初めてのウィーンを旅行するなら必見!ハプスブルク家の足跡を巡るスポット7選

音楽の都・ウィーン。美しい調べのワルツや繊細なロココやクラシカルな優美な建物が似合う街です。

この街に訪れると絶対に耳にする名前があります。それがハプスブルク家。
今回は初めてウィーンを訪れる方にハプスブルク家縁のおすすめ歴史スポットをご紹介していきます!

ウィーンってどんな街なの?

ウィーンってどんな街なの?

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まずはウィーンの街についてその特徴と歴史を簡単にみてみましょう。

ウィーンはヨーロッパの中央にあるオーストリアの東寄りにある首都です。

その街の歴史は古く、さかのぼると紀元100年ごろに作られたローマ時代の対ゲルマン軍事都市「ヴィンドボナ」がウィーンの始まりでした。

ヴィンドボナは当時の国境だったドナウ川沿いに作られた宿営地で、五賢帝のひとりマルクス・アウレリウス・アントニヌスによって都市として整えられて、軍事上重要な役割を果たします。

時代がすすみローマ帝国の衰退とともに、東方からのフン族やゲルマン人の侵入があり、街は一旦破壊の波にのまれてしまいました。

中世の時代になり、神聖ローマ帝国の支配下にはいったウィーンはオストマルク辺境伯となったバーベンベルク家が支配します。

その後バーベンベルク家が断絶。

その所領をめぐりいくつかの家が支配しますが、神聖ローマ帝国皇帝となったハプスブルク家のルドルフ1世が治めることとなり、以降ハプスブルク家がウィーンの主となります。

ハプスブルク家は帝位を降りる1918年までこの街に住んで政治を行ったことから、街のあちこちにハプスブルク家盛衰の足跡が残っています。

「リンク」と呼ばれるものがあるウィーンの街並み

実質上最後の皇帝と言われているフランツ・ヨーゼフ1世の時代、1857年にウィーン改造とも言える大きな都市開発を行い、現在の街の形になりました。

この開発の発端は1853年の皇帝襲撃事件とも言われていますが、その前からウィーンの古い城壁を壊して街を整える意見が出ていました。

建築禁止令を出すほど、古い城壁内に建設用地はなく、住む場所がない人々が20万人近くいたのです。

さらに1848年の革命のときにその狭い路地にバリケードを築かれたこともあり、城壁を取り壊し、街を整備することで治安もよくなり工事により雇用の需要も生まれるため、市民から好意的に受け入れられました。

これはフランスのナポレオン3世がジョルジュ・オスマンと行ったパリ改造からも影響を受けたとも言われています。

ウィーン改造では古い城壁は取り壊わされ、その場所は現在ではウィーン子に「リンク」の愛称で呼ばれている旧市街地を大きく一周する道路に生まれ変わりました。

そしてリンクの周りにはネオゴシック様式の市庁舎やオペラ座、ブルク劇場などウィーンらしい典雅で繊細な建物が作られました。

この道幅が大きな環状道路はわずか4キロ程度で、ぐるりと周るとウィーンの街全体を観ることができます。

初めてのウィーン観光なら、その前に一周してみてもいいかもしれませんね。

王宮ホーフブルク宮殿

王宮ホーフブルク宮殿

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13世紀後半から1918年まで約600年以上に渡ってウィーンを拠点にしていたハプスブルク家が住んでいた王宮です。

一口に王宮と言っても長い歴史があるだけにとても広く、中は旧王宮と新王宮に分かれており、さらに小さな宮や世界一美しい図書館・世界最古の乗馬学校・博物館など全部を観光するには1日かかると言われています。

その中のいくつかの見どころをピックアップしましょう。

皇帝と皇妃の生活が垣間見える旧王宮

近世の時代に建てられた白亜の旧王宮。

この旧王宮には「シシィ博物館」「皇帝の部屋」を観ることができます。

「シシィ」は日本でも人気のミュージカル「エリザベート」の主人公であるフランツ・ヨーゼフ1世の妻・エリザベートの愛称です。

エリザベートはその美貌で人々を魅了したことで有名ですが、その美と細い体を維持するのにたいへんな努力をしたことでも知られます。

「皇帝の部屋」ではフランツ・ヨーゼフ1世とエリザベートの部屋を観ることができますよ。

比較的シンプルな装いのフランツ・ヨーゼフ1世の部屋がいくつかあります。
その中には愛するエリザベートの肖像画が飾られた執務室が。

彼はとても若いうちに即位したため、母親から古典的な教育とその支配に悩まされた人でもありました。

そんな彼が初めて母親の意見を聞かず、一目ぼれしたエリザベートを皇妃として選び、愛したといわれています。

そのエリザベートの部屋には彼女の愛用の調度品やベッドなどが展示されている部屋のほかに、典雅な内装には不釣り合いなつり輪やハシゴ段、ぶら下がり健康器具のような運動器具が集められた部屋もあります。

晩年まで美しさを保つことに狂信的なまでに執着していたシシィ。

彼女の美容中心の生活と体型を維持する努力を知ることができますね。

「シシィ博物館」では彼女の華麗なドレスや喪の小物が展示されています。
息子が自殺してからずっと喪に服した姿をしていたと言われています。
この黒い小物たちをどんな気持ちで持っていたのでしょうか。
彼女の悲しみが展示されているようです。

スイス門とスイス宮

赤と黒の門が印象的なスイス門をくぐりスイス宮へ。

ここはハプスブルク家がウィーンに住み始めた13世紀の建物が一部残されています。

18世紀にマリア・テレジアがスイス衛兵へ警護を命じたため、スイス宮と呼ばれるようになりました。

当時はこの辺りが王宮の端にあたり、防衛の警護が必要な場所だったのです。

現在は王宮の宝物館となっており、現代では考えられないほどの大きな宝石をふんだんに使った帝冠などの財宝が展示されています。

ヨーロッパ中に強い力を持っていたハプスブルク家の権力と財力を感じますね。

アウグスティーナ教会

最後は宮廷付属の教会で14世紀に建造されたアウグスティーナー教会。

外観は入口が分からないほど周囲の建物になじんでいますが、中に入ると大変シンプルな白いゴシック様式で、大きな窓から入る光と柱の白さに反射する光でとても明るいです。

この教会ではハプスブルク家の婚礼が行われました。

結婚式を挙げた夫婦で有名なのはマリア・テレジアとロートリンゲン公だったフランツ・シュテファン(フランツ1世)。

その他には、代理結婚ですが、マリー・アントワネットとフランス皇太子ルイ16世、ナポレオン1世とマリー・ルイーズ。

フランツ・ヨーゼフ1世とエリザベートの婚礼もここで行われました。

この教会の見どころは婚礼のエピソードだけではありません。

ここに付属しているロレット礼拝堂の地下には17世紀からのハプスブルク家の皇帝とその近親者の心臓が銀の容器に入れられて祀られています。

シュテファン寺院

シュテファン寺院

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シュテファン寺院はウィーンの旧市街地の中心地にある大寺院で、まさにウィーンのシンボル的な存在です。

この寺院は12世紀にロマネスク様式で建てられ、その後14世紀から16世紀に現在の後期ゴシック様式の姿になりました。

寺院の前に立つとちょっと気になるのが、南側の塔だけがとても高いこと。

この南塔は137メートルの高さがあり、1359年に完成。
市民からは「シュテッフル」という愛称で呼ばれるほど親しまれています。

反対に北塔は当初の予定では南塔と同じ高さで作るはずでしたが、財政難により途中までしか建てられませんでした。
そしてそのままの高さのまま現代に残ります。

北塔にはプンメリンというとても大きな鐘があり、今でもウィーンで特別な祭典がある時にはその音を響かせています。

中に入ったら正面入口左のほうにある石造りの説教壇はぜひチェックを。

説教壇の下の方にのぞき窓があり、そこからユニークに身を乗り出してのぞいている人がいます。
この人は制作者アントン・ピルグラム本人だと言われており、思わず笑みがこぼれてしまいます。

地下のカタコンベには、かつてペストで亡くなった約1500人の遺骨と、歴代のハプスブルク家の心臓以外の内臓を納めた壺が納められています。

また、この寺院の音楽長は中世の頃から、ウィーンで一番の音楽者が就任してきたことでも有名です。

晩年のモーツァルトも副楽長としてその任に就いていたほど。

音楽者としてシュテファン寺院の音楽長に就任することはとても名誉なことでした。

音楽の都ウィーンらしいエピソードのひとつです。

カプツィーナー教会

ホーフブルク宮殿の近くにある、ハプスブルク家の納骨堂です。

1617年に神聖ローマ皇帝マティアスの皇后アンナが寄付をして建てたハプスブルク家の墓所がその始まりでした。

現在ハプスブルク家の皇帝・皇后をはじめとし、近親者が約150体安置されています。

その中は10箇所の納骨堂に分けて安置されており、それぞれの石棺が特徴的で観光スポット伴っています。

この納骨堂に最後に埋葬されたのは2011年に亡くなった最後のオーストリア皇帝カール1世の長男で、オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子だったオットー・フォン・ハプスブルク氏。

古来からのハプスブルク家の風習に従い、遺体から心臓などを抜いて埋葬されたそうです。

ハプスブルク家の埋葬は17世紀から心臓とそれ以外の内臓は別に埋葬する形態をとってきました。

先に見たアウグスティーナ教会には心臓を、シュテファン寺院にはその他の内臓を、そしてカプツィーナには体を納めたのです。

その風習はエジプトのミイラの概念と同じく、高貴なるものの心臓と体を分けておくとキリストの復活と同じくよみがえるとの考えからとも言われています。

ハプスブルク家だけの埋葬形態ではなく、十字軍などの遠征先で亡くなったイングランドのリチャード王なども同じように心臓と内臓などを処理してから亡骸は国に戻されました。

現代までその風習が残っているのは珍しいことです。

シェーンブルン宮殿

シェーンブルン宮殿

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ウィーン郊外にあるオーストリアで最も有名な世界遺産でもあるシェーンブルン宮殿。

その名前はこの場所で神聖ローマ皇帝マティアスが狩猟中においしい水が湧き出す「美しい泉」を発見したことに由来します。

神聖ローマ皇帝レオポルド1世が1693年に元々あった狩猟用の館をヴェルサイユ宮殿を越える大規模な宮殿に建て替えに着手したのが始まりです。

財政難で計画は縮小されたのですが、その後の皇帝たちが改築を繰り返し、1743年に女帝マリア・テレジアの大改築を経て現在の姿になりました。

その外観の淡く美しい黄色は当初は金色にする予定が、財政の状況から黄金に似せた色として淡い黄色に決められました。
またマリア・テレジアが好んだ色とも言われ、テレジア・イエローと呼ばれます。

当初は両翼に広がるこのバロック調の宮殿は夏の離宮として主に利用されました。

1441の部屋の内装はウィーン風ロココ調と呼ばれる優雅な設えが多く、ボヘミア製のクリスタルのシャンデリアや陶器タイルの暖房ストーブなど、当時の生活を垣間見ることができます。

マリア・テレジアの時代には夏の離宮としてだけでなく、公的な行事にも使われることも多く、年の半分をシェーンブルンで過ごすようになりました。

マリア・テレジアの時代のエピソードとして、マリー・アントワネットが幼いころに演奏旅行中の6歳のモーツァルトからプロポーズされたという話が残されています。

シェーンブルン宮殿は最後のオーストリア皇帝カール1世が皇帝位放棄に同意する署名をし、640年にわたった統治に終止符を打った場所でもありました。

また、ナポレオンが去った後のウィーン会議の舞台もシェーンブルン宮殿の大広間で、毎晩踊り明かしていたことから「会議は踊る」と言われました。

シェーンブルン宮殿は宮殿の建物だけでなく、迷路のような庭園も美しく、世界最古の動物園も併設されており、またプロイセンとの戦いで勝利した記念に建てられたグロリエッテなど見どころがたくさんあります。

ベルヴェデーレ宮殿

ベルヴェデーレ宮殿

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リンクの南側にあるベルヴェデーレ宮殿。

ここは17世紀末にハプスブルク家に仕えた軍人で英雄のプリンツ・オイゲンが作った夏の別荘地でした。

プリンツ・オイゲンは元はフランスの貴族サヴォイア家の二男で、フランス国王ルイ14世の軍隊にいました。

父方は後のイタリア王家になるサヴォイア家、母方はフランス宰相のマザランの家系です。
サヴォイア家の男子であることから公子(プリンツ)の敬称が付きます。

フランス軍で用いられることがなかっため、フランスの宿敵ハプスブルク家へ仕官し、生涯オーストリアの軍人として過ごします。

1683年にオスマントルコ軍がウィーンを包囲した際にハンガリー戦線で活躍します。
そしてゼンタの戦いと呼ばれる川を渡るオスマン軍を奇襲し、約3万人を溺死させ大きな勝利をあげます。

そこから軍人として名を広め、英雄と呼ばれるようになり、最終的には将軍にまで上り詰めます。

そんな彼の後継者はおらず、その財産や館はハプスブルク家の所有となりました。

このオーストリア風のバロック建築の代表的な宮殿は上宮と下宮に分かれており、その間の庭園も美しく、下宮から観るウィーンの街並みはまさに「ベルヴェデーレ(良い眺め)」。

現在は上宮はクリムトの「接吻」を筆頭に20世紀の絵画の美術館になっており、生活の場であった下宮はオイゲン公の豪華な居室を観ることができます。

この美しい対になった宮殿は、日本の愛媛県今治にある日本食研の工場を作るときのモデルになりました。

ハプスブルク家の光と影を感じて

中世の時代からオーストリアを統治していたハプスブルク家に縁あるスポットを歴史と一緒にご紹介してきました。

とても大きな力と支配力をもった一族の足跡はきらびやかなだけでなく、少し悲しみを帯びたものもありました。

今回ご紹介したのはほんの一部。

悲劇のあった教会やハプスブルク家以前の統治者縁の教会などウィーンには見どころがたくさんあります。

まずはリンクを周ってみて、ウィーン観光を楽しんでください!

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