【三国志】今さら聞けない「赤壁の戦い」をざっくり把握

「赤壁の戦い」は、三国志におけるもっとも有名な戦ではないでしょうか。中国北部に勢力を張る「曹操(そうそう)」とそれと対峙する「孫権(そんけん)」「劉備(りゅうび)」連合軍による戦いです。中華統一のため連合軍の5倍とも10倍ともいわれる軍で侵攻した「曹操」でしたが、なんと「孫権」「劉備」連合軍に手痛い一撃を食らわされ、三国成立を導いてしまったのでした。「孫権」「劉備」連合軍が勝利を収めたのは、兵力差に負けない、さまざまな駆け引きがあったのです。それでは赤壁の戦いとはどのような戦いであったのか、簡単にまとめてみました。

赤壁の戦いに至るまで

「曹操」による荊州侵攻

「曹操」による荊州侵攻

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中国北部を統一し、北の憂いをなくした「曹操」は、中華統一に向け、次の矛先を南にある荊州に定めたのでした。
荊州で権力を握っていた「劉表(りゅうひょう)」は、この時重篤な病に臥し、後継者争いでお家騒動が起きていたのも「曹操」が目を付けた理由の一つでした。

208年7月に「曹操」が荊州に侵攻を開始。
その翌月「劉表」が亡くなり、跡を継いだ「劉琮(りゅうそう)」は、戦うことなく「曹操」に降伏したのでした。
「劉琮」が降伏したことにより、荊州で「曹操」に刃向う者は新野城にこもる「劉備」のみとなったのです。
そして「曹操」は「劉備」を滅ぼすべく、新野城に攻撃を仕掛けるのでした。

兵力が圧倒的に劣る「劉備」でしたが、「曹操」軍に対し善戦。
「諸葛亮(しょかつりょう)」の計略により、何度となく「曹操」軍を打ち破ることに成功したのです。
しかし「諸葛亮」は、新野城では後々やってくる「曹操」の大軍を防ぐことはできないと判断。
「劉琦(りゅうき)」がこもる江夏・江陵に行き、そこで力を合わせて「曹操」と戦うことにし、新野城を後にしたのでした。

長坂の戦い

長坂の戦い

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「劉琮」が戦うことなく降伏したことにより、無傷で襄陽城に入城できた「曹操」でしたが、一つ懸念がありました。
それは新野城を捨て、江夏に向かった「劉備」のことでした。
「劉備」には、新野城や以前から何度か手痛い敗戦を喫しているため、兵や兵糧が豊富にある江夏や江陵に入られると厄介だったのです。
「曹操」は休む間もなく、すぐさま「劉備」に対し、追手を差し向けたのでした。

長江沿いに南下を続ける「劉備」でしたが、兵だけでなく、民百姓を連れての逃避行であったため、行軍が非常に遅いものでした。

そして追いついた「曹操」軍の先鋒隊が、当陽県長坂で「劉備」軍の背後から、一斉攻撃を開始したのです。

行軍の疲れと民百姓の混ざる混成部隊である「劉備」軍では、「曹操」軍と戦える力はありませんでした。
大混乱をおこし誰がどこにいるのかわからない状態。
「劉備」の側近や二人の夫人、跡継ぎである息子は「曹操」軍に捕らわれてしまい、「劉備」自身命からがら逃げだすようなことになってしまったのです。

側近や夫人、息子は「趙雲(ちょううん)」の活躍により、取り戻すことに成功しましたが、夫人の一人は足手まといになることを懸念し、井戸に身を投げ自殺せざるを得ないほどの大惨敗でした。

その後「張飛(ちょうひ)」の活躍と「劉琦」の援軍が到着したことで、何とか「曹操」軍から逃げ切った「劉備」は夏口にたどり着き、そこでようやく一息をつくことができたのです。

「孫権」への脅し

「孫権」への脅し

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「曹操」は「劉備」を取り逃がしたことを大変悔やんだといいます。
しかし「逃げられたものは仕方がない」とばかり、次なる手を打つのです。

それは「孫権」に「劉備」を討たせることでした。

「曹操」は降伏した荊州の水軍を長江にずらっと並べた上で「孫権」に手紙を送ったのです。
その手紙は友好的な内容で書かれていましたが、実質は脅迫文のようなもので「曹操自身に80万もの兵が居ることをほのめかし、その気になればそちらに攻め込むぞ」といったことが書かれていたのでした。

この文面を見た「孫権」は今後の方針を決めるため、すぐに部下を集め、軍議を開いたのでした。

「曹操」にビビってしまっている部下たちの大半は、「降伏」を「孫権」に進言したのです。

しかしわずかながら「曹操」と敵対し、戦うことを望んでいた者たちも居て、「孫権」自身も「決戦」か「降伏」か、迷ってしまったのでした。

そのような時「決戦」派の「魯粛(ろしゅく)」が「孫権」に「「劉備」と手を結び、「曹操」と敵対すべし」と説いたのです。

その言葉を聞いた「孫権」は、手を結び「曹操」に勝てるだけの力が「劉備」にあるかどうか確かめるため「魯粛」を「劉備」の元に送り込んだのでした。

「孫権」の決断

「孫権」の決断

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「劉備」の元を訪れた「魯粛」は、「劉備」や「諸葛亮」と会談する中で、共同で「曹操」と戦い、勝利を得ることは可能と確信。
しかしこのことを「孫権」らにそのまま伝えても「降伏」派の人たちを説き伏せることは難しいと判断。
実際に「曹操」と戦ったことがある「諸葛亮」に説き伏せてもらおうと、「魯粛」は「諸葛亮」を連れ、「孫権」の元に戻ったのでした。

「魯粛」が戻った時、「曹操」による圧力はさらに強くなっており、「孫権」の周りは「降伏」の色が強くなっていました。

「降伏」派の主張は「「曹操」は80万もの大軍があり、後漢の皇帝を擁している。
このような人物に刃向っては逆賊になり、私たちはどのような扱いになるのでしょう。」と一致していたのです。

「降伏」派の意見は間違っておらず、「決戦」を望む者どもの主張は押し切られ、「孫権」自身も「降伏」に傾きつつありました。
しかし「孫権」が「降伏」してしまうと「曹操」に敵対できる勢力を失ってしまう「諸葛亮」は「孫権」に降伏されると非常に困るのです。

そうはさせじと「諸葛亮」は「降伏」派の者どもにこう言ったのでした。

「「曹操」の軍勢は大軍であるものの、水軍の戦いには不慣れであること。
「曹操」軍の大半は寄せ集めの兵であるため、統率がとれていないこと。
長旅の遠征で疲労していること。」

このようなことから「孫権」軍が十分勝ち目があることを説いたのです。

そして「孫権」にはダメ押しに「あなたが降伏すれば、部下は何らかの形で取り立てられるでしょう。
しかし王であったあなた様は王ではなくなる上、どのような処遇が待っているのでしょうか」とプライドを刺激したのでした。

「孫権」はこの「諸葛亮」の言葉に反応、そしてとうとう「劉備」と力を合わせて、「曹操」と敵対する道を選んだのです。

赤壁の戦いに至るまでの駆け引き

「劉備」・「諸葛亮」暗殺計画

「劉備」・「諸葛亮」暗殺計画

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「曹操」との戦いを決意した「孫権」は、自らの軍の大将に「周瑜(しゅうゆ)」を据えたのでした。
「周瑜」は「決戦」派の中心であり、非常に戦いにおける才能があふれる人物であったのです。
「周瑜」は「諸葛亮」と同じように「「曹操」軍には弱点が非常に多くあり、このような軍勢であれば、兵力が劣るわが軍でも十分に勝ち目がある。」と思っており、自らを奮い立たせたのでした。

さらに主君である「孫権」を説得した「諸葛亮」を非常に優秀な人物と判断し、「劉備」の元を離れ、「孫権」側に引き入れるよう説得工作もおこなっていくのです。

しかし「諸葛亮」の兄を使った説得工作をおこなうも、味方につけることはできなかったのでした。

「周瑜」は「諸葛亮」の才能を非常に評価しながらも警戒もしていたのです。
味方にできないのであれば、この戦いのさなかで殺してしまおうと計画するのでした。
しかしそのような「周瑜」の考えを感じていた「諸葛亮」は、上手くかわしていったのです。

さらに「諸葛亮」を味方にできない理由が主君である「劉備」にあるならば、その「劉備」を殺害しようと、「周瑜」は「劉備」に「戦いの打ち合わせをしたいので、こちらに来てほしい」と手紙を送ったのでした。
「劉備」は「周瑜」の頼みなので断ることもできず、「周瑜」の元を訪問したのですが、ここでも「諸葛亮」の策略により、無事に脱出することに成功。

「周瑜」による「劉備」・「諸葛亮」暗殺計画は失敗に終わったのでした。

「曹操」「周瑜」の計略合戦

「曹操」「周瑜」の計略合戦

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「孫権」が降伏ではなく、敵対してくることを理解した「曹操」は戦いに備えるのでした。
「曹操」自身も水軍戦が苦手なのは百も承知。
この戦いは水軍戦が得意な者を引き立てたのです。
その人物は「蔡瑁(さいぼう)」と言い、荊州の者で「劉琮」の降伏に貢献した人物でした。
「曹操」の陣営に入って間もない人物ですが、「劉表」に見込まれ荊州水軍を任されていたほどの人物だったため、そのまま「曹操」軍の水軍も任されることになったのです。

「「曹操」の水軍など大した事はない」とたかをくくっていた「周瑜」たちでしたが、偵察に行くと意外と「蔡瑁」が造り上げる水塞に驚き、警戒。
この戦いに勝利するためにはまず「蔡瑁」を取り除くことを考えるのでした。

「曹操」は「「周瑜」さえ取り除けばこの戦に勝ったも当然。」と何とか「孫権」軍から「周瑜」を取り除くことはできないかと考えていたのです。

そのような時、「曹操」の部下である「蔣幹(しょうかん)」が声を上げたのでした。

そして「私は「周瑜」の幼馴染であり、仲が良いです。
「周瑜」に声を掛けてこちらに寝返るよう話をしてきます。」と進言したのでした。

「曹操」からすれば「周瑜」がこちらにつくのは願ったりかなったりです。
「蔣幹」に許可を与え、「周瑜」の元に行かせたのでした。

しかし「周瑜」には「孫権」を裏切る気持ちは全くない上、反対にやってきた「蔣幹」を利用して「蔡瑁」を取り除く計画を立てたのです。

「周瑜」と「蔣幹」は酒を酌み交わし、表面上は幼馴染との再会を楽しんでいたのですが、その間「周瑜」は部下に偽造した「蔡瑁」の「孫権」軍への寝返りの約束を交わす手紙を作らせたのでした。
そしてその手紙を「蔣幹」が見つけるよう仕込んだのです。

「蔣幹」はその偽手紙を見付けると大変驚きました。
そしてすぐさま「曹操」にその手紙を提出。
激怒した「曹操」は「蔡瑁」の弁明も聞かず処刑したのでした。

「諸葛亮」矢を手に入れる

「諸葛亮」矢を手に入れる

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「周瑜」は「曹操」軍の一番の難敵であった「蔡瑁」を取り除くことに成功し大喜び。
しかし「諸葛亮」が気になる「周瑜」は、この作戦をどう思うか「魯粛」を使って探らせたのです。
そしたら何と「諸葛亮」は全てお見通しであったため、ますます「周瑜」は「諸葛亮」を警戒。
何とか殺すことはできないかと策を練るのでした。

そして一つの策ができ上がったのです。
その策とは「曹操」との戦いには10万本の矢が必要であり、この矢を「諸葛亮」に10日以内に用意してもらうことでした。
無茶苦茶な要求であることは「周瑜」も理解していました、到底できることではないのです。
「諸葛亮」がこの命令を受けることはなく、受けられないのであれば、信用がなくなればとぐらいに思っていました。

しかし「諸葛亮」は、この命令をあっさりと受諾したのです。
そしてさらに「10日も必要ありません。
3日以内に用意しましょう。」と「周瑜」や周りの者たちに言ったのです。
「周瑜」はこの返事に大変驚いたのでした。

「周瑜」は「諸葛亮」に「そのような発言をされた後、3日以内に間に合わなかった場合は軍罰に問うがよろしいか。」と念押しをしたのです。
しかし「諸葛亮」は全く気にすることなく、船と少数の兵、藁人形の用意を「周瑜」に願い出たのでした。

しかし周囲の心配をよそに1日目、2日目と「諸葛亮」は何もすることなく過ごし普段通り過ごしていたのです。
そして最終日となる3日目に心配した「魯粛」が「諸葛亮」に会いに来たのでした。
しかし心配する「魯粛」をよそに「諸葛亮」は「船に乗って出かけましょう」と誘ったのでした。

そしてどこに出かけたのかと言うと何と「曹操」軍の目の前。
「魯粛」はあまりの恐怖で顔面蒼白になったのでした。
しかし「諸葛亮」はこの日の天候は霧と予想し、すぐ目の前にあるものすら見えなくなるとわかっていたのです。
そのため「曹操」軍から見ると「諸葛亮」たちが乗った船が敵襲に見え、ただはっきりと見えないため攻めて来ることはなく、大量の矢を射かけてきただけに終始。

これこそが「諸葛亮」の望んだことでした。

「曹操」軍が射た矢は船や藁人形に刺さり、「諸葛亮」は難なく10万本以上の矢を手に入れたのです。

「曹操」「周瑜」の計略合戦2

「曹操」「周瑜」の計略合戦2

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「周瑜」と「諸葛亮」にしてやられていた「曹操」ですが、新たな計略を思いついたのです。

その計略とは「埋伏の毒」。
「周瑜」が信用しそうな人物を送り込み、「孫権」軍の内部から崩壊させようとするものでした。
そしてその毒となる人物には「蔡和(さいか)」「蔡仲(さいちゅう)」が選ばれたのです。
彼らは無実の罪で殺された「蔡瑁」の甥であり、「曹操」に恨みを抱いてもおかしくないとされたからでした。

「孫権」軍に降ってきた「蔡和」「蔡仲」を「周瑜」は快く迎え入れたのでした。
しかし「周瑜」は「曹操」による「埋伏の毒」を見破っており、彼らの投降は偽りであり、そしてさらに彼らを利用して「曹操」をだます策を実行するのです。

「周瑜」は「曹操」軍を打ち破るには火計しかないと考えていました。
しかしその火計を実行するにも成功に導くための材料が乏しかったのです。
「曹操」相手に何度も成功するはずはないため、一度の火計で大打撃を与えなければいけなかったからでした。
「周瑜」が「何とかできないか」と悩んでいたところ「黄蓋(こうがい)」という老将がやってきたのです。
そして「黄蓋」は火計を成功させるために「曹操」軍に投降すると進言したのでした。

そして「周瑜」と「黄蓋」は「曹操」を信用させるために芝居を打つのです。

「黄蓋」がわざと「周瑜」に逆らい、怒った「周瑜」が「黄蓋」を百叩きの刑に処し、この仕打ちに怒った「黄蓋」が「曹操」に投降すると言う芝居でした。
そして「黄蓋」は部下に手紙を持たせ「曹操」のところに向かわせたのでした。

しかし「曹操」は「黄蓋」ほどの武将が降伏してくるとは全く思えなかったため信用せず、反対に「黄蓋」の部下を殺そうとしたのです。
その瞬間「曹操」に手紙が届き、それに目を通すと一変、「黄蓋」の投降を信じて認めたのでした。

その手紙の差出人は「蔡和」「蔡仲」であり、彼らは「黄蓋」に対する仕打ちを目の前で見て、それを「曹操」に報告、投降を信じさせてしまったのです。

「曹操」「周瑜」の計略合戦3

「曹操」「周瑜」の計略合戦3

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しかし「曹操」はやはり話がうますぎると「黄蓋」の投降を心の中では疑っていました。

その時「蔣幹」が「私がもう一度「周瑜」の元を訪れ、内情を探ってきます」と「曹操」に進言。
「曹操」は許可を与え、「蔣幹」を再び「周瑜」の元へ送り出したのでした。

のこのこと幼馴染の顔をして「周瑜」の元へやってきた「蔣幹」でしたが、「周瑜」は激怒。
「蔡瑁」の偽手紙を盗んで持ち去ったことをなじり、「蔣幹」を山小屋に閉じ込めたのです。

このままここにいると殺されてしまうと感じた「蔣幹」は、見張りの者が眠りこけている隙に脱出したのでした。
しかし道もわからない上、暗闇の中を逃亡しているのでどうしたら良いかもわからず、「蔣幹」はひとまず助けを求めようと人家を探したのです。

そしてそこで見つけた人家に「龐統(ほうとう)」という人物が居たのでした。

「龐統」は、伏龍と鳳雛、そのどちらか一人でも味方につければ天下を取れると言われた鳳雛にあたる人物です。

「蔣幹」は大変驚いたのでした。
話をしてみると「龐統」は「龐統」で自身の境遇を嘆き、「曹操」の元で自分の力を試したいと願ったのです。
「蔣幹」は「それなら一緒に行きませんか」と「龐統」を誘い、「曹操」の元に戻ったのでした。

しかしここまでの流れも全て「周瑜」が仕組んだものでした。
「蔣幹」が「周瑜」の元を再び訪れた時点で「周瑜」と「龐統」による「蔣幹」を利用した計略は始まっていたのです。

連環の計

連環の計

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「曹操」は「龐統」に出会えたことに大喜び。
天下にとどろく鳳雛が私を慕って会いに来てくれたことに感激し、「龐統」に「曹操」軍の陣容を見てもらい、意見を求めたのでした。

意見を求められた「龐統」は「曹操」に、「陣に全く問題はありませんが、風土病や船酔いに悩んではいないですか」と答えたのです。
痛いところをつかれた「曹操」は「おっしゃる通り、何か対策は有りませんか。」と聞いたところ、「龐統」は「一隻一隻だと船の揺れも強くなります。
船同士を鉄の鎖でつなぎ合わせることで、揺れを少なくすることができ「曹操」軍が悩まされている船酔いを抑えることができます」と教えたのです。
そしてさらに「その上、この病気に苦しめられていることを「周瑜」に知られるとかなり危険です」と言い、早く実行に移すことを求めたのでした。
「龐統」に促された「曹操」は言われた通り、船同士を鎖でつなぐよう指示を出したのでした。

しかしこれも「龐統」の計略だったのです。

「龐統」も「周瑜」が「曹操」を破るには、火計しかないと判断。
火計の効果を上げるためには一隻一隻の船が自由に動けると非常に困るのです。
そのために「龐統」は、船が揺れない代わりに行動が制限される連環の計をすすめたのでした。

この時「曹操」は、「龐統」にだまされているとは微塵も感じていなかったのです。

赤壁の戦い

「周瑜」病に倒れる

「周瑜」病に倒れる

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「曹操」の元には「龐統」以外にも優秀な人物がたくさん居ました。
その中の一人が、「船をつないでいる上、強い風が吹くと、火計にやられてしまう危険性がある」と進言したのです。
しかし「曹操」は、「大丈夫。
この季節は北西の風しか吹かず、もしその風が吹いている状態で火計をおこなうと、こちらだけではなく「周瑜」の軍勢にも火が回ってしまう」と言い、意に反しませんでした。

そして「曹操」軍がとうとう動きだしたのです。

攻めて来る「曹操」軍の迫力に圧倒されてしまった「周瑜」は「私が「孫権」軍の水軍提督になること10年になるが、これほどの軍は見たことがない」と、逆に「曹操」を褒めてしまったぐらい壮観な陣でした。
しかしその「曹操」軍の攻撃も、突如吹いた突風により旗が折れ、縁起が悪いと感じた「曹操」は攻撃をいったん中止してしまったのです。

突風は「周瑜」の方でも吹き、同じように旗が折れてしまったのでした。
しかもその折れた旗が「周瑜」を下敷きにしてしまったのです。
「周瑜」はそれが原因なのか、病気になってしまったのでした。
その症状は比較的重く、「周瑜」は寝込んでしまい、軍を動かせるような状態ではなくなってしまったのです。

神風を吹かせた「諸葛亮」

神風を吹かせた「諸葛亮」

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「周瑜」が病気になってしまっては、軍を動かせるものが居なくなってしまいます。
少しでも早く治ってもらうよう、周りの者は手を尽くすのですが、少しも良くなりません。
しかしそのような「周瑜」を見た「諸葛亮」は病気の原因が旗ではなく、風向きであることを見抜いたのです。

「曹操」が言った通り、北西の風が吹いている状態で火計をおこなうと、「孫権」軍も火だるまになることは明白でした。
「周瑜」は皆の力で火計を実行できるところまでは用意できているのに、風だけが思い通りにならず、行動に移せないことを悩み、さらに病を重くしていたのです。

病で寝込んでいる「周瑜」に対し、「諸葛亮」は「東南の風を吹かせるための儀式をおこなうために、祭壇を設けて欲しい。」とお願いしたのでした。
「周瑜」は、「そのようなことができるのか。
できるのであれば火計を実行に移せる」と言い、祭壇を急ぎ作らせたのでした。

そして「諸葛亮」が祭壇で神に祈ったところ、なんと東南の風が吹いたのです。

「周瑜」は「これで火計がおこなえる。」と思ったと同時に、「やはり「諸葛亮」は「孫権」軍にとっても非常に危険人物であり、殺害してしまおう。」とも考え、すぐさま祭壇に「諸葛亮」を捕まえるべく追手を差し向けたのでした。

しかし「諸葛亮」には「周瑜」の考えが全てお見通し。
この日のために「劉備」に「趙雲」を迎えに来させてほしいとお願いしていたのです。
「諸葛亮」を迎えた「趙雲」は追いかけてくる「周瑜」の部下が乗る船の綱を切り、追いかけて来れないようにしたのでした。

「諸葛亮」に逃げられてしまった「周瑜」でしたが、心待ちにしていた東南の風は吹いたのです。

「曹操」軍に火計を実行するために軍を動かし、そして「曹操」へ偽りの投降を約束した「黄蓋」が「曹操」の陣に突入したのでした。

「曹操」の大惨敗

「曹操」の大惨敗

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「黄蓋」が乗る船は燃えやすいよう柴や火薬を大量に積んでいました。
そして「曹操」軍の船に衝突した際に簡単に離れないよう、船の先端に釘のようなものを打ち付けていたのです。

「曹操」は投降してくる「黄蓋」の船を見付けたのですがすぐに異変に気づきました。
「曹操」は「「黄蓋」が投降してくるなら、降伏の証として大量の物資が乗っているはず。
しかし「黄蓋」の船は船体がほとんど沈んでなく、船足も速い。」と言い、すぐに船を止めるよう指示を出したのです。

しかし「曹操」の指示が伝わる前に「黄蓋」らが乗る船が「曹操」軍の船に衝突したのでした。
そして同時に火の手が。
すぐに辺りは火の海に変わってしまったのです。
「曹操」軍は被害を最小限に食い止めるため「黄蓋」らの船の引き放しをおこなうのですが、釘が刺さってしまい離れず、また「曹操」軍らの船も「龐統」の連環の計により鎖でつながれていたため、切り離すことができませんでした。

「周瑜」らによる火計は大成功。
「曹操」の水軍や要塞を全て燃やし、その被害は陸地に陣を張っていた軍にも及びました。

「曹操」は命かながら小舟に乗り脱出したのでした。

この火計で「曹操」軍は30万もの兵を失ったと言われています。
大惨敗でした。

「曹操」の逃避行

「曹操」の逃避行

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赤壁で多くの兵を失った「曹操」には、戦う気力は残っていませんでした。
無事に領土に逃げこむことで精一杯だったのです。

しかしそのような「曹操」に「諸葛亮」は要所要所に「劉備」軍の兵を待ち伏せさせ、「曹操」を捕えようとしたのでした。

しかも「諸葛亮」は「曹操」の考え方も熟知していたのです。

まず「分かれ道があると、最短で都に帰ることができる道を選ぶ。」であるとし、そこに「趙雲」を待機させたのです。
そして次に「「趙雲」に攻撃された「曹操」が次に選ぶであろうこの道には「張飛」を待機させる。」と命令を出したのです。
しかも「張飛」にはわざと兵が居るように炊飯の煙が上るように仕込ませていたのでした。
これは「疑い深い「曹操」が炊飯の煙が上っている道こそ兵が居ないと思い敢えて選ぶだろう。」という「諸葛亮」の読みでした。

全て「諸葛亮」の策通りに運び、まずは「趙雲」。
何とかその場から逃げることができたと思ったら、次は「張飛」と言う形で、「曹操」は追い詰められていくのでした。

次から次へと攻撃される「曹操」の周りの者たちは、山道の行軍や寒さにも体力を奪われ、息絶えるものが出てくる状態でした。

「関羽」が「曹操」を見逃してしまう

「関羽」が「曹操」を見逃してしまう

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「劉備」には「関羽(かんう)」という「張飛」と共に義兄弟の契りを交わした部下がいたのでした。
しかし「諸葛亮」は、「関羽」には今回の「曹操」を捕えるための策には用いることはなかったのです。

「関羽」はそれが非常に不満で「なぜ「趙雲」や「張飛」には任務が与えられて、自分には与えられないのか」と怒りが爆発していました。
しかし「諸葛亮」は以前「関羽」が「曹操」の世話になり、恩義を感じて見逃してしまうのではとの懸念があったため用いることはしなかったのです。

「諸葛亮」はその懸念を「関羽」に伝えたところ、「関羽」は否定。
「「曹操」を必ず捕えて来るので命を与えて欲しい」と再三願い出たのでした。
そして「関羽」の熱意に負けた形になった「諸葛亮」は、「この場所で待機するように」と命を与えたのです。

そして「諸葛亮」の指示通り、「関羽」が待機していた場所に「曹操」がやってきたのでした。
「曹操」やその周りの部下たちは戦うことも逃げることもできないほど疲れ切っていました。

「曹操」は最後の手段として、以前「関羽」と親交を結び世話をしたこと、「関羽」が「曹操」の領内で犯した罪を許したことを語り、今度はこちらを見逃して欲しいとお願いするのでした。

「関羽」は「諸葛亮」と約束し、今回の任務を与えられたのですが、義理人情に篤い「関羽」は「諸葛亮」の懸念通り「曹操」を見逃してしまうのです。

そして「曹操」は味方が守る南郡にたどり着き、ようやく一息をつくことができたのでした。

魏・呉・蜀誕生のきっかけとなった戦い

いかがでしたでしょうか。
赤壁の戦いは、弱小勢力である「孫権」と「劉備」が巨大な勢力である「曹操」を見事に打ち破り、三国の成立のきっかけになった戦いです。
そしてこの不利な戦いに勝利するために、さまざまな人物の色んな謀略が張り巡らされるのでした。
誰一人この戦いに欠けても、赤壁の戦いに勝利することはなかったでしょう。
反対に「孫権」「劉備」の陣営の誰か一人でも欠けていたら、「曹操」の勝利に終わり、三国の誕生はなく、「曹操」による魏の中華統一がなされていたかもしれません。

そうなると三国志という読み物の誕生もなかったかも。
それだけ中華の歴史を変えてしまった大きな戦いであったことは事実なのです。

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