その才能のために嫉妬された?日本書紀により悪者にされた「蘇我入鹿」とは?

みなさんは蘇我入鹿といえば、どんな人物像を思い浮かべますか?

大化改新のとき、中大兄皇子と中臣鎌足に倒されてしまう悪役、そういうイメージですよね?

しかし、よく考えてください。

蘇我入鹿って本当に悪役なのでしょうか?

ここでは、入鹿は本当に悪役?

ということと、蘇我入鹿という人物について見ていこうと思います。

蘇我氏はどのように権力を握ってきた?

蘇我氏はどのように権力を握ってきた?

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蘇我氏は欽明天皇の時代に娘を嫁がせて政治の実権を得た稲目から歴史に登場し(もちろん蘇我氏自体の成立はもっと昔)、その子馬子は推古天皇の時代に聖徳太子と協力して政治改革を行い、さらに馬子の子の蝦夷は推古天皇末年から皇極天皇の御代にかけて大臣として権勢をふるいました。

推古天皇の後、蘇我氏は聖徳太子の血を受け継ぐ山背大兄王(やましろのおおえのみこ)と血縁関係にあるにもかかわらず、山背大兄王を差し置いて、敏達(びだつ)天皇の孫の舒明(じょめい)天皇やその姪で妻の皇極(こうぎょく)天皇を即位させました。

この時代の天皇の即位は、後の将軍家などとは違い、天皇に子供がいても、弟がいたりすればそちらを優先的に即位させる、「暗黙のルール」みたいなものがあったのです。

その理由としては、山背大兄王の人望と実行力を疎んじたという説、推古天皇に続き蘇我氏系の山背大兄王を擁立することで反蘇我派が勢い付くのを避けたかったという説、また背後の傍流の用明天皇系の王を嫌う敏達天皇系の皇子たちの意図があったとする説が。

蘇我入鹿とは?

蘇我入鹿とは?

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この頃出てくるのが蘇我入鹿です。
入鹿の青少年期は僧・旻(みん)に学問堂で学んだ秀才だったと言われ、生年は不詳ですが、父の蘇我蝦夷の生年は586年頃と言われているため、生年は600年~610年頃と思われています。

蝦夷が大臣であった642年(皇極天皇元年)、皇極天皇の即位に伴い、父に代わって国政を掌理することに。
翌643年(皇極天皇2年)の10月6日には父から独断で大臣を譲られます。

これにより、実質的にも形式的にも入鹿が蘇我氏の家督を継という見方がありますが、この頃聖徳太子以来、皇室の周辺に国政を天皇中心に改革せんとする気運が強まったとされ、入鹿はこのような動きを押さえ古人大兄皇子を天皇につけようと図ることに。

また、入鹿という名前には議論があり、当時の時代は精霊崇拝の思想に基づき、動物に因んだ名前を付けることが多かったという風潮があり、蘇我入鹿も、海の神の力を借りる為に、イルカにあやかってこの名前を名乗ったという説も。

歴史の教科書で蘇我入鹿の名前を見てイルカを連想する人は多いと思いますが、本当にイルカから名付けられた可能性もあるのですね。

また、中大兄皇子と中臣鎌足が彼の本当の名前を資料とともに消して、卑しい名前を勝手に名付けたという説も。

これはどれだけ入鹿のことが嫌いだったのでしょうか?正直ただ単純に嫌いだったという想像しかできません。

入鹿が権力を握るために行ったことは?

入鹿が権力を握るために行ったことは?

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そして、皇極元年(642年)頃、蘇我入鹿が父・蝦夷(えみし)を凌ぐ権勢をふるい、国政を掌握し、その勢力は父の蝦夷に勝るほど。
このあたりから蘇我氏の専横が行われていたとされていますが、これは「日本書紀」編者が乙巳(いっし)の変(中大兄皇子が入鹿を暗殺した事件)を正当化しようという意図があったというものだそう。

入鹿はまた、「藤氏家伝 上」や「日本書紀」の皇極記で「鞍作」(くらつくり)とも表記され、かつて仏師鞍作鳥を出した渡来系氏族の鞍作村主(すぐり)にちなむものだそうですが、入鹿との関係は不明。

蝦夷から権力を譲られた入鹿は、その直後の皇極2年(643年)、同じ蘇我氏の血を引く古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)を後継者にするため、対立候補の山背大兄王の屋敷に軍勢を差しむけ追い込みました。

山背大兄王の側近は東国に逃れ再起を図ることを勧めましたが、山背大兄王は民に苦しみを与えることをよしとせず、王子らと共に自害。

この顛末を聞いた蝦夷は「おろかな入鹿め。
我が身を危うくするぞ」と嘆いたといいます。

実際に、入鹿とその勢力の皇族は、同じように敗れてしまったわけですからね。

権力を握った入鹿が行ったことは?

権力を握った入鹿が行ったことは?

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入鹿はこのように上宮王家の討滅を行い、古人大兄王の擁立を目指しました。

「日本書紀」では入鹿の単独行動のように記されていますが、「上宮聖徳太子伝補闕記」(じょうぐうしょうとくたいしほけつき)などは軽王(かるのみこ、孝徳天皇)の関与を語り、「藤氏家伝 上」では「諸王子」、つまりは何人かの皇子で共謀して斑鳩宮を襲ったとされています。
「日本書紀」としては「偉大な聖徳太子の後継者を『独力で』滅ぼした邪悪な入鹿」という人物を作り上げる必要があったのですね。

上宮王家の討滅が入鹿による近い将来の古人大兄王の擁立の第一段階であることは明らかで、そしてその第2段階で障害となるのが葛城皇子(かつらぎのみこ、中大兄皇子)であることは誰の目にも明らかに。

またその他に蝦夷・入鹿父子は自分たちの墓を天下の民を動員して作らせ、天皇の陵墓にしか使わない「陵」という言葉で呼ばせました。

「陵」の件とはともかく、現代の人でも「お金があるから、自分の墓は大きくて立派なものを建てよう!」と思うことはあると思いますけどね。
また当時は墓と自分の家以外に自分の力を誇示できるものがなったのでは?とは思います。

さらに甘橿丘(あまかしのおか)に兵器庫を備えた屋敷を並べ建て、その周囲に柵や池を作って外敵の侵入を防ぐ警備柵をとり、蝦夷の家を「上の宮門(みかど)」、入鹿の家を「谷の宮門」と呼ばせ、自分たちの子供は「王子」(みこ)と呼んだといいます。

こうした行いは「入鹿が皇位を狙っていたからだ!」と日本書紀では非難していますが、これは案外、自分たちで呼んだのではなく、近所の人たちの噂になって(もしくは皮肉を込めて)そう呼ぶようになっていったのではないかなあ?と私は思えてしまいます。

入鹿の政治の理想とは?

入鹿の政治の理想とは?

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入鹿は、権力を持った大臣個人が傀儡(かいらい、操り人形にすること)王を立てて独裁権力をふるうという、高句麗と同じ方式の権力集中を目指していたことになります。
激動の東アジア国際情勢に対処するには、一見するとこれが最も効率的な方式に見えたということ。
一方、唐から留学生(るがくしょう)や学問僧から最新の統治技術を学んだ者の中からは、国家体制を整備し、その中に諸豪族を編成することにより、官僚制的な中央集権国家を建設し、権力集中を図ろうとする動きが興りました。

その際、有力王族が権力を掌握し、それを権臣が補佐する、そして有力豪族の代表による合議体が存在するという方式も、新羅と共通するもの。

共に唐の最新技術を学んでいた入鹿と葛城皇子、それに中臣鎌足は、いずれが主権を握って国際社会に乗り出すかで、抜き差しならない対立関係に踏み込んでしまったのです。
そして、鎌足が選んだのは、葛城皇子および官僚制的中央集権国家の方。

鎌足は唐の僧に「あなたは才能では入鹿に及ばない」と言われたことがあるそうで、その辺りで入鹿にコンプレックスとかライバル心みたいなものを感じて、入鹿と対決することを選んだのかな?とも思います。

やり方は違えどどちらも最新の技術を得ていて、入鹿の方がこのまま主権を握っていても、しっかりとした国家ができていたということになりますね。

鎌足ははじめ軽王、次いで葛城皇子に接近し、入鹿が国家を我が物にする野望を抱いていることに怒り、次々と主家の人々に接触し、企てを成し遂げる英明の王を求めたそう。

乙巳の変で入鹿はどのように暗殺された?

同じ蘇我氏も入鹿暗殺に加担した?

同じ蘇我氏も入鹿暗殺に加担した?

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そして同じ蘇我氏の蘇我倉氏の、蘇我倉石川麻呂が同じ入鹿を憎むものとと知り、石川麻呂の長女を葛城皇子の妃として、両者を結びつけようとしました。
蘇我氏内部でも蝦夷から入鹿への大臣の継承を快く思ってない人たちもいたのですね。

しかし、石川麻呂の長女は石川麻呂の弟の日向(ひむか)に盗まれてしまい、各々の系統に分裂していた蘇我氏内部の抗争がますます露わに。

そして。
皇極4年(645年)に起こったクーデターは、一般には葛城皇子(中大兄皇子)が蘇我蝦夷・入鹿といった蘇我氏本宗家を倒すことを目的と考えられていますが、同時に蘇我氏の血を引く王統嫡流の古人大兄王も標的だったそう。

また入鹿が蝦夷の後継者となったことに対する、蘇我氏同族の氏上(うじのかみ)争いといった側面も見られ、鎌足が氏上と大臣の座をエサに、蘇我倉氏の石川麻呂などを誘い込んだとも。

入鹿暗殺はどのように行われた?

入鹿暗殺はどのように行われた?

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6月12日、「大極殿」(だいごくでん)で行われた三韓進調という儀式が行われ、古人大兄皇子も皇極天皇の傍らにいたということですが、むしろこちらが主要な標的だったということ。

この儀式は中大兄皇子が偽って皆に知らせ、実際に高句麗・百済・新羅からの進調があったのはこの少し後の7月2日だったので、外交を担当していた入鹿はまんまと乗せられたことになりますね。

入鹿が殺害されたのは大極殿の前庭で、石川麻呂が上表文を読み上げて終わりかけていた頃、中大兄皇子が入鹿に突進し、剣で頭と肩を切り裂いたということ。
入鹿が立ち上がると、鎌足が推挙した佐伯子麻呂が片足を斬りました。

入鹿としてみれば、権力を自己に集中させ、飛鳥の防衛に腐心して激動の東アジア情勢に乗り出そうとしていた矢先に、いきなり斬り殺されてしまったことになりますね。
入鹿は実力はあったのですが、人望がなかったということになりますか。

また、古人大兄王はこの惨劇を見て現場を脱出し、私邸に走り帰り門を閉ざし、入鹿が死んだことにより自分の命運が尽きたことを悟り、出家して吉野へ隠遁した後に中大兄皇子に殺されています。

入鹿の死後と私が入鹿をテーマにした理由

入鹿の死後と私が入鹿をテーマにした理由

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この乙巳の変の後、いわゆる大化改新が行われ、公地公民制、班田収授法、国郡制度、租・庸・調の整備が中大兄皇子と中臣鎌子によって行われました。

しかしこの直後、朝鮮半島で百済が滅亡し、中大兄皇子は朝鮮半島に援軍を送りますが、白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗。

その後中大兄皇子は唐と新羅の報復と侵攻を恐れて太宰府に水城(みずき)を築き、西日本各地に山城などを築いて防備を固めました。

間に古代最大の反乱といわれる壬申の乱が起こりますが、即位した天智天皇から天武天皇の時期に国家の中央集権化が進められていきます。

私は以前の白村江の戦いの記事を書いたときに、その流れで荒山徹さんの「白村江」という小説を読んだのですが、その中で入鹿が「航行する船から海に飛び込んでイルカたちと一緒に泳ぐ」なんていう描写があり、作中の入鹿が魅力的で興味を持ち、今回この記事を書くに至りました。

そして、わかったのは、入鹿はたしかに権力を独占したように見えますが、それはしっかりとした実力があり、自分の邪魔になる勢力を潰すというのは、源頼朝も織田信長もやっていますし、なんなら中大兄皇子と鎌足が入鹿を殺したのもそうですよね。

「入鹿は日本書紀により悪役にされた」ということが今回調べてみてよくわかりました。

入鹿がもしこのまま実権を握っていたら、その後の国家はどうなっていたのか?興味が尽きません。

入鹿は決して悪役ではなく、魅力的に描かれた小説も

入鹿は乙巳の変からの革命を正しいものにするために、日本書紀の編者に悪役にされた、ということがわかりましたね。

といっても、入鹿が権力を握って欲しいままにしたのは事実。

でも、暗殺を企てた中大兄皇子の方が悪役とも言えますし、善玉・悪役ってあってないようなものですよね。

ただ、どうやら入鹿は他人から嫌われやすい人物ではあったのかも。

優秀だからその才能に嫉妬されただけかもしれませんが。

また、よろしければ、私が入鹿のことに興味を持った荒山徹さんの小説「白村江」を読んでみていただきたいです。

入鹿という人物が魅力的に描かれていますので。

それでは、今回も最後まで読んでいただき、ありがとうございます!

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