こんな残酷な最期はひどすぎる…ニコライ2世とその家族の悲劇

公開日:2020/3/5 更新日:2020/3/5

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ロマノフ朝のラストエンペラー・ニコライ2世

ニコライ2世は、1868年に時のロシア皇帝アレクサンドル3世とその妃マリア・フョードロヴナの長男として生まれました。
ドイツのヴィルヘルム2世やイギリスのジョージ5世は従兄弟に当たります。
当時、ヨーロッパ諸国の宮廷の間で国際結婚することはよくあることだったので、血のつながりはかなりあったんですよ。
ちなみに、ジョージ5世とは瓜二つと言われるほどよく似ていたそうです。
実はニコライ2世、訪日したこともあるんですよ。

1891年(明治24年)、長崎や鹿児島、神戸、京都を歴訪した彼ですが、滋賀県の大津で日本人巡査にサーベルで斬りかかられ(大津事件)、負傷してしまったんです。

日本側の対応もあって、日露関係にヒビが入るようなことはありませんでしたが、ニコライ2世の日本への心証はとても悪くなってしまいました。
これが、後の日露戦争の要因になったとも言われています。

帰国後、父の死に伴い、26歳で皇帝の座に即位した彼は、自由主義や民主主義の風潮に逆行し、専制政治の強化を始めます。
というのも、祖父アレクサンドル2世が暗殺されており、その無残な遺体を目にしたことから、その決意を胸に秘めていたとも言われているからなんです。

反動化と戦争敗北、高まる民衆の不満

1904年、日露戦争が勃発しますが、前評判とは裏腹にロシアは苦戦し、実質上の負けを喫してしまいました。
同時期、戦時下の苦境を皇帝に訴えるべく、民衆が首都サンクトペテルブルクへ請願に向かいましたが、これに対して兵隊が発砲し惨殺したことで(血の日曜日事件)、それまで皇帝を崇拝していた民衆は、一転、ニコライ2世に対して不満を持つようになっていくんです。
その後、1914年に起きた第一次世界大戦では、ドイツ軍に相次ぐ大敗を喫して帝国の威信を地に落としてしまいました。
それでもニコライ2世は当時そばに置くようになったラスプーチンばかりを重用し、孤立していったんです。

皇帝夫妻の評判を落とした妖僧ラスプーチン

皇帝夫妻にとって唯一の男子アレクセイは、血友病を患っていました。
その時招かれたのが、「自称」祈祷僧・ラスプーチンという男だったんです。
彼が祈ると病状が好転したので、特にアレクサンドラ皇后が盲目的に彼を信用するようになり、皇帝もそれに引きずられて彼を重用するようになりました。
そして、ラスプーチンが政治に口を出すのを黙認するようになってしまったんですよ。
1916年にラスプーチンが暗殺されるまで、この状態は続いたんです。
そのため、皇帝と皇后の評判はどんどん悪くなってしまいました。

民衆が蜂起し皇帝の座を追われる

第一次大戦の戦況は膠着し、戦時下の物不足で民衆の生活は苦しいものとなっていました。
日露戦争の頃からたまっていた王朝への不満はついに爆発し、人々は蜂起して革命を起こしたんです。
これが第2次ロシア革命(三月革命)で、ニコライ2世は退位を余儀なくされ、臨時政府が樹立、やがてソヴィエト政府ができ上がったんですね。
その後、ニコライ2世は皇后や5人の子供たちとシベリア西部のトボリスクへ流され、さらに僻地のエカテリンブルクへ移動させられます。
これは、表向きは皇帝一家の安全のためとされていましたが、実際は、密かに彼らを抹殺するためだったんです。

皇帝抹殺を命じた政府

当時、ロシアは内戦状態となっており、ソヴィエト政府のメインである社会主義勢力「ボリシェヴィキ」の「赤軍」と、反ボリシェヴィキの「白軍」が激しい戦いを繰り広げていました。
そんな中、ソヴィエトは、白軍がニコライ2世を担ぎ出すのを恐れて殺害命令を下したんです。

エカテリンブルクに移動させられ、商人の館だったイパチェフ館に幽閉されたニコライ2世一家は、約2ヶ月後の1918年7月17日未明、側近らも含めてみな銃殺されました。
容赦ない殺し方は、残酷以外の何物でもありませんでした。

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