【京極マリアとは?】日本一強運のキリシタン?豊臣秀吉の姑〈京極マリア〉の歴史

戦国時代、キリシタン全盛期。聖フランシスコ・ザビエルに「神からもっとも祝福された国」と評された日本は数十万人の信徒を得ます。キリスト教を庇護する大名やみずからもキリシタン(キリスト教徒)の大名も多く存在しました。キリシタン大名の妻にして、豊臣秀吉の側室の母として波乱の人生を送った女性がいます。本名は明らかになっておらず〈京極マリア〉と、夫の苗字と洗礼名で記録に残る彼女。若くして夫を亡くし、バテレン追放令の中で苦境に立たされた彼女を救ったある人物とは?今回は〈京極マリア〉という、たぐいまれな強運を持ったキリシタン女性の姿を探ります。

戦国時代の〈キリシタン〉って?

戦国時代の〈キリシタン〉って?

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まず時代背景をおさらいしましょう。
およそ100年間続いた日本最長の内戦期・戦国時代。
そこにこれまでにない神が渡来したのは1549年のことでした。
豊臣秀吉が天下統一を果たしてバテレン追放令が出される、わずか38年前のことです。
そのあいだに大名、士農工商を問わず広く〈キリストの福音〉はもたらされ、信徒は最大40万人を数えました。
「心貧しき人は幸いである、天の国はその人のものである」――柔和で愛を説くこの神は、どのようにして日本に到来したのでしょう?まずはそこから見つめてまいりましょう。

キリスト教伝播の土壌

日本に根付いた仏教寺院が救済機関として正常に機能していたのは、せいぜい平安時代から鎌倉初期まで。
貴族たちから大量の寄付と特権を与えられた僧侶たちは腐敗していきました。
一方で西洋で15世紀に〈宗教改革〉が勃発。
勢力が減退していったカトリックに、ポッと出てきた修道会〈イエズス会〉が中心となって大航海時代を背景に、海外に市場を開拓していきます。

日本にフランシスコ・ザビエルとともにキリスト教の神が到来したのは、1549年のころでした。
「世界でもっとも祝福された国民」とザビエルは日本と日本人を賛嘆します。
また京極マリアに洗礼をさずけたオルガンティノ神父も「日本人に比べるとわれわれヨーロッパ人はまるで野蛮人だ、日本人は非常に礼節を重んじる」と日本を評しています。

ほかの非ヨーロッパ世界において実行された、ヨーロッパ人による非キリスト教徒の虐殺は、100年もの内戦を戦い抜いてきた日本においては見られず、日本のキリスト教布教活動は非常に好調にスタートを切りました。

キリストの教えに導かれた有力武将たち

フランシスコ・ザビエルが渡日してから、信徒は爆発的に増加していきました。
新しいもの好きという国民性のみならず、キリスト教本来の愛の教えに、荒みきっていた日本人の心は惹かれていきます。
次から次へと到来するカリスマ性ある宣教師、キリストのエピソードを語り伝える琵琶法師もあらわれて、「キリシタン伴天連」は一大ムーブメントを形成していきました。

キリスト教に傾倒する大名は多くありました。
宣教師たちも、ヨーロッパとの交易である〈南蛮貿易〉の契約を諸大名と結ぶのと引き換えに、信仰の自由を認めてもらうなど地盤固めに奔走します。
このように権力者と信頼関係をむすび、財政的な地盤をも固めていったのです。
日本は南蛮貿易で「種子島鉄砲」をはじめとして、多く西洋の文明の利器を入手、国力を高めていきました。
宣教師たちも、聖職者を育成する〈神学校〉を各地に築き、ひろくキリストの教えを日本に伝えていきます。
まさにウィン・ウィン。

このような中、小西行長、高山右近をはじめとした〈キリシタン大名〉も誕生します。
その多くは不遇と苦悩の中にいた大名たちです。
京極マリアの嫁いだ京極高吉も、そんな1人でした。
次の章で見ていきましょう。

〈マリア〉の誕生

〈マリア〉の誕生

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さて、ここからようやく京極マリアの物語に移っていきましょう。
戦国大名にして、浅井家最後の当主・浅井長政の姉として生まれた、京極マリア。
その本名は記録にあきらかにされていません。
当時は夫婦別姓のため正確には〈浅井マリア〉とするのが正しいのですが、このたびは一般になじみのある〈京極マリア〉で彼女を呼ぶことにしましょう。
近江国(現在の滋賀県)に生まれた彼女はのち、室町時代の四職に数え上げられる、超名門の〈京極家〉に嫁ぎます。
そこで運命的な出会いを果たすのですが……彼女にはさまざまな苦難が降りかかります。

「マリア」以前――浅井長政の姉、京極高吉の妻

お初の方・淀殿・お江の方〈浅井三姉妹〉の父として有名な、浅井長政の姉として生まれた彼女のほんとうの名前は、現代に記録としては残っていません。
浅井家は北近江に勢力を持つ武将でしたが、長政の代になってぐんぐん勢力をのばしていきます。

のちにマリアと名乗ることとなる長政の姉は、浅井家の主筋の京極氏に嫁ぎました。
京極氏は鎌倉時代以前までさかのぼれる名門の一族。
京極家に嫁いだ後、実家である浅井家は織田信長と同名を結び、信長妹・お市の方を長政の妻に迎えて最盛期を迎えました。
が、その後織田家との不仲が原因で滅亡してしまいます。

さて夫は38歳年上の京極高吉という男でした。
このころ京極家も苦境に立たされています。
一度は臣下の一族に下克上されるほど力を落としていたのです。
その後、妻となったマリアの弟・浅井長政との覇権争いで近江における支配権をすべて失います。
高吉は自分の嫡男を織田信長に人質に差し出すことによって身の安全を確保。
とにかくこのころ、つまり「マリア以前」の彼女記録は、周囲の状況以外あまり鮮明には残っていません。

オルガンティノ神父との出会い

「うるがんばてれん」(伴天連=キリスト教徒のオルガンティノ)と人びとに愛された、カリスマ宣教師〈オルガンティノ〉。
織田信長や豊臣秀吉など最高権力者とも親しく、徳川時代に入っても日本にとどまり、骨を日本の土に埋めた宣教師です。

最高権力者から一般庶民まで深く愛する、そんなオルガンティノは諸大名と親しむことも多かったのですが、その中に京極家もありました。
そのころ京極家はちょうど近江における全支配権を喪失。
失意のなか、高吉は織田信長に嫡男・高次を差し出して隠居生活を送らざるをえなくなっていました。
そのような中でオルガンティノの教えるキリストの受難の姿、愛の言葉は非常に魅力的に聞こえたに違いありません。
1581年、京極高吉は夫婦ともに、安土城下にて洗礼を受けました。
その洗礼名を〈ドンナ・マリア〉。
〈京極マリア〉の誕生です。

しかし夫の高吉は洗礼からわずか数日後に急死します。
当時はこれを「仏罰」としてあつかいました。
未亡人として残されたマリアはその後、戦国の世をたった1人で渡っていくこととなるのです。

秀吉の側室〈松の丸殿〉の母として

秀吉の側室〈松の丸殿〉の母として

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さてマリアは夫・京極高吉とのあいだに2男3女を産みました。
そのうちの1人が彼女の人生を大きく変えることとなります。
美しく長じた〈竜子〉は最初の夫の死後、天下統一を果たした豊臣秀吉の側室となります。
竜子――つまり〈松の丸殿〉の母としてVIP待遇を受けることとなるのです。
嫡男・高次も織田信長のもとで好待遇を受けていましたが、松の丸殿の嘆願で命を助けられます。
京極家とマリアを救った娘・松の丸殿。
しかし一夫一婦制のキリスト教において「側室」という立場は罪にあたりました……。

秀吉の「側室」の母……キリシタンとしての苦悩

マリアの腹から生まれた1人の娘が、マリア、そして京極家を救います。
〈竜子〉――一度は別の大名の妻となった彼女でしたが、天下人・豊臣秀吉に見出され、側室として召し出されます。
竜子は〈松の丸殿〉と呼ばれるようになりました。

松の丸殿は秀吉から寵愛を受け、また「名門好き」の秀吉は古く由緒も格式も高い京極竜子を重くあつかいます。
なんと京極マリアは天下人・豊富秀吉の姑となったのです。

しかし一夫一婦制を主張するキリスト教において「側室」という立場は教えを破るものでした。
マリアは娘の立場にキリシタンとして心を痛めます。
このままでは娘は教えによれば、地獄に堕ちることになるからです。
その罪をそそぐためにマリアは必死で祈りつづけました。
しかも彼女にさらに受難は降りかかります。
〈バテレン追放令〉です。

〈バテレン追放令〉の正体

西洋の情勢を見ると、この〈バテレン追放令〉の正体がわかってきます。
スペインとポルトガルは〈サラゴサ条約〉という条約を結びました。
これは地球の東経133度を境として、その北半分をスペイン、南半分をポルトガルの植民地とするもの。
なんとこれが日本の領土を南北にぶった切る形でした。
この国際条約に従えば日本は分割されるはずだったのです。

また日本人の信徒を奴隷化して輸出入しているという情報が秀吉はじめ権力者たちの耳に入りはじめます。
他の非ヨーロッパ世界で、キリスト教徒であるヨーロッパ人は現地民の虐殺と奴隷化を繰り返していました。
日本はこの時点では、ヨーロッパ人による虐殺が行われなかった幸福な例外だったわけですが、キリスト教という思想、そして集団を危険視した上での国策だったのです。

〈キリシタン弾圧〉のはじまりでした。
その殉教者は30万人にものぼり「古代ローマの次に殉教者が多いのは日本」と言われています。
また「殉教」は事情を問わず天国に行けると信じられていたため、多くのキリシタンが死をおそれず「神様のもとによろこんで」行ったと、当時の記録がおどろきとともに記しています。

キリストに倣いて〈受難〉を

キリストに倣いて〈受難〉を

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名門・京極家の人間であり、最愛の妻の1人の母(姑)というVIPだったマリアは、娘・松の丸殿らの嘆願によって命は助けられます。
その上一度は人質に差し出した長男・高次、そして次男・高友も関ヶ原の戦いの功績によって大名となり、京極家を栄えさせました。
流罪同然に送りこまれた隠棲の地で彼女は一体どのような生活をしていたのでしょう?数十万を数えたキリシタンたちの中でも、もっとも幸運な人物・京極マリアの晩年を見ていきましょう。

「受難」をつつしんで受けて

「キリストの道行き」というキリスト教に今も残る儀式があります。
イエス・キリストがゴルゴダの丘で十字架にかかるまでのことを追想して祈り、信仰を深めるというものです。
京極マリアは聖書に登場する聖女〈ベロニカ〉を思い出しながら受難を忍びました。
ベロニカとは、ゴルゴダの丘にむかうキリストの血と汗をぬぐった女性。

マリアは京都の近郊にある、与えられた隠棲所までみずからの足で歩いて行ったといいます。
彼女はゴルゴダの丘におもむくキリストの気持ちになり、みずからその痛みを経験したかったというおんです。
これらの苦難も、彼女にとってはキリストの教えに近づく受難、ひいては信仰の恵みでしかなかったのでした。

長男・京極高次は若狭小浜の初代藩主となります。
家康からの信任も篤かった高次は、一時は失墜した京極家をふたたび栄させました。
マリア晩年の隠棲場所と若狭小浜はほど近く、消息の行き来があったと言われています。

戦いの世のはてに

丹後国泉源寺村(現在の京都府舞鶴市)に移ったマリア。
晩年をここで隠棲してすごします。
しかし流罪同然であるにもかかわらず布教活動を行い、人びとをキリストにみちびきました。
「すべての人に福音を述べ伝えよ」というのがキリスト教の至上の使命です。
彼女はその使命を最後まで果たすことをやめませんでした。

非常に敬虔な信徒であったマリア。
身分も高く権威もある彼女の行動に、当局は黙認状態であったようです。
しかし地元の民には「泉源寺さま」と呼ばれ、非常に慕われていました。
最初から最期まで、キリストの教えとキリシタンであり続けることをつらぬこうとしたのです。

京極マリアが亡くなったのは1618年。
関ヶ原の戦いの徳川家の勝利、また1615年大阪の役による豊臣家滅亡と徳川家の天下成立を見届けての最期でした。

強運な、たぐいまれなるキリシタン女性

細川ガラシャや高山右近をはじめ、戦国時代のキリシタンたちほどふしぎな生涯を送った人びともいません。
京極マリアはゲーム〈戦国BASARA〉のキャラクターとして有名ですが、史実の人物としては非常にマイナーです。
事実史料は極端に少なく、彼女の実情は周囲の人びとの動きから類推するしかありません。
が、実家、婚家、娘の嫁ぎ先すべてが滅亡し、同じ教えを奉じる人びとが次々と殺されるなか、たった1人で生きのびていかざるをえなかった彼女の心境は、いったいどのようなものだったのでしょうか。
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