「黄巾の乱」をざっくり把握!三国志のきっかけとなる話です

三国志誕生のきっかけとなった黄巾の乱。一人の男が中華に登場したのです。その男とは「張角(ちょうかく)」。この男をトップとする、頭に黄巾と呼ばれる黄色い頭巾を巻き、それを目印にした者たちが184年に反乱を起こしたのです。この反乱を黄巾の乱と呼ばれるのですが、結果制圧されてしまいます。しかしこの反乱は後漢王朝の衰退を招き、三国志の誕生を迎えるきっかけになったのでした。この三国志の誕生のきっかけとなった黄巾の乱、なぜ起きたのか。簡単にまとめてみました。

新興宗教「太平道」の誕生

金策に走る「霊帝」

金策に走る「霊帝」

image by iStockphoto

168年、12代「霊帝(れいてい)」が即位。

彼は先の帝である「桓帝(かんてい)」に跡継ぎが居なかったため、「桓帝」の皇后らによって擁立された皇帝でした。

しかし皇帝になった「霊帝」ですが、この時、自身にも国にも困ったことがあったのです。

それは「霊帝」自身にも国庫にもほとんどお金がなかったのでした。

「霊帝」自身がお金持ちであれば、少しは違ったかもしれませんが、「霊帝」も王族であった割に、それほどお金持ちではなかったのです。

お金がなく、困り果てた「霊帝」が必死に手元のお金を増やすためにいろいろ考えたのですが、一つのアイデアを取り入れることにしたのでした。

それは「霊帝」が官位をお金で売買させることを認めたのです。

お金を積むだけで高位高官が得られるので、その官位を得るための能力や実績は全く関係なくなってしまいました。

しかしこの「霊帝」のアイデアは大成功をおさめるのです。

高い官位が欲しいお金持ちたちが、競って高額な値段で官位を買ってくれるため、すぐに国庫にお金が貯まるようになったのでした。

しかしこのようなやり方は弊害もあり、この官位がお金で売買されることによって人々の心は醜くなってしまうのです。

皇帝が官位の売買を認めたことで、皇帝の近くに居る者に対しても賄賂を贈り、官位を手に入れようとすることが当然のようなことになってしまい、結果賄賂によって政治が動かされていくようになったのでした。

そして高い官位を購入するために、偉くなろうとする役人はお金を集めるために、庶民に重税を課し、苦しめていったのです。

民衆を苦しめる「霊帝」

民衆を苦しめる「霊帝」

image by iStockphoto

また「霊帝」は擁立された皇帝であったため実権はほとんどなく、政治は「霊帝」を皇帝に擁立した「桓帝」の皇后らとその周辺で動かされていました。

しかしその流れに不快感を示す者たちが居たのです。

それは「桓帝」の頃に力を握っていた宦官と呼ばれる、皇帝の世話をおこなう付き人のような人たちでした。

宦官は皇帝の近くに常に居るため、権力を握りやすい立場であり、また実際上手く「桓帝」取り入って後漢を動かしていたのです。

「霊帝」により力をつけた者、「桓帝」の頃に力を持っていた者、それぞれが仲良くなることは決してなく、皇后周辺と宦官たちによる権力争いが始まったのでした。

ただ権力争いと言っても、それは武力による戦いと言う訳ではなく、お互い必死に賄賂を求め、売官をおこないお金儲けに走る方法です。

しかしお金は結局庶民の重税から生まれるため、庶民は日々の生活すらままならなくなってしまったのでした。

「霊帝」自身も周囲の協力があったから皇帝になれたという後ろめたさもあったのか、他の劉氏一族を処罰していくのです。

「霊帝」もその周りの者たちも自分のことしか考えていないので後漢に対する求心力は落ちる一方でした。

そしてこのように弱りつつある後漢の様子を見て、後漢周辺の異民族たちが頻繁に侵攻してくるようになったのです。

さらに天候不順が重なり各地で天災が発生、人々はさらに日々食べるものにも困るぐらいでした。

しかしそのような中でも役人は変わらず重税を課し取り立てていくため、地獄のような毎日で明日すら見えないのです。

このような中、民衆は世の中を救ってくれる人物を待ち望んでいたのでした。

民衆の希望の光であった「張角」

民衆の希望の光であった「張角」

image by iStockphoto

このような世の中に、一人の人物が現れたのです。

その人物の名は「張角」と言い、字も生年も不明な人物。

ただ唯一わかっていることは、冀州出身で正義感あふれる人物であったと言うことだけでした。

この「張角」は、後漢の乱れた政治を良くしたい一心で若い時に必死に勉強し、そして役人の採用試験を受け続けるのです。

しかしこの時代はお金で官位が買える時代。

「張角」のような才能があってもお金がない人物は、取り立てられることも無く、役人になることすらできなかったのです。

しかしある日、山に薬草を取りに行ったところで「南華老仙(なんかろうせん)」と言う人物と出会ったことで「張角」の運命は変わったのでした。

「張角」は「南華老仙」から、太平要術の書と呼ばれる書物を3巻授けられ、「この書物を使って世直しをせよ」との使命を与えられたのです。

「南華老仙」が「張角」に伝えた教えは太平道と言い、道教の一派でした。

この太平道の教えにより「張角」は風雨を呼ぶ妖術を使うことができるようになり、また病気で苦しむ人に対しては、罪を悔い改めさせ、符水を飲ませ、九節の杖で呪術をおこなうことで病気を治したのです。

この時代の人々は、超人的な能力を持つ「張角」のような人物の登場を待ち焦がれていたのでした。

「張角」の教えや行動は、後漢王朝に苦しめられていた人々の心にすっと入り込み、瞬く間に太平道の信者が増えて行ったのです。

そして八州で数十万もの信者を得た「張角」は教団を組織し、自らを「大賢良師」と号し、「南華老仙」が「悪しきことに使えば天罰が下る」と言った警告を忘れ、後漢を滅ぼし、自ら皇帝になることを考えるのでした。

この世の楽園を望んだ者たちによる、黄巾の乱

「張角」立ち上がる

「張角」立ち上がる

image by iStockphoto

「張角」の教えは実にこの時代の人々の心をつかんだのでした。

医者にかかれない貧しい人たちの病気を治し、治らない者には信仰心が足りないのが原因と言い、太平道をもっと信じるようにと教えて行ったのです。

「張角」の教えで本当に病気が治るのを目の前で見た病人たちは「張角」を神のように崇めて行くのでした。

また同時に「張角」は、善の行為をおこなうものには善の因果が、悪の行為をおこなうものには悪の因果がめぐると触れ回っていたのです。

この教えは各地で起こっているさまざまな天変地異は、全て後漢の政治が原因であり、悪行を重ねている後漢は滅びゆく予兆であると思わせたのでした。

この教えにより「張角」は善、後漢は悪と言う図式を成り立たせたのです。

たくさんの信者を得た太平道は、数十万の信者を36個にわけ、一単位を方とし頭目に統率させるといった軍事組織化して行き、政治色を強めていったのでした。

そして「張角」は、入念に反乱の計画を作り上げていったのです。

まず後漢王朝の転覆を暗示した「蒼天已死 黄天富立 歳在甲子 天下大吉」と言うスローガンを掲げ、それを広めた上、役所の門などに甲子の二文字を書いて人々に呼びかけたのでした。

このスローガンの蒼天とは後漢王朝を意味し、黄天は太平道の神をあらわすのであり、後漢が滅び、太平道が立つと言う意味でした。

さらに先に荊州と揚州で兵を集めさせていた「馬元義(ばげんぎ)」を洛陽へ派遣し、朝廷内に入り込ませたのでした。

そして「張角」は宦官と密約を交わし、挙兵日の184年3月5日には洛陽内から反乱を起こしてもらうように手配したのです。

しかしこの念密な「張角」の計画にも一つの誤算が生じたのでした。

その反乱の計画が太平道の信者であった「唐周(とうしゅう)」が他の宦官たちに密告し「霊帝」の知るところになってしまったのです。

「霊帝」の対処は迅速で、すぐさま「馬元義」は逮捕され、翌日には市場で処刑されてしまったのでした。

「馬元義」が逮捕、処刑されたことにより、反乱の企てが露見した「張角」は焦ったのでした。

そして朝廷内部の宦官の協力が得られないまま、一月早い2月に挙兵したのです。

「張角」は自らを天公将軍と称し、弟である「張宝(ちょうほう)」を地公将軍・「張梁(ちょうりょう)」を人公将軍とし、また「張角」による世直しに賛同した者たちは自発的に黄天を象徴する黄色い布を頭に巻いたのでした。

そのことから「張角」ら太平道信者による反乱を「黄巾の乱」と呼び、この反乱は各地の太平道信者と連携していたため、非常に大規模な反乱となったのです。

「霊帝」ら後漢王朝の迅速な対応

「霊帝」ら後漢王朝の迅速な対応

image by iStockphoto

「張角」の元には50万人もの人々が集まったと言われています。

中国には徳を失った人物は滅び、有徳の士が天下を取るという思想がありますが、それだけ後漢の政治に嫌気を指していた人々が多かったと言うことなのでしょう。

この黄巾の乱の拡大に驚いたのが「霊帝」やその周りの者たちです。

黄巾の乱が起きた時は「霊帝」の后である「何皇后(かこうごう)」の一族と宦官たちが権力争いをおこなっていたのですが、お互いそれどころではなくなってしまったのでした。

「何皇后」の一族と宦官たちはここでいったん休戦することにし、力を合わせて「張角」ら黄巾軍にあたることにしたのです。

「霊帝」は黄巾軍討伐のために「何皇后」の兄である「何進(かしん)」を大将軍に任命し、洛陽に入るための八つの関の守護を任せ、「盧植(ろしょく)」を「張角」のいる冀州方面、「朱儁(しゅしゅん)」と「皇甫嵩(こうほすう)」を豫州潁川方面と黄巾軍の勢力が強いところに送り込んだのでした。

さらに朝廷内の権力争いの中で捕えられていた人々を解放し、黄巾軍の元に走ることを阻止。

それに加え黄巾軍討伐のための義勇軍を全土で募集し、巨大な「張角」ら黄巾軍の勢力に立ち向かったのでした。

黄巾の乱と「曹操」の登場

黄巾の乱と「曹操」の登場

image by iStockphoto

「張角」の呼び掛けに応じた黄巾軍の指揮官は二名。

その内の一人、豫州・潁川の地で挙兵した人物は「波才(はさい)」と呼ばれる人物でした。

この「波才」は、「朱儁」・「皇甫嵩」を打ち破り、形勢不利と判断した「朱儁」と「皇甫嵩」は長社に籠城せざるを得なくなりました。

しかし「波才」の勢いは強く、これを大軍で取り囲み「朱儁」と「皇甫嵩」を追い込むのでした。

士気の低下を心配する「皇甫嵩」は、形勢を逆転するため、夜に「波才」の陣に火を放ち、奇襲する作戦を画策。

草むらに陣を敷いていた「波才」軍に対し、ものすごい勢いで炎が回り、この火計は大成功。

一気に形勢が逆転し、大混乱を起こした「波才」軍に「朱儁」と「皇甫嵩」は総攻撃を仕掛けたのでした。

そして燃え盛る炎の中、逃げまどう「波才」軍の目の前に、新たな敵が立ちはだかったのです。

それは「朱儁」・「皇甫嵩」軍の応援としてやってきた「曹操(そうそう)」でした。

後の魏王となる「曹操」は、この黄巾の乱がデビュー戦だったのです。

「曹操」はこの時30歳で騎都尉に任命されていたのですが、戦場でのデビュー戦は「朱儁」・「皇甫嵩」と共に戦い、豫州・潁川に残る黄巾軍を滅ぼし、平定することでした。

その朝廷の指示通り戦い「曹操」は大活躍、この時あげた黄巾軍の首の数は数万と言われています。

「曹操」は「霊帝」らの期待通り、見事勝利を収めたのでした。

黄巾の乱と「孫堅」の登場

黄巾の乱と「孫堅」の登場

image by iStockphoto

そしてもう一人は荊州・南陽の地で挙兵した「張曼成(ちょうまんせい)」と呼ばれる人物でした。

この「張曼成」も「波才」と同じく勢い盛んに、南陽太守を攻め殺したのです。

そして自ら「神上使」と称し、宛城を拠点に勢力を保っていたのでした。

しかし朝廷の命で新しく南陽太守としてやってきた人物に「張曼成」は攻め殺されてしまうのです。

大将を殺されてしまった南陽黄巾軍は「趙弘(ちょうこう)」を指揮官に再度南陽に立てこもりますが、豫州を平定してやってきた「朱儁」に取り囲まれてしまうのでした。

しかし戦いに苦戦し長期間包囲戦を繰り広げることになった「朱儁」に、変なうわさが流れたのです。

それは攻撃を仕掛けない「朱儁」に対し、朝廷内で更迭のうわさが流れたのでした。

功を急いだ「朱儁」はすぐさま総攻撃を開始、そして「趙弘」を切ったのです。

「趙弘」が殺された後も逃亡先の宛城で残った黄巾軍が抵抗を続けるも「朱儁」配下の「孫堅(そんけん)」が宛城を奪取、南陽黄巾軍も壊滅したのでした。

後の呉王の父となる「孫堅」も、若い時の活躍が認められ、司馬と言う地位についていました。

各地で敵を撃破し、既に名をあげていたのですが、この黄巾の乱でさらに功績が認められ、さらに地位も力も高めていくのでした。

「張角」の夢敗れるも

わずか9ヶ月で終焉を迎えた黄巾の乱

わずか9ヶ月で終焉を迎えた黄巾の乱

image by iStockphoto

「張角」が居る冀州方面に派遣された「盧植」は、後の蜀王となる「劉備(りゅうび)」や「公孫瓉(こうそんさん)」らに学問を教えていたほどの人物でした。

その「盧植」は冀州で黄巾軍に連戦連勝、「張角」は広宗まで撤退を余儀なくされ、そして広宗にこもり抵抗を続ける「張角」に対し、雲梯などを使い、さらに攻め立てて勝利は目前にまで来ていたのです。

しかしその時「盧植」の人生を狂わせる出来事が起こったのでした。

「霊帝」が「盧植」がきちんと戦っているかどうか、使者を送ってきたのです。

その使者は、「霊帝」のそばにいる人物なので賄賂が大好き。

当然のように「盧植」にも賄賂を要求したのでした。

しかしまじめな性格であった「盧植」はこれを拒否。

賄賂を貰えず怒り狂った使者は「霊帝」に「「盧植」は黄巾軍と全く戦おうとしない」とうその報告をしたのです。

これを聞いた「霊帝」は激怒。

すぐに「盧植」を罪人に落とし、官職もはく奪、そして「盧植」は収監されることになってしまったのでした。

そして「盧植」の代わりに「張角」軍の指揮官は「董卓(とうたく)」と言う人物を任命したのです。

しかしこの「董卓」は黄巾軍に敗れ、こう着状態になってしまったのでした。

「董卓」では「張角」に勝てなかったため、代わりに総大将として「皇甫嵩」を置き、その「皇甫嵩」は総攻撃をかけたのです。

そして「皇甫嵩」は、広宗で弟の「張梁」を切り、既に病死していた「張角」の墓をあばき、首を洛陽に送ったのでした。

さらに「皇甫嵩」は、曲陽でもう一人の弟である「張宝」を切り、指導者を失った黄巾軍は瓦解、黄巾の乱は一気に収束に向かったのです。

黄巾の乱終結後

黄巾の乱終結後

image by iStockphoto

「張角」の病死、そして黄巾の乱を武力により終わらせ、世の中が改善されていくように見えました。

しかし黄巾の乱の原因であった後漢王朝の政治は全く改善されることはなく、民衆への圧政は何も変わらなかったのです。

そのため各地で黄巾軍の残党が徐州や青州などあちこちに散らばり、そこで反乱を起こし、また山賊行為をおこなって後漢王朝を揺るがしていくのでした。

さらにこの黄巾の乱は、中華全土に皇帝の力が弱くなってしまったことを証明してしまったのです。

なぜなら後漢王朝内の軍勢だけでは黄巾の乱の対処ができず、各地の諸侯や農民などの義勇軍の力を借りなければおさめることができなかったからでした。

平和な世の中であれば、彼らは一諸侯、農民で生涯を終える人生の可能性が高かったのに、黄巾の乱によって後漢王朝に招かれ、活躍した彼らは後漢王朝内で台頭してくることになるのです。

また洛陽の治安悪化にともない、知識人たちが比較的平和な荊州や揚州、益州に逃げだしたのでした。

彼らが地方に移住したことで、各地に文化が開け、さらに各地の諸侯たちの力が増すことにつながったのです。

黄巾の乱後のさらなる動乱

「何進」と宦官たち

黄巾の乱の発生でいったん落ち着きを見せた「何皇后」一派と宦官たちでしたが、黄巾の乱が集結したことによってふたたび対立していくのです。

権力争いの中心にいたのがが、黄巾軍討伐の大将軍に任命された「何進」でした。

「何進」はもともと屠殺業を営んでいる身分で、後漢王朝とは全く無関係の人物だったのですが、妹の「何皇后」が「霊帝」に見初められ皇后の地位に就いた途端に人生が一変、大将軍の地位を授かるような人物になったのです。

その「何進」が望んでいたのは、妹の「何皇后」が生んだ「劉弁(りゅうべん)」が「霊帝」の跡を継ぎ、皇帝となることでした。

その時「霊帝」は、酒と女におぼれたためか健康を害し、余命いくばくもない状態だったのです。

「霊帝」には二人の息子がいました。

「何皇后」が生んだ「劉弁」と、弟の「劉協(りゅうきょう)」です。

「劉協」の母は「王美人(おうびじん)」でしたが、「王美人」は何と「何皇后」の嫉妬を受けて毒殺され、「霊帝」の母に養育してもらうのでした。

そのためか、順序を考えれば「霊帝」の次は「劉弁」なのですが、「霊帝」は「劉弁」よりも「何皇后」の影響の少ない「劉協」を可愛がり、跡を継がせようとするのです。

そして「劉弁」を次の皇帝と考える「何進」一派と「劉協」を次の皇帝にと考える宦官たちの間で後継者争いが始まったのでした。

「何進」の恐ろしい計画

「何進」の恐ろしい計画

image by iStockphoto

そんな中「霊帝」が崩御したのでした。

「霊帝」は宦官に「跡継ぎは「劉協」とするように」と遺し亡くなったそうです。

そして「霊帝」の遺命を受けた宦官たちは「劉協」が無事皇帝になるよう、邪魔な勢力である「何進」の排除に動いたのでした。

しかし「何進」ともつながっていた人物が密告し、反対に排除を計画した宦官を殺害したのです。

そして「何進」は「劉弁」を皇位につけ、「少帝弁」が誕生したのでした。

ただ「少帝」が即位後したからといっても、人々の暮らしが良くなる訳でもありません。

黄巾の乱終結後も貯まっていた人々の不満が後漢王朝に、特に宦官たちに集まることになったのです。

以前宦官に殺されそうになった「何進」は、このような人々の声を受け、宦官たちの皆殺しを計画したのでした。

この計画に驚いた宦官たちは「何皇后」に救いを求めたのです。

「何皇后」も宦官たちは後漢王朝内にとって必要な人たちであり、皆殺しはやり過ぎと考えたのか、宦官たちの肩を持ち、兄と対立するようになったのでした。

そのような中でも宦官皆殺しの計画を進める「何進」に、部下の「袁紹(えんしょう)」は各地に居る諸侯を洛陽に呼び寄せ、「何皇后」や宦官を抑えるよう進言したのです。

「曹操」はこの策に反対したのですが、その策を受けた「何進」は「袁紹」の意見を容れ、各地の諸侯に洛陽に来るよう手紙を送ったのでした。

共倒れの後に

「袁紹」は着々と宦官皆殺しの計画を進め、「何進」には宦官たちが居る宮中には軽々しく入らないようにと忠告していたのです。

しかし大将軍である私に何もできないとうぬぼれていた「何進」は無警戒に宮中に参内したのでした。

宦官皆殺しの計画が進められていることを知っていた宦官たちは、先に「何進」殺害を計画していたのです。

宮中に参内した「何進」は、宦官たちが集めた兵によって宮中で殺害されたのでした。

「「何進」死す」の一報を聞いた「袁紹」たちは激怒。

「何進」の復讐とばかり、宮中に兵を送り込んだのでした。

「少帝」の居る宮中はすぐさま血の海となったのです。

宦官たちは「袁紹」たちの兵によって次々と殺害され、「何皇后」も捕らわれたのでした。

最後の望みをかけ生き残りをはかった宦官は、「少帝」と「劉協」を連れ、洛陽から逃亡したのです。

しかしその宦官も「何進」からの手紙を受け取り、洛陽に向かっていた「董卓」によって自殺に追い込まれ、「少帝」と「劉協」は無事洛陽に戻ることができたのでした。

後漢王朝内で壮絶な争いを繰り広げた「何進」と宦官たちでしたが、どちらもこの世から居なくなってしまうのです。

しかし争いはここで終わらず「少帝」らを救った「董卓」とそれに反対する「曹操」や「袁紹」らとの争い、そして三国志の世界に入っていくのでした。

三国志演義の主役

後の蜀王となる「劉備」

後の蜀王となる「劉備」

image by PIXTA / 14755117

黄巾の乱がきっかけとなり中国は動乱の世界に、そしてこの動乱が三国志の世界で活躍する豪傑をたくさん輩出したのです。

その三国志の主役となる「曹操」や「孫堅」は、黄巾の乱以前から功績があり、一定の地位についていました。

そして黄巾の乱の平定に貢献することで、さらなる力を手に入れるようになるのです。

ここでは黄巾の乱の時点では庶民であり、黄巾の乱が発生しなければ、歴史には名が残らなかったであろう人物の話になります。

三国志演義の主役となる「劉備」と言う人物です。

「劉備」は161年、涿郡涿県で誕生。
字は玄徳。
父は「劉弘(りゅうこう)」。

「劉弘」は漢王朝の血を引く者とであったと言われています。

そのため役人として過ごしていたのですが、「劉備」が幼い時に亡くなってしまったため、家は貧しくなり、「劉備」は筵や草鞋を編んで生計を立てているような生活を送っていたのでした。

そのような生活を送っていた「劉備」でしたが、15歳の時に母の言いつけで「盧植」の元で学問を学ぶことになるのです。

ただ「劉備」は、勉強があまり好きではなく、乗馬や闘犬、音楽を好み、美しい衣服で身なりを整えていたのでした。

口数は少なく、人にはへりくだり、喜怒の感情を出さず、天下の豪傑と好んで交わったのです。

同窓の「公孫瓉」に対しては兄のように慕って非常に仲が良かったと言われています。

そしてそのような性格のため人には気に入られることが多く、中山の豪商たちは「劉備」を見て只者ではないと感じ、大金を投じたのでした。

そのため「劉備」は、仲間を集めることができたのです。

桃園の誓い

桃園の誓い

image by PIXTA / 2460659

黄巾の乱が中国全土に広がりを見せる中、朝廷による義勇軍の募集が「劉備」の住む地域にもやってきたのです。

太平道の信者が後漢を変えるべく立ち上がった黄巾の乱でしたが、太平道に関係のない人たちまでが黄巾軍を名乗るようになり、各地で犯罪行為をおこなうようになっていたのでした。

「劉備」はこのような黄巾の乱に疑問を感じ、また漢王朝の血を引く者として立ち上がりたいと思うのです。

しかし「劉備」は援助があるとはいえ、もともとは非常に貧しい暮らし。
義勇軍募集の立札の前で何もできない無力感で涙をこぼすのでした。

そのような時に声を掛けてきた人物がいたのです。
その者は「張飛(ちょうひ)」と言いました。

「劉備」は身の上を話し、その話を聞いた「張飛」は行きつけの酒場に誘い、お互い意気投合するのでした。

「劉備」と「張飛」が酒場で世の中のことについて語り合っている時、そばに先客として「関羽(かんう)」がいたのです。

「関羽」は聞こえてくる「劉備」と「張飛」の会話の内容が、自分が思っている気持ちと同じであると感じ、一緒に酒が飲みたくなり席に入るのでした。

「劉備」と「張飛」も「関羽」のただならぬ気配を感じ三人で飲むことにしたのです。

飲めば飲むほど考え方が同じで、三人で世の乱れを正すべく旅立つ決意をしたのでした。

そしてその話を聞いた母も大喜び。
母は村の人々の協力も得て、桃の花が咲く中に宴を設けたのです。

そしてそこで三人が「生まれた日が違っても同じ日に死ぬことを願う」と誓い、義兄弟の契りを結んだのでした。

それが三国志演義でも有名な「桃園の誓い」です。

三人は村の若者たちに呼びかけて兵を集め、義勇軍として参加するのでした。

義勇軍の活躍、そして

義勇軍の活躍、そして

image by iStockphoto

三人は幽州の太守である「劉焉(りゅうえん)」の元を訪れたのです。

「劉焉」は三人を手厚くもてなし、近くの山に陣を張った黄巾軍に対し「鄒靖(すうせい)」と共に黄巾軍を攻撃。
見事勝利を収めたのでした。

「劉備」軍の活躍を褒め称えた「劉焉」でしたが、そこに急使がやってきて「青州の城が黄巾軍に包囲された」との知らせが入ったのです。

「劉備」らは休むことなく青州城に向かい、黄巾軍との戦に臨みこちらでも大勝利。

「劉備」は「盧植」や「朱儁」の元で義勇軍として戦い、さまざまな戦地で戦果を挙げたのです。

そして黄巾の乱終結後、その恩賞として「劉備」は中山国安熹県の尉(警察官)に任命されたのでした。

「劉備」が尉に任命され、治安が良くなった安熹県の人々は「劉備」を慕うようになったのです。

しかし都から派遣された使者へのもてなしが悪く怒らせてしまい、その使者の態度に腹を立てた「張飛」が使者を殴り飛ばしてしまったのでした。

「張飛」と同じ考えであった「劉備」は任を辞し、そして都から送られてきた追手から逃げるように放浪の旅に出るのです。

そして動乱の世界に戻っていくのでした。

黄巾の乱が与えた影響

三国志のきっかけとも言われる黄巾の乱。

乱れた世の中から太平道の楽園を求め「張角」らは立ち上がったのですが、その夢も後漢王朝によって潰えてしまうのでした。

しかし黄巾の乱が与えた影響は大きく、後漢王朝の権威は地に落ち、さまざまな権力者が入れ代わり立ち代わり現れる、動乱の世の中を作り出すのです。

黄巾の乱のおかげで「曹操」や「孫堅」、「劉備」と言った三国の礎となる人物が登場、そして彼らを題材に、三国志ができ上がったのでした。

photo by PIXTA and iStock