鬼神を哭かしむるものあり」。
25日、最後の総攻撃を敢行し、硫黄島の守備隊はついに玉砕。

日本軍の死傷者は2万1152名ですが、米軍の死傷者は2万8686名にものぼり、硫黄島の戦いは米軍の損害が日本軍の損害を上回った、唯一の陸戦となったのです。

またこの損害の大きさが、米軍に日本本土侵攻作戦を思いとどまらせる一因になったと言われています。

オリンピック金メダリストも硫黄島で戦死した?

オリンピック金メダリストも硫黄島で戦死した?

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また、硫黄島の戦車連隊には、昭和5年に行われたロサンゼルス五輪の馬術競技で、金メダルを獲得した、西竹一中佐が配属されていました。
男爵の位を持つ彼の名は世界に轟いていて、「バロン(「男爵」という意味)西」として知られていました。

そして、西中佐が硫黄島にいることを知っていた米軍は、何度も投降を呼びかけ、「バロン西、バロン西、オリンピックの英雄、バロン西君よ。
君は軍人としての責任を果たしたのだ。
君を失うことは惜しい。
こちらに来なさい。
我々は君を手厚く取り扱う」と。

しかし、ついに答えはなく、五輪金メダリストは硫黄島に散ったのです。

西中佐が乗っていた九七式中戦車改は装甲が薄く、米軍の対戦車砲やバズーカ砲で簡単に撃破され、米軍の主力戦車M4シャーマン(75ミリ戦車砲搭載)と戦うにも力不足でした。

現代の日本の感覚からすれば、スポーツ選手、ましてやオリンピックでメダルを取った選手が徴兵されて、戦死するなんてありえないことですよね(日本以外の国ではあることなのかもしれませんが)。
こういう他の分野で世界的に優れた人を戦場に送らざるを得ない状況にした、当時の政府や軍の首脳の無能さに呆れる思いです。

硫黄島からB-29が出撃し空襲、そして敗戦へ

硫黄島からB-29が出撃し空襲、そして敗戦へ

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昭和19年(1944年)2月「超空の要塞」と呼ばれ、アメリカが原爆よりも高い開発費をかけたという戦闘機「B-29」が硫黄島を飛び立ち、北九州の八幡製鉄所や佐世保海軍工廠(こうしょう)などを爆撃。
米軍爆撃機が本土を空襲したのは昭和17年(1942年)以来で日本軍は震撼しました。

そして、高高度からの軍事関連施設を爆撃するのでは、命中率が低く効果が上がらなかったため、米軍は夜間の低空爆撃と都市への無差別爆撃に作戦を変更。

昭和20年(1945年)3月10日深夜、東京を300機以上のB-29が襲い、江東・墨田・台東区などの下町に合計200トンの焼夷弾が降り注ぎ、10万人もの人々が死亡したと言われています。

さらに米軍は名古屋・大阪などの大都市だけでなく、6月からは岡山・姫路などの中都市も襲われ、日本は文字通り焼け野原となりました。

そして、4月1日には米軍が沖縄へ上陸し、」10万人以上の市民が犠牲に。
さらに8月6日には広島に、9日には長崎に原子爆弾が落とされ、またソ連が中立条約を一方的に破り、シベリアや北方領土に進出し領土を強奪。

そして、これで追い詰められた日本は一度は黙殺したポツダム宣言を受諾。
8月15日に「堪え難きを堪え〜」の一節で知られる天皇の玉音放送が流され、日本の敗戦が全国民に知らされました。

ちょうど私がこの記事を書いている時期なのですが、よく晴れたとても暑い日だったといわれ「これを聞いた人々はどんな気持ちだったのだろう?『敗戦なんて信じられない』『これから日本はどなるの?』とか?」と考えて何とも言えない気持ちになります。

栗林中将たち守備隊の健闘で米軍に多大な損害を与えた硫黄島の戦い

硫黄島は東南アジアと日本本土を結ぶ中継地点で、終戦直前、米軍が本土空襲のための基地として目を付けました。
栗林中将らは苦しみながらも強固な地下陣地を作り、米軍に大きな損害を与えることに成功。
しかし擂鉢山が陥落すると、硫黄島守備隊は玉砕。

オリンピック馬術の金メダリスト・バロン西も戦死し、また太平洋戦争で初めて米軍の損害が日本軍を上回る戦いとなりました。

栗林中将のように懸命に戦った、優れた賢い人もこの時代にはいて、よくこの時代のドラマにもあるように、「この時代の人は賢かったんだ」という思いになります。
しかし、こういう優れた人を死なせる運命にした当時の政府や軍の首脳には逆に、「もう少しまともにやれなかったのか?」という思いです。

昭和期の戦争の記事が続きました。
私は歴史の授業ではこの時代の話は嫌いだったのですが、今回細かい話と向き合ってみて、良い勉強になったと思っています。
よろしければ、「日中戦争」と「大東亜戦争」のものと合わせて読んでみてください。

それでは、ここまで読んでいただいてありがとうございます!

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