パプスブルク家の悲しみの皇妃!「バイエルンのバラ」と称された、最後の皇妃エリザベートの物語

宮廷生活に馴染めず、旅に生きた悲劇のヒロイン“エリザベート”!絶世の美姫と称賛されるほどの美貌を持ちながらも、悲しみの皇妃とされる彼女の人生は、宝塚やミュージカルなどの題材にもなっています。今回は、美神伝説に彩られたエリザベート皇妃の歴史に少しだけ触れてみたいと思います。

エリザベートとは?

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孤高の皇帝又は事実上のラスト・エンペラーと称される、従妹のフランツ・ヨーゼフ1世に見初められ、650年の歴史を誇る名門のハプスブルク家に、15歳という若さで突然嫁ぐことになったエリザベスこと「シシィ」。
オーストリアの皇帝に嫁ぎながら、ほとんどオーストリアに留まることはなく、現実から逃げるようにハンガリーやギリシャ、フランスやイギリスなどを巡り、旅に生きた生涯でした。

彼女の結婚生活は決して幸せなものではなかったようです。
結婚後2週間で「目覚めれば、そこは暗い牢の中」と、詩に自分の心情を綴っています。
特に目が美しく「絶世の美女」と称賛され、気品と優雅さを兼ね備えていたようです。

自由奔放に育てられた少女時代

生まれた時に既に「幸運の歯」と伝わる1本の歯が生えていたというエリザベートは、ドイツミュンヘンのマクシミリアン公爵夫婦の3男5女の、3番目の子として、1837年12月24日のクリスマスイブに誕生しました。
彼女が生まれた時、この子はきっと幸福な人生を送れると喜び合ったとか。

バイエルン地方の由緒正しいヴィッテルスバッハ家の中でも、父マクシミリアン公爵はお高く留まらず陽気でさばけた人物として人々から尊敬されていました。
自由人だった父に可愛がられたシシィは、狩りや乗馬、水泳やボートに興じながらのびのびと育てられています。
笑顔が可愛らしい幼少時代のシシィは、無邪気で活発な女の子でした。

皇帝に見初められたお転婆シシィ!

このように自由奔放なシシィの将来を心配した母ルドビィカは、礼儀や作法を身に付けさせようと考え始めていました。
実は、ルルドビィカはバイエルン王家の出身で、姉妹は王室に嫁いだのに自分だけが公爵家にしか嫁げなかったことに、コンプレックスを抱いていたのです。
娘たちには“輝かしい結婚を”と願っていた母は、シシィの3歳年上の姉ヘレーネとオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世との縁談に必死になっていました。

1853年8月15日にザルツブルク郊外の高級リゾート地で、2人のお見合いが行われました。
その時、シシィにも花嫁修業の始めに、社交や儀礼を学んでほしいと同行させました。
しかし皇帝がお気に召したのは、長女としての落ち着きある姉のヘレーネではなく、子供っぽさが残る天使のように屈託のないシシィだったのです。
シシィにとっては、リヒャルト伯爵との恋仲を引き裂かれたばかりの傷心旅行でもありました。

幸せの絶頂期

実は、5年前に革命でウィーンからインスブルックに避難した、母ルドビィカの姉ゾフィー一家を見舞った時、皇帝とシシィは出会っています。
当時の皇帝は自身のことに必死でシシィには目がいかず、弟のカール・ルートヴィヒが、シシィに恋心を抱きました。
幼い2人の遠距離恋愛は自然消滅しています。

23歳の若き皇帝の恋心は誰にも止められません。
その夜の舞踏会で、ピンクのドレスを着たシシィに、ダンスを申し込み、花束を捧げ、求婚の意志まで伝えました。
母ゾフィーの意向に背くことのなかったフランツ・ヨーゼフ1世は、「彼女と結婚できなければ一生独身を通します」と生まれて初めて自分の意志を貫きました。
母ゾフィーも、我が妹ルドビィカの娘で、姉と妹が変わっただけのことと問題視しませんでした。
フランツ・ヨーゼフ1世が、母の意に背いたのは、後にも先にもこの時だけだったとか。

妃教育にヒステリックになるシシィ

シシィも皇帝との結婚に胸をときめかし、求婚の際には感涙しました。
でも、この事態に周囲はてんてこ舞い。
姉の婚礼道具は調えていましたが、シシィの準備は全くしていません。

しかも、花嫁修業がこれからという、シシィの妃教育は大変。
だって、オーストリア帝国のファーストレディに仕上げなければならなかったのです。
妃教育が間に合わないと結婚を伸ばしたくても、皇帝の方は一日も早い結婚を望んでおり叶いませんでした。

息の詰まる宮廷生活

息の詰まる宮廷生活

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1854年4月23日に、アウグスティーナ教会で2人の結婚式が行われました。
荘厳な教会には1万5000ものローソクが灯り、若い皇帝と清純なシシィの姿は、誰もが息を飲みました。
この頃のオーストリアは貧困や失業者が増えており、保守的な政治の好転を望む人々の期待があったようです。

結婚式後も、祝典や晩餐会、舞踏会と、スケジュールがいっぱいで神経をすり減らす日々が続きました。
自由奔放に育ったシシィには、宮廷の決まり事やしきたりについていくことができず、プライベートがない宮廷生活に涙にする日々だったようです。
一番我慢できなかったのは、宮廷にお風呂がなかったこと。
ただ体をふくだけの毎日には耐えられませんでした。

しかも、新婚旅行の後に待ち構えていたのは、味方のいない宮廷での叔母で姑のゾフィーとの確執でした。
姑のゾフィーは、名家ハプスブルク家のしきたりや伝統を教え込もうとしましたが、16歳のシシィにはまだその姑の優しさに気づくことは難しかったのです。

子供を姑に奪われる生活

結婚2ヶ月後に、シシィは子供を授かりました。
美しいシシィは、お腹が大きく醜い姿を大衆に晒すのを嫌がりましたが、姑は宮廷のバルコニーや庭に積極的に出るように命令しました。
幸福な皇妃という、イメージを付けたかったのです。
最初の女の子を始め、皇帝とシシィの間には、1男3女4人の子供が生まれています。
子供部屋はゾフィーの近くにあり、シシィとは姑が決めた僅かな時間にしか会えませんでした。

そんな中、夫婦仲のよい皇帝とのハンガリーへの旅行に、姑の反対を押し切って2人の娘を同行させました。
しかし、悲しい事件が起こります。
ハンガリーの人々は歓迎ムードだったのですが、娘たちは体調を崩してしまいました。
しかも、この病気が赤痢で、旅の途中に長女が神に召されました。
これに激怒した、姑のゾフィーは、再びシシィから子供たちを取り上げてしまいます。

皇妃エリザベートの旅への逃避

皇妃エリザベートの旅への逃避

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長女の死の翌年、1858年8月21日に、待望の皇太子が誕生しました。
もちろん、皇太子は姑ゾフィーによって育てられます。
一方エリザベート自身もストレスから体調を崩してしまい、肺結核と診断されました。
ウィーンの厳しい冬を越すのは難しいと、主治医から静養のための旅行を勧められます。

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その時シシィは、ウィーンから遠いところにいきたいと、ポルトガルよりまだ先にある常夏の孤島マディラ島を選びます。
宮廷暮らしから解放される島での生活は、シシィに向いていたようで瞬く間に回復したように側近たちには見えました。
その後、スペインやマルタ島、コルフ島を経由してオーストリアには半年後に帰国しています。
やっと、子供たちに会うことができ歓喜に満ちた瞬間から、また窮屈な宮廷生活に戻ったシシィは再び体調を崩しました。
再び肺結核と診断されたシシィは、コルフ島へ旅に出ました。

ヨーロッパ随一の美姫!エリザベートの美への執念

身長172cm、体重約50kg、ウェスト約50cmの絶世の美女と称されるシシィは、この体型を保持することに躍起となっていました。
食事は、乳製品、牛肉の生血のジュース、果汁が主なものでした。
実際には、シシィが大好きだった、ミルクが一番の栄養源でした。
でも、スウィーツは別腹で、シャーベットかアイスクリームは毎日食べていました。

1日数回体重計に乗り、少しでも体重が増えると苛酷な運動を科しています。
得意の乗馬はもちろん、フェンシングや水泳、競歩などから、部屋には吊り輪やダンベル、平行棒など体操道具もありました。

夜寝る時は姿勢が悪くなるのを気にして枕はせず、肌に良いと牛の生肉や苺を潰してパックをしたりと、美を保つことに余念がなく、既に自身のアイデンティティとなっていました。

遂に怒ったシシィ!母の威厳を見せつけた

遂に怒ったシシィ!母の威厳を見せつけた

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皇太子ルドルフは、精神的にも体力的にもシシィに一番似ている子供です。
僅か6歳にして、夜間の野外演習や水泳、サバイバルゲームなど、軍事教育も行われていました。
知性はあるものの虚弱体質なルドルフは、病に伏せりました。
シシィはこの状況を見かね最後通告をし、それでもまた倒れた皇太子を見て教育権限を姑のゾフィーから成人するまで自分に一任するように迫りました。

シシィは、息子の養育権を勝ち取った上に、ゾフィーの息がかかった女官たちを全て解任するという快挙に打って出ました。
あっぱれシシィ!

ハンガリーびいきのシシィ

1866年1月にハンガリー議会の使節団がウィーンを訪問しました。
皇帝夫婦に謁見した時、シシィはハンガリーの民族衣装に身を包み、流暢なハンガリー語を披露しました。
その後、皇帝夫妻はハンガリーを訪れました。
ウィーンとは違い自由に行動できるハンガリーでは、晩餐会や舞踏会に出席しハンガリー語で会話し友好的な王妃を演じました。

シシィは一気に人気ものとなり、ハンガリーの人々の信頼を得たのです。
しかも、オーストリアの支配下にあるハンガリーに自治権を持たせるよう皇帝に働きかけます。
シシィは実にハンガリーびいきだったのです。
妃教育を施したのがハンガリーのマジャル人であったことや姑のゾフィーがハンガリーを毛嫌いしていたこと、ウィーン宮廷への反発もひいき要因でした。
ハンガリー語をすぐ覚えスピーチや手紙まで書けるようになりました。

オーストリア・ハンガリーの二重帝国だったころ、ハンガリーでゲデレー城を寄贈されたシシィは、10年ぶりに4人目の子供を産みました。
4人いた中で、姑の影響を受けずにシシィ自身が育てた子で、4人分の愛情をかけて育てています。

なぜエリザベートは黒ずくめの装いをした?

姑のゾフィーが溺愛していた義弟マクシミリアンがメキシコで革命軍によって処刑された5年後の1872年5月27日に、ゾフィーが67歳でこの世を去りました。
かつて、姑ゾフィーに対し「あの方が私になさったことは、臨終の床でも許すことはできないでしょう」と、女官に話していたシシィですが、いざ息を引き取るとさめざめと泣き、18年どうして憎しみ合うようなことになったのでしょう。
もっと優しく接し仲よくすればよかったと、後悔の念が生まれたようです。

21歳で政略結婚をした息子のルドルフは父フランツ・ヨーゼフ1世に失望し、ハンガリーの過激派と親交を深めるようになりました。
ルドルフを父は危険分子とみなし、政治の舞台から退けます。
将来に悲観したルドルフは、憔悴しノイローゼに陥りました。
アルコール依存症になり薬に溺れたルドルフは、夫婦仲も上手くいかず、1889年には父子は激しい口論となり、「後継者に相応しくない」との烙印を押されています。
ルドルフは30歳で愛人を作りその人と心中してこの世を去りました。

このショッキングな事件に、愛情を注いでやればよかったと罪の意識にさいなまれたシシィは、絶望の淵に立たされました。
ルドルフの死の前後には、従妹のルートヴィヒ2世や3ヶ月前には父マクシミリアン公、後には姉ヘレーネ、母ルドビィカなど、友人や愛する人を次々と亡くしたのです。
これ以降シシィは、着飾ることをやめ、喪服で人生を通しました。

暗殺されたシシィ

愛する息子の死後に最愛の末娘を嫁がせ抜け殻のようになったシシィは、再び旅をするようになりました。
ウィーンには年に数週間しかいないほどだったとか。
でも、シシィに死が迫っていました。
ヨーロッパ各地で無政府主義者やテロリストたちが王族の命を狙っていたのです。
シシィの放浪癖は治らず、身辺警護も付けずに旅を続けました。

この頃のシシィはスイスのレマン湖周辺をお気に入りの場所としていました。
午前中に街歩きを楽しんだ後、船でモントルーに戻る予定だったシシィに、一人の男がぶつかったのです。
でも、シシィは立ち上がり、自分の足で歩き船に乗った後、胸の痛みを訴え倒れ込みました。
イタリアの無政府主義者ルイジ・ルッケニーがヤスリで、シシィの胸を一突きしたのです。
彼は、フランスのオルレアン公を狙っていたのですが先に発っていたので、新聞で存在を知ったシシィを目標にしました。
シシィの人生はあっけなく終わりました。
最後の言葉は、「何があったの?」でした。

嘆き悲しむフランツ・ヨーゼフ1世

オーストリア皇妃暗殺のニュースは、ヨーロッパ中に衝撃を与えました。
ヨーゼフはすぐに公務に戻りましたが、「辛酸をなめ尽くした。
でも、私がどれだけ彼女を愛していたかを、誰も知ることはできないだろう」といったそうです。

ヨーゼフは、シシィを心の底から愛していました。
ウィーン市民は、ほとんどオーストリアにいなかったシシィに対する思いより、ヨーゼフの悲しむ姿に涙したようです。
シシィが亡くなってから18年後に、ヨーゼフもこの世を去りました。
彼は18歳で皇帝になり、68年もの間オーストリアを統治しましたが、斜陽の帝国では何をやっても負の連鎖にしかなりませんでした。
皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が事実上最後の皇帝でした。
彼の死と共にハプスブルク帝国は事実上終焉を迎えています。

歴代ハプスブルク家の君主たちは、ウィーンの中心部にあるカプツィーナ教会に葬られています。
一番奥の部屋にはフランツ・ヨーゼフ一家の墓があり、大理石の台座の上にフランツ・ヨーゼフ1世の棺、右には皇太子ルドルフ、右にはエリザベスが眠っています。
亡くなってから、ようやく親子3人が心を交わしたのでは?とも思われる光景には訪れる人々の涙を誘うようです。

自由奔放に生きながらも空虚感から逃れられなかったシシィを偲ぶ旅をしてみませんか?

ハンガリー王妃として戴冠した、29歳のエリザベートの美しい姿は今でも人々を魅了しています。
ウィーンやブタベストに訪れると、類稀な美貌を持ち「ヨーロッパ随一の美姫」と称されたシシィと、カフェなど至る所で出会うことができます。
ウィーンにあるホーフブルク宮殿内の「シシィ博物館」には、彼女の部屋が再現され、手紙や詩を書いた文机やベッド、ダイエットに使った体操道具、化粧台や服、装飾品など、彼女を彷彿するお宝と出会うことができます。
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