【大洲城観光の前に知りたい】肱川の名前の由来は悲しい話?「大洲城」の歴史

皆さんは大洲城と聞くとどこの都道府県にある城かお分かりになりますか?愛媛県にある城だと知っている人は少ないかもしれませんね。でもこの城、なかなか面白いのです。
この記事では、大洲城の天守はどのように復元された?大洲城にはどんな建物が残っている?肱川(ひじかわ)の名前の由来となる悲しい話とは?歴代の大洲城の城主は何をした?
などのテーマに迫っていきます。

大洲城にはどんな建物がある?

大洲城はどこにある?

大洲城は愛媛県の南西部にあり、愛媛県の県庁所在地の松山からは特急宇和海で35分、松山までは新幹線の止まる岡山から特急しおかぜ、もしくは高速バスでしまなみ海道を渡った新尾道駅や福山駅から来ることもできます。

私は地元岡山から松山まで特急しおかぜ、大洲まで(内子経由)特急宇和海で行ったのですが、この宇和海はディーゼル特急で単線で山際を駆け抜ける疾走感というか、そういう所が好きですね。

そして、伊予大洲駅から大洲城へは徒歩で20分、もしくは車・タクシーで5分。
少し距離があるのですが、私は肱川(ひじかわ)を見て歩くのが楽しかったです。
タクシーの方は帰りはタクシーがつかまりにくいので、ご注意を。

そして、平成14年(2002年)には天守の復元工事が起工され、平成16年(2004年)9月には古式の技法によって再築された木造天守が竣工。

大洲城は明治21年(1888年)、惜しくも天守が取り壊されてしまいましたが、4棟の櫓は解体をまぬがれ、いずれも国の重要文化財に指定されています。

大洲城の天守復元は完璧?

101732:大洲城の天守復元は完璧?

撮影/カワタツ

4層4階の天守は明治期の取り壊し以前の天守の姿を撮影した古写真や、また城主の末裔加藤家に多くの図があり、さらに藩の作事方棟梁の中野家には天守の木組みが残る「天守雛形(ひながた)」と呼ばれる江戸期の木組模型などの資料を元に、その上で発掘調査を実施し、天守の土台、雨落(あまおち、軒(のき)の出方がわかる)、柱位置などを確認して平成16年に木造で復元したもの。

したがって、この天守復元は「完璧に近い」ということができます。

使用した木材は全て国産材で、城郭建築特有の迫力ある木組みが見られます。
特に1、2階は他の城にない吹き抜けの構築が施されています。

国産の木材だからでしょうか、私が行った時は温かみを感じました。
基本的に城は古い方が面白いのですが、新しい木で作られた城も「城を新しく作ったらこんな感じだろうか?」と思えて面白かったです。

とにかく、私としては松山から南の、山ばかりの田舎(地元の方、すいません)に入ったつもりだったので、こんな大きな城があることに驚きました。
現存天守で伊達の城で有名な、宇和島城より大きかったですからね。

高欄櫓・台所櫓・苧綿櫓とは?

101733:高欄櫓・台所櫓・苧綿櫓とは?

撮影/カワタツ

また、高欄櫓と台所櫓を多聞櫓で結んだ復元連結天守で、現存する高欄櫓と台所櫓は小天守にあたります。

松本城・広島城と同じく小天守2基を多聞櫓でカギの手状に結んでいるわけですが、高欄櫓は廻縁(めぐりえん)を伴い唐破風(からはふ)が飾られる本格的な天守づくり。

台所櫓は、籠城時に本丸と天守に立て籠もる城主とその一族、将兵たちの兵糧を賄う、その名の通り調理場となる建物です。

城は清流として知られる肱川(ひじかわ)のほとりにあり、肱川を臨む石垣上の均整のとれた二重櫓が川面に映えています。

下見板張りの白亜眩いこの櫓は苧綿櫓といい、櫓の背後にある緑濃い丘は大洲城本丸がある地蔵岳。

また大洲といえば、少し年配の方には、NHK朝の連続ドラマ「おはなはん」の舞台となった所として知られ、城の近くには「おはなはん通り」などがあります。
私も通ってみたのですが、石畳が風情があって良い雰囲気でした。
また大洲城からおはなはん通りを通って肱川に東のほとりまで行った所にある、臥竜山荘(がりょうさんそう)にもぜひ行ってみてください。
苔の多い緑の庭園と、肱川の崖から張り出した建物がとても素敵です。

大洲城には他にどんな建物がある?

また、市役所の西側に二の丸大手口の石垣が残っていて、また虎口(こぐち)跡を入ると巨大な純白の切妻(きりづま)の建物が現れ、これは全国的に見ても珍しい御殿付属の台所建築で、下台所と呼ばれています。

この下台所から坂を登れば、地蔵岳の本丸。
本丸には高欄櫓の下方から、上方が櫓門を兼ねた多聞櫓がおおう、暗門(くらがりもん)と呼ばれるトンネル状の門をくぐります。
姫路城ニの門のような佇まいですが、残念ながらこの暗門周辺は大きく改変されて旧状をしぶことができません。

本丸はこの暗門の多聞櫓と台所櫓を結ぶラインで東西に二分され、東側が本丸御殿、西側が天守櫓でした。
天守へは本丸御殿に一旦入ってからUターンして入ることが古地図から確認できるそうです。

なお、天守の二層目に開かれる窓に注目してみてください。
角格子窓が連なる天守ですが、二層目のみが華灯窓(かとうまど)で統一され、また置唐破風(おきとうはふ)が三層目屋根の4面にあるのも大変珍しいそうです。

大洲城の歴代城主は?

肱川の名前の由来となる悲しい話

101731:肱川の名前の由来となる悲しい話

撮影/カワタツ

次は大洲城の歴史を見ていきましょう。

南北朝時代の元弘元年(1331年)、宇都宮豊房(とよふさ)が地蔵ヶ岳に城を築いたのが大洲城のはじまり。

豊房は鎌倉幕府の北条氏から元徳2年(1330年)に伊予国の守護職に任ぜられ、翌年大洲に入り、地蔵ヶ岳城を築城して初代城主となり、伊予国の本城としました。
正直に言うと、大洲は他の地方からの出入りの便はよくないと思うのですが、ここを伊予の本城としたのは何か理由があったのでしょうか?

さらに、興味深い話があるのですが、豊房が地蔵ヶ岳城を築城した際、城の下手の高石垣が何度積み直しても崩れました。

不思議に思った人々は「これはたたりに違いない」と思い、人柱を立てることに。
人柱を立てるほどだということは、石垣が崩れて死人が出るほどだったのでしょうか?

しかし、自分から人柱になりたいと言う者はもちろんおらず、くじ引きで決めることになり、運悪くそのくじを引いてしまったのは「おひじ」という若い娘。

家族の悲しみは深く、哀れに思った豊房は「何か言い残すことはないか?」と聞き、

「特に望みはないが、せめてこの城下を流れる川に私の名を付けて欲しい」と娘は言ったそうです。

そして、出来上がった高石垣は崩れることはなく、城も立派に建ち、その後おひじの遺言通り、城下に流れる川に「肱川(ひじかわ)」と名付け、おひじの魂をなぐさめました。
またおひじの住んでいた所は比地町(ひじまち)と呼ばれるようになったそうです。

面白い話ではありますが、やはり悲しくもありますね。

戦国時代、大洲の城主はどう変わった?

101736:戦国時代、大洲の城主はどう変わった?

撮影/カワタツ

時代は飛んで戦国時代の天正13年(1585年)、羽柴秀吉が四国を平定した後、大洲城は道後湯築城を本拠とする小早川隆景の枝城となります。
隆景は一度毛利家に与えられた伊予を改めて受領する形で体裁を保ち、大洲城には弟の秀包(ひでかね)を置きました。

主家に気を使ったというよりは、秀吉から直に領地をもらうという越権行為をして、毛利家の他の武将から恨み嫉みを買うということを恐れたのではないでしょうか。

また、隆景は三原に本拠を置いたままだったにもかかわらず、伊予国の支配はそれは良い良い、素晴らしいものだったそう。

そして、文禄4年(1596年)には藤堂高虎が7万石で板島(後の宇和島)に入城。
大洲は蔵入り地となり高虎が代官となりますが、すぐに大洲を居城とするようになりました。
なのですが、藤堂高虎については以前「今治城」の記事で書きましたので、ここでは割愛しますね。
面白い人物なので、よろしければぜひ今治城のものを読んでみてください!

慶長14年(1609年)には脇坂安治が洲本より大洲に入城。
喜多・浮穴(うけな)・風早(かざはや)3郡において5万石を領するように。
また安治と子の安元は関ヶ原の戦いで小早川秀秋と共に西軍から東軍に寝返って大谷吉継隊を壊滅させた功ににより、この地を得たのです。

しかし、元和元年(1615年)に次男の安元に家督を譲って京都の西洞院に隠居し、大洲の滞在は短いもの。
また安元も元和3年(1617年)、大洲から信濃国飯田藩に加増移封されました。

城と城下町が整備され、財政が窮乏した、加藤貞泰から泰統までの時代

101735:城と城下町が整備され、財政が窮乏した、加藤貞泰から泰統までの時代

撮影/カワタツ

その後加藤貞泰が米子より大洲に入城。
喜多・浮穴・風早の3郡に加えて桑村郡などの内6万石を領し、高虎から脇坂、そしてこの貞泰の時代にかけて天守などが造営。
貞泰により城と城下町が経営され、三の丸には現存する位置に南隅櫓が建てられました。

しかし、貞泰は大洲に来てわずか6年ほどの元和9年(1623年)に死去。
それだけ短い期間で城や城下町などを整備することができた優秀な人だったのですね。

また、跡を継いだ泰興(やすおき)は家臣団編成や軍備強化など、藩政の確立と強化に尽力し、盤珪永琢(ばんけいようたく、臨済宗の僧)に教えを受け、福田寺を創建。
また備中足守藩主木下・木下利当より淡路流槍術を学び、加藤家伝流を開き、槍遣いの達人と称されました。

その後の泰恒(やすつね)は家臣の給与を知行から蔵米へ改め、倹約・綱紀の粛正を行い、また狩野常信(かのうつねのぶ)門下で絵を学び、歌や書に優れていました。

次の泰統(やすむね)の代には、度重なる風水害で大洪水が起こり、さらに城下町の火災も相次ぐなどして藩政は多難に見舞われ、藩財政は窮乏。
また享保7年(1722年)には大洲城三の丸南隅櫓も焼失します。

財政悪化に苦しんだ泰温〜泰衑の時代

次の泰温(やすあつ)の代には享保17年(1732年)の享保の大飢饉により大被害を受け、餓死者が多数出て食糧不足に陥いりました。
また参勤交代などの出費で藩財政の窮乏化が進み、このため倹約令を出して緊縮財政政策を採用。
また、領民に対する文教政策などにも尽力しています。

次の泰衑(やすみち)も財政再建に尽力しますが、幕命による朝鮮通信使の接待などによる出費で藩財政はさらに悪化し、それにより百姓に重税を強いて内ノ子騒動が起こるに至りました。
また延享4年(1747年)、藩儒の川田雄琴を教授とした藩校明倫堂が開校。

次の泰武の代の明和3年(1766年)に大洲城三の丸南隅櫓は今日の姿に再建。
日本の封建都市の代表とされる「城下町大洲」の景観の中、高校の敷地内にその三の丸櫓は現存し、見落としがちなのでご注意を。
私も見逃してしまったと思います。
高校の敷地内はわかりにくそうですよね。

砥部焼の創始と肱川の治水工事、苧綿櫓が再建された泰候・泰済の時代

次の次の泰候(やすとき)は藩財政再建のため、安永4年(1775年)に磁器生産を命じて、砥部焼を創始。

次の泰済(やすずみ)の代には再び火災や大洪水などの天災により、藩財政は大いに悪化。
そのため倹約令を出すと、文政元年(1818年)頃には効果が現れて、藩財政は安定したといわれています。
藩の財政を安定させるのって、何代も、100年もかかったりするのですね。
また、文武を奨励し、商礼条目制定による商業統制も行いました。
しかしこの人、天気予報のできるタレントみたいな名前ですね。

次の泰幹(やすもと)は上げ米を行い、天保2年(1831年)10月には肱川の治水工事を行ない、しかし大洪水や風水害などの天災が相次いで、藩財政はさらに悪化。
しかし、このための財政改革に手腕を見せています。

また天保14(1843年)には苧綿(おわた)櫓が再建。

しかし、安政4年(1857年)には地震により台所櫓・高欄櫓が大破、台所櫓はわずか2年後の安政6年 (1859年)に、高欄櫓もその翌年の万延元年に再建されます。

明治維新以降の大洲城は?

最後の藩主・泰秋は鳥羽・伏見の戦いでは警備する摂津西宮へ長州藩兵を隠密に上陸させ、戊辰戦争では武成隊による甲府城警備や奥羽討伐など、新政府側に与して貢献。
1869年6月に版籍奉還で藩知事、1871年7月の廃藩置県で免官となりました。

明治21年(1888年)の海南新聞10月23日付けに天守の取り壊し作業が始まる記事が掲載されているそうです。
今の時代、細かくいつ壊されたのを知るのは難しく、残っている当時の新聞でいつ壊されたのか分かるわけで、つまりは天守が取り壊されたのは明治21年だということですね。
しかし、やはりどこの城でも天守が取り壊されると「もったいない」と私は思ってしまいます。

そして時代は飛んで昭和28年(1953年)大洲城跡は県指定遺跡に指定され、昭和32年(1957年)には台所櫓・高欄櫓・苧綿櫓及び三の丸南隅櫓が重要文化財に指定され、昭和34年には苧綿櫓の解体修理が完了され、土台の石積みが2.6mかさ上げされました。
つまりは苧綿櫓の工事が終わったということになりますか。

昭和40年(1965年)には三の丸南隅櫓、昭和45年(1970年)には台所櫓・高欄櫓の解体修理が完了。

そして、平成14年(2002年)には天守の復元工事が起工され、平成16年(2004年)9月には古式の技法によって再築された木造天守が竣工されました。

大洲城のついでに臥竜山荘、内子や宇和島も行ってみて!

大洲城天守は古式の技法で、古写真や天守雛形を元に古式の技法を使って復元され、また肱川の名前の由来は人柱になった若い娘が「おひじ」という名前だったこと。

私は5年ほど前に大洲に行ったのですが、大洲城を訪れ、まだ新しかったですがその大きさ・立派さに圧倒され、臥竜山荘の緑の庭園と肱川のきらめきに惹かれてしまいました。
大洲に行くなら内子・宇和島など南予の他の町と合わせて行くと楽しいと思います。
宇和島は魚介も美味しいですしね。

それでは、ここまで読んで頂いてありがとうございます!