西洋音楽史上で最も偉大な音楽家「ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト」の生涯・エピソード

音楽史に名を残す音楽家の1人であり、必ず聞いたことがあるであろう作曲家ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンやフランツ・ヨーゼフ・ハイドンとともに「ウィーン古典派三大巨匠」とも言われる彼は35歳で亡くなるまで「西洋音楽史上で最も偉大な音楽家」として活躍、彼の残した音楽は「胎教」に活用されるなど現在も親しまれています。そんな名作曲家ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが送ってきた生涯・残したエピソードとはどのようなものであったのでしょうか。

幼少期から天才ぶりは発揮

幼少期から天才ぶりは発揮

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ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは1756年1月27日、オーストリア・ザルツブルクにレオポルト・モーツァルトの子どもとして誕生。
モーツァルトには7人の兄弟がおりその中の末っ子でしたが、他の5人は幼児期に死亡。
生きていたのは5歳上の姉マリーア・アンナだけでした。

やがてモーツァルトが幼少期を迎えると父レオポルトは息子の才能を見抜き、3歳のときからチェンバロを弾き始め、5歳のときには最初の作曲を行うように。
やがて成長したモーツァルトは親子でウィーン、パリ、ロンドン、イタリア各地に旅行。
この頃はモーツァルトの就職先を求めるための就職活動は失敗しますが、初めての交響曲『交響曲第1番』を生み出したとされており、当時からすでに才能の片鱗は見せていたのですね。

この旅行では1762年1月にミュンヘン、9月にウィーンへ旅行したのち10月13日にはシェーンブルン宮殿でマリア・テレジアの御前で演奏することに。
このとき宮殿の床で滑ってしまいモーツァルトが手を取った相手はのちにマリー・アントワネットとなる7歳の皇女マリア・アントーニア。
このときに「大きくなったら僕のお嫁さんにしてあげる。」と王女に告げたとのこと。
少年期にしてこの「プレイボーイ」ぶりは「罪なもの」です。

こうした中でも音楽の才能は発揮し続け、7歳のときにはフランクフルトでの演奏をヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテが聴き、そのレベルを後に絵画のラファエロ、文学のシェイクスピアに並ぶものと回想しています。

長旅で磨かれる才能

長旅で磨かれる才能

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早熟の天才であったモーツァルトは更なる旅を続けます。
1769年から1771年にかけては父と共にイタリアのミラノ、ボローニャ、ローマを巡回。
バチカン・システィーナ礼拝堂でグレゴリオ・アレグリの『ミゼレーレ』を暗譜で書き記したとされ、ボローニャでは作曲者ジョバンニ・バッティスタ・マルティーニから音楽技術を習得。
ここで「対位法(独立性の強い2つ以上の旋律を同時に結合させる作曲技術)」や「ポリフォニー(複数の独立したパートから構成される音楽)」を学ぶことに。
1770年にはローマ教皇から「黄金拍車勲章」を授与、ボローニャの「アカデミア・フィラルモニカ」の会員にも選出。
モーツァルトにとって海外旅行の経験は音楽の土壌を作るのに不可欠であったのです。

その後21歳になったモーツァルトは1777年にザルツブルクでの仕事を辞めドイツ・ミュンヘン、マンハイムへ向かうことに。
マンハイムへ向かったモーツァルトはここでも音楽的に大きな影響を受け、正確な演奏や「マンハイム楽派」の影響を受けることに。

不遇の時代・さらなる作曲活動

不遇の時代・さらなる作曲活動

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この後1778年2月にパリへ向かうことになったモーツァルトは3月から9月までパリに滞在することとなりますが、この間モーツァルトを受け入れた先のシャボー公爵夫人からは冷たく扱われ稼ぎも伸びず。
しかしここでも作曲活動は止むことなく、交響曲第31番ニ長調『パリ』を作曲。
その後ウィーンに定住して以降はフリーの音楽家として演奏会、オペラの作曲などの仕事をしながら生活。
翌1782年にはコンスタンツェ・ヴェーバーと結婚、1783年頃には『ピアノソナタ第11番トルコ行進曲付き』を作曲。

1785年には「弦楽四重奏曲集」をハイドンに献呈、そのハイドンは2年後の1787年にプラハからのオペラ・ブッファの作曲依頼に対して自分の代わりにモーツァルトを推薦。
ここから創作活動が相次ぎ、1786年5月1日にはオペラ『フィガロの結婚』をブルク劇場で初演、10月には作曲依頼を受けオペラ『ドン・ジョヴァンニ』を作曲、プラハエステート劇場で初演。
1787年8月10日にウィーンで『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』、翌1788年には「3大交響曲」(交響曲第39番、第40番、第41番)を作曲。
どのような状況でも才能が枯れることはありませんね。

生活が苦しくなる晩年・未完の作品

生活が苦しくなる晩年・未完の作品

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積極的な作曲活動を行ったモーツァルトでしたが、生活は厳しいものに。
1787年5月に父がこの世を去ってしまうとギャンブルなどお金を浪費するようになり、この頃から周囲へ借金を依頼することも増えるように。

生活が苦しくなる中でも音楽活動は続行しており、1790年2月には即位したレオポルト2世の戴冠式に同行した際に私費でコンサートを開催。
1791年 1月にはピアノ協奏曲『第27番』を作曲。
他にもシカネーダー一座のためにジングシュピール 『魔笛』 K.620を作曲・初演。
1791年には『レクイエム(鎮魂曲)』の作曲を依頼されますが次第に体調を崩すようになり、11月20日から病床に伏すように。
そして2週間後の12月5日、35歳の短い生涯を終えることに。
未完のままとなった『レクイエム』は弟子のジャスマイヤによって仕上げられることになります。

モーツァルトが1756年1月27日に生まれてから1773年まで住んでいた家はオーストリア・ザルツブルク旧市街に現在も残り、肖像画や遺品、子どもの頃に使っていたバイオリン、義理の兄ヨゼフ・ランゲによって描かれた肖像画などを展示。
モーツァルトが音楽を始めた経緯、家族との関係などを知ることができる博物館に。

モーツァルトの家族関係

モーツァルトの家族関係

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才能を見出した父・レオポルト

モーツァルトを見出した父・レオポルトは1719年にドイツ・アウクスブルク生まれ。
1737年に哲学や法律を学ぶためにザルツブルクの大学に入学しますが、音楽に興味が移り退学。
1743年にザルツブルク宮廷楽団のヴァイオリン奏者に採用されて以降は音楽の道に進むことに。

音楽家としてはザルツブルク大司教シュラッテンバハの元に仕えることになり、ヴァイオリンの教則本を発表するなど作曲家、教育者として多くの実績を残すことに。
しかし最高階級は1763年に就任した宮廷副楽長が最高でその後は昇進せず、40歳を過ぎてからは作曲活動より息子の教育が中心となります。
自身が作曲家として大成しないこと、息子が天才であることなど才能を見抜く能力を持っていたことが、息子を後世に名を残す作曲家に育て上げたことにつながっていますね。

悪妻の評判もある妻・コンスタンツェ

1782年に結婚したコンスタンツェはモーツァルトが22歳の頃に片思いした女性・アロイジアの妹で、『魔弾の射手』の作曲家カール・マリア・フォン・ヴェーバーの従姉。
複雑な関係になりそうですが、本能には逆らえないのでしょう。

こうして結婚したコンスタンツェでしたがモーツァルトとの関係にはさまざまな噂があり、悪い噂としてはモーツァルトが亡くなるときに別荘で遊んでいた、モーツァルト自筆の楽譜などを売ってしまったなど「悪女」の側面があったとされています。
しかし別荘での件はコンスタンツェ自身体が弱く、体調を崩したことからモーツァルトが命じて別荘に行かせた、楽譜の件は子どもがいる中で生活を送るためとも言われており、その真偽は明らかになっていません。

また周囲の人々の手紙などで「教養が高く家事にも熱心」と評価されることもあり、モーツァルト自身も妻への愛情を綴った手紙を書いたことも。
こうした善悪両方の評価が存在するのは稀代の天才作曲家・モーツァルトの妻であったためでしょうし、相手が悪かったのかもしれませんね。

音楽の道へ進む末子フランツ・クサーヴァー

モーツァルトの末子として1791年に誕生したフランツ・クサーヴァー・ヴォルフガング・モーツァルトは、父親と同じく音楽家として活動することに。
兄カールが音楽の道に進まなかったことから「ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト2世」として活動することになります。

しかし彼が生後4か月のときに父が亡くなってしまい、音楽教育はアントニオ・サリエリやヨハン・ネポムク・フンメルといった作曲家から教わることに。
母のコンスタンツェは1801年、当時9歳のフランツ・クサーヴァーに「両親を失望させる子は不名誉と苦痛に直面することになる。
この言葉を私の愛する息子への警告とする」と記した手紙を宛てており、相当な期待をかけていたのでしょう。

そうした期待をかけられたフランツ・クサーヴァーは17歳の時にオーストリア・ハンガリー帝国の一部であったウクライナ西部・リビウへ向かいピアノ教師の職に就くことに。
400人の聖歌隊を指揮したり、リビウ初の音楽学校を創設したり音楽活動を行いますが、名作曲家である父以上の名前は残せず。
1844年にチェコ・ボヘミア西部のカールスバートにおいて53歳で他界、これによって大作曲家の血筋は途絶えてしまいます。
モーツァルトの後を受け継ぐのはあまりにも「荷が重すぎた」のでしょうね。

モーツァルトが残したエピソード

モーツァルトが残したエピソード

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従姉妹に送ったラブレター「ベーズレ書簡」

稀代の名作曲家として名を残したモーツァルトですが、彼は見るのも恥ずかしい「ある手紙」も残しています。
1777年にドイツ・マンハイムへ移ったモーツァルトはこの年の10月、フランス・パリに行く途中でドイツ・アウクスブルクに立ち寄ることに。
このときに「ベーズレ」と呼んだ父・レオポルトの弟の娘である従姉妹のマリア・アンナ・テークラ・モーツァルトと再会。
ここで初めて肉体関係を持つことになります。

この「ベーズレ」に向けて残した手紙「ベーズレ書簡」は「僕らのお尻を和平条約調印のしるしとしよう」など言葉で言い表すことに抵抗を覚える「下品な」言葉が多数並ぶ手紙で、その中には「排泄物」に関する言葉も多数。
これは「ラブレター」として書いたものですが、これは格好の「笑いのネタ」になりそうですね。
こうした手紙はモーツァルトの死後に息子たちが破棄を望みますが、現在も6通が保管されることに。

またモーツァルトは手紙以外に「わいせつ」な曲も発表しており、1782年にカノン形式の声楽曲として『俺の尻をなめろ』を作曲。
名作曲家であるモーツァルトのセンスを感じさせる作品と捉えることもできるでしょうが、家族としては「恥ずかしさ」を強く感じるものかもしれませんね。

実は高収入を得ていた説

浪費家であり晩年の生活は苦しかったとされるモーツァルトですが、最近の研究では高収入を得ていたという研究結果も出ています。
2010年に国際的モーツァルト研究チームが約5年間にわたって行った調査結果を発表。
そこで発表された晩年の生活状況については年収約15万ユーロ(約1900万円)を稼いでいたとされており、作曲家ジョセフ・ハイドンの1790年の年収が約6万ユーロ(約760万円)、当時の大学教授が約9000ユーロ(約115万円)の時代から見ると圧倒的に多い収入を得ていたことがわかりますね。

しかしそれだけの高収入を得たことで浪費が増えることに。
高収入を得たモーツァルトは7つの部屋があるアパートに住み、年収の約17%を酒、贅沢な食事につぎ込んでいたとされています。
このほかモーツァルトは秘密結社「フリーメイソン」の会員になっていたとされ、1784年に加入して以降は活動費に多くの資金を割くことも。
これだけ稼いでしまえば、じっとしているのは難しかったのでしょうね。

天才も努力を積み重ねてきた

名作曲家として知られたモーツァルトは亡くなる3年前に手紙を残しており、そこには「私ほど作曲に長い時間と膨大な思考を注いできた人は他には一人もいない。
作曲家であるということは何時間にも及ぶ努力を意味する」との言葉が残されています。
若くして天才と呼ばれた人物でも、努力なしではこれだけの存在にはならないという「人間臭い」部分も知っておきたいですね。
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