真田信繁ら牢人たちが奮闘!徳川家の天下が決定した「大坂夏の陣」とは?

大坂夏の陣といえば、去年の大河ドラマ「真田丸」で豪華な俳優さんたちで演じられたことも記憶に新しいですね。

皆さんはどういうイメージをお持ちでしょうか?

もしかしたら、「関ヶ原で戦ったのに、何でもう一度やるの?」という人もおられたりしますでしょうか。

ここでは、どんな経緯で開戦に至り、実際に細かくどんな戦いが行われた?

真田信繁ら牢人武将たちはどう奮闘した?

信繁は家康をどう追い詰めた?

などの他に、現在でも楽しめる大坂城近辺の史跡を、少しだけ紹介しようと思います。

関ヶ原の戦いから大坂冬の陣までの経緯は?

関ヶ原の戦いから大坂の陣開戦までの行方は?

関ヶ原の戦いから大坂の陣開戦までの行方は?

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豊臣秀吉が亡くなった後の慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで徳川家康の東軍が石田三成の西軍に勝利し、天下は徳川のものとなりました。

大坂には秀吉の子・秀頼がまだ残っており、慶長19年(1614年)、家康は豊臣家に寄進した方広寺(ほうこうじ)の鐘の文言に対して言いがかりをつけ、豊臣家を挑発。
「国家安康」「君臣豊楽」という文言で、「家康の」字を2つに切って呪ったという言いがかりですが、私が前に読んだ本では言いがかりではなく、「豊臣家は実際にそういう思いをかけてそういう文言を作った」という説も書いてありました。

そして、秀頼の母で豊臣家の実権を握る淀殿は家康の挑発に乗ってしまい、家康との戦いを決意。

秀頼は全国の大名に味方になることを要請しますが、もう徳川の天下は決まっているので秀頼の要請に応じる大名は1人もいませんでした。

一方、大坂城には真田信繁(幸村)や長宗我部盛親(元親の子)など、「関ヶ原の負け組」というような浪人たちが集まり、その数は10万人にもなったとのことです。

冬の陣ではどんな戦いが行われた?

冬の陣ではどんな戦いが行われた?

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信繁は父・昌幸から授かった大坂城からの出撃策を提案しますが、大野治長がそれを却下。
すると信繁は大坂城外の南側に出城を作り、これがいわゆる「真田丸」です。

開戦直後は木津川口・鴫野(しぎの)など河口周辺で戦いが行われ、いずれも徳川方が勝利。
しかし、大坂城の守りは固く、制圧することは難しかったそう。

しかし、信繁は真田丸にこもり、徳川軍相手に奮戦。
前田や井伊などの武将が一気に真田丸を攻撃しますが、真田隊の猛攻には苦戦。
この戦いで信繁はその名を天下に轟かせました。

家康は力攻めでは大坂城を攻略できないと判断し、大筒を淀殿の寝室辺りに打ち込み、精神的ダメージを与え、和議を申し入れると淀殿は応じました。

幸村の活躍で「冬の陣は実は大坂方の勝ち」とも言われていますので、淀殿がこれでひるまなければ、もしかしたらこのまま大坂方優位の状況が続いたかもしれませんね。
真田丸や堀も壊されなかったでしょうし。

ともかくこれで大坂冬の陣は終幕を迎えましたが、戦の火種はくすぶり続けていました。

夏の陣で真田信繁らはどのように奮闘し、散っていった?

夏の陣開戦の経緯は?

夏の陣開戦の経緯は?

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徳川方は大坂城を突破できず、豊臣方も外から援軍がないまま鉄砲を打ちまくったため、弾薬の備蓄が厳しくなり、双方手詰まりに。
そのため講和交渉が行われ、豊臣徳川の関係をほぼ戦前の状況に戻すことで製紙が取り交わされました。

講和が成立すれば要害としての大坂城は必要ないという論理で、本丸以外はすべて破却することで双方は了承。

二の丸の破却は豊臣方が担当しますが、豊臣方は予想される再戦にむけて軍備の増強を続け、そのため時間稼ぎのために工事を遅らせていました。

しかし、徳川方は諸大名を動員し、外郭の堀だけでなく、二の丸・三の丸の堀も埋め立て、城門や櫓も残らず破却。
二の丸は豊臣方の持ち場だったので、抗議すると徳川方は「工事が進んでおられない様なので、お手伝いしただけ」と言い、徹底的に破壊を続けました。

その上で徳川方は秀頼の大坂城退去と、召し抱えた牢人の解雇を要求。
それが拒否されれば開戦、という覚悟でなんとしても豊臣家を滅ぼすつもりでした。

大坂城が本丸だけになってしまっては、豊臣方は冬の陣のような籠城戦ができず、野戦に持ち込むしかない状況に。

慶長20年(1615年)、秀頼は家臣団の主戦派と牢人衆に支持されて再戦を決意します。

しかし、本当は秀頼は夏の陣で戦いたくなかったのですが、牢人たちが「もう戦うしかない!」という凄まじい戦意で、それに押されて開戦するしかなかった、という話もありますね。

夏の陣はどのような状況で始まった?

夏の陣はどのような状況で始まった?

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慶長20年(1615年)3月、家康は豊臣方に対し、大坂城から本拠地を移すか、臨時採用の牢人たちの追放を要求し、淀殿・秀頼母子はこれを拒絶。

これにより家康は諸大名に対し大坂城攻めを命じました。
家康と秀忠は4月22日に二条城で軍議を行い、5月5日には伏見城を出て、大坂城の南側・岡山に布陣。
4月下旬には大坂城で向けて進撃する態勢が整えられました。

15万の大軍を率いた家康は大坂城へ向かって進撃を続け、対する豊臣軍は冬の陣のときと違って城外に出て戦うことに。
それでも、豊臣軍は徳川軍に勝つため、道明寺(どうみょうじ)を攻撃地点と定め、大坂城から出撃。

豊臣軍の後藤又兵衛は、慶長120(1615年)5月6日未明、道明寺(現在の大阪府藤井寺市)を進撃中の徳川軍の先鋒部隊を攻撃。
大坂夏の陣の火ぶたが切って落とされました。

大野治房の作戦と、塙団右衛門の打ち死に

大野治房の作戦と、塙団右衛門の打ち死に

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去る4月26日、大野治房(はるふさ)隊2000が大和郡山(やまとこおりやま)に乱入し、周囲を焼き討ち。
これは徳川軍が大和郡山を通って大坂に攻めてくると考え、その経路を断つため。
大和郡山城主の筒井定慶(さだよし)に豊臣軍につくように要求するも拒否され、その結果定慶は城を捨てて逃げ出したと言います。

また翌4月28日、大野治房は大和郡山から大坂に戻り、堺に侵攻。
貿易港で知られる堺は徳川軍にとって大切な補給地点であったため、その機能を停止させようと市街地を焼き討ちして回りました。
しかし敵の大事な所とはいえ、家を焼かれる町人はたまったもんじゃないだろうな、と思います。
実際に堺の人々は、商品や財産を安全な場所に移し、早々に避難する人も多かったそう。

豊臣軍は徳川軍の浅野隊に対して攻撃を計画しますが、浅野隊は豊臣軍の動きを察知して接近。
豊臣軍は浅野隊の動きが分からないまま、樫井(かしい)で白兵戦となり、塙団右衛門(ばんだんえもん)・淡輪重政(たんのわしげまさ)が討ち死にし、苦戦を強いられます。

信繁(幸村)が後藤又兵衛を見殺しにした?

信繁(幸村)が後藤又兵衛を見殺しにした?

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この後、豊臣軍は進撃してくる徳川軍を迎え撃つため、後藤又兵衛を布陣させ、真田信繁と小松山で徳川軍を挟み撃ちにする作戦に。

しかし、信繁の戦場到着が遅れたため(時刻を見誤ったとも、濃霧の影響とも)、後藤隊のみで攻撃を開始しますが、10倍近い相手を前に苦戦。
又兵衛は奮戦しますが孤軍奮闘を余儀なくされ、伊達隊の放った銃弾で胸を打たれ、討ち死に。

これは信繁が徳川軍を大坂城に引き付けてから攻撃するという思惑を秘めていたため、又兵衛を見殺しにしたとも言われています。

信繁は又兵衛が前線に布陣する作戦を好まなかったというわけでしょうか。
豊臣軍は大河ドラマの時のように一致団結していたわけではなく、実際は各個人の思惑がバラバラだったという話ですよね。

豊臣軍の各隊は、相次ぐ勇将の死によって不利を悟り、誉田(ごんだ)の森まで撤退。
攻め寄せてくる伊達隊1万人の大部隊に対し、遅れて到着した真田隊がわずか3千の兵で押し返し、大坂城内に後退します。

木村重成打ち死にも、毛利勝永が奮闘

木村重成打ち死にも、毛利勝永が奮闘

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京街道を守備していた木村重成隊は、徳川軍が大坂城の南方へ来るという情報を得て、若江方面から徳川軍を奇襲する計画を立てました。
これにより藤堂隊を撃破しますが、将兵の疲労が極限に達して敗北。
少数で大部隊と戦うと、各方面に敵が現れるたびに転戦したり、やることが多いため、疲労が激しいのでしょうね。
そして、木村重成はここで首を討ち取られました。

重成の死後、木村隊に属していた山口弘定や内藤長秋なども次々と討ち死に。
奈良街道へ備えていた左翼部隊も徳川軍に攻められ退去し、木村隊は壊滅。

その後、長宗我部部隊が優勢だった八尾方面へ井伊隊が向かったため、長宗我部部隊も撤退。
今の大河ドラマは井伊の話ですが、いずれこの話などもいいたいのでしょうか。

大坂城を目指して進撃する徳川軍との戦いで苦戦を強いられ、絶望的な状況の豊臣軍ですが、毛利勝永・真田幸村を筆頭に、大坂城の南部を部隊にして、徳川軍に戦いを挑みました。
奮戦を続ける毛利隊は本多忠朝(ただとも、本多忠勝の子)や小笠原秀政を討ち取り、撤退させました。

家康が死を覚悟した?真田信繁の突撃による混乱

家康が死を覚悟した?真田信繁の突撃による混乱

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5月5日、状況を見てとった真田信繁は家康の本陣に対して突撃。
混乱した家康本陣は真田隊の前に壊滅の危機に陥り有利な戦況にあると思えた徳川軍でしたが、馬廻り衆は逃げ出し、この時従ったのは一人だけと言います。

信繁は家康を追い立て続け、家康に死を覚悟させるほど奮戦しましたが、その間に松平忠直(家康の孫)隊が立ち直り反撃を開始し、茶臼山を陣取りました。
そのため、長時間の戦いに疲労困憊していた真田隊は壊滅し、信繁もついには力尽き、安居神社付近で休息していたところ、忠直配下の兵士に討ち取られました。
大河ドラマ「真田丸」の最終回では、その兵士を返り討ちにしているのですが、本当はあそこで信繁が討ち取られていたのです。

真田隊が壊滅すると、豊臣軍の場外へ出撃した部隊が壊滅したこととなり、豊臣軍の敗北は決定的。

ついに徳川軍が大坂城内に乱入し、徳川方への内通者の放火により、大坂城では火災が発生し、混乱状態に。

天守まで火が迫ったことから、淀殿・秀頼母子は、本丸の北側にある山里丸の蔵に移りました。

千姫に望みを託すも、淀殿・秀頼は自害

千姫に望みを託すも、淀殿・秀頼は自害

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そして、秀頼は徳川家から嫁いだ妻の千姫の身柄を祖父家康の元へ引き渡すことにより、最後の望みを託しました。

家康は、将軍の秀忠に処理を一任すると、秀忠は8日、母子が立て籠もる蔵に対し、銃撃をするようにと下命。

淀殿と秀頼は交渉が不調に終わったことを悟り、覚悟の自害を遂げました。

なお、父信繁から秀頼の護衛を命じられていた真田大助は、豊臣家と運命を共に殉死。
まだまだ若い上に、信繁の子なので、立派な武将に育っただろうと思うと、死ななければならないのは辛いですね。

一方、信繁の兄・真田信之は壮絶な死を遂げた弟の幸村の死を悲しみながらも、真田家生き残りのために、徳川家に忠誠を尽くし続ける覚悟を決めたのです。
「真田丸」の最後で大泉洋さん演じる信之がまさにこのようなシーンで終わるのが、個人的にはすごく感慨深いものがありました。

そして、これにより大坂夏の陣が幕を閉じました。

現在の大坂夏の陣の見どころは?

現在の大坂夏の陣の見どころは?

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夏の陣が終わると、徳川家は大坂城の再建に着手。
豊臣時代に築かれた石垣を覆い尽くし、新しい石垣を築きました。
現在の大坂城の下に、豊臣時代の石垣が埋まっているというわけですね。

そのため、上田城と同じく大坂城も真田信繁が激闘を演じた時代とは別の城とも言えますが、現代の大坂城も、壮大な石垣を見て歩くのは楽しいですよね。

大坂城から出撃した信繁は安居神社で討ち取られたとされ、境内には「真田幸村戦死跡」と刻まれた石碑が立っているそう。
また通天閣から大坂の陣の古戦場が一望できるそうですが、あべのハルカスでは高すぎるでしょうか?私は高いビルってあまり興味がなかったのですが、こう聞くと行ってみたくなりますね。

また真田信繁についてですが、「日本一の兵」(ひのもといちのつわもの)とされ、宿敵家康に果敢に挑む兵として庶民にも知られ、歌舞伎などで演じられますが、幕府の敵であったため本名で演じられるのははばかられ、「大石蔵之助」を「大星由良之助」と変えられたように、「信繁」ではなく「幸村」と変えられたことで、本名の信繁より幸村の名の方が広まったそうです。

大阪夏の陣で、高層ビルにも意味を見出せた

大坂夏の陣は、冬の陣とともに家康が豊臣家を滅亡に追い込むための戦いで、真田信繁ら牢人武将が奮闘し、信繁は家康を追い詰めるも討ち死に。
淀殿・秀頼も自害し、徳川家の天下が名実共に定まった戦いでした。

私は「真田丸」以前にもやはりこの戦いは、小説などで繰り返し視点を変えて見てきたわけですが、自分で細かく調べてまとめてみると、流れがよくわかりますね。

幸村最期の地や大坂夏の陣の全体を見渡せる通天閣やあべのハルカスにも意味を見出せたので、また行ってみようかという気持ちになりました。

皆さんもこの記事を見て夏の陣の名所?周りに行ってくれたら嬉しいものです。
それでは、今回も読んでくれてありがとうございます!

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