天井いっぱいに描かれた度迫力の双龍図に感動!京都最古の禅寺「建仁寺」の歴史と蘊蓄

多数の塔頭寺院と、俵屋宗達作『風神雷神図屛風』や小泉淳作『双龍図』などの文化財でも有名な建仁寺って、東山区でも有名な観光地のひとつですね!禅の心と茶を広めた建仁寺ってどんな歴史を持っているか、興味が湧きませんか?今回は、静寂の中で自らの心と向き合える、京都最古の禅寺「建仁寺」の歴史と蘊蓄をご紹介したいと思います。

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建仁寺とはどんなところ?

建仁寺とはどんなところ?

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京都の人々から「けんにんさん」と親しまれる建仁寺って、京都の寺社仏閣の中でもNo.1というより、二番手、三番手という控えめなイメージってありませんか?祇園という華やかな場所に位置しながら、京都で一番古くからある禅寺です。
格式でいえば、京都五山第三位を誇るほどのお寺なんですよ。

「大いなる哉 心や」という栄西禅師の禅の教えを、800年以上も広めてきた、臨済宗建仁寺派大本山の寺院「建仁寺」について少しだけお話ししてみたいと思います。
建仁寺の和尚さんに少しお話しを聞くことができましたので、蘊蓄を交えながらご紹介しますね。
少しだけお付き合いください。

建仁寺の始まり

建仁寺の始まり

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建仁寺は建仁2年(1202)に鎌倉幕府二代将軍源頼家が寺域を寄進し、中国で臨済宗横龍派の虚庵懐敞(きあんえじょう)のもとで修業した栄西禅師(えいさいぜんじ)を開山として、中国の宋国百丈山を模して建立されました。
頼家から寄進された地は、木造の平清盛像がある六波羅天台に接する地を与えられています。
建仁寺には、頼家が20歳ころの像が置かれ、清盛と頼家の像が300mの距離を隔てて対峙するように設置されました。

栄西は臨済宗を広める許可を得た建久2年(1191)に、明庵(みょうあん)との僧号を与えられています。
中国から帰国したころの日本は、延暦寺の僧徒の訴えから禅布教を禁じていました。
博多に聖福寺を建立しましたが、禅修行専門の寺とはできなかったようです。
その後、鎌倉で武士の間に禅を広めようと、正治2年(1200)に、寿福寺の開山となりましたが、密教を兼修する体裁をとっています。
建仁2年(1202)に建仁寺を建て、朝廷から年号の「建仁」を寺号とすることを許され、禅宗最初の年号寺院となりました。

建立に纏わる逸話

当時、栄西の禅宗布教においては、否定的な見方もあり苦戦を強いられていました。
ちょうど京都に強風が吹き荒れ甚大な損害を被ったのです。
これは、新しい宗教を広めている「栄西のせいだ」と風評が広まってしまいました。
公卿僉議となり追放すべしと宣旨が発せられてしまいます。

しかし、栄西は恐れることなく、「風神でもない人間が風を起こせるはずがない。
もしそれができるなら、人間以上だ。
明徳の天子が栄西を見捨てるわけがない」と、抗弁書を提出しました。
天皇は、栄西の言い分は筋が通っていると、希望をいうよう伝えました。
もちろん、栄西は禅寺建立を願い出ました。
すぐに許可され、天台・密教・禅の三宗兼修の寺として、建仁寺建立を許可したとか。
延暦寺の末寺の格を押し付けられる形だったのですが、建仁の年号を許可されたことを主張し、延暦寺同格の寺としての主張ができたようです。

武士の寺として印象付ける栄西

武士の寺として印象付ける栄西

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栄西は、建仁寺建立において武士たちの支持を得ていることを人々に印象付け、格式の高い寺とする努力を惜しみませんでした。
武士たちが建築現場で汗水流す姿を見せることにより、武士が信仰する宗教だと民に認めさせました。
このことから微妙な立場だった建仁寺は、格式ある寺になることができたのです。

住待は9代目まで、栄西の門弟がつとめました。
建保3年(1215)7月5日に鎌倉で栄西が亡くなった後も、しばらくは、3宗兼修でした。
その後、寛元・康元年間の火災等で境内は荒廃してしまいます。
正嘉2年(1258)には東福寺開山の円爾弁円(えんにべんえん)が、建仁寺の10代目住待となり、伽藍の再興につとめ禅も盛んになりました。

純粋な禅寺となる建仁寺

11代には中国南宋出身の蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が正元元年(1259年)に入りました。
ここから現在のような禅寺となったようです。
室町幕府により京都五山が制定され、建仁寺は第三位の地位と保護を受けることが叶い栄えました。
その後、戦渦に巻き込まれ、幕府の衰退と共に荒廃します。

重要文化財のひとつ、銅板葺き切り妻造りの勅使門は、鎌倉後期の遺構で、建築当時は杮葺きだったようです。
戦国時代の始まりとされる、応仁の乱で受けた矢の痕が残っており、「矢の根門」と呼ばれています。
左の柱には、白い矢跡をはっきり見ることができます。
この勅使門は、平清盛の六波羅邸若しくは、平教盛の館門を移建したようです。

秀吉も再建に一役かった?

秀吉も再建に一役かった?

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天文21年(1552)に大火を浴びた建仁寺は、伽藍の大半を焼失してしまいました。
建仁寺は豊臣秀吉とのつながりを強くすることにより、八百二十一石を寺領としての寄進を受けることができました。
その後、秀吉の使僧として安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が再建に尽力しました。

秀吉は、建仁寺のことがお気に入りのようで、清水寺にお参りした折にはちょくちょく立ち寄っていたようです。
秀吉が催した北野大茶会の時に、紙屋川の土手に建てられた「東陽坊」があります。
天正15年(1587)に副席として使われ、大正10年(1921)に、移設されました。
茶室の近くには石があり、茶会の時の待ち時間に、秀吉が座ったとか?この茶室の西側には、建仁寺名物の「建仁寺垣」が設置されています。
竹を8つに割った垣は、趣を感じます。
1m、20万円もするとか。
びっくり価格ですね。

安国寺恵瓊が広島から持ってきた方丈

安国寺恵瓊が広島から持ってきた方丈

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元々毛利家に仕えていた安国寺恵瓊は、建仁寺の再建に際して、安芸の安国寺にあった、現在重要文化財の方丈を解体し、慶長4年(1599)に建仁寺へ移築しました。
関ヶ原の約1年前に、この偉業をやってのけたのです。
東福寺の224世住持だった恵瓊は、東福寺の仏殿も移築しています。

実は、建仁寺には安国寺恵瓊の墓がひっそりと建てられています。
関ヶ原の戦いで、西軍につき石田三成と小西行長と共に三条河原で処刑後に、晒された恵瓊の首を夜中に僧が持ってきて埋葬したようです。
でも、墓石に名前を書くわけにもいかず、誰のなのかわからない姿に悲しみを覚えます。

恵瓊による保護などで安泰と思われた建仁寺ですが、残念ながらまた辛い日々を迎えます。
実は、恵瓊の墓を造るにあたっては、裏事情があったのです。
一説によると、恵瓊の墓を、秀吉との決別を意味するよう方丈の裏に造り、建仁寺は生き残りを図ったとか?

江戸時代以降の建仁寺

建仁寺の江戸時代は、厳しい時代でした。
徳川幕府に保護される形で存続でき、堂塔などが修築されましたが、実は、南禅寺金地院の崇伝が臨済宗の僧録となり、厳しい監督下に置かれました。
制度や学問も、整備されたようです。

江戸幕府が崩壊した後は明治政府の宗教政策等で、臨済宗建仁寺派として分派独立を果たし大本山となりました。
2009年には、木造の十一面観音坐像が盗まれるという大事件が起きました。
仏像コレクター?の犯行で、後に犯人は逮捕され今は元の場所に納められています。
山門から堂々と入って盗んだとの事実に、現在はセキュリティーも万全になっています。

俵屋宗達の晩年の作、国宝「風神雷神図」屛風

俵屋宗達の晩年の作、国宝「風神雷神図」屛風

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国宝「風神雷神図」の屛風は、現在、京都国立博物館に寄託されています。
玄関を入ってすぐには「風神雷神図」のレプリカと金澤翔子さんが描いた「風神雷神」の書が、飾られています。
レプリカといえども迫力ある姿には圧倒されます。
また、大書院のガラスケースの中に展示している風神雷神図屛風もあります。
こちらは、キャノンが3D印刷したもので、いかにも屛風の中から飛び出しそうな勢いを感じられます。

実は、キャノンという名前を命名したのは、建仁寺の元管長・中村老師です。
最初は、当時の精密小型カメラに観音カメラという名前をつけ、呼んでいるうちにキャノンに変化していったとか。

壮麗な3つの庭も必見

壮麗な3つの庭も必見

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建仁寺には、昭和15年作庭の大雄苑(だいおうえん)と〇△□乃庭(まつさんかくしかくのにわ)、潮音庭(ちょうおんてい)の3つがあり、それぞれに違った趣があります。
大雄苑は方丈前庭で、いくつかの岩と緑苔が配された枯山水の庭園です。
砂の上には水を表す波打った線が引かれ、大らかな時の流れを感じます。
この水は、川から海へ流れていく水を表しており、終わりの部分は渦潮を演出しています。

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平成18年に造られた四方を廊下で囲まれた坪庭が、〇△□乃庭です。
ユーモラスかつ大宇宙の世界を描きたいという思いから作られたようで、四角は井筒で作られ、丸は1本のヤブツバキの下に苔で円を象りひとつの景石がより情緒を醸し出しています。
三角は少しわかりにくいのですが、白川砂で造られた大きな三角形で、形があってないようなものという型破りなものです。
幾何学模様が上手く配置された庭は、日本の奥ゆかしさの中に現代美を感じられます。

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建仁寺本坊中庭の枯山水の「潮音庭」は、周囲のもみじと緑の苔が美しい四面正面の枯山水式庭園です。
中央には三尊石、その東には坐禅石を配した、禅庭となっています。
庭を通して対面に見る小書院に描かれた青い襖絵があり、その鮮やかさに圧倒されます。
季節や天候により変化する庭の様子を、四方から見ることができるのも魅力です。

芸術品の色々

先ほど俵屋宗達の風神雷神図に関しては説明しましたが、他にもさまざまな芸術品があります。
潮音庭から眺められる、青く描かれた『船出』という絵は、開山栄西禅師八百年大遠諱慶讃事業の一貫に描かれたもので、染色画家の鳥羽美花氏によって描かれています。
ベトナムの景色に感銘を受け描いたとか。
裏側には『凪』という墨絵があり、同じく鳥羽美花氏が書いたものです。
これらは、古いものだけを大切にするのではなく、新しいものをと取り入れられました。

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風神雷神図と同じく京都国立博物館に保管されている、安土桃山から江戸時代にかけて活躍した、海北友松が描き上げた「雲竜図」や「竹林七賢図」も見逃せません。
レプリカですが、2本の角と、3つの爪、睨みを利かせた龍の表情が迫力満点ですよ。
田村月樵作「唐子遊戯図」の絵も、子供たちが遊ぶ姿が愛らしく素晴らしいものです。

108畳もある双龍図が天井から睨みを利かせる法堂

108畳もある双龍図が天井から睨みを利かせる法堂

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昭和2年(1927)に建てられた禅宗様仏殿建築の「拈華堂」は、建仁寺に来たら絶対に訪れたいスポットです。
本尊釈迦如来坐像と脇侍迦葉尊者、阿難尊者が祀られています。

創建800年を記念して、平成14年(2002)に小泉淳氏作が描いた、双龍が天井に取り付けられました。
この双龍図は北海道で描いたものを分割し、京都まで運んできたものです。
口を開けた阿(生を意味する)と口を噤んだ吽(死を意味する)が描かれています。
この龍の手には、中国でも皇帝しか使えない、5本指の龍が描かれています。
普通、龍は1頭なのに2頭描かれている上に、位の高い5本指の龍を見て嫉妬した僧が、「家は一流(一龍)だけど、建仁寺は二流(二龍)だ」と皮肉ったとか?また、龍の首にある鱗のひとつが逆に描かれており、これは「逆鱗に触れる」の逆鱗を表しています。

おまけ

修行僧が床に就く亥の刻(22時)過ぎに撞く陀羅尼の鐘は、開山在世の時に、鴨川の七条の下流に沈んでいた源融の旧物を「えいさい」&「ようさい」と栄西の名前を呼びながら引き上げたとか。

屋根の丸瓦をよく見ると建仁と書かれたものもあり、ここに訪れると「簡素に生きることが、一番の贅沢」との教えを体感できる気がします。
釘隠しをよく見るとお寺でよく拝見できる、菩提樹の葉っぱ猪目(いのめ)模様を表した、「ハートの形」も見ものですよ。

京都最古の禅寺で、臨済宗の大本山建仁寺に訪れてみませんか?

日常を離れ静寂に包まれた建仁寺に訪れると、自らと向き合える貴重な時間を過ごすことができます。
趣ある庭やさまざまな造りの建造物、文化財などゆっくりと見ながら過ごしてみてはいかがでしょう。
また、法堂の天井にいる、迫力満点の2頭の龍には圧倒されます。
伺ってご自分の目で、双龍図の大迫力を味わってください。
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