大英帝国になるまでのイギリスの歴史を知ろう!中世イングランドをひも解くスポット6選

先日ウィリアム王子とキャサリン妃に第3子が生まれる事が発表されたイギリス。ロイヤルファミリーの心温かい話題はうれしいですね。

ところで、イギリスの正式名称はご存知ですか?

「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」がその正式名称。イングランド・スコットランド・ウェールズがグレートブリテンを指し、北アイルランドを含め4つの連合国となります。これは歴史の中で王位を兼任するやり方でブリテン島を統治してきた歴史を感じさせる名称です。

イギリスと言えば、選挙によって決まったブレグジットやスコットランドの独立投票などさまざまな話題が近年聞こえてきます。

ヨーロッパの大陸からの影響を受けながらも、常に自分たちは違う立場をイギリスは選んできたように思います。

今回はそんなイギリスが大英帝国として大西洋の外に出るまでにどのような歴史を歩いてきたのかを見ていきます。

紀元前3000年前に古代ケルトよりも前に作られたストーン・ヘンジ

紀元前3000年前に古代ケルトよりも前に作られたストーン・ヘンジ

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では、早速ですが、一気に古代は紀元前3000年前からみてみます。

イギリスではまだアングロサクソン人はもちろん、ケルト系の人々の文化ですらはっきりと見受けられていない頃です。

そのころに作られ始めたと考えられているのが、イギリスの世界遺産でも有名なストーンヘンジ。

ストーンヘンジは一体誰が何のために作ったのかは、はっきりとはわからない謎の多い遺跡のひとつです。

ストーンヘンジの中心部には動物の骨などが多数発見されおり、周囲に堀などもあったことなどをあわせると、当時の権力者が埋葬された場所だったのかもしれませんし、神聖視したものを祀った祭壇だったかもしれません。

このストーンヘンジの謎は何に利用したのかだけでなく、巨大な石たちの採石地は遠く離れたアイルランドなどであることはわかっていますが、どのようにしてこの場所へ運んだのかは未だ不明なのです。

また、20世紀初頭に大幅に手を加えた修復作業を行なっており、それは現在でいう修復作業の領域から大きく逸脱しているため、さらに元々の姿を知ることを複雑なものにしています。

ストーンヘンジは古代の祭壇か?天文台なのか?

ストーンヘンジはロンドンから西にあるイギリス南部ソールズベリーの近郊にあります。

直径100メートルの円形に組まれた石柱が立ち並ぶ遺跡で、現在の姿は一部修復されています。

遺構を元に復元すると、円内は三重になっており、4~5メートルの石柱が二重の馬蹄型に並んでおり、その間に7メートルの門型の組石5基が同様に馬蹄型に並んでいたと考えられています。

外側には石柱とその上に横倒しに乗せられた天板石が柱廊のように輪を描いていました。

馬蹄型の縁の中心にはヒール・ストーンと呼ばれる石があり、夏至の朝の太陽がこの石を照らすとその影が縁の中心部を指し、その影の方角は馬蹄型の輪が切れている箇所をまっすぐに貫きます。

このことからストーンヘンジを作った人達には天文の知識があり、高度な文明を持った民がこの地域にいたと言われています。

古代からあるこの遺跡は中世の時代から人々の中では不思議なものとして捉えられていたようです。

中世の時代には伝説のアーサー王の仲間である魔術師マーリンが魔法で運んだと言う伝承や、石柱の中には青みを帯びたブルーストーンと呼ばれるものもあり、その石には魔力があり病を治す力があるとも言い伝えられてます。

海を越えて古代ローマ人たちがやってきた

海を越えて古代ローマ人たちがやってきた

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ストーンヘンジの時代を経て、イギリスに大きな変化がやってくるのはローマ帝国軍のブリタニア侵攻です。

紀元前48年ごろ、ブリテン本島には大陸から古代ケルト系の民族が移り住んでおり、部族単位の集落と独自の文化を育んでいました。

そこにガリア戦線を延長し海を越えてきたのがローマ軍です。
最初に軍を進めたのはユリウス・カエサル。
結果としては部族の結束も硬く、ローマに利益がないと判断し撤退しています。

しかし、帝政に入り、ローマ軍はブリタニアへ侵攻していき、これによってケルト文化にローマ文化が加わっていきます。

英語の風呂を表す言葉になったバース

その象徴とも言えるのが、テルマエ・ロマエでも有名になったローマ人のお風呂文化です。

ブリテン本島の南側、大陸に近いバースにはイギリスでは唯一の天然温泉が湧き出ており、そのお湯を利用してローマ人が公共浴場を作りました。

このバースという土地の名が英語の「風呂」を表す単語になったほど、その浴場は広く知れ渡りました。
ローマ軍の疲れを癒したのです。

現在では街全体が世界遺産となっており、ローマ時代の温泉施設はローマン・バス博物館の中で見ることができます。

残念ながら温浴やサウナの部分は中世時代に埋没してしまっていますが、当時でも珍しいプールが保存状態も良く残っています。

二階建ての回廊が長方形のプールをぐるりと囲っており、見上げるとこちらを見下ろす白い女神像が。

ローマ人が来る前から病を治す温泉には神の力が宿っていると考えられていたそうで、施設の中にも神様を飾ったのでしょう。
温泉は神からの恵みのひとつだったのですね。

5世紀にローマ帝国は大陸側起こった民族の侵入などで領地を縮小することになり、ブリタニアを撤退します。
ブリタニアに新しい時代が訪れることになります。

七王国時代と古都ウィンチェスターのグレートホール

七王国時代と古都ウィンチェスターのグレートホール

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ローマ軍が撤退する410年より前から ブリタニアの国境線以外にもブリテン島への侵入者がいました。

ノルウェーなど北欧のユトランド半島から来たアングル人やサクソン人たちです。
古来からいるケルト系の人々はブリテン人と呼ばれていました。

ローマ軍が撤退した後は彼らがブリテン島で覇を競い合い、アングロ=サクソン人たちは後のイングランドの元となる7つの王国を築きます。
イングランドの戦国時代とも言えるこの時代は七王国時代(ヘプターキー)と呼ばれ、500年近く続きました。

人気のテレビドラマ「ゲーム・オブ・スローンズ」の元のお話はこの七王国時代。

また、ブリテン人を率いて戦ったされるアーサー王の伝説も、この時代の混乱と伝承とが入り混じった物語です。

七王国時代はイングランド南西部を支配していたウェセックス王国のエグバートがイングランドを統一したことで終わりを迎えます。

このウェセックス王国の首都として栄えたのがウィンチェスター。

元はローマ軍の要塞都市から発展した町で、イングランド初の首都でもあり、当時のロンドンと並ぶ大都市でした。

ブリテン島南部にあるこの街は現在でもイギリス最古のパブリックスクールや11世紀の大聖堂、城跡など中世の残り香が色濃く残っています。

中世の王たちが心を寄せたアーサー王の円卓

この街の中で是非とも観ておきたいのが、グレート・ホール。

今はその姿は焼失したウィンチェスター城の一部で、13世紀の王・ヘンリー3世が晩さん会や会議などによく使ったお気に入りの大きなホールが残されています。

外観は堅牢な装飾のない建物ですが、中に入ると左右に開けられた大きな尖塔窓から入り込む光が無骨でシンプルな石造りの壁や床を明るく照らし、高い天井に開放感を与えています。

細身の柱が尖塔アーチを描きながら並ぶその奥に、アーサー王ゆかりの円卓が飾られています。

この6メートルの円卓は13世紀に作られており、16世紀に彩色されました。

色を塗るように指示をしたのはテューダー朝のヘンリー8世。

放射線状の緑と白の縞の中央にはテューダー朝の紋章でもある赤と白の薔薇が描かれています。

彼はこのホールでスペイン王と会食をする際に自分がアーサー王の末裔であると主張し、イングランドの王として大きく見せたかったといわれています。

実在したかは今なお不明のアーサー王ですが、イングランドゴシックのシンプルな石造のホール奥から見下ろす大きな円卓を観ていると実在したと思いたくなるかもしれません。

イングランドを覆う海を越えてやってきたものたち

七王国時代にブリテン島南東部を支配していたケント王国の首都として栄えたカンタベリー。

フランスに近いこともあり、この地域には早くからローマ・カトリックの布教が行われており、6世紀には聖アウグスティヌスがカンタベリーを中心に布教活動を行いました。

その後、イギリスのキリスト教の中心地として大司教座がおかれ、信仰の中心地となります。

まず海からやってきてイングランドを覆ったものはキリスト教でした。

そしてふたつ目は、アングロサクソンの国が成立した後の1066年に海を越えてきたフランスのノルマンディー公爵ギョームです。

彼はイギリス名ではウィリアムと呼ばれますが、このノルマン人がケント王国を含むアングロサクソンの国を倒し、イングランド王ウィリアム1世になります。

これはノルマン・コンクエスト(ノルマン人の征服)と呼ばれ、イギリスの歴史上の大きな節目となりました。

彼から続く血統は途中に様々なことがありつつも、現在のイギリス王室ウィンザー朝につながっています。

そのウィリアム1世の曾孫にあたるヘンリー2世。

彼の時代に大法官として王の右腕にまでなったトーマス・ベケットがカンタベリー大司教となったことで、教会の利益や自由について王と教会が対立します。

ヘンリー2世がお酒の席で戯れにつぶやいた「邪魔者を消せ」という言葉を聞いた4人の騎士がそれを真に受け、カンタベリー大聖堂でトーマス・ベケットを殺害してしまいました。

イギリス最大の巡礼地 カンタベリー大聖堂

カンタベリー大聖堂は聖アウグスティヌスの布教活動の中心だった教会が前身で、12世紀に焼失した教会をフランスの建築家が最先端の技術で用いたゴシック様式で現在の姿にしました。

大聖堂の中にはトーマス・ベケットが4人の騎士の刃を受けた部屋があり、その場所が分かるよう壁には下を向いた三本の剣が飾られています。
その角度と先端の鋭さから、まるでこの剣の下にベケットがいるかのようです。

この殺害事件はすぐにローマ法王へ伝えられ、トーマス・ベケットを支持しイングランドにおける教会支配を強めることを考えていたアレクサンデル3世によって1173年に聖人に列せられました。

大聖堂の地下礼拝堂にトーマス・ベケットの霊廟が作られると、死者が蘇ったなどの7000もの奇跡が起こったと言われています。

そのことからカンタベリー大聖堂は一気に名を広め、巡礼地となっていきました。

14世紀に書かれたチョーサーの「カンタベリー物語」は、ロンドンからカンタベリーへの巡礼に向かう物語。

今でもその姿は変わらず、ゴシックの高い天井にはミサの声とパイプオルガンの音が響き、さまざまな国の信者が集います。

ブリテン島統一を目指したエドワード1世

ブリテン島統一を目指したエドワード1世

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王と教会が対立してトーマス・ベケットが暗殺された100年後、イングランドの王となったエドワード1世はブリテン島の統一を目指し、西のウェールズを制圧していきます。

ブリテン島の西にふたつのコブのように膨らんでいる地域がウェールズと呼ばれるところです。

この地域は古来よりブリテン人の国で、外敵に対して強固な抵抗をしてきました。
そのため、武力制圧した後も警戒を怠ることができなかったと言われます。

そのウェールズを監視するために作られたのがカナーヴォン城をはじめとするコンウィ城などの北ウェールズに残る堅牢な城跡です。

英国皇太子の伝統はここからはじまったカナーヴォン城

エドワード1世はアーサー王の物語に心酔していたとも、ウェールズを統治するために伝説の王の円卓の祭などを行うことでウェールズの人々を支配したとも言われています。

それほどウェールズ人達の独立心は強く、支配は難しかったことがうかがえます。

カナーヴォン城はアングルジー島に向かった海に面した要塞の城。

城の入口キングス・ゲートから入ると、現在は芝に覆われた中庭が広がり、その周りは8つの塔とその塔を結ぶ城壁で囲まれています。

周囲を監視するために使われた8つの塔はコンスタンチノープルの城壁を模したと言われる多角形。

一時は王宮が移動したこともあったため、堅牢な作りとなっています。

王宮として使われていた際に、皇太子(後のエドワード2世)が生まれ、エドワード1世は皇太子に「プリンス・オブ・ウェールズ」の称号を与えました。

これ以降、英国王室の皇太子の称号は代々「プリンス・オブ・ウェールズ」となり、現在のチャールズ皇太子も同じ称号を戴いています。

北ウェールズの支配のために作られた城はカナーヴォンだけでなく、コンウィ城など保存がよい城が3つほど残っています。

それらは当時監視のために作られた「アイアン・リング」と呼ばれた10の城塞の一部で、現在はカナーヴォン城と合わせて世界遺産に登録されています。

イギリス国教会を作った男に翻弄された王女たち

イギリス国教会を作った男に翻弄された王女たち

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15世紀、イングランドでは王位をめぐってランカスター家とヨーク家が争いが長く続いていました。

その争いを終結させたのがヘンリー7世。

ヨーク家の王女と結婚し、テューダー朝を興します。

長い王家の争いと新しく興ったばかりのテューダー朝を受け継いだのが先ほどのグレートホールでも出てきたヘンリー8世。

アーサー王の末裔としてスペインにアピールが必要なほど、テューダー朝はまだ不安定だったことがうかがえます。

そのため、ヘンリー8世は世継ぎの男子を切望しました。

そのことがイングランドに大きな影響を与えます。

ヘンリー8世は正室に男子が生まれず、結婚の無効を主張して新しい正室を迎えることにします。

しかしカトリック教徒からの反発と法王から許可がおりず、八方ふさがりになりました。

そこで、ヘンリー8世はローマ・カトリックからの離脱を決め、自らを教会のトップとするイギリス国教会を作ったのです。

そうして彼は離婚を成立させて、生涯で6人の正室を迎えました。

そうまでして得られた子供で成長した王子はひとりだけ。
しかも、そのエドワード6世は病弱なため王位を継いで6年で亡くなってしまいます。

ヘンリー8世によってイギリスはカトリックの国ではなくなり、修道院は解散。
イギリス国教会という他のヨーロッパ諸国とは異なる信仰のスタイルを築くことになりました。

悲劇の王女メアリー・ステュアートが住んだエディンバラ

エドワード6世が亡くなった後、王位は3人の王女たちによって争われます。

まず女王候補となったのはヘンリー8世の最初の結婚で生まれたスペイン王家の血をひくメアリー王女と2番目の結婚で生まれたエリザベス王女。

そして、ヘンリー8世の姉でスコットランド王家に嫁いだマーガレットの孫あたるメアリー・ステュアート。

結果はエリザベス女王が王位を継ぎ、イングランドは大英帝国への発展の道を歩いていきます。

このメアリー・ステュアートはエリザベス女王が在位中も常に王位をねらっていた人物として警戒され、最終的にはエリザベス女王に処刑されることになります。

メアリー・ステュアートはイングランドの継承権を主張していましたが、すでにスコットランドの女王でもありました。

中世の時代からブリテン島を統一することを使命と掲げていたイングランド。

アイルランドとウェールズの王を兼任している今となってはイングランドにとっては最後の砦でもありました。

それはスコットランド王からするとイングランド王になると自動的にアイルランドとウェールズの王位も手にし、ブリテン島の君主になることでもありました。

そのスコットランドの王宮があったのがエディンバラ。

今でもその王宮が姿を残しており、岩山の上に建ち天然の要塞の風情が印象的です。

メアリー女王が息子を産んだ部屋やスコットランド王の即位の宝器を観ることができます。

そして、その宝器と並んで13世紀末にブリテン島を統一しようとしたエドワード1世によって持ち去られた、古来よりスコットランド王が即位式の時に座る「運命の石」展示されています。

長い間ロンドンのウェストミンスター寺院に置かれていましたが1997年に返還されました。

メアリー・ステュアートは生まれて6日で女王に即位し、5歳で母の出身国フランスに渡り、15歳でフランス王太子フランソワと結婚。
しかし、即位後フランソワは急逝。

スコットランドへ帰国したメアリーは従兄弟のダンリー卿と再婚し男子を産みます。
その後は夫のダンリー卿の嫉妬と王位簒奪におびえ、夫を暗殺したボスウェル伯と再婚。
スコットランドのカトリックとイングランドのプロテスタントの争いに負け、王位を退き息子に譲ります。

最終的にはイングランドの王位をねらいエリザベス女王の暗殺の罪で処刑されてしまいます。
とても波乱万丈で時代に翻弄された女性でした。

悲劇の女王ではありましたが、エリザベス女王には子供がいなかったため、結果として彼女が生んだスコットランド王ジェームス6世がイングランド王ジェームズ1世となり、ここで同君連合の国としてステュアート王朝が生まれることなります。

そして、現在のイギリス王室へとつながっていきました。

ロンドンを抜け出してイギリスの素顔を見に行きましょう

今回は大英帝国として発展した近代のイギリスまでの歴史を観てきました。

私たちのよく知るイギリスは王と議会が法によってバランスよく政治を行い、植民地などで世界で大きく発展したイメージです。

しかし、そうなるまでのイギリスは海の向こうからやってきた人や宗教に影響されながら、自分たちの文化ややり方を築き上げてきた歴史がありました。

中世イギリスをモデルにしたファンタジーや伝説、魔法の物語などを想像させるお城や建物たち。

ロンドンなどの大都市から足を延ばすと、中世の時代にはあったウェールズやスコットランドという国や文化、ローマの足跡などに出会うことができます。

イギリスを旅するプランにぜひともそんな場所もひとつ加えてみてください。

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