悲しみの淵で描かれた枕草子の物語

清少納言が自身の体験に基づいて描かれた宮中での出来事をノンフィクションで綴った作品が枕草子です。不思議な世界観と流れるような美しい言葉で綴られた枕草子という物語は、実は悲しみの淵に立たされた清少納言が、昔を懐かしみ執筆した物語だったのです。
1200年前にさかのぼり、清少納言が枕草子に残した出来事とともに秘められた清少納言の悲しみを探ってみましょう。

ビッグな父を持った清少納言 枕草子・四十二段

ビッグな父を持った清少納言    枕草子・四十二段

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清少納言は平安時代の中流貴族の家系に生まれました。
とても賢く和歌を愛し、女性でありながら漢詩文を読むことができたパーフェクトな能力の持ち主です。
清少納言の父は、あの三十六歌仙に選ばれた清原元輔(きよはら もとすけ)。
曽祖父は清原深養父(きよはら ふかやぶ)という文学界で名を馳せた超一流の人物たちです。

三十六歌仙とは日本の中で三十六人しか選ばれない和歌の天才!当時のスーパースター。
父も曽祖父も小倉百人一首を始め、様々な和歌の本に詠まれた歌が選ばれています。
さらに当時、天皇に命ぜられ編纂された和歌の歌集では編纂にも携わった歌人。

ところが清少納言はそんな偉大すぎる父の存在が重荷だったようです。
清少納言が和歌を披露する時には決まって父の元輔の名前が取り上げられました。

清少納言が和歌を詠むのが下手だと言われたのは、いつも父と比較され続けたからです。

宮中で歌を詠むよう言われた時も、「父の名を汚したくない」と断固として詠まなかったというエピソードもあります。

偉大な父の名の元では自由に和歌を詠むことすら出来なかったのです。

貴族としての清少納言の価値観

枕草子には宮中で起こった出来事が綴られているため、登場人物は天皇、殿上人、中級貴族です。
その貴族の暮らしや価値観には驚かされるものがあります。
たとえば、誰しも平等に見ることが出来る月や雪さえも平安貴族は貴族だけの特別なものと考えていました。

「身分が低いものの家に雪が降り積もったり、月の光が明るく差し込んでいるなんて、分不相応で似合わない。
幻想的な月の光が下々の家に差し込むなんてせっかくの月の光がもったいない。」

このように綴った清少納言も中級貴族です。
平安貴族にとって月や雪は歌の情緒を豊かにしてくれる存在。
それゆえ高貴なものの象徴だったということがわかります。

清少納言の特別な男性 枕草子 第四十六段・百三十一段

清少納言の特別な男性    枕草子 第四十六段・百三十一段

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枕草子・第四十六段に、藤原行成(ふじわらゆきなり)という人物が登場します。
藤原行成は一条天皇時代の才芸に秀でた、書道の名手で三蹟(さんせき)の一人にも選ばれた人物です。

官職は権大納言(ごんだいなごん)。
大納言とは「言を納める」という意味で国政において発言することが許された官職。
輝かしい経歴の持ち主で、さぞ女性にモテモテだったのではないかと思われますが、意外にも人付き合いが下手であまり女性には人気がなかったようです。

ところが清少納言は行成をとても高く評価しており、男女間の友情が芽生えるほど仲が良かったといいます。
清少納言は行成よりも七歳ほど年下だったせいか、行成との関係を「友情」と語っていますが、贈り合った二人の和歌を詠むと、友情を超えた感情がお互いに芽生えていたようにも感じられます。

清少納言は行成からもらった和歌の返事として、百人一首にもある「逢坂の関(おおさかのせき)」の歌を贈っているのですが、逢坂とは男女の逢瀬の時によく使われた言葉です。
一見、行成を拒んでいるような和歌なのですが、実際には行成のことを非常に気に入っていました。
それが無意識のうちに清少納言に、「逢坂の関」という意味深な歌を詠ませることになったのかもしれません。

清少納言も結婚していた‼︎ 枕草子八十段

清少納言も結婚していた‼︎    枕草子八十段

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清少納言も人並みに恋をして結婚もしていました。
相手は実直な男性で、橘則光(たちばな のりみつ)と言います。
官位は従四位上(じゅしいのじょう)、当時の中級貴族です。
才能ある清少納言は宮中でもとても輝いていたと則光は語っています。

橘則光もまた、顔立ちがよく男気に溢れとても優しいタイプの男性だったようです。
子供も生まれています。
ところが幸せだったはずの結婚生活はそう長くは続かず離婚。
清少納言は筋金入りの文化人、それに対し則光は筋金入りの体育会系。
清少納言が贈る和歌の意味が夫には理解出来なかった事もたびたびあった上に、ことあるごとに清少納言から贈られてくる和歌に次第に嫌気すら感じてしまったようです。

和歌嫌いだった夫が最後に贈った切ない和歌

則光という人は、和歌なんてものは男女の別れの時にだけ詠めばいいと考えていた男性。
和歌を愛した清少納言と歌を嫌った則光は完全に趣味が合わなかったのです。
別れてしまった原因を清少納言は枕草子でなんとなく明らかにしています。

現代でも女性がメールをしてもなかなかメールの返信が来ず、次第に相手の気持ちが分からなくなり、心が離れていくというのはよくあるパターン。
恋愛の形は昔も今も変わらないということです。

当時、則光が言っていた「別れの時には和歌を詠む」という言葉どおり、清少納言に別れの和歌を贈っています。
少し未練のありそうな和歌を贈ったのですが、清少納言が返した和歌は切ないほどに潔いものでした。
それを見て則光は何を感じたのでしょう。
これ以降、則光が清少納言に和歌を贈ることはありませんでした。

美しすぎる定子との対面 枕草子・百七十九段

美しすぎる定子との対面   枕草子・百七十九段

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宮中で能力を発揮し、良い人間関係を築き、恋愛も楽しんでいた清少納言も、もちろん宮中デビューの日がありました。
とても初々しく現代に見る清少納言像とは全く違います。

清少納言が宮中に仕えるきっかけとなったのは、時の関白・藤原道隆(ふじわら みちたか)の娘・定子(ていし)の家庭教師を探していたところ、賢い清少納言に白羽の矢が立ったというわけです。

関白の娘・藤原定子は時の帝・一条天皇の妃。
はじめて後宮で清少納言は定子に会い、定子の美しさ、聡明さにこんなにも美しい女性が世の中にいたのかと一瞬で心を奪われています。

一生、顔を晒すことがなかった平安女性

清少納言はこの時、まだ他人に顔を見られることを嫌がっており、定子や道隆の前でも終始、顔を隠すような仕草をしています。
その様子を枕草子ではこのように綴っています。

「昼間よりも明るい灯明(とうみょう)の灯りに照らされ、髪の毛もはっきり見えて落ち着かない、我慢をしてその場にいるけれども涙がこぼれそうなほど恥ずかしく、早く部屋に戻りたいほどだ」

今では想像も出来ませんが、平安時代は、女性の大半が他人に顔を見られることは「はしたないこと」だと思っていた時代。
この時代の女性は人に顔を見られないように生活を送らなければなりませんでした。
それゆえ結婚するまでお互いの顔は知らず、結婚しても女性は夫以外の人に顔を見られることなく日常生活を送っていったのです。

多くの人に顔を晒す宮仕えは慣れるまでは、耐え難いほどの恥ずかしさがあった上に、様々な人に顔を見られてしまうせいか、周りの男性からは軽く見られてしまいます。
この頃の男性のほとんどは女性には仕事をせず家にいてほしいと願っていたようです。

一般女性では経験出来ない宮中での生活

後宮で働くうちに清少納言の考え方もどんどん変わっていきました。
人に顔を見られる事にも次第に慣れ、それどころか普通に生活をしていたら話すことすら許されない天皇や殿上人(てんじょうびと)といった高貴な人たちと冗談を交えながら話すことが出来るなんてすごい職場。
何も知らずに終わる普通の人生よりも宮中での生活は、実は素晴らしいのではないかと語っています。

枕草子・二十一段では宮仕えに対する考え方を清少納言らしく少々辛辣には語っていますが、ここでやっと宮仕えの意義を見つけることが出来たようです。

清少納言のように才能ある女性でも、やはり世間からの評価と自身の好奇心の狭間で少なからずの葛藤をしていたのでしょう。

清少納言が憧れた才女・定子 枕草子・二十段

清少納言が憧れた才女・定子    枕草子・二十段

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清少納言が宮仕えの意義を見つけられたのも、全て中宮・定子の人柄に魅力を感じたからです。
この時代を代表する才女で少々理屈っぽい清少納言が慕う中宮・定子とはどのような人物だったのでしょうか。

藤原の定子は、清少納言と遜色なく渡り合えるほどの才女でした。
藤原摂関家に生まれ、幼い頃から天皇に嫁ぐことを前提に、宮仕えの経験のある母の元で英才教育を受けながら育てられています。

賢さだけではなく美しさも兼ね備え、明るく華やかな雰囲気を持っていた定子は、宮中の女性たちの住む後宮でも女房たちの憧れの的になっていきました。
清少納言にとっても、もちろん定子という人物は、教養もあり美しく、人柄も良いという揃いに揃った憧れの存在だったのです。

定子は後宮にサロンを作り、今でいう女子会をたびたび催していました。
桜の咲き誇るような華やかなサロンでおしゃべりを楽しみながら定子は後宮で働く女房たちとともに教養を身につけていったのです。

枕草子・二十段では、天皇の御殿である清涼殿や皇后、女房たちが住む後宮の華やかさが垣間見れます。

好色な天皇に愛されたのは古今和歌集のおかげ

ある日のサロンで、平安時代の和歌の教本と言われた古今和歌集をもとに、天皇に愛される方法についての講義が始まりました。
中宮に次ぐ女御(にょうご)として天皇に嫁いだ女性が主人公のお話です。
その女性は大変かわいらしく誰よりも天皇に愛された女性でした。

この女御が嫁いだ天皇は政治にも文学にも人一倍長けていた人物ですが、一夫多妻制の世の中にあっても好色な天皇と言われるほど恋多き天皇で有名でした。

女御は嫁ぐ前から古今和歌集巻二十を全て暗唱していたという伝説の女性です。
巻一から始まる古今和歌集は巻二十までおよそ千首あまりの和歌が収められています。
それを全て暗唱することが出来るというのだから宮中でも噂はすぐに広まり、天皇もこの女御を呼び、古今和歌集を巻一から暗唱させました。
巻一から巻二十まで暗唱するにはとても時間がかかります。
その間ずっと天皇はその女御の元に通い続け、巻二十を暗唱し終える頃には女御の虜になっていたのです。
正妻や他の女性に妬まれてしまうほど天皇に愛されたのは、古今和歌集のおかげと定子も考えたのでしょう。

教養がなければ天皇と話が合わない

天皇に愛されるためには賢くなければなりません。
この女性の話をふまえ、定子は女房たちに天皇に愛されるため、古今和歌集を全巻覚えるよう提案します。
女房たちは目を丸くして驚きましたが、この話を聞き、どの女房も頑張って覚えようとしたことでしょう。
それが平安時代後宮に入った女性たちの日常。
賢く教養がなければ天皇の話についていけなくなります。
天皇と渡り合えるだけの女性になるため女子会で教養も身につけていたのです。

一条天皇もそんな定子に惹かれていき、二人はとても仲睦まじく、宮中に嫁いで5年目にして、ついに定子は子供を身ごもりました。
二人の子供が男の子ならば皇太子、次期天皇。
不安定な貴族社会にあって安定が約束されます。
賢く明るい定子に、これ以上ない幸せな日々が続いたです。

兄・内大臣 伊周 枕草子 二十段

兄・内大臣 伊周   枕草子 二十段

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いつも明るく天真爛漫な定子には兄がいました。

兄は父に似て美男子で、家柄のせいか上品でとても目立つ存在でした。
兄の名前は伊周(これちか)と言い、年齢は21歳です。
この若さで内大臣に抜擢されていました。
内大臣という官職は右大臣に次ぐ官職で、官位は従二位(じゅうにい)。
殿上人と言われる高級貴族です。

順風満帆な人生を歩む若き貴公子のことを、枕草子で清少納言はこのように綴っています。

「桜が高欄の外まで咲きこぼれる時期のお昼ごろ、大納言・伊周様が春らしい桜色と濃い紫の艶やかな装いで登場し、華やかな貴公子ぶりが素敵である」

平安貴族のオシャレの基準は、着ている着物の色の組み合わせ方にありました。
それによっておしゃれなのか、そうでないのかが決まります。
高貴な色とされた紫を挿し色に、春らしい桜色を着こなせる爽やかな男性、それが定子の兄でした。
若くて美しい伊周の姿を覗き見る女房たちの熱いまなざしが目に浮かぶようです。

道隆親子にとっては、父が関白、定子は中宮、伊周が内大臣と今がまさに絶頂期。
時の関白に雇われた清少納言もこの時が人生最良の時期だったのでしょう。
その幸せに翳りが見え始めたのは、関白である父が亡くなったことからです。

父・道隆の突然の死

父・道隆の突然の死

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自分の全人生を賭けて一家の繁栄のため宮中に嫁いだ定子でしたが、5年ほどの歳月が流れた時、突然、父・道隆(みちたか)が亡くなります。
父という後ろ盾をなくした定子と伊周の人生が音を立てて崩れ始める瞬間でした。

それまで次期関白には定子の兄の伊周が就くものだと周りも当たり前のように思っていました。
ところが、父が亡くなったことで次期関白は父の弟が選ばれました。
しかし関白就任後、僅か七日で弟も亡くなってしまったのです。

脆い貴族社会に翻弄される伊周

内大臣・伊周がいながら次に関白に選ばれたのは、なんと三男の道長(みちなが)です。
藤原最盛期に、あの「望月の歌」を詠んだ藤原氏のなかでも有名な人物。
しかし、一条天皇としては、次期関白には定子の兄・伊周を推していました。
伊周も諦めずに次期関白には自分を推して欲しいと天皇に陳情しました。
ところが、道長の姉でもあり、一条天皇の母が、天皇の寝床に、毎夜毎夜訪れ涙を流しながら「次期関白には道長を推してほしい」と陳情していたのです。

母の思いに負けた一条天皇は、次期関白を遂に道長にすることに同意してしまいました。
関白に就任することを疑いもしなかった伊周にはこれ以上耐えがたいものはなく、出世が約束されていたにもかかわらず、全て横から奪われてしまったのです。
奪っていったのは自分より官位の低かった道長。
伊周の失意は計り知れません。

こうして定子と伊周は時代に翻弄されながら表舞台から引きずり降ろされていくことになるのです。

定子と伊周の人生の破滅

定子と伊周の人生の破滅

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定子は嫌なことを忘れようと懸命に生活をしていましたが、失意に耐えかねた兄の伊周は花山法皇(かざんほうおう)に弓を射るという事件を起こし、宮中は大騒ぎになってしまいました。

順当に行けば次期関白だった伊周、父の死によって関白などは夢のまた夢、自分より地位の低かった道長にまで追い越され自暴自棄に陥っていました。
周りが見えなくなっていたあまり、自らの勘違いから伊周は破滅の道へと突き進んでいくことになるのです。

自暴自棄になった伊周が定子を追いつめる

事件の発端は、伊周のお気に入りの大臣の娘・三の君の屋敷へ通って行ったときのことです。
花山法皇も同じ屋敷に住む四の君の元へ通っていました。
ところが、屋敷に入っていく花山法皇の姿を見て、伊周は自分の恋人である三の君の元に通っているのではないかと勘違いしてしまい、我を忘れた伊周は弟とともに花山法皇を襲撃してしまったのです。
この時、運悪く弓が花山法皇の袖を射抜いてしまい、伊周と弟は流罪に処されました。
弓を射ったところで花山法皇に当たらなければ、伊周の処分はここまで重いものにはならなかったはずです。

伊周と弟が実家に逃げ込んだところを、2人は検非違使(けびいし)に捕らわれてしまいました。
このとき出産準備で定子も実家に戻っていたため、定子は目の前で連行されていく兄弟2人に姿を見ることになったのです。

この事件がきっかけで定子は後宮にいられなくなり、内裏を出て実家に移ることになります。
その後、自ら髪を落とし出家の道を選びました。
同じ頃、実家の屋敷が全焼し母が亡くなります。
定子を襲う不幸はとどまるところを知らずに押し寄せたのです。

一条天皇に望まれ後宮に戻ることに

一条天皇に望まれ後宮に戻ることに

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流罪になった兄たちは、一年後やっとその罪が赦されました。
一条天皇は定子や皇女に会う事を望み、定子は再び宮中に迎え入れられました。
ところが、定子が住む中宮御所は後宮というにはほど遠く、内裏の外で大内裏の内といわれた中宮が住むような場所ではなかったのです。
鬼が棲むとの噂どおり不気味な建物でした。
一度出家し、還俗したとはいえ、后として入内させるというのは異例中の異例でした。
このため、定子に対する周りの風当たりはとても強かったのです。

しかし一条天皇は定子をとても大切に思い、内裏の近くに別殿を建て、夜通い、朝帰るという生活を送りました。
その甲斐あってか、定子は一条天皇との子供を懐妊しました。
環境に屈することなく、帝のため、兄弟のために戦った定子。
気丈に振る舞い続けられたのは、もちろん一条天皇の細やかな気配りと愛情が大きかったからでしょう。

喜ばしいはずの出産を惨めなほどの待遇で迎えられる

喜ばしいはずの出産を惨めなほどの待遇で迎えられる

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定子は出産のため、内裏を出て中宮大進(ちゅうぐうたいしょう)の職にある生昌(なりまさ)の家へと向かいました。
中宮大進とは、中宮の世話をする役職の中でも一番下の位の者です。
中宮職と呼ばれた世話役のトップは中宮大夫(ちゅうぐうだいぶ)でした。
中宮の出産には決まってこの中宮大夫の家に移り住み準備をすることになっていましたが、定子にはこの中宮大夫がいません。
一度出家したという事情があったせいか、中宮の世話をする人が現れなかったのです。

ところが生昌の家に、今まで天皇の妃である中宮ほど高貴な人物を乗せた御輿など入ったこともなく、立派に作り直したはずの門も御輿が通るには小さすぎ、清少納言たちは仕方なく乱れた髪のまま御輿を降り、道に敷物を敷き、その上を歩く羽目になりました。
そんなみすぼらしい姿を高貴な人、身分が低い人限らず、じろじろ見られてしまうことになり、清少納言はこの時の感情をとても憎く、腹立たしいと綴っています。

そのあと清少納言は生昌に、何故あんなに門が小さいのかとか、門だけ高く作った人がいたって中国の故事に書いてあったじゃないといった話を生昌に突きつけ、冗談まじりに明るく生昌を罵っています。

小さな門からも分かるとおり、この時の定子を取り巻く環境はとても惨めなものだったはず。
しかし生昌の家の小さすぎる門を笑うことや定子の出産を喜ぶことで、清少納言も女房たちも少し明るさを取り戻したようです。

道長の焦りから生まれた2人の中宮

道長の焦りから生まれた2人の中宮

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定子は無事に皇子を出産しました。
道長はこれを聞き、とても焦ったのでしょう。
なんと皇子の誕生と同じ日に、自分の娘を一条天皇の女御として入内させました。
定子という中宮がありながら、実の娘も定子と同じ中宮にしてしまったのです。
妃のトップである中宮は一人だけと決まっていた時代。
道長は、定子一家の権力が盛り返さないようにと娘を中宮にしたのです。
これは日本の歴史の中でも初めての事でした。
のちに、栄華を極めた自分自身に酔いしれた道長が、「望月の歌」を詠むことになるのですが、この時はまだ不安定な自身の権力を守るのに必死だったようです。

そのあとも定子は一条天皇との間に第二皇女を懐妊しますが、出産の直後、崩御しました。

最後まで一家の繁栄を願いながら生きた定子。
天皇に愛され、子供を三人出産し、不遇な中でも幸せな人生だったことでしょう。
清少納言は定子に付き添い、最後まで出産を見守りましたが、定子が亡くなったあとは後宮を出て行きました。

定子への恩返しは枕草子とともに

没落していく定子から離れず、最後まで近くに居続けた清少納言。
短くも楽しかった日々、明るく美しかった定子のこと、定子とともに過ごせた後宮での日々は清少納言にとって、ずっと残したい宝物だったのでしょう。
悲しみの淵で、清少納言は出来るだけ幸せに、出来るだけ明るい物語を執筆しようと決意したのかもしれません。

誰よりも慕い続けた明るく美しかった定子と、華やかだった後宮での出来事、不遇ななかでも前向きに生き抜いた定子の人生を枕草子という物語に書き残すことが、定子へのせめてもの恩返しだったのかもしれません。

清少納言もまた自分の人生をかけて枕草子を世に送り出したのです。

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