日本三大悪女の一人、稀代の悪妻「日野富子」とは?

公開日:2019/10/29 更新日:2020/3/7

長い世界の歴史で恐ろしいエピソードを残した女性の呼び名として使われる用語「悪女」。その中では残虐なふるまいで恐れられた「中国三大悪女」、美貌と知略で知られた「韓国三大悪女」が有名となっていますが、日本にも歴史に名を残した「三大悪女」が存在しています。今回はその「日本三大悪女」の中から、室町時代に活躍した「日野富子」を見ていきましょう。

若いころから見える悪女ぶり

日野富子(ひのとみこ)は1440年(永享12年)に山城国(現在の京都府南部)に誕生。
富子の生まれた日野家は室町幕府の将軍家・足利家と縁戚関係を持っており、日野栄子(第4代将軍・足利義持の正室)や日野宗子(第6代将軍・足利義教の正室)などが足利家に嫁いでいきました。
そのような名門の家系に生まれた富子は1455年(康正元年)8月27日に16歳で第8代将軍・足利義政の正室に。
1459年(長禄3年)1月9日には第一子が誕生しますが、その第一子はその日のうちに亡くなってしまいます。
普通は子どもが亡くなって悲しみに暮れるところですが、富子は少し違いました。
子どもの早すぎる死を経験した富子は義政の乳母・今参局(いままいりのつぼね)を恨み、今参局が「呪いを掛けたせいで死んだ」だとして今参局を琵琶湖沖島に流罪(その後本人は配流途中に自害)。
そのほか義政の側室4人も追放してしまうことに。
自分の中にため込まず外に恨みをあらわにするとは、16歳の時点で「悪女」の香りは十分に感じられますね。

足利義政との結婚・跡継ぎ争い

第1子を不幸にも失った富子はその後1462年(寛正3年)、1463年(寛正4年)に相次いで子どもを産みますが、子どもはいずれも女子。
跡継ぎにする男子は生まれません。
そうした状況が続いた1464年(寛正5年)、夫・義政はすでに出家していた弟・義尋を跡継ぎにすることと決め、名を「足利義視」と改めさせ室町幕府管領(室町幕府において将軍に次ぐ最高職。
将軍を補佐して幕府政治を統轄していた)・細川勝元(ほそかわかつもと)を後見に任命。
義政は「もう跡継ぎになる子どもは生まれない」と考えたのでしょう。
しかしそんな翌年の1465年(寛正6年)に状況は大きく変わります。
富子はこの年に再び子供を産みますが、この子どもが念願であった男の子(義尚(よしひさ)である)。
富子はようやく生まれた男子・義尚を後継者に擁立しようと考えるようになり、義尚の後見に山名宗全(やまなそうぜん)を擁立。
するとこれを機に富子の実家である日野家が絡んで義視と対立。
義視も一度跡継ぎに指名されたからには引きたくないでしょうからね

そうした跡継ぎ争いが勃発すると、そこに勝元と宗全の対立や斯波氏(しばし。
足利家の有力一門)、畠山氏(はたけやまし)の家督問題まで絡んでしまい、これが11年にわたって続く「応仁の乱」に発展することに。
跡継ぎ問題は別の問題まで複雑に絡んで、大きな戦乱を巻き起こす形になってしまったのです。
義政にとっては「厄介なことが起こったなあ」と考えていたのかもしれませんが、富子の「子どもに跡を継いでほしい」という親心はわからなくもないですね。

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