2度に渡って徳川の大軍を撃退!表裏比興の者・真田昌幸とは?

皆さん、真田昌幸という人はご存知でしょうか?去年の大河ドラマ「真田丸」で主人公の真田幸村の父で、草刈正雄さんが演じていたことで知っている人も多いのではないでしょうか?

幸村にスポットが当てられることが多いのですが、ここでは、父・昌幸について見ていきたいと思います。

昌幸はどのように戦国時代を生き抜いてきた?

昌幸が作った上田城はどんな城?

2度の上田合戦で昌幸の実力派どう発揮される?

九度山に流された後の昌幸は?

ということについて見ていきたいと思います!

真田昌幸はどのように困難をくぐり抜けてきた?

昌幸はどのように真田の当主になった?

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真田昌幸の生涯は苦難続き。
まずは昌幸の幼少時代から見ていきたいと思います。

昌幸は天文16年(1547年)に真田幸綱の三男として誕生。
後に武藤家の養子となり、武藤喜兵衛(きへえ)と名を改めました。

幸綱は武田晴信(信玄)が父・信虎を駿河に追放した後、信玄の配下となりますが、幸綱が嫡男・信綱に家督を譲った後亡くなり、主君の信玄も上洛の途上で病没。
そして天正3年(1575年)、長篠の戦いで昌幸の兄の信綱と昌輝の2人の兄が戦死。

このため、昌幸が真田の姓に復し、信綱の跡を継ぎ真田家の当主になりました。
昌幸にはその後、信幸と信繁(幸村)という子が生まれ、また信玄は昌幸を「我が目」と称して重用し、その能力を高く評価したといいます。

上杉謙信が没した後、武田勝頼と上杉景勝の間で東上野(こうづけ)の帰属が問題となり、両者は戦うことに。
昌幸は東上野に攻め入り、天正8年(1580年)に沼田城を攻め落とし、「沼田城法度7ケ条」を制定しました。

信玄が亡くなった後、勝頼はよく武田家を支えましたが、長篠の戦いで織田・徳川の連合軍に敗れた後、武田家は窮地に陥り、木曽義昌や穴山梅雪が織田・徳川に裏切られ、天正10年に高遠城を攻め落とされると小山田信茂も裏切り、昌幸は勝頼を助けようとしますが、それは叶わず。
そして、天正10年3月11日、とうとう勝頼は天目山で自刃。

そしてここで武田氏が滅亡したことにより、昌幸はどの勢力に味方するかを決断を迫られました。

信長の配下になり、上田城を築いた昌幸

101607:信長の配下になり、上田城を築いた昌幸

撮影/カワタツ

そして、ここで昌幸が配下になることを決意したのは、織田信長。
武田氏の滅亡直後、早速信長に対面。

信長は武田氏遺領の知行割を行い、配下の滝川一益(かずます)に上野国と信濃国の小県(ちいさがた)・佐久の両郡を与えたといい、昌幸は一益の配下に収まることになり、信長の勢力下に組み込まれました。

そして、翌年11年4月、昌幸は上田城の築城に着手。
上田城が築城された場所は、上田盆地のほぼ中央の千曲川(ちくまがわ)の尼ヶ淵(あまがふち)河岸段丘。
現在は国の指定史跡であり、上田城跡公園になっています。
上田城は高台に築かれていたため、城下を一望することが可能。

私も今年7月に上田城に行ったのですが、尼ヶ淵は敵が攻めにくい崖になっていて、なおかつ昔は尼ヶ淵まで千曲川が流れていたといいます。
かなり堅固な城だと感じておもしろく感じたのを覚えています。

上田城の東側の上州街道は、上野国沼田城へ続いていて、城の北側は千曲川と並行して北国(ほっこく)街道が通っています。

北陸街道と北国街道は中山道とつながっており、中山道の信濃追分から小諸・上田・高田を経て、北陸街道の直江津(上越市)に通じる重要な脇街道。
交通の要衝でした。

上田城はどんな城だった?

101608:上田城はどんな城だった?

撮影/カワタツ

2年後の天正13年、ようやく上田城が完成。
現在、建物は3棟の櫓(やぐら)が残っていますが、これは17世紀初頭の仙石氏の時代のもの。
私も櫓の中に入りましたが(北側の櫓の、上田合戦のジオラマは必見!)、真田のものではないのは少し残念ですね。

また二の丸の「三十間堀」や「百間堀」も完全な形では残っていません。
こうした堀は敵を防ぐ上で効果を発揮したと考えられていますが、私には現存する堀だけでも充分堅固だと思ったのですが、昔はさらに堀があったのですね。

上田城は堅牢な石垣で構築され、有名な真田石は、高さ約2.5m、横約3mという巨大さ。
当時の高い技術をうかがうことができ、また二の丸の堀からは瓦の破片などがたくさん発掘されています。

ただ残念なことに、当時の上田城の面影を随所にしのぶことはできますが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、真田時代の上田城は一度破却されてしまっています。

しかし、上田城跡公園内の大河ドラマ館だった建物の中にあるVRシアターでは、最新VR技術を使って当時の上田城を再現してありますので、これは是非見ていただきたいです。

なお、もともと上田城は伊勢崎城と称されていましたが、昌幸は隣接する神科(かみしな)台地の上田荘にちなんで上田城に改称したといわれています。

第1次上田合戦

第1次上田合戦はどのように始まり、どう徳川勢を誘い込んだ?

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真田昌幸といえば、やはり徳川家康の大軍を少数の兵で2度に渡り退けた「上田合戦」が見所ですね。
まずは第1次の上田合戦を見ていきましょう。

信長が本能寺の変で死んだ後、昌幸は徳川家康と手を結びましたが、家康は対立していた北条氏直と和睦し、和睦の条件として、上州沼田を氏直に引き渡すよう昌幸に指示。
しかし、昌幸は「沼田は自分の力で得た領地。
北条に渡す謂(いわ)れはない」と拒絶しました。

怒った家康は上田城への攻撃を決意し、天正13年(1585年)閏(うるう)8月2日、徳川の先陣約7千が佐久を経て八重原(やえはら)に布陣。
一方、昌幸は城下に千鳥掛の柵を配備し、500の兵とともに籠城。

徳川勢は八重原を出陣、長瀬河原から猫ノ瀬を渡って信濃国分寺へと押し寄せ、これに対し昌幸は息子の信幸と信繁(幸村)にそれぞれ兵を与え、神川近くに陣を構えさせました。

真田勢は神川を渡って進軍してきた徳川勢と小競り合いを繰り返し、誘うように退却。
徳川勢は誘いに乗って信幸・幸村勢を追撃し、この時点で徳川勢は罠にかかったということになりますね。

信幸・信繁勢は三ノ丸の横曲輪に入り、徳川勢は大手門を突破し、二の丸へ攻撃を仕掛けました。

第1次上田合戦の結果は?

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その時、昌幸は500の兵で二の丸から打って出て、これに合わせて信幸・信繁も側面から攻撃を開始し、さらに町屋に火をかけました。
不意を突かれた徳川勢は慌てふためき退却を始めましたが、千鳥掛の柵(壁から斜めに柵が置かれ、逃げる敵兵を詰まらせたり引っ掛けたりする効果)に遮られ、多くの兵を失うことに。

退却する徳川勢は、昌幸の追撃と信幸・幸村による側面攻撃を受け、神川まで追い詰められました。
この時水かさが増えていた神川を渡ろうとして、流されたり溺死した兵が多く、徳川勢はさらに兵を失いました。

「真田丸」でこの時の合戦の回を見た時、「見事だなあ!」と高揚したのを覚えています。

その後、両者は神川付近で一進一退を繰り返し、夕暮れを迎えて真田勢は兵を引き上げました。
翌3日、上田城を直接攻撃するのが難しいと考えた徳川勢は、丸子城の攻略に作戦を切り替え移動し、真田勢もそれに合わせて移動し、にらみ合いが続き、膠着(こうちゃく)状態のまま9月13日には井伊直政ら5千の軍勢が着陣。

しかし、家康の重臣石川数正が突如豊臣秀吉側に寝返ったため、11月1日に徳川勢は引き上げ、小諸城に押さえとして大久保忠教(ただたか)を残し、3カ月に渡る第1次上田合戦は終了しました。

真田勢が勝ったのは、ここで石川数正が裏切り、徳川勢の大半が撤退したことが大きかったとも言われていますね。

また、ちょうどこの頃、昌幸は「裏表がはっきりしない油断ならない人物」という意味の「表裏比興(ひょうりひきょう)の者」と呼ばれるようになりました。

第2次上田合戦とは?

第2次上田合戦はどのようにして起こった?

そして、次は昌幸の運命を決めたとも言える、第2次上田合戦です。

その後、天下人・豊臣秀吉の命で昌幸は家康の与力となり、昌幸の嫡男・信幸が家康の家臣・本多忠勝を妻として迎え、昌幸と家康の関係は改善され、小田原征伐に従軍したことにより、一度は北条氏に取られた沼田城も安堵されました。

しかし、秀吉がこの世を去って2年目の春、慶長5年(1600年)、徳川家康は上杉景勝が謀反を企てているとして、会津征伐に向かいました。

昌幸と信幸・信繁父子も徳川勢に加わり、関東に向かいますが、その途中で石田三成が京都で挙兵し、昌幸の元へも誘いの書状が。

これを受けて父・昌幸と弟信繁は石田方に、兄・信幸は徳川方につくことになりました(犬伏(いぬぶし)の別れ)。

昌幸と信繁は沼田城下を通り上田城に戻り、8月24日、徳川勢の本陣を率いた徳川秀忠は、三成ら西軍討伐のため、下野(しもつけ)の宇都宮を出発し、上田城を攻め落としてから家康と合流する予定。
総勢約3万8千の兵が中山道を上野(こうづけ)に入りました。

一方、江戸に戻った家康は9月1日に西国へと出陣。
9月2日に秀忠は小諸城に到着し、昌幸に上田城を明け渡すよう使者を送りました。
会見は信濃国分寺にて行われ、昌幸は返事を数日延ばし、城の普請など戦の準備を進めてから西軍の三成に加勢することを告げました。

私のみならず、真田丸を見ていた人には「昌幸らしい!セコいけど焦らすのが上手い!」と思うのではないでしょうか?星野源さん演じる秀忠が「これは…怒っても良いのか?」というセリフを言うシーンが目に浮かびますね。

第2次上田合戦の結果、昌幸と幸村はどうなった?

9月2日、激怒した秀忠は小諸を出発し、染谷台に陣を敷き、上田城攻めを開始。
向かえ撃つ真田の兵力は約3000。
改めて見ると少ないですよね。
3000対38000ですから。

昌幸と信繁は城外に出て徳川勢を挑発、それに乗せられた徳川勢を撃退しました。
こうした小競り合いはあったものの、徳川勢は上田城を攻略することはできず、秀忠は上田城の攻略を諦めることに。

秀忠は9月8日、上田城の押さえに仙石(せんごく)秀久と信幸を残し、中山道の木曽路を進むことにしました。

しかし、秀忠が関ヶ原の戦いでの勝利を知ったのは木曽路を通過している時で、徳川勢の本隊3万8千は決戦に間に合わなかったということに。

そして、ここで石田方が負けてしまったことにより、昌幸と信繁は家康の怒りを買い、最初の予定では「上田領を没収され、死罪」ということでしたが、信幸が家康に嘆願し、これにより奇跡的に昌幸・幸村の死罪が取り消され、信幸の上田拝領も認められました。
そして、昌幸・信繁には高野山の近くの九度山村での蟄居(ちっきょ)が命じられたのです。

九度山での昌幸は?

九度山に配流された昌幸の生活は大変苦しく、慶長8年(1603年)には本多正信を介して家康に許しを願う書も送っています。
不慣れな土地での生活が苦しかったのでしょう。
小大名とはいえ、大名の家で生まれた昌幸でもありますし。
しかし、昌幸の願いはついに叶いませんでした。

また昌幸の経済状況も非常に厳しく、息子の信之から援助を受け、紀州藩の浅野家や蓮華定院(れんげじょういん)からも支援を受け、さらに昌幸には多額の借金があり、返済に困っていたといいます。

また昌幸の晩年は病気との戦いで、信之に送った手紙には加齢により気力・体力ともに衰えたことが記されていたそう。

しかし、死の間際になって昌幸は信繁に家康に勝つための秘策を授けたといいます。
それは「3年以内に徳川と豊臣は決裂し、豊臣方からは必ず出陣要請がある。
自分のような名将が出陣すれば家康は関東から奥州まで兵を募るので、その間に瀬田・宇治の防御態勢を整え、二条城を焼き払い、大坂城に籠城する」というもの。
大野治長がこの案を拒絶することまで言い当てました。
これを息子の信繁(幸村)が大坂の陣で実行しようとしたわけですね。

しかし、慶長16年(1611年)に昌幸は65歳で真田庵で病没し、11年の九度山での幽閉生活を終えました。
九度山の真田庵には宝塔があり、昌幸の墓所とされ、また、昌幸の火葬後の慶長17年(1612年)、川野清右衛門が分骨を持ち出し、上田の長谷寺(ちょうこくじ)に納骨したといわれています。

昌幸目線で上田城へ行ってみて!

従う・もしくは同盟する大名を次々と変えて生き残り、さらには上田城を築き、2度の上田合戦で徳川の大軍を撃退し、配流された九度山で苦しい生活を送り、その困難の連続だった生涯を終えた真田昌幸。

やはり息子の信繁(幸村)の方がより焦点をあてられるのですが、今回、昌幸目線でまとめてみて、幸村とはまた違った視点で見ることができました。

そして、昌幸が作った上田城ですが、とても見ごたえのある城ですので、是非行ってみてください(私は岡山から往復20時間以上かけて行ったのでしんどくはありましたが)。

それでは、読んでくれてありがとうございます!

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