今は何があるの?天下分け目の「関ヶ原古戦場跡」を巡る旅

岐阜県の南西、伊吹山の麓に位置する関ケ原町(せきがはらちょう:現在の町名としてはヶではなくケと表記)。南北を山に挟まれ、西へ抜ければ琵琶湖へ。近畿と東海を結ぶ交通の要衝として、古くから関が置かれ、中山道の通り道となり、今も高速道路や新幹線が通る場所。そして、かの”天下分け目”の関ヶ原合戦の決戦の地。大変有名な土地ではありますが、「観光で行ってきた!」と言う人は少ないのではないでしょうか。誰もが知る出来事が起きた関ヶ原とはどんなところなのか、歴史を紐解きながら廻ってみたいと思います。

関ヶ原の戦いとは

関ヶ原の戦いはなぜ起きたのか?決戦までの経緯

関ヶ原の戦いはなぜ起きたのか?決戦までの経緯

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1590年(天正18年)、小田原征伐にて北条一族を制したことで天下統一を成し遂げ、豊臣秀吉は名実ともに天下人に。
諸大名たちは秀吉の元、戦を止め天下泰平を誓い合いますが、豊臣一門の内部には後継ぎ問題や家臣同士の対立など、不穏な空気が漂っていました。

秀吉は軍事・文治の両面から天下統一を推し進めており、加藤清正や福島正則など戦で武功を立てた武断派家臣と、検地や兵站など内政面で力を尽くした石田三成らとの間で軋轢が生じていたのです。
さらに秀吉は実子秀頼に跡目を継がせたいがために、一度は養子にした甥の秀俊(後の小早川秀秋)を小早川へ養子に出したり、有力大名たちに秀頼への忠誠を誓わせたりと、秀頼を思うがゆえの行動に家臣たちは翻弄されていきます。
1598年9月に秀吉が亡くなると、豊臣内部の分裂は避けられない状態に。
秀吉の遺志を継いで秀頼を盛り立て豊臣の存続に奔走する石田三成と、三成に反発する武断派の家臣たち。
そこに入り込んだのが、静かに天下取りを狙う徳川家康でした。

家康は豊臣内部の不協和音を巧みに利用して豊臣の家臣たちを取り込み、力をつけていきます。
豊臣を守るため、家康と対峙することを決めた三成は毛利、宇喜多、上杉と共に西国大名をまとめて挙兵。
一方の徳川東軍には家康の忠臣の他に福島正則や加藤清正などの名前も。
秀吉没後間を開けずして東西分かれての対峙が始まりました。

決戦の地は関ヶ原

決戦の地は関ヶ原

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石田三成と徳川家康は巧みに動きながら、東西どちらに着くか思案していた大名たちを取り込み、東軍およそ7万、西軍8万。
三成の当初の計画は、伊勢・美濃(現在の三重県・岐阜県付近)を押さえて岐阜城を拠点に尾張(現在の愛知県周辺)あたりで家康を迎え討ち、その背後を上杉軍が取って挟み撃ちにする、というものだったようです。
しかし家康の動きは素早く、三成が足元を固めるより先に岐阜城は東軍の手に落ちてしまいます。
勢いに乗る東軍はそのまま進軍。
伊勢と美濃周辺の城を次々落とし、大坂城を目指して突き進みます。

戦の場において、総大将の存在というものは常に兵たちの士気を高め、時として勝敗に大きな影響を及ぼします。
石田三成は大坂城から外に出ない豊臣秀頼や、西軍の総大将である毛利輝元の出馬を求めていましたが、秀頼の母・淀殿の反対などの理由から、どちらも果たされることはありませんでした。

こうして東軍・西軍は互いの動きを読みながらじわじわと駒を進め、東方から続く中山道と伊勢街道、西方から伸びる北国街道が交差する関ヶ原に集結。
1600年(慶長5年)9月15日、天下分け目の決戦の幕が切って落とされました。

わずか一日で終わった”天下分け目の大戦”

わずか一日で終わった”天下分け目の大戦”

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勢いは東軍にあるとはいえ兵の数は西軍が上回っていましたし、東軍の武将たちより地形に精通しているという利点も。
さらに宇喜多、毛利、上杉といった有力大名が名を連ねていましたので、西軍の勝利との見方が強かったようです。

三成はいち早く家康の動きを察知し、一足早く関ヶ原に入っていました。
関ケ原は街道辻を除けば山々に囲まれた窪地。
西軍は関ヶ原をぐるりと囲む山々の高所に次々と陣をはり、中山道を進んできた東軍を包囲する陣形。
北側の笹尾山に三成の陣、正面の天満山には宇喜多秀家や小西行長などが陣取り、東側の南宮山に毛利秀元の大軍が控え、東軍を迎え撃つ準備は万端。
南側の松尾山には小早川秀秋1万5千の軍勢が構えていました。

西軍有利と思われた陣形でしたが、それも各陣営同士の連携があってこそ。
南宮山の毛利軍は東軍の軍勢に阻まれ動くことができず、他の軍もうまく立ち回れず孤立しがちだったようです。
それを予見していたかのように、東軍は関ヶ原のかなり深い西側の位置まで駒を進めて陣取ります。
そして同日昼過ぎ、勝敗を分ける決定的な出来事が。
片翼を担うべく南側の松尾山にいた小早川秀秋が東軍に寝返り、さらに脇坂安治、小川祐忠といった部隊も小早川軍に続き離反。
西軍の主力部隊を翻弄します。
小早川秀秋は家康と通じていたのです。

この日の午後2時頃にはもう、東軍の勝利は決定的なものとなっていました。
多くの大名がその場で討ち取られ、あるいは自刃し、運よく敗走した武将も後に領地を取られ切腹を言い渡されるなど、西軍は壊滅状態。
家康は逆により一層勢力を拡大。
徳川政権の基礎がここに確立したのです。

関ヶ原古戦場を巡る(1)

関ヶ原を知るにはまず「関ケ原町歴史民俗資料館」へ

「関東」「関西」という呼び方の元になったのは”関ヶ原”だと言われるほど重要な場所と考えられている関ヶ原。
「古戦場」と一口に言っても、15万もの軍勢が睨み合い戦った場所です。
ゆかりの地を巡るにしても相当広範囲になります。
それに、それぞれ何か目立つ建物が建っているわけではなく、ありていに言ってしまえば「ここが○○の陣があった場所」という石碑が建っている程度。
効率よく見学するためにも、情報収集は欠かせません。
まず、役場近くにある「関ケ原町歴史民俗資料館」で地図を入手し、展示物を見て、戦の様子を学んでから古戦場を巡るのがオススメです。

常設されている6曲1隻の「関ケ原合戦図屏風」は1854年に描かれたもの。
関ケ原の様子を描いた屏風は全国に10数点あるそうですが、描かれた時代や描いた人によって、絵の内容にも若干の違いがあるのだそうです。

館内には、1600年の関ヶ原の戦いだけでなく、さらに1000年近く昔にこの地で起きた「壬申の乱(じんしんのらん)」についてのコーナーや、さらに古い時代の土器や石器などの出土品から近代の様子まで、関ケ原そのものの歴史を知ることができる構成となっていて見ごたえ抜群。
史跡巡りのオススメウォーキングコースなども紹介されているので、旅のプランを立てるためにも是非立ち寄ってみてください。

三成の懐に飛び込んだ家康「徳川家康最後陣地」

三成の懐に飛び込んだ家康「徳川家康最後陣地」

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民俗資料館のすぐ近くにきれいに整備された芝生が広がる公園のような場所があり「関ヶ原古戦場」の石碑が建っています。
徳川家康が最後に陣を敷いた場所で、ここは笹尾山の石田三成本陣から1㎞も離れていません。
まわりをぐるりと山に囲まれている低地で、素人目に見てもかなり無防備ではなかったかと思われるような場所。
勝利を確信したのか、あるいは苦戦に苛立ってのことか、最初に陣取った場所から2㎞以上も西に進出して戦況を見守っていたのだそうです。
目の前に躍り出た家康の姿を、三成はどんな気持ちで見下ろしていたのでしょうか。

家康がここに陣を移してから間もなく、小早川秀秋が寝返り、状況は大きく東軍へと傾きます。
日が傾くころには西軍は敗走し、家康はここで、討ち取った敵将の首を実験していたのだそうです。
首実験とは、首をひとつひとつ見て誰の首か確かめ、どれほどの手柄か判定する材料として行われた作業(儀式と呼ぶことも)のこと。
敷地内には首実験の様子を描いた絵も立てられています。

戦死者を葬った2つの首塚「東首塚」と「西首塚」

戦死者を葬った2つの首塚「東首塚」と「西首塚」

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関ヶ原の戦いでは(兵数や戦没者数についてはいくつか説がありますが)明け方から昼過ぎまでのわずか半日ほどの戦ではありましたが、両軍合わせて8000人もの死者が出たと言われています。
今は山間に田園が広がる静かな関ケ原町ですが、およそ400年前、ここには地獄絵図のような光景が広がっていたものと思われます。

同じく民俗資料館のほど近く、徒歩で5分ほどのところにあるのが「東首塚」。
家康は首実験の後、遺体を弔うよう、当時このあたりを治めていた竹中重門(たけなかしげかど)に命じます。
重門は秀吉の参謀として活躍した軍師竹中半兵衛の息子。
彼もまた、もともとは秀吉の重臣でありましたが最終的には東軍についた”鞍替え組”。
家康は重門に対し、戦没者の供養料1000石を与たと言われており、竹中一族は美濃岩出山6000石の旗本としてその後も関ヶ原周辺を統治し、家は幕末まで続いていきます。

東首塚のまわりは喧騒を忘れさせる静かな森。
後の世に建てられた朱の唐門をくぐると、スダジイの見事な大木が旅人を迎えてくれます。

西首塚は東首塚からJRの線路を挟んで1㎞ほど離れた場所に。
別名”胴塚”と呼ばれることもあります。
西軍の兵が西首塚に、東軍は東首塚にそれぞれ埋葬されているとの説もありますが、相当な数の遺体が出たと思われることから、東西区別なく埋葬している可能性も高いようです。
明治時代に入って東海道線の工事を行う際、たくさんの人骨が出たと言われており、おそらく昔はもっと広範囲に弔いの場が設けられていたのでは、と考えられています。

どちらも「首塚」ですので、ひっそりと静か。
華やかな装飾や建造物はありませんが、合戦の中で人知れず亡くなっていった兵たちに手を合わせていきたいものです。

関ヶ原古戦場を巡る(2)

合戦最大の激戦地「関ヶ原古戦場決戦地」

合戦最大の激戦地「関ヶ原古戦場決戦地」

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1600年9月15日の夜明け前、まだ霧が立ち込める視界の悪い中、決戦の火蓋が切られました。

西軍の総大将は一応、毛利輝元ということになっていますが、実質的に軍を率いていたのは石田三成。
東軍の目指す先も三成の本陣であったはずです。
押す東軍、迎え撃つ西軍。
どれほどの激戦であったか想像も及びません。

関ヶ原決戦の地は、民俗資料館から徒歩で30分ほど離れた、今ではのどかな田園風景が広がる平地。
三成が陣を置いた笹尾山まであと少しといった場所に、古戦場の石碑と、徳川家と石田家の家紋が入ったのぼりが風にはためいて立っています。
石碑とのぼり以外、特に目立った史跡は見られませんが、だからこそ逆に、当時の様子を忍ぶことができるというもの。
この場所に立ってまわりを見渡してみると、周囲をぐるりと低層の山々に囲まれていて見通しがいいということに改めて気づかされます。
何もないからこそ感じることができることもあるようです。

ここから幹線道路を挟んで10分ほど歩いたところに「開戦の地」があることからも、激戦であったことが伺えます。
主力部隊とぶつかりながらひたすら三成の陣を目指してにじり寄る東軍。
周囲の山の上からなら、合戦の様子をつぶさに知ることができたでしょう。
俯瞰ではなく地上から、合戦の様子を知ることができる絶好のスポットです。

三成はここから何を見たのか「笹尾山石田三成本陣跡」

三成はここから何を見たのか「笹尾山石田三成本陣跡」

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関ケ原町には、各武将の陣地であったことを示す石碑が数多く建てられていて、そうした石碑を巡ってみると、各武将たちが合戦の様子をどのように見つめていたか垣間見ることができます。
数ある石碑の中でも、石田三成の陣があった笹尾山は別格。
ここは石碑やのぼりだけでなく、竹矢来(たけやらい:竹を縦横に組み合わせて作った囲い)や馬防柵(ばぼうさく:木を縦横に組み立て馬を防ぐ柵)などが設けられ陣の様子が再現されています。

家康の動きをいち早く察知し、小雨が降る中、拠点としていた大垣城を出た三成。
まだあたりが薄暗い午前5時頃にはこのあたりに陣を設けていたと考えられています。
三成本陣は総勢6000の兵。
到着するや否や陣地に柵を二重に配置したそうです。
なぜ三成が最前線ではなくこの場所に本陣を置いたのか、小高い山の上からあたりを見渡しながら、ふとそんなことを考えてしまいます。
武断派の連中から嫌われ疎まれながらも、秀吉の元で地味で面倒な事務作業を一手に引き受けて懸命に働き続けた不器用な男は、最期まで地味な裏方でい続けようとしたのか、あるいは、いざというとき西側にすぐ逃げられるよう北国街道への敗走経路を確保したかったのか。
豊臣方の内情を誰よりも知る三成なら、西軍の負けを予見していたとしても不思議ではありません。

現在の笹尾山は遊歩道が整備されていて麓に駐車場もあるため、比較的簡単に登ることができます。
ただ、山頂に目立つ建物が建っているわけではありませんので、地図などで場所を確認しながら登頂なさってください。

天下分け目を分けた「松尾山小早川秀秋陣跡」

天下分け目を分けた「松尾山小早川秀秋陣跡」

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笹尾山に比べると山頂までの道のりはやや険しく、登り口もわかりにくいのが松尾山。
関ヶ原で西軍を裏切り寝返った小早川秀秋の陣があった場所です。
ところどころ道標があるので道に迷うことはないと思いますが、史跡巡りというより軽い登山という感じ。
新緑の時期もおススメですが、紅葉の時期の道も格別です。
合戦の日は一般的に1600年9月15日という書き方をしていますが、これは旧暦で、実際、西暦では10月21日ということになります。
季節としては葉が色づき落ちていたかもしれません。

山頂は少し開けていて、ちょっとした公園になっています。
あずまやなどもあるので、散策の途中でのんびり休憩する人の姿もちらほら。
山頂からまわりの景色を見ると、関ヶ原を一望することができ、この場所が合戦の勝敗を左右する重要な地点であったことがわかります。
この場所から東西両軍の動きを見て、小早川秀秋は何を思っていたのでしょうか。

関ヶ原の戦いから2年後の1602年、秀秋は21歳の若さでこの世を去ります。
病死と言われていますが、豊臣方の武将たちの亡霊に怯え酒に溺れていたとの話も伝わっており、大きな決断をして生き残ったものの、決して穏やかな余生ではなかったようです。

今は”何もない”関ヶ原

歴史の教科書に必ず載っている、誰もが一度は耳にしたことがある地名「関ケ原」。
昔もそうだったように、今も東と西を結ぶ交通の要衝として、高速道路や新幹線が通り、多くの人や物が行き交います。
華やかな観光施設があるわけではないけれど、だからこそわかること、感じられることがたくさんあるのかもしれません。
天下分け目の大戦があった場所は、そのまま変わらず、今も静かに時を刻んでいるようです。
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