女性関係の事件にびっくりの奇行。わずか2年の天皇「花山天皇」の生涯とは?

日本の平安時代に33人存在した天皇。この時代の天皇は781年(天応元年)の桓武天皇に始まり時代が終わる1198年(建久9年)の後鳥羽天皇まで続いていきますが、その中には984年(永観2年)から986年(寛和2年)のわずか2年の在位に終わった「花山天皇(かざんてんのう)」という人物がいます。そんな短期間で天皇の座から降りた「花山天皇」とはいったいどのような人物であったのでしょうか。

外祖父の後ろ盾で皇太子に

外祖父の後ろ盾で皇太子に

image by PIXTA / 25888690

花山天皇(かざんてんのう。
968年~1008年)は父・冷泉(れいぜい)天皇、母は摂政太政大臣藤原伊尹の娘・女御懐子の第1皇子として誕生。
生まれて間もない969年(安和2年)には叔父・円融(えんゆう)天皇の即位と共に皇太子に。
生後約10ヶ月での立太子(りったいし。
公式に皇太子を立てること)は外祖父・藤原伊尹(ふじわらのこれただ)の影響があったとされます。

その後の天皇即位も若く、984年(永観2年)には16歳の若さで第65代天皇として即位。
関白には藤原頼忠が着任し、若かったため実権を握ったのは藤原義懐(ふじわらのよしちか)と乳母子・藤原惟成(ふじわらのこれしげ)。
しかし天皇が即位した時点で立太子に影響を与えた伊尹はすでに亡くなっており、有力な後ろ盾を持つことができません。
このことがのちに自身の運命を大きく左右することになるとは、若き天皇は思いもしなかったことでしょう。

事件でわずか2年余りで退位

事件でわずか2年余りで退位

image by PIXTA / 22917566

天皇の運命を左右する事件が発生したのは986年(寛和2年)。
皇太子・懐仁親王の外祖父であった右大臣・藤原兼家は皇太子の即位、自らの摂政就任を狙って花山天皇を退位・出家させようと計画。
蔵人(くろうど。
天皇の秘書的な役割を果たした役職)を務めていた次男・藤原道兼を利用して花山天皇に出家を勧めさせることに。
権力争いを巡ってのドロドロした争いが始まろうとしています。
天皇にとってみれば「自分にかかわる人間が退位に関与しよううとしている」とは思っていなかったでしょう。

こうして話が進んだ986年(寛和2年)6月23日明け方、天皇は道兼の勧めに従い京都・山科の元慶寺へ向かうことに。
この様子を見た兼家は「清涼殿(せいりょうでん。
平安京の内裏(だいり)における殿舎)」に残された「三種の神器(日本神話における天孫降臨(てんそんこうりん)の際に、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天照大神(あまてらすおおみかみ)から授けられたとされる鏡・玉・剣のこと)」を皇太子の居所・凝華舎(ぎょうかしゃ)に移し内裏諸門を封鎖。

これに対して藤原義懐が事態を知った時には天皇が元慶寺で出家を済ませており、義懐も側近の藤原惟成とともに出家することに。
こうして天皇は即位からわずか2年ほどで天皇を退くこととなり後任には懐仁親王が一条天皇として即位、計画を練った外祖父・藤原兼家は狙い通り摂政に就任。
この事件は元号を取って「寛和の変」と呼ばれています。
妻を失った悲しみに暮れていた頃ということもあるでしょうが、20歳に満たない若い天皇にはこうした「駆け引き」を察知するのは難しかったのかもしれません。

退位後に巻き込まれた事件は「女性絡み」

退位後に巻き込まれた事件は「女性絡み」

image by PIXTA / 10076783

2年で天皇の座を降り法皇となった後も事件に巻き込まれることに。
かつての太政大臣・藤原為光(ふじわらのためみつ)の娘で藤原忯子の妹・三の君のもとに通い始めた法皇。
しかし三の君の妹・四の君のもとには摂政関白内大臣・藤原道隆の三男である藤原伊周(これちか)も通っており、ある日四の君の元へ向かおうとしていた伊周はその先で法皇の姿を見かけることに。
すると法皇は伊周が入ろうとした為光邸に入っていこうとしたのです。
これに困った伊周は弟の隆家に相談することに。
伊周にとっては元天皇が相手でも「自分の相手」に手を出そうなんて許せなかったのでしょう。

兄の相談を聞いた隆家は従者の武士たちを連れて法皇を襲うことに決め、法皇を矢で襲撃。
これに対して驚いた法皇は逃げ帰り、その後法皇は二度と屋敷に通うことはなくなります。
この事件を法皇は打ち明けることはできません。
元天皇であり出家した身でありながらこのようなことをしてしまったのですから。
法皇はその後閉じこもることになるが噂はすぐに広まることに。
噂が広まると撃った2人は罰せられることとなり、大宰府・出雲国に流罪となることに。
互いの勘違いで勃発した大きな事件ですが、どこか「コミカル」にも見えますね。

法皇は1008年(寛弘5年)2月、花山院の東対にて40歳で生涯を終えることに。
その後紙屋上陵(現在の京都市北区衣笠北高橋町)に葬られました。

和歌・芸術に発揮された才能

和歌・芸術に発揮された才能

image by PIXTA / 22917565

花山天皇は短い生涯の中で芸術面での才能を発揮したことも有名。
その分野は絵画・建築・和歌など多くの分野にわたっていますが、その中でも和歌については在位中の985年(寛和元年)とその翌年に内裏で歌合(うたあわせ。
和歌の作者を左右に分けて歌を詠み、その勝敗を競う催し)を主催するほどの入れ込みようで、自ら歌を生み出したことも。

歌合以外では和歌集の創出にもかかわっており、私撰和歌集『拾遺抄(しゅういしょう。
996年から997年にかけてまとめられた)』の増補、『拾遺和歌集(しゅういわかしゅう。
1006年ごろにまとめられた古今・後撰に次ぐ勅撰和歌集)』を親撰(しんせん。
天皇などの命により歌集を編纂(へんさん)すること)にも関与。
天皇としては不遇と言える時代を過ごした彼ですが、芸術面では才能を存分に発揮していたのですね。

また法皇となった後には紀伊国(きいのくに。
現在の和歌山県全域から三重県南部の地域)熊野から「三十三の観音霊場」を巡礼・修行するように。
これが「西国三十三所巡礼」として継承されるように。
このときにも各霊場で詠った和歌は「御詠歌(ごえいか)」と呼ばれ、寺を巡拝する人がその地の仏を称えて詠う歌に。
天皇の影響力は大きなものです。

びっくりエピソード

びっくりエピソード

image by PIXTA / 28300427

即位式でやらかした「しくじり」

17歳の若さで即位した天皇でしたが、その式で前代未聞の「しくじり」をしています。
即位することとなった天皇は当時17歳。
天皇に即位するには若すぎると言って良い年齢でした。
そんな天皇は即位式を迎え上がったのは「高御座(たかみくら)」と呼ばれる位置。
ここは大極殿(だいごくでん。
天皇が政務をとる朝廷の正殿)や紫宸殿(ししんでん。
天皇の元服や立太子が行われる場所)などに設けられた神聖な場所で、どれだけ人生経験を積んだ人物でもここに上がるのは相当緊張するでしょう。

そんな高御座に上がった花山天皇は緊張するどころか美人な女官を見つけて気に入り、大事な即位式そっちのけでその女官を高御座に上げることに。
そしてその女官を誘い出すとなんとその上で「性行為」に及ぶのです。
「若気の至り」や「御乱心」という言葉では済まされないでしょうし、見ていた人間はおそらく「何が起こったか全く理解できない」ままであったことでしょう。
現代であれば瞬く間に世界中に情報が拡散、国際的問題に発展しかねないですね。

天皇が溺愛した相手「藤原忯子」

花山天皇には生涯で激しい関係にあった女性がいました。
969年(安和(あんな)2年)に藤原為光(ふじわらのためみつ)、藤原敦敏(ふじわらのあつとし)の娘との間に生まれた藤原忯子(ふじわらのしし)です。
984年(永観2年)にした天皇の元へ入内(じゅだい。
中宮・皇后となるべき人が内裏(だいり)に入ること)した忯子は弘徽殿(こきでん。
平安京内裏殿舎)女御(にょうご。
高い身分の女官)と呼ばれ、この忯子を天皇は溺愛していました。

天皇の元へ入った忯子はやがて妊娠することになりますが、それからわずか1年後の985年(寛和(かんな)元年)に突然帰らぬ人に。
17歳の若さでした。
天皇にとっては初めての子どもが生まれる直前で最愛の人を失ったわけですから、一気に地獄へ突き落されたような気分でしょう。
こうして突然愛妻を失った天皇はその翌年986年(寛和2年)に行方不明になり藤原兼家らによって出家、退位することになりますが、これには忯子の死が影響していたとも。
この後起きる「長徳の変」は「妻を失った悲しみが癒えなかった」ことも影響しているのかもしれませんね。

花山天皇の家族関係

花山天皇の家族関係

image by PIXTA / 3884225

父親「冷泉天皇」は相当な奇人・母は若くして他界

花山天皇の家系では、父親も相当な奇人でした。
花山天皇の父親である冷泉天皇(れいぜいてんのう)は端麗な容姿で知られていた人物でしたが、皇太子時代から数々の奇行が目立つ存在に。
その中には足が傷つくことをかまわずに自分の好きな蹴鞠(けまり)を続ける、父・村上天皇に手紙の返事をする際には「男性のシンボル」が大きく描かれた絵を送りつけたことも。
贈られた父の方も笑うに笑えないでしょうし、息子の将来が心配になる出来事でしょう。

その他にも病気で床に伏した時に大声で歌を歌った、退位後に住んだ御所が火事になって避難するとき牛車に乗って大声で歌を歌ったなど、聞いただけで鳥肌が立ちそうなものばかり。
こうした奇行の数々から在位わずか2年余りで退位することに。
こうした気候の裏には皇太子時代から続いていた精神の病気が関係していたと言われますが、天皇になったことによる「重圧」もそれに拍車をかけたのでしょうかね。
美しい人には「棘がある」ということかもしれませんが、こうしたエピソードを聞けば「棘がありすぎる」ほどでしょう。

花山天皇の母・藤原懐子(ふじわらのかいし)は945年(天慶8年)に北家の摂政・藤原伊尹の長女として誕生。
963年(応和3年)頃に皇太子・憲平親王(冷泉天皇)に入内(じゅだい。
中宮・皇后となるべき人が内裏(だいり)に入ること)、967年(康保4年)に皇太子が冷泉天皇として即位すると更衣。
その後968年(安和元年)に第一皇子となる花山天皇を出産しますが、975年(天延3年)に31歳で帰らぬ人に。
死後の984年(永観2年)には皇子である花山天皇が即位で皇太后(先代の天皇・皇帝の皇后であった人物)を追贈されますが、息子がこれほどの変人になるとは思いもしなかったでしょう。

息子たちの生涯

昭登親王(あきなりしんのう)は998年(長徳4年)に花山天皇の第二皇子として誕生。
誕生時には父は既に出家、父・花山法皇は母・平子の実母(つまり昭登の祖母)の中務と通じて第一皇子・清仁親王をもうけており家庭環境は非常に複雑。
そのような事情から清仁親王とともに祖父・冷泉上皇(花山法皇の父)の子として育てられることに。
生まれたときから波乱に巻き込まれていたのですね。

その後1011年(寛弘8年)に藤原実資(ふじわらのさねすけ)の加冠(元服して初めて冠をつけること)によって元服(げんぷく。
男子が成人して髪形・服装を改め初めて冠をつける儀式)すると1027年(万寿2年)頃には兵部卿(ひょうぶきょう。
かつて国防を司った行政機関「兵部省(ひょうぶしょう)」の長官)に。
最終的には中務卿(天皇補佐、詔勅の宣下など朝廷に関する職務の全般を担う「中務省(なかつかさしょう)の長官」になり、在任中の1035年(長元8年)に37歳の若さで亡くなりました。

1000年(長保2年)に花山天皇の第3皇子として誕生した覚源(かくげん)は醍醐寺の僧・明観(みょうかん)に師事して出家したあとは深覚(じんがく)・仁海(にんかい)から灌頂(かんじょう。
菩薩が仏になる際、諸仏が頭に水を注いで最上位に達したことを証明する儀式)を受け、1030年(長元3年)には伝法阿闍梨(でんぽうあじゃりい。
灌頂(かんじょう)を受けた阿闍梨(あじゃり)の位)に就任。
1065年(治暦元年)に66歳で亡くなります。
どちらも父親とは違いしっかりと道を極めていたように見えますね。

短期間の在位でもインパクトは大きなもの

わずか2年という短期間で天皇の座から降りることとなった「花山天皇」は即位時から伝説を残し、在位中から出家後もエピソードを残してきました。
「天皇」という立場の人間としては「問題がある」人物とも言え、エピソードの「インパクト」が大きかったがために短い在位期間で終わったのかもしれませんが、歴史上の人物としてはたいへん面白みのある人物とも言えますね。
photo by PIXTA