総理大臣から将軍まで揃う・豊かな女性遍歴を持つ「歴史上のプレイボーイたち」まとめ

長い歴史において後世に残るエピソードを多く残してきた歴史上の人物。こうしたエピソードは歴史を知る人の人生に大きく影響するためになるものが多くありますが、中には「くすっと」笑えるような個性的エピソードを残した歴史上の人物も多くいます。今回は個性的なエピソードを残した歴史上の人物から、豊かな女性遍歴で有名となった「プレイボーイ」たちを見ていきましょう。

日本の歴史に残るプレイボーイ

日本史上最高のプレイボーイ「在原業平」

日本史上最高のプレイボーイ「在原業平」

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日本の歴史上で「史上最高のプレイボーイ」とされるのが、平安時代に活躍した貴族・歌人である在原業平(ありわらのなりひら)。
平城天皇の第一皇子・阿保親王(あぼしんのう)を父に、桓武天皇の皇女・伊都内親王(いずないしんのう)を母に持つ業平は仁明天皇時代から天皇の身近に仕え、849年(嘉祥2年)には従五位(じゅごい)下に昇進。
文徳天皇の時代から昇進は止まってしまいますが清和天皇のもとで再び昇進すると、862年(貞観4年)には従五位上などの役職を歴任、873年(貞観15年)には従四位(じゅしい)下に昇格(位はいずれも日本の位階・神階における位)。

そんな業平は『伊勢物語』の注釈書『和歌知顕集(わかちけんしゅう)』によると生涯で関係を持った女性の数はなんと「3733人」。
そんな業平は関係を持った女性の年齢層も幅広く、下は10代から上は99歳まで。
このほかでは伊勢神宮に仕える「斎宮(さいぐう)」と呼ばれる女性と関係を持ちますが、この斎宮は「未婚の皇女(こうじょ。
天皇の子ども)たちから選ばれる」人物であったことから大きな問題に。
誰が相手でも惚れれば「速攻アタック」する行動力の高さは半端ではありません。

こうした業平の豊かな女性遍歴はのちに文芸作品として取り上げられることとなり、井原西鶴は執筆した『好色一代男』で主人公・世之介のモデルに業平を参考にしています(業平よりも9人多い3742人の女性と関係を持つ人物として設定)。
文芸作品にもかかわる「プレイボーイ」ぶり恐るべしと言って良いでしょう。

16人の側室と55人の子どもをもうけた「徳川家斉」

江戸時代に15代続いた徳川将軍の中にも「プレイボーイ」ぶりを発揮した人物が存在します。
徳川将軍歴代最高の50年にわたり将軍に君臨した11代将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)は16歳で正室(せいしつ。
正式な妻)を迎えるとそれから複数の女性と関係を持ち、側室(そくしつ。
正式な妻以外で公式に認められた女性)の数は生涯で16人に上るとも。
当時の武士は家を存続させるために平均で7、8人の側室をもうけていたと言われますが、この数字の倍以上もうけるとは相当な凄腕です。

これだけの女性に囲まれた家斉は子どもの数でも度肝を抜く数字を残すことに。
これらの女性との間に設けた子どもの数は55人と言われており、相手ができたら即深い関係に持っていくあたりが「やり手」です(子どもの半数は成人になる前に亡くなっている)。

こうしたプレイボーイぶりを見せる家斉は日ごろの生活でも管理を怠らず、精力をつけるためとの目的で「オットセイの陰茎」を粉末にしたものを「精力剤」として愛用、牛乳と砂糖を煮詰めて固形物にした「白牛酪(はくぎゅうらく)」と呼ばれるものを「滋養強壮」目的で摂取していたとのこと。
家斉は50年間の将軍生活の間に風邪ぐらいしか病気にかからなかったと言われていますが、こうした管理が精力維持以外の役立っていたのかもしれません。

自分の子ども何人かわからない「松方正義」

明治時代に内閣総理大臣を務めた人物にも、女遊びの激しい人物は存在しています。
第4代・6代の2度総理大臣を務めた松方正義(まつかたまさよし)は大蔵大臣(現在の財務大臣。)を長く務め「財政通」として業績を残した人物ですが、彼は「妾(めかけ)」と呼ばれる妻以外で男女関係を持つ女性が19人から29人いたとのこと。

それだけの女性を相手にした松方は生涯で子どもを26人(15男11女)もうけたと言われていますが、松方本人は子どもの数が全部で何人か把握していないことも。
そうした中で明治天皇に「子どもが何人いるのか」を問われて答えられなかったこともあり、その時は「後日調査の上、御報告申し上げます」と答えたとのこと。
自分の記憶がないうちに次々子どもをもうけていたとすれば、松方を信頼していた天皇も「彼はどのようなせいかつをしているのか」と怪しむでしょう。

それだけ派手な女遊びをしていた松方には妻・満佐子がいましたが、満佐子はそうした松方の生活を容認していたとのこと。
これには満佐子が「男尊女卑」の風潮が強い薩摩武士の娘として生まれたためとも言われており、晩年に過ごしていた那須の別荘に女性がいると、満佐子は気をつかって帰ったことも。
この妻の行動は「懐の深さ」を感じる話でもありますが、実際の妻は穏やかな気持ちではなかったことでしょう。
現代社会で現役大臣がこのようなことをすればすぐに発覚、即刻辞任は避けられないでしょうね。

掃いて捨てるほど女がいる「伊藤博文」

掃いて捨てるほど女がいる「伊藤博文」

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誰もが名前を聞く「伊藤博文(いとうひろぶみ)」も女性関係で逸話を残した人物として有名。
松下村塾の塾生時代に「松門四天王」と呼ばれた武士で友人であった・入江九一(いりえくいち)の妹・すみ子と最初の結婚を果たしますが、馬関の芸者であった当時17歳の小梅にほれ込んだ伊藤はすみ子を離縁して小梅を妻に。
友人の妹と結婚しながら芸者と不倫とは、友人との関係にヒビが入ることは頭になかったのでしょうか。

その後も博文の女性関係はとどまることを知らず、1868年(明治元年)には福原遊郭で料理屋兼宿泊業を営む千崎弥五平の娘・お仲や新橋の芸者・玉蝶と関係を持つことに。
小梅との関係は女遊びをしても終生良好で別れることもありませんでしたが、お仲と関係を持った時は井上馨(いのうえかおる)に頼み込んでお仲を兵庫県巡査と強制結婚させたことも。
通常の女性であれば最初に発覚した時点で関係が破たんするかもしれませんが、小梅は相当寛大であったのですね。

妻から「お灸」をすえられた伊藤はこれでも懲りず、1887年(明治20年)に首相官邸で開かれた仮装舞踏会では「鹿鳴館の華」と言われた戸田極子(とさきわこ)と関係を持とうとしますが、彼女は明治維新に大きく貢献した「維新の十傑」に入る岩倉具視(いわくらともみ)の三女。
この行動は新聞に取り上げた事で大きなスキャンダルとなり、この結果伊藤は総理大臣を辞任することに。
こうした女遊びの激しさから「掃いて捨てるほど女がいる」という意味で「ほうき」というあだ名が付けられることになります。

これには明治天皇もお怒りで天皇から「遊びを少しは慎んではどうか」とお叱りを受けますが、伊藤は「博文をとやかく申す連中の中には、ひそかに囲い者など置いている者もいますが、博文は公許の芸人どもを公然とよぶまでです」と一言。
博文としては「別に悪いことしているわけではないし、何をしようが俺の勝手です」ということでしょうか。
相当な「ゴーイング・マイウェイ」ぶりです。
ここまで潔すぎては天皇も唖然とするしかないでしょうね。

海外にもいる「プレイボーイ」

ハゲの女たらしがお通り「ユリウス・カエサル」

ハゲの女たらしがお通り「ユリウス・カエサル」

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海外の人物では「ブルータス、お前もか (et tu, Brute?)」、「賽は投げられた(alea iacta est)」の言葉で知られる共和政ローマ期の政治家ガイウス・ユリウス・カエサルもプレイボーイとして有名。
ローマに生まれた彼は30歳ごろから元老院(げんろういん。
古代ローマの統治機関)議員として政治の表舞台に出始めますが、その中で「元老院議員の3分の1が妻をカエサルに寝取られた」と伝えられるエピソードを残すことに。

関係を持った女性はルキウス・コルネリウス・キンナ(共和制ローマ民衆派の政治家)の娘で最初の妻・コルネリアからルキウス・カルプルニウス・ピソ・カエソニヌス(共和政ローマ末期の政治家)の娘で最後の妻・カルプルニア、プトレマイオス朝エジプトのファラオ・クレオパトラ7世など多数。
カエサルは頭部が薄いなど「イケメン」と言われる部類の顔ではなかったとされていますが、女性を引き寄せるということは容姿をカバーするだけの「人を引き付ける力」を持っていたということでしょうね。

こうした女好きな一面を持つカエサルの姿を見た人々は、カエサルの頭部をいじって「ハゲの女たらし」と呼ぶこともあり、軍団兵たちが将軍をからかう野次を飛ばす習慣があった古代ローマの凱旋式ではカエサルの凱旋式において「夫たちよ妻を隠せ。
薬缶頭(ハゲ)の女たらしのお通りだ」と叫ぶことも。
これだけ皮肉られていたカエサルは「やられたな」と思っていたのか、それとも「俺に対するひがみだな」と思っていたのか。
どのような気持ちで凱旋式を過ごしていたのか気になりますね。

名作曲家も女性遍歴は豊か「ベートーヴェン」

名作曲家も女性遍歴は豊か「ベートーヴェン」

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歴史に名を残した作曲家ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンも豊富な女性遍歴を持つ「プレイボーイ」でした。
人生で最初に恋をしたのはドイツ・ボンの名門貴族ブロイニング家の長女エレオノールであったと言われていますが恋はかなわず、エレオノールは医師と結婚してしまうことに。

その後ピアニストとして名が知られるようになった20代からさらに遍歴は豊かになり、32歳頃にはグイッチヤルディ伯爵令嬢のジュリエッタ、40歳頃には28歳のテレーゼ・マルファティ、42歳頃にはすでに結婚していた女性アントーニエ・ブレンターノに夢中になります。
いずれの恋も実ることはありませんでしたが、そこから『二つの幻想風ソナタ』と『月光ソナタ』(いずれもジュリエッタに捧げた)、『エリーゼの為に』(テレーゼのために書いたとされる)を生み出すことに。
経験をただの経験で終わらせないところには名作曲家らしさが見えます。

そんな彼の女性遍歴の中でも最も重要とされているのが、29歳頃に出会ったハンガリー名門貴族ブルンスヴィク家の女性ヨゼフィーネ・ブルンスヴィック。
彼女はオーストリア・ウイーンに出てきてベートーヴェンからピアノを教わっていましたが、ベートーヴェンはピアノを教えているうちに彼女に特別な感情を抱くようになります。
その後彼女は27歳年上のダイム伯爵と結婚してしまうことになりますが、伯爵が結婚後わずか5年で亡くなってしまうとベートーヴェンは「猛アタック」を開始、ヨゼフィーネに手紙を送るように。
この恋も結局はかなわずに終わってしまいますが、この手紙は1957年になって13通が発見され話題に。

ジャコモ・カサノヴァは「人類史上最高の“恋の達人”」

イタリア・ヴェネツィア出身の作家ジャコモ・カサノヴァは「人類史上最高の“恋の達人”」と呼ばれるほどの豊かな女性遍歴で有名な人物。
1725年にヴェネツィアで生まれたカサノヴァは女優の母親と俳優の父親を持つエリートで、イタリア屈指の名門大学・パドヴァ大学で化学、数学、法学を習得。
16歳で法学博士号を取得する早熟ぶりを見せつけると薬学にも深い関心を示し、アマチュアの薬剤師としても活躍。

そんなカサノヴァが豊富な女性遍歴を克明に語ったのが、死後の1826年に刊行された自伝『我が生涯の物語(Histoire de ma vie)』。
この著書は12巻から構成され全ページ数が約3500にもおよぶ長編になっており、カサノヴァが生まれてから1774年までの生涯を振り返る内容。
その中では16歳で初めて女性と肉体関係をもってからの女性遍歴を1日10数時間にわたって執筆。
生涯で肉体関係を持った女性の数が1000人以上と語っており、性的描写が多く含まれる内容から出検閲の対象、発禁処分となることも。
カサノヴァが培ってきた博識の高さは女性関係に生かされていたのでしょうか。

こうした人生を送ったカサノヴァの名前は現代において「女たらし」の代名詞と言われており、1976年には女性遍歴を中心に描写した映画『カサノヴァ』がフェデリコ・フェリーニ監督により映画化(日本では1980年に公開)。
その後も『カサノヴァ最後の恋(1992年)』や『カサノヴァ(2005年)』として映画化されており、現代においても影響力が相当強いことはわかりますね。

実生活で真似することは難しい

今回取り上げてきた「歴史上のプレイボーイ」たちが送ってきた人生、豊かな女性遍歴は現代では大きな批判を浴びそうでもありますが、エピソードとして見るには面白いもの。
彼らの人生を実生活で真似することは難しいですが、これだけ「豪快に人生を生きてみては」という感覚で見るのであれば人生の参考になるでしょうね。
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