信念と祈りの女傑、細川ガラシャの歴史―キリシタンとして武将の妻として

日本史には数々の「女傑」が登場しますが、その中でも異彩を放つ女性がいます。〈細川ガラシャ〉――名門細川家の当主・細川忠興の正妻であり、天下をゆるがした謀反人・明智光秀の娘であり、日本を代表するキリシタン女性。また日本史最大の転換点の1つ〈関ヶ原の戦い〉の流れを変えた人物でもあります。鉄のような意志と信仰を持ちあわせた女性は、つねに幽閉の憂き目にあわされてきました。キリシタンにして戦国武将の妻・細川ガラシャとは、一体何者だったのでしょうか、今回はこの女傑の正体に迫ります。

〈キリシタン〉の誕生と伝播

〈キリシタン〉の誕生と伝播

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さてここまでの日本史と、そして世界史をおさらい。
16世紀、日本にこれまでとはまったく毛色の違う神が上陸します。
その神は唯一神を奉じ、愛とゆるしの教えをかかげました。
世界に信仰の種をまくべく、そして植民地や交易をもとめていた西洋社会は日本にたどりつき、日本もまた〈南蛮貿易〉などで西洋文明の叡智を手に入れます。
数十万人のキリシタン(キリスト教徒)を生み出した戦国時代も末のころ。
明智光秀という戦国武将のもとに娘が誕生します。

キリストという神の上陸

宗教革命を経て、ヨーロッパの主要国の多くがプロテスタントに転向します。
それまでの勢力地図が一変し、カトリック一強だった西洋は、勢力争いと教派の不一致から30年間泥沼の宗教戦争をするほどでした。

危機感をいだいたローマ・カトリック教会に、ある修道会があらわれます。
〈イエズス会〉です。
おりしも大航海時代。
イエズス会士は大国・スペインやポルトガルの船に乗って未知の地へおもむき、福音を述べ伝え信徒の新規開拓につとめました。

1549年、宣教師・フランシスコ・ザビエルが上陸。
ついにキリストの神は極東の島国にまで到達します。
日本人はこの神をこころよく受け入れ、宣教師たちの持ちこんだ西洋文明の利器も日本の発展に大きく寄与します。
種子島鉄砲、双眼鏡、眼鏡、時計……。
種子島鉄砲は近世日本の戦のありかたを大きく変革もしました。
宣教師たちは布教活動の後ろ盾を得るべく、諸大名に〈南蛮貿易〉を提唱し、その報奨として領内での宣教を許可されます。
当初はおたがいともに発展しあうウィン・ウィンの関係だったわけです。

「たま」、明智光秀の娘として生まれる

戦国時代も終わりに近づいた1563年、越前国(現在の福井県)。
名門・清和源氏の流れを汲む由緒正しい武将の1人・明智光秀にうつくしい姫君が生まれます。
「玉のように美しい」「掌中の珠」ともいわれる意味をこめてでしょうか、名前を〈たま〉と名付けられました。
のちの細川ガラシャです。
彼女が名前をあらためるまでは〈たま〉と呼びつづけることとしましょう。

彼女は本当に美しくあでやかに育ったといいます。
……といっても、明智たま(細川ガラシャ)の実際の肖像画は残ってはいません。
のちに夫・細川忠興が狂的な愛情を注いだり、秀吉がその美貌を聞きつけて側に召し上げようとしたりしたというエピソードが「美貌の人・たま」というビジョンを作り上げていったのでしょう。

しかしいずれにせよ、たまは魅力的な女性に育っていき、彼女が15歳のときに父の主君・織田信長の勧めで、かの室町幕府将軍・足利氏の支流にあたる名門・細川家へと嫁ぎます。

細川家へ嫁ぎ、「裏切り」へ

細川家へ嫁ぎ、「裏切り」へ

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1582年、日本最強のパワハラ上司に、日本史最大の「裏切り」が勃発します。
天下統一一歩手前まで迫った織田信長の死、そしてそれを討ったたまの父・明智光秀は3日天下で終わり、父母はじめ一族郎党はみな討ち死に・自害。
明智家のなかで、たま1人だけが生き残りました。
織田信長の死後、あたらしく勢力地図が塗り替えられるなか、忠興は最愛の妻のために苦渋の決断をします。
それは、たまにとって生涯続く艱難辛苦のはじまりでした。

〈本能寺の変〉、勃発

名門・細川家の当主に嫁いだたまは、そこで世継ぎとなる男の子を含めて、子供を何人ももうけます。
押しも押されぬ細川家の正妻として寵愛を受けました。
しかしその日常は唐突に崩壊します。

1582年6月21日〈本能寺の変〉です。
明智光秀決起の理由については明確な定説が存在せず、いまも謎につつまれているこのクーデターですが、明智光秀も負けを覚悟でこの決起をしたのではありません、無論勝つつもりでした。
しかしたまの夫・細川忠興は舅・明智光秀の謀反への協力を拒否。
一大勢力をもつ縁戚・細川家の援軍が期待できなくなったとき、この変の失敗は決定的になりました。

主君・織田信長の横死の報を受けた豊臣秀吉は〈中国大返し〉を敢行、200キロの道のりをわずか10日でダッシュして「打倒光秀」をかかげます。
光秀は「逆賊」として討たれ、明智家の一族郎党も滅びます。
細川家に嫁いだたまも、死を覚悟しました。
しかし忠興は意外な方法でたまを守るのです。

人知れぬ山奥へ――幽閉生活のはじまり

戦国武将にとって、家のために命を捨てるのは世の習い、むしろつとめの1つでした。
命が惜しくないわけではなかったでしょうが、たまも自害あるいは処刑を覚悟します。
しかし夫から宣告されたのは意外な言葉でした。
「領内の山奥に隠れてほとぼりがさめるのを待て」――愛妻を殺すにしのびない忠興の苦肉の策でした。

たまは、丹後国(京都府北部)味土野という山中で2年間の年月をすごします。
逆臣の身内として狙われるのを避けるため、外界から隔離されて味土野の屋敷に幽閉されたたま。
これは彼女が死ぬまで続く幽閉生活のほんの序章にすぎませんでした。
忠実な数人の侍女にかこまれての生活。
このまま僻地で朽ち果てていくのか……そう思われていたとき、唐突な迎えがやってきたのです。

織田信長にかわって天下人となった豊臣秀吉は、忠興の妻がこのような状況下にあることを聞きおよんで感銘を受けます。
そして彼のとりなしによって、たまは下山、細川家の大阪屋敷に帰還するのです。

細川〈ガラシャ=「恩寵」〉の誕生

細川〈ガラシャ=「恩寵」〉の誕生

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細川たまは、その後も不遇の中に置かれます。
生まれもった美貌は最後まで彼女に祟るのです。
ほかの男に、そして逆臣の娘として狙われることを極端におそれた夫・忠興による幽閉生活は続きます。
それは彼女が亡くなるまで正味19年も行われるのです。
過剰な監視体制という異常な環境下で精神的に過酷な生活をおくることを余儀なくされるたまですが、運命的な出会いをはたします。

キリストの教えを耳にして

細川忠興は、あの千利休の弟子でした。
彼の交際関係の中には有名キリシタン大名もいましたがその1人、熱心なキリシタンであった高山右近から、たまは教えを聞くこととなります。
はじめは夫のかたわらでふむふむと話を聞いていただけでしたが、次第にその教えにのめりこんでいきました。

キリスト教の教えは愛の教え、そして赦しの教えです。
「右の頬を打たれたなら、左の頬を差し出しなさい」「わが罪を赦したまえ、われも彼らの罪を赦さば」……徹底した自己犠牲と博愛の精神。
それはとても耳新しく、たまの心に響いたに違いありません。

なおも美しいたまに、忠興の嫉妬は高まるばかり。
また逆臣の娘としてふたたび妻を狙われないかという危惧はつねに彼の中にあったことでしょう。
彼女に送られた伝言や手紙は検閲を受け、訪問してきた女性(たまには男性の接触は禁じられていました)はすべて記録するなど徹底的な管理ぶり。
常人では耐えられない環境下、たまには精神的な救いが必要でした。

受洗――〈細川ガラシャ〉の誕生

ある夜――その日はキリスト教最大の祭典・復活祭のミサが執り行われていました。
非常に高貴な婦人が、侍女をはべらせて堂内に入ってきたのを神父が見つけます。
貴婦人はミサのあとに神父に次から次へと質問をあびせかけました。
「これほど明晰かつ果敢な話のできる日本人婦人には会ったことがない」しかし彼女は家臣に探し出され、連れ戻されます。
神父が修道士に尾行させたところ、貴婦人を乗せた駕籠は細川家の屋敷へと入っていきました。

その後たまは侍女に教会に代わりに通ってもらい、キリストの教えを熱心に学ぶようになりました。
また夫の厳しい監視をぬすんで書物などで教理の勉強をつづけます。
彼女は洗礼を強く望むようになりました。

本来、洗礼の儀式は聖職者の立ち会いのもとでやる必要があります。
しかし唯一抜け道がありました。
死に瀕しているなどの緊急時ならば、すでにキリスト教徒となった信徒からの洗礼は有効になるのです。
たまは先にキリスト教徒となった侍女から洗礼を受けます。
〈細川ガラシャ〉の誕生です。

鉄のような信仰を持って

鉄のような信仰を持って

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「鳩のように柔和であれ」――キリスト教の重要な教えの1つです。
それまで非常に誇り高く怒りっぽかった、たま=ガラシャは洗礼後、うそのように温和でやさしくなったといいます。
しかし彼女のまわりをとりまく状況は依然厳しいまま。
夫の嫉妬は高まり、厳しい監視と管理はつづきます。
また秀吉の〈バテレン追放令〉が発布されていたなかの改宗だったため、夫に信仰のことを明かすことはありませんでした。
ひそかに神に祈りながら受難にたえていたガラシャ。

夫・細川忠興との葛藤

一方で、夫・細川忠興の苦悶も見過ごせません。
夫婦の心は離れていきます。
ヒステリーきわまった忠興は一気に5人の側室を召し抱え、また乳母の耳を削ぎ落としたり、おそろしい言動に走ります。

このような夫の狂態を見て、ガラシャは離婚を考えるようになりますが、カトリックの教えでは離婚は絶対に認められていません。
追い詰められるたまに神父は堪え忍ぶよう教え諭し、すんでのところでたまはこらえました。

たまは、辛抱強くみずからが堪え忍び、キリストの教えの模範を見せていくことで対応しようとしました。
しかし元来気性の烈しい忠興の気持ちはおさまることはありません。
ある日のこと、ガラシャの姿を偶然見た庭師を彼は斬り捨てます。
その返り血をあびたガラシャはその打ち掛けを数日間着続けて夫に抗議の意を示しました。
もうこのときガラシャは夫に愛想をつかしていたに違いありません。
しかしそれでも生きている限り戦国武将の妻として、自分の義務を遂行しようとしていたのです。

バテレン追放令、秀吉の死去、そして……

その一方で情勢は大きく動揺します。
奴隷貿易や植民地問題などをめぐって、秀吉は〈バテレン追放令〉を発布。
キリシタン迫害時代が幕を開けます。
これを受けて高山右近はすべての領地を返上、あっけにとられた周囲を尻目にマニラへと旅立っていきました。
そのような例外は別として、多くの庶民は信仰を棄てることを強要され、拒否すると拷問にかけられ、そして死刑――殉教となっていきました。
それが苛烈になるのは徳川家の天下になってからですが、ともあれ1598年、まだ幼い秀頼を残して、豊臣秀吉はこの世を去ってしまいます。

秀吉が死去すると、それまで隠忍自重していた徳川家康が待ってましたとばかりに決起します。
細川忠興は徳川方につくことを決意します。
対するは、なにがなんでも豊臣家を守りたい石田三成。
ついに戦国時代も大詰めを迎えるのです。

壮絶な最期、歴史に与えた影響

壮絶な最期、歴史に与えた影響

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英雄はその死をもって成立する、という言葉があります。
彼女はその意味では英雄だったかもしれません1600年8月16日、夫・忠興は徳川家康らとともに上杉征伐へとむかいます。
その空席をみはからって、西軍・石田三成は慣例にしたがって人質をとろうとガラシャのいる細川家大阪屋敷に迫りました。
しかし忠興は「たま(ガラシャ)の名誉に危険がせまるようならば、彼女を殺して家臣一同切腹せよ」と言い残して出ていきます。
家のためを思って彼女がとった行動とは――あまりにも有名な最期を語っていきましょう。

「花も花なれ、人も人なれ」

1600年8月16日。
天下分け目の戦いが近づいていました。
石田三成方が人質をとろうとする動きに、世間は騒然とします。
徳川家康は人質をとらないと宣言した上で大名たちの出方を見るという賭けの方針をとっていましたが、石田三成は慣例に従って行動しました。

ガラシャも戦国武将の妻。
夫と家が不利になる前に、自分の命を捨てるのは当然のことです。
しかしキリスト教では自殺は「神様が与えた寿命をみずから縮める行為」として禁じられています。

ガラシャは苦肉の策を講じました。
夫の命どおりに行動することとしたのです。
いままで自分のために仕えてくれた侍女や婦人らをあつめて、自分だけが死ぬことを宣言します。
彼らを逃したのち、信頼できる家来1人を残して、彼女は最後の祈りをささげました。
辞世をこのように詠みます――「散りぬべき時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ 」

天下分け目の流れを変えた死

燃えさかる炎のなかでガラシャは神に祈りをささげ、着物の胸をくつろげました。
家臣はその乳房の下、心臓を一閃槍で貫きます。
細川ガラシャは波乱の37年の生涯を終えました。

家臣はガラシャの死を宣言して、その場で切腹。
細川邸ごとガラシャの体は炎につつまれます。
その骨は神父が身の危険をかえりみず焼跡から探しだし、あつく弔われました。

上杉征伐におもむいていた報せを聞いた夫・忠興は慟哭し、激怒します。
「石田三成、非道なり」――ガラシャの、細川家とキリスト教徒として双方に殉じる形となった壮絶な死によって、5000の兵をもつ細川忠興は徳川家康につきます。
ほかにも三成に反発する多くの武将が徳川方につきました。
天下分け目の合戦・関ヶ原の戦いに東軍が勝利した大きな要因として、細川ガラシャの死を見過ごすことはできないでしょう。

強靭な精神と信仰をもった烈女・細川ガラシャ

苦しい立ち位置において、みずからの奉じる神の教えと夫そして家のすべてに面目が立つように死を選んだ、その覚悟はあっぱれと言うべきでしょう。
彼女の人生はひたすらに堪え忍び、信じることに費やされました。
「散るべき時をわきまえてこそ、花も人も美しいのだ」――辞世の歌からはまっすぐで毅然とした彼女の人となりが伝わってきます。
激動の戦国時代を祈りと信念とともに生きた細川ガラシャ。
その強さはまぎれもなく日本を代表する「女傑」の姿です。
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