今なお続く悲劇と惨劇――〈アメリカ先住民政策〉の歴史

1492年、コロンブスによるアメリカ大陸発見。ヨーロッパ人にとっては「発見」でしたが、そこに代々住み生活していた人びとにとっては「侵略」のはじまりでした。〈インディアン〉(この記事では北米ネイティヴ・アメリカンを示すために〈インディアン〉の呼称を用います)たちは白人たちによる虐殺と疫病、戦争や強制移住におびやかされ、その余韻は今なお残っています。この大地のもとの主であるアメリカ先住民たちに、白人は一体どのような政策でもって臨んできたのでしょうか?今回は〈アメリカ先住民の歴史〉をあつかいます。

コロンブス以前のアメリカ大陸と「上陸」

コロンブス以前のアメリカ大陸と「上陸」

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「アメリカ大陸発見」以前、アメリカ先住民(インディアン)の人びとはどのような生活と文化を営んできたのでしょうか?そこでは平和で、人間だけでなく自然も尊び、「すべてはみんなのもの」というある種の楽園境が広がっていました。
トウモロコシ、カボチャなど今私たちに馴染み深い食べ物も、はじめはインディアンたちが耕作していたもの。
白人たちは「黄金」を求めてこの大陸へ上陸しましたが、そこで見つけたものとは。
そしてコロンブスはどのような言葉を残しているのでしょう。

大地は、誰のものでもない

インディアンたちは、トウモロコシやカボチャを栽培して食していました。
ディズニーのアニメ『ポカホンタス』で、黄金を求めてやってきた白人の航海士にインディアンの娘・ポカホンタスがトウモロコシを「金よ」と差し出すシーンは印象的ですね。
またタバコは聖なるもので、どんな儀式のときもタバコの煙で清めを行っていました。

今私たちに馴染みあるタバコ、トウガラシ、いんげん豆などはインディアンたちがもとは栽培していたものです。
さらに狩猟や採集で生活を営んでいました。

インディアンたちは「大地は誰のものでもない」と思っていました。
所有するという概念がなかった、もしくは薄かったといいます。
すべては「みんなのもの」であり、分かち合うべきものであると。
そのため、のちに白人たちと対峙したときに「土地の所有」という意味がわからずに混乱したのです。

白人たちの上陸と、認識の相違

「彼らは理想的な奴隷となるだろう」クリストファー・コロンブスはそう日記に記しています。
1492年10月、白人たちはついに「新大陸を発見」します。
はじまったのは、虐殺と弾圧の歴史でした。

コロンブスが最初の上陸でアメリカ大陸に滞在していたのは、1492年10月から翌年5月までのわずか7ヶ月。
そのあいだに繰り広げられたのは、虐殺と伝染病によるおびただしい死でした。

このとき白人たちは重大な認識のあやまちをします。
アメリカ先住民たちは、アフリカ部族社会のように「酋長」がいてその下にヒエラルキーが存在するものだ――と、白人たちは考えていました。
が、しかしインディアン社会は完璧な民主主義。
この認識の相違もその後のいさかいのもとの1つとなります。

虐殺、病気、奴隷化……悲惨な歴史のはじまり

虐殺、病気、奴隷化……悲惨な歴史のはじまり

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武器というものを知らず、平和を愛し、西洋よりもずっと先進的な民主主義のもと平穏な日々をすごしていたインディアンたち。
しかし「文明人」「キリスト教徒」のヨーロッパ人たちは、同じ人間であるインディアンたちを動物同然に虐殺し、駆り立て、奴隷化して酷使しました。
白人たちに踏みにじられるインディアンの歴史がはじまります。
しかしこれはまだほんの序章にすぎなかったのです。

虐殺、そしてヨーロッパ風土病

虐殺――それはのちに多くの非ヨーロッパ地域において繰り返された悲劇です。
しかしヨーロッパ人たちはどのような根拠をもってこんなことをしたのでしょうか?

鍵は〈キリスト教〉。
キリスト教の教え自体は隣人愛や博愛を説く穏健なものですが、歴史の中で権力者に利用され、解釈が変わってきました。
この時代には「キリスト教徒じゃないものは、異端であり、駆逐されるべきもの」という考えだったのです。

武器と同時にアメリカ先住民をおびやかしたもの、それは〈病気〉でした。
ヨーロッパの風土病(スペイン風邪=インフルエンザなど)への抗体を持たないインディアンたちは続々と倒れていきます。
先進的な武器を持った白人たちはインディアンへの虐殺を繰り返します。
結果、人口は激減し、生き残ったインディアンたちも奴隷として売り買いされるようになりました。

「インディアン戦争」の正体

〈インディアン戦争〉とは、17世紀から18世紀末まで、インディアンたちがヨーロッパ人に対して抵抗した長い戦争のこと。
その過程で大量虐殺、民族浄化が行われました。
結果的に白人たちの戦争に巻きこまれたインディアンは力を弱めていき、その後の悲劇につながるのです。

〈フレンチ・インディアン戦争〉という単語を世界史で習いませんでしたか?実際にはフランスとイギリスの植民地争いだったわけですが、なぜこんなところで「インディアン」の単語が出てくるのでしょう?

万年戦国時代のヨーロッパは、この新大陸を誰のものにするかでモメはじめます。
はじまったのは大国・イギリスとフランスのアメリカを巡ってのガチンコバトル。
その中にインディアンも巻きこまれました。
イギリス、フランスともにインディアンの諸部族と同盟を結び、彼らを戦力として使用します。
イギリス側から「インディアンとフランスが同盟を結んでいて、それに対抗して戦った」から〈フレンチ・インディアン戦争〉と呼び習わされるようになったのです。

〈インディアン絶滅政策〉と抵抗

〈インディアン絶滅政策〉と抵抗

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19世紀に入り、白人世界の横暴は極まっていきます。
インディアンのために「保留」した土地にインディアンを押しこめ、その〈インディアン居留地〉に入らないインディアンは絶滅させるという国家方針を打ち出しました。
〈インディアン絶滅政策〉です。
多くのインディアンがこの強制移住の途上で命を落としました。
しかし、ここで抵抗する英雄も登場します。
その戦いと最期とはいかなるものだったのでしょう?そして逆らうインディアンたちに、白人はどのような態度でもって臨んだのでしょうか。

チェロキー族、ナバホ族〈涙の旅路〉

ヨーロッパ人たちがみずからの国〈アメリカ合衆国〉を作るにあたって、インディアンたちをどう処理すべきか考えました。
その結果出た結論が、強制移住です。
インディアンたちは生きのびるには、白人たちの命令に従わざるをえませんでした。

特に有名なのはチェロキー族の〈涙の旅路〉です。
1万2000人であったチェロキー族は、徒歩で1000キロ以上の旅を強いられたために、到着のときにはそのうち8000人以上が亡くなりました。

また、土地を追われたナバホ族は灼熱の大地に強制移住させられます。
しかしその後、酋長の必死の交渉により帰還を許されました。
取り上げた土地が使い道のない沙漠だったことが、彼らに幸いしたのです。
しかし帰ったその土地には近隣のホピ族が住みついてしまっていました。
白人のエゴはインディアン同士での軋轢をも生んだのです。

英雄〈ジェロニモ〉の戦い

やられる一方のインディアンではありませんでした。
米国インディアン史に1人の英雄が登場します。
アパッチ族の戦士・ジェロニモです。
インディアンと白人のあいだに不平等条約が次々と結ばれるなか、抵抗をした戦士でした。

アメリカとメキシコの国境近くに生まれ育った彼は、厳しい訓練を受けると同時に、アパッチ族の頭の皮に賞金を賭けるという非道な政策を打ち出す白人たちに激怒します。
頭髪を神聖なものとしてあつかうインディアンたちにとって、頭の皮を剥ぐということはすさまじく侮辱的な行為でした。
さらには、ジェロニモの家族は白人によって皆殺しにされてしまいました。

彼はインディアンを指揮してゲリラ戦と略奪を展開し、白人たちに脅威を与えます。
これは白人たちにとって受けて当然の復讐だったでしょう。
しかし最終的にジェロニモは白人側に投降、生涯捕虜としてあつかわれることとなります。
「人間動物園」において見世物にされるなどの侮辱を受けたのち、無念の死を遂げました。

〈BIA〉の人道犯罪

〈BIA〉の人道犯罪

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「インディアンを殺し、人間を救う」――1820年代以降、インディアン問題は〈BIA(インディアン管理局)〉という組織が主導することとなります。
BIAは数々の非道な人道的な犯罪を犯しました。
とりわけ非道だったのは、罪もない子供たちに対するものです。
親元から強制的に取り上げられ、寄宿学校、里親のもとで悲惨な境遇に置かれ、インディアンとしてのアイデンティティを殺され、社会の最下層に住むしかなくなったインディアンの子供たちの物語を、この章ではあつかいます。

悲惨な〈インディアン寄宿学校〉

魔の手は子どもたちにまでおよびます。
保留地のインディアンの子どもたちは、両親から強制的に取り上げられ〈インディアン寄宿学校〉に送りこまれました。
そこでの生活は悲惨極まりないものだったのです。

5歳から10歳までの子どもたちは、いきなり親元から引き離されて100キロ以上も離れた異郷の地で「教育」を受けます。
部族語を話せば体罰を受け、ホームシックにかかっても罰を下されます。
白人家庭で役立つような職業訓練や、白人のやるような遊びを教えこまれ、強制的にキリスト教を仕込まれて部族の宗教は禁止されました。

彼らはインディアンとしてのアイデンティティを剥奪され、そのままインディアン居留地に送り返されます。
居留地に帰ってきた若者たちは、部族語も話せず、訓練した技術を活かすような仕事も居留地にはなく、社会に出るものの行き場を失います。
というのも、インディアンである彼らは居留地から出ることを許されない存在。
結果、アルコール、薬物中毒になる若者が増加、自殺者も多く出たのです。

「ぼくたちはインディアンでも、白人でもない」

近代インディアンの子どもたちにおける、もう1つ忘れてはならない悲劇があります。
〈インディアン児童福祉法令〉。
貧困におちいっているインディアンの両親のもとから、出生前に選別された乳児を強制的に取り上げ、白人家庭へ里子に出すというものです。

やはりここでも「白人」として彼らは育てられます。
しかし見た目や血筋から受けるのは、「あいつはインディアンだ」という差別。
一方でインディアン居留地の人びとから見れば、白人世界で育った異端者です。
「インディアンでも白人でもないぼくたちは、どうすればいいんだ」里子となった彼らの多くは10代でアルコール依存症、自殺にまで至っています。

なんとこの政策は今も実行されており、現在も強制的に親から引き離され、白人のもとへ……そんな子供たちがいます。
BIAは2000年に至ってようやくこれを「犯罪行為」と認め、謝罪を行っています。
19世紀から20世紀まで、長い年月の罪を償うには遅すぎる謝罪行為でした。

権利の獲得への戦い

権利の獲得への戦い

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19世紀末、ようやくインディアンは法的に「人間」と認められます。
それまでは動物と同じくあつかわれていた彼ら。
その後、時代は20世紀へ。
第二次世界大戦においてインディアンが国家に貢献したことを背景に、インディアンたちは立ち上がります。
教育も受けず、スラム育ちの若者たちが起こした運動は、〈レッド・パワー〉と呼ばれました。
白人世界でたくましく生き延びようとするインディアンたち。
その経緯を追いましょう。

〈レッド・パワー運動〉とニクソン大統領

19世紀末、最高裁判決は画期的な判決を下します。
判決文に「インディアンは人間である」と書き加えたのです。
こうして法的に「動物」から「人間」に格上げされたインディアンたちはようやく「人権」というものを主張できる立場になりました。

総力戦で勝利を勝ち取った、20世紀の2つの大戦にはインディアンもアメリカ国民として力を貸しました。
その貢献を背景にして、インディアンたちもようやく大きく声を張り上げることができたのです。

冷戦期に入って、ようやく真剣に耳を傾ける権力者があらわれます。
リチャード・ニクソンです。
1969年から1974年までアメリカ合衆国の権力トップになった彼は、大統領になる前からインディアンたちの悲鳴に耳をかたむけてきました。
1954年から「インディアンのバスティーユ」とも呼ばれるBIAのインディアン保留地解体を命じます。
しかし彼はウォーターゲート事件で失脚。
インディアンたちは苦境に立たされることとなりました。

「唯一、インディアンにとって自由なとき」とは

1969年、全米インディアン若者会議で発言したポンカ族の青年が、このように言っています。
「我々はワインにひたすら没頭する。
なぜなら、酔いつぶれているときだけが、唯一我々インディアンが自由な時だからだ」と。

インディアンたちは今も苦しんでいます。
現在もアイデンティティを剥奪されつづけている彼らは、500年以上に渡る長い長い差別の歴史と、民族浄化や同化政策で打ちのめされ、現在も存在するインディアン居留地の中で、貧困のただ中に放りこまれています。
アルコール依存症や自殺に走る若者も多く、電気やガス、水道のない環境で育つインディアンも多いのです。

長すぎる差別の時間は、大地を尊んできた先住民からこんなにも大切なものを奪っていきました。
そして酒の酩酊の中で、自由の夢を見るのかもしれません。

インディアン、惨劇の歴史

虐殺、民族浄化、同化政策、アルコール依存症、自殺――インディアンの歴史は、白人たちが決めた政策によって惨劇にまみれています。
日本人である私たちは純粋に、インディアンも黒人も「人間」だと言うことができます。
白人たちはときのキリスト教の方針に基づいた奇妙な考えから、彼らを「人間」と扱うことはありませんでした。
ただこの問題が人びとに多く知れ渡り、平和のうちにたがいを尊ぶ日が来ることを、いまは切に願うばかりです。
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