【三国志】今さら聞けない「赤壁の戦い」をざっくり把握

公開日:2020/3/6 更新日:2020/3/6

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「赤壁の戦い」は、三国志におけるもっとも有名な戦ではないでしょうか。中国北部に勢力を張る「曹操(そうそう)」とそれと対峙する「孫権(そんけん)」「劉備(りゅうび)」連合軍による戦いです。中華統一のため連合軍の5倍とも10倍ともいわれる軍で侵攻した「曹操」でしたが、なんと「孫権」「劉備」連合軍に手痛い一撃を食らわされ、三国成立を導いてしまったのでした。「孫権」「劉備」連合軍が勝利を収めたのは、兵力差に負けない、さまざまな駆け引きがあったのです。それでは赤壁の戦いとはどのような戦いであったのか、簡単にまとめてみました。

赤壁の戦いに至るまで

「曹操」による荊州侵攻

中国北部を統一し、北の憂いをなくした「曹操」は、中華統一に向け、次の矛先を南にある荊州に定めたのでした。
荊州で権力を握っていた「劉表(りゅうひょう)」は、この時重篤な病に臥し、後継者争いでお家騒動が起きていたのも「曹操」が目を付けた理由の一つでした。
208年7月に「曹操」が荊州に侵攻を開始。
その翌月「劉表」が亡くなり、跡を継いだ「劉琮(りゅうそう)」は、戦うことなく「曹操」に降伏したのでした。
「劉琮」が降伏したことにより、荊州で「曹操」に刃向う者は新野城にこもる「劉備」のみとなったのです。
そして「曹操」は「劉備」を滅ぼすべく、新野城に攻撃を仕掛けるのでした。

兵力が圧倒的に劣る「劉備」でしたが、「曹操」軍に対し善戦。
「諸葛亮(しょかつりょう)」の計略により、何度となく「曹操」軍を打ち破ることに成功したのです。
しかし「諸葛亮」は、新野城では後々やってくる「曹操」の大軍を防ぐことはできないと判断。
「劉琦(りゅうき)」がこもる江夏・江陵に行き、そこで力を合わせて「曹操」と戦うことにし、新野城を後にしたのでした。

長坂の戦い

「劉琮」が戦うことなく降伏したことにより、無傷で襄陽城に入城できた「曹操」でしたが、一つ懸念がありました。
それは新野城を捨て、江夏に向かった「劉備」のことでした。
「劉備」には、新野城や以前から何度か手痛い敗戦を喫しているため、兵や兵糧が豊富にある江夏や江陵に入られると厄介だったのです。
「曹操」は休む間もなく、すぐさま「劉備」に対し、追手を差し向けたのでした。
長江沿いに南下を続ける「劉備」でしたが、兵だけでなく、民百姓を連れての逃避行であったため、行軍が非常に遅いものでした。

そして追いついた「曹操」軍の先鋒隊が、当陽県長坂で「劉備」軍の背後から、一斉攻撃を開始したのです。

行軍の疲れと民百姓の混ざる混成部隊である「劉備」軍では、「曹操」軍と戦える力はありませんでした。
大混乱をおこし誰がどこにいるのかわからない状態。
「劉備」の側近や二人の夫人、跡継ぎである息子は「曹操」軍に捕らわれてしまい、「劉備」自身命からがら逃げだすようなことになってしまったのです。

側近や夫人、息子は「趙雲(ちょううん)」の活躍により、取り戻すことに成功しましたが、夫人の一人は足手まといになることを懸念し、井戸に身を投げ自殺せざるを得ないほどの大惨敗でした。

その後「張飛(ちょうひ)」の活躍と「劉琦」の援軍が到着したことで、何とか「曹操」軍から逃げ切った「劉備」は夏口にたどり着き、そこでようやく一息をつくことができたのです。

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