桜に囲まれた格式高い「仁和寺」の天皇をめぐる歴史ロマン

春に咲く御室桜で有名な仁和寺ですが、その歴史は古く平安時代までさかのぼります。天皇の勅願で建立され、代々門主を務めたのは皇族という京都のお寺の中でも最高ランクを誇る格式の高さです。仁和寺の見どころはたくさんありますが、本当におもしろいのは仁和寺を取り巻く歴史です。いくつもの時代と知られざる人々の苦悩を静かに見てきた仁和寺をご紹介します。

【京都常連が徹底ガイドのおすすめ記事】
京都観光の理想的な日帰りプラン5つ
殿堂入り!京都お土産ランキング BEST30

仁和寺は京都のどこにある?

仁和寺は京都のどこにある?

image by PIXTA / 31425874

京都にはお寺がたくさんあり、その数はおよそ2000を越えています。
しかし京都は碁盤の目になっているので地形が把握できれば簡単にお寺の位置を把握することが出来ます。
まず京都の市内は4つのエリアに分割されているのでここを覚えると京都の町が分かりやすくなります。

その4つのエリアとは、大原三千院や貴船神社のある洛北(らくほく)、洛東(らくとう)には清水寺、銀閣寺があります。
そして洛西(らくさい)には、貴族の別荘が立ち並んだ嵐山、金閣寺があり、洛南(らくなん)は外国人に人気の伏見稲荷大社があります。

今回紹介する仁和寺は、洛西エリアに位置しているのです。

仁和寺はアクセスの良さが自慢

仁和寺はアクセスの良さが自慢

image by PIXTA / 10477166

京都のお寺は最寄りのバス停から15分〜20分ほど歩くお寺が多いなか、仁和寺はバス停の目の前が二王門です。
さらにバスだけでなく電車のアクセスも良く京福電鉄・御室仁和寺駅を降りるとすぐ二王門が見えきます。

壮大なロマンから生まれた「きぬかけの路」

壮大なロマンから生まれた「きぬかけの路」

image by PIXTA / 13748651

京都にはいくつも素敵な名前の道があります。
有名な道では哲学の道。

仁和寺のある洛西エリアにも素敵な名前の「きぬかけの路」という道があります。
金閣寺から竜安寺を通って仁和寺に至る全長2.5kmのその道は、実は仁和寺を建立した天皇のあるひとことがきっかけで名付けられた道だったのです。

その昔、天皇が側近たちに、

「夏にあの山に積もる雪が見たい!」と言いました。

それを聞いた側近たちは、当時、洛西にあった衣笠山(きぬがさやま)に白い絹をかけて山を覆い、まるでその山に雪が降り積もったように見せたというのです。

天皇の願いも壮大ですが、それを現実にしてしまう側近たちの発想も実に壮大。
この一件から衣笠山は「きぬかけの山」とも呼ばれました。

「きぬかけの路」という素敵な名前は、こうした一人の天皇の壮大なロマンから生まれていたのです。

仁和寺に仏教の繁栄と国の安定を願った

仁和寺に仏教の繁栄と国の安定を願った

image by PIXTA / 26952972

仁和寺建立を願ったのは、光孝天皇(こうこうてんのう)という平安初期の天皇です。

仁和寺は、仏教の繁栄と国の安定を図るために建立されました。
ところが光孝天皇は、仁和寺の完成を見ないまま亡くなってしまいます。
その後、仁和寺の建立は、光孝天皇の息子・宇多天皇が引き受けました。
あのきぬかけの路の名前の由来となった天皇です。
宇多天皇は父の意志を継ぎ、仁和寺を2年という早さで完成させました。

ところで、仁和寺が完成した時の寺号(じごう)と言われるお寺の名前は仁和寺ではなく、西山御願寺(にしやまごがんじ)という名前でした。
当時は北山・西山と呼ばれたいくつもの山々が全て西山御願寺の敷地で、なんと東西4.5km、南北5.2kmにも上る広大な敷地を誇る巨大寺院だったのです。

仁和という時の元号を誇るお寺

仁和という時の元号を誇るお寺

image by PIXTA / 32533523

仁和寺の当初の名前は「西山御願寺」という名前でした。
のちに「仁和寺」と改めましたが、これは光孝天皇が「仁和」という時代に仁和寺の建立を始め、完成したのも同じ仁和だったことから付けられた名前です。

現在2000を超える多くのお寺が建ち並ぶ京都でも、完成した時の元号をそのまま寺号に配することが出来たお寺は数えるほどしかありませんでした。
西山御願寺が仁和寺と名乗れたのは格式が高いという証明です。
仁和寺という寺号がすでに最高の格式を物語っていました。

さらに、仁和寺の歴代門主を務めたのは、代々天皇を始めとする皇族たち。
このような由緒正しいお寺を鎌倉時代以降は門跡寺院(もんぜきじいん)と呼ぶようになったのです。

仁和寺に仏教と国の行く末を託した風流人・光孝天皇

仁和寺に仏教と国の行く末を託した風流人・光孝天皇

image by PIXTA / 34169727

桓武天皇が京都に遷都してから、京都はみやこと呼ばれ、そのみやこを護るためいくつもの寺院が建立されました。
国の中心はもちろん天皇です。
天皇を取り巻く歴史やお寺が多く、天皇の歴史を知れば、当時の京都が見えてきます。

それでは仁和寺建立のきっかけとなった光孝天皇とはどのような人物だったのか。
光孝天皇は、風流という言葉がよく似合う天皇でした。
和歌を詠んだり、乗馬や弓矢を好みました。
性格は穏やかで怒ったところなど見たことがないと言われたほどの天皇です。

光孝天皇は天皇として生きるより、和歌を詠む歌人として生きたかったのかもしれません。

光孝天皇の優しいお人柄が表れた和歌

光孝天皇の優しいお人柄が表れた和歌

image by PIXTA / 32442716

光孝天皇の百人一首にもある和歌です。

「君がため 春の野にいでて 若菜つむ わが衣手に 雪はふりつつ」

光孝天皇は、着物の袖に降り積もる雪を気にしながらも、誰かのために若菜を摘むという歌。
この若菜は七草と言われていることから、五節句のひとつである一月七日の七草を摘む様子が詠まれたのかもしれません。
この日は普段あまり外へ出ることがない高貴な人々も外へ出て年の初めを祝いました。

この歌が詠まれた時はまだ天皇ではなかったのですが、皇族だったことには変わりありません。
それほどの身分の方が人のためにこうした振る舞いをするという皇族らしからぬ行動が、当時の貴族や民衆に支持されていました。
しかし人当たりがよく穏やかなその性格ゆえに光孝天皇は天皇へと推し上げられてしまったのです。

天皇の裏で政治を動かす摂関家

天皇の裏で政治を動かす摂関家

image by PIXTA / 32424581

884年、55歳という年齢で天皇に即位した光孝天皇。

政治の世界とは全く無縁だった天皇に人生の転機が訪れました。
光孝天皇はもともと天皇になれる皇統ではなかったのですが、皇位を継承していた1代前の天皇と、国政を動かしている大臣の藤原基経(ふじわらもとつね)との仲が悪くなり、さらにその天皇は「天皇としての品位に欠ける、素行が悪い」などと色々な理由をつけられ退位させられてしまいました。

孝光天皇としては、突如転がり込んできた天皇の座ではあるものの、政治のことは全く分からず全て大臣任せになってしまったのです。
それこそが大臣である基経の狙いでした。

藤原基経は藤原北家(ほっけ)という平安時代に摂政や関白として強大な権力を握ることに成功した家系。
摂政とは幼い天皇を補佐する役職で、関白は成人した天皇を補佐する役職です。

光孝天皇は天皇に即位できると思っていなかったため、政治に疎く全て大臣に任せてしまったため、この時代までは摂政という役職しか与えられていなかった摂関家に初めて関白という役職が誕生してしまいました。
のちに天皇となる宇多天皇は、この関白という役職に大いに苦しめられることになるのです。

藤原家の祖先は藤原鎌足

藤原家の祖先は藤原鎌足

image by PIXTA / 27621417

ところでこの時代に栄えた藤原家とはどのような家系だったのか。
平安時代に国を動かしていたのは天皇ですがそれを補佐していたのが大臣。
天皇と大臣は二人三脚で政治を執り行っていました。
この大臣というのが藤原氏です。

桓武天皇から始まった平安時代は後鳥羽天皇で終わりを迎えるまでの400年の間、たくさんの藤原が登場します。
藤原氏の名前を見ない事がないほど藤原で溢れている時代。
しかしその藤原氏の祖先は、あの有名な中臣鎌足(なかとみのかまたり)です。

鎌足は中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と大化の改新で勝利し、中大兄皇子は天智天皇として即位しました。
この時の恩賞として、鎌足は天智天皇から藤原姓を賜ったのです。
そして、鎌足の息子として生まれたのが藤原不比等(ふじわらふひと)、この不比等に息子が4人生まれ、4人の息子がそれぞれ家を分け、藤原南家(ふじわらなんけ)、藤原北家(ふじわらほっけ)、藤原式家(ふじわらしきけ)、藤原京家(ふじわらきょうけ)に分かれていきました。
この時代に栄えたのが、藤原基経の家系である藤原北家でした。

藤原北家は、摂政としてだけでなく成人した天皇にも意見する事ができる関白という役職も手に入れ、さらに強大な権力を握ることになるのです。

宇多天皇と側近たちの逆襲

宇多天皇と側近たちの逆襲

image by PIXTA / 19174514

光孝天皇は天皇即位後わずか3年ほどで崩御しました。
次期天皇に即位したのがその皇子・宇多天皇。
一つの時代が終わり新たな時代の幕開けです。

宇多天皇はここ最近の天皇とは違い、国政を自分で執り行う天皇親政(てんのうしんせい)を求めていました。
ところがすでに天皇をも凌ぐ力があった藤原北家がそれを易々と認めるはずがありません。
そこで宇多天皇と側近たちは、北家の力を抑えるため、政治に介入しづらい役職を大臣の基経に与えようと考えました。
天皇が変われば改めて大臣職も新たな天皇に任命される必要があったのです。
天皇陣営はここに目を付けました。

宇多天皇は藤原基経に「阿衡(あこう)」という役職を任命することに決めました。
阿衡という役職は古来の中国にあった役職で一般的には政務に関与しない名誉職に当たります。
これが宇多天皇と側近たちが考え出した藤原北家への逆襲だったのです。

基経が天皇の側近を流罪!?

基経が天皇の側近を流罪!?

image by PIXTA / 14331802

ところが阿衡に任命された基経はこれに憤慨。

「これといった仕事がないなら仕事はしない!」

と全ての仕事を放棄します。
しかし光孝天皇の時代には、ほとんどの仕事を基経に任せていたため、次第に国政は立ち行かなくなり、とうとう宇多天皇が折れるしかなくなりました。
天皇であろうとも基経には逆らえない現実を、宇多天皇は憂います。

そして基経は自分に阿衡を任命した天皇の側近を流罪にしてしまいました。
本当ならばこの側近は流罪でなく死罪になるはずだったところを宇多天皇に仕えていた菅原道真が意見書を寄せて基経を諌めたことで、なんとか流罪にとどまったそうです。
これは教科書にも「阿衡事件」として載っています。

宇多天皇は結局、基経に関白の役職を与えるしかなく、天皇としての無力さを思い知らされる結果となったのです。

北家はこうして繁栄していった

北家はこうして繁栄していった

image by PIXTA / 11934810

藤原北家が繁栄していった理由はとても簡単。
幼少の皇子を天皇に即位させ大臣が摂政として補佐します。
そして北家に待望の女の子が生まれれば天皇と結婚させ生まれた子供が男の子ならば天皇に即位させました。
こうすることによって藤原北家は天皇家と親戚になるというやり方です。

宇多天皇の代から3、4代前の天皇がともに幼くして即位した天皇でした。
幼い天皇を即位させるのは摂政として政治を牛耳るため。
3代前の天皇の父親は、次期天皇には第一皇子の長男を天皇にしたいと考えていたのです。
ところが藤原氏がこれに反対。
長男の母親の身分が低いことを理由に皇太子にはさせませんでした。

こうして藤原氏が皇太子に選んだのが、当時まだ1歳にも満たなかった4番目の皇子。
この皇子は藤原北家の血を脈々と受け継いだ子供でした。
全てを計算に入れた上で4番目の幼い皇子が天皇に即位させられたというわけです。
長男を天皇にしたいという当時の天皇の意見など聞き入れられず、ただただ藤原北家の繁栄のために天皇が決められていった時代でした。

関白・藤原基経の死によって形勢逆転?!

関白・藤原基経の死によって形勢逆転?!

image by PIXTA / 13309789

政治の中心にいたあの藤原基経が亡くなりました。
そしてその跡を継いだのが息子の時平(ときひら)。
しかし時平は21歳とまだ若く、宇多天皇は時平の幼さを理由に関白には任命しませんでした。
これを機に、宇多天皇は自らが政治を執り行う親政を始めました。

宇多天皇が一番信頼し重用した人物はあの菅原道真です。
学識、人格、政治経験も豊富でこれほど心強い側近はいなかったでしょう。
そのうえ北家の血脈がいっさい入っていないという宇多天皇にとっては最高の側近でした。
天皇の人事は菅原道真を始め、藤原北家の血筋ではない政治家や文学者達をどんどん抜擢し、今までにない人選で政治に新しい風を吹き込んでいきました。

学問の神様・菅原道真の功績

学問の神様・菅原道真の功績

image by PIXTA / 12689666

宇多天皇のもと菅原道真は政治家として腕を振るい、天皇の右腕になっていきました。
そして宇多天皇とともに遣唐使の廃止を実現させました。

この時代になるとようやく日本の文化も確立され始め唐の文化を取り入れる必要がなくなりました。
このタイミングで道真と天皇は遣唐使廃止を決めたのです。

そして道真たち政治家は、中央政治だけでなく地方にも目を向け、着々と成果を出していき、宇多天皇の親政は見事に成功したのでした。

宇多天皇の突然の譲位

宇多天皇の突然の譲位

image by PIXTA / 14777667

ところが、国の中心にいた宇多天皇が突然、自分の皇子に天皇を譲りたいと言い始めます。
宇多天皇に譲位のことを相談された道真は、日本が大きく変わろうとしている時だけにどうか思い留まるよう進言しています。
ところが宇多天皇はそんな道真の意見を聞くことはせず、息子に天皇の位を譲ってしまったのです。

国の行く末を案じるとともに、後ろ盾を失くした道真の順風満帆だった人生はここから大きく変わり始めました。

宇多天皇が次期天皇に任命したのは、これまた藤原北家との血縁関係がない醍醐(だいご)天皇でした。

宇多天皇は大きくなりすぎた藤原北家の力を徹底的に削ごうと考えていたのです。

天皇の突然の譲位によって、道真だけではなく、天皇に抜擢された政治家たちの人生も大きく変わってしまったのかもしれません。

天皇の譲位の理由は分かりませんが、自分がまだ元気なうちに息子に天皇を譲り、それを補佐していこうと考えたという説や、仁和寺で仏教を求めるうちに国政よりも仏道修行に人生を費やしたくなったとかさまざま伝わっていますが、実際の天皇のお気持ちは分かりませんでした。

宇多天皇の譲位で道真の人生が変わる

宇多天皇の譲位で道真の人生が変わる

image by PIXTA / 13050103

宇多天皇に大抜擢された道真でしたが、天皇の譲位は道真にとって最大のピンチでした。
天皇に認められ、着実に政治家としての地位を確立しようとしていた矢先に宇多天皇の突然の譲位です。
宇多天皇は、最後まで道真のことを気にかけ、醍醐天皇にも引き続き道真を重用するようにお願いし、醍醐天皇も優秀な道真を右大臣に抜擢しましたが、藤原北家の時平の心中は穏やかではありませんでした。
代々、大臣に抜擢されるのは北家である摂関家と決まっていたのです。
北家でもない道真がなぜ家格を越えて大臣になるのかと、時平だけでなく周りの高級貴族たちからも道真は妬まれてしまいました。

道真の失脚を虎視眈々と狙っていた時平がこの機を逃すはずがありません。
以前から目の敵にしていた道真を失脚させるシナリオを考え始めたのです。

醍醐天皇は宇多天皇と違って、大臣の藤原時平を近くに置き意見を聞いていました。
道真が右大臣に抜擢されたのは、時平の口添えがあり、時平の陰謀でもあったといわれています。
しかし真実は分かっていません。
分かっているのはここから菅原道真の人生が崩壊の一途を辿るということだけでした。

謀られた道真の運命

謀られた道真の運命

image by PIXTA / 15565466

藤原北家の権威を抑えるため、宇多天皇に重用された菅原道真、右大臣に大抜擢されたのですがそこから道真の運命が一変します。
それは大臣・時平のひとことから。

「道真は醍醐天皇を追放し、弟の親王を天皇の位につけようと企んでいます。
謀反です。」

左大臣である時平が醍醐天皇にこう讒言。

醍醐天皇の弟にあたる親王の妃というのは道真の娘でした。
藤原時平はそこに目を付けました。

醍醐天皇もこれには驚きます。
しかし結局、道真は謀反の罪で太宰府への左遷が決まってしまいますが、時平にとってはようやく目障りだった道真を失脚させることに成功したのです。

宇多法皇が仁和寺から道真の元へと急ぐ

宇多法皇が仁和寺から道真の元へと急ぐ

image by PIXTA / 12888136

これを聞き驚いたのが宇多法皇です。
仁和寺から道真のいる御所へと急ぎました。

「道真が謀反を起こすはずがない!」

宇多法皇は、道真の人格を誰よりも知っていました。
あの道真が謀反を起こしたというのは何かの間違いだと誤解を解きたい一心で御所に駆けつけました。
ところが醍醐天皇は宇多法皇の申し出を断ります。
醍醐天皇と話すことはおろか宇多法皇は御所の中に入ることすら許されなかったのです。
というのも宇多天皇は、この事件の2年前に仏教に傾倒するあまりすでに出家をしていました。
上皇から法皇になった事で政治の世界と縁遠くなり、道真を助ける事が出来なかったのです。
むなしくも道真は住み慣れた京都を後にし太宰府に向かったのでした。

京都を離れる時、道真は宇多法皇のいる仁和寺に手を合わせ感謝をしたと云います。

その2年後、菅原道真は失意のうちに太宰府で57年の生涯を終えたのでした。

宇多天皇が30年間を共にした桜の仁和寺

宇多天皇が30年間を共にした桜の仁和寺

image by PIXTA / 12762282

宇多天皇が心の支えにしたのが仁和寺でした。
仁和寺は宮廷の華やかな雰囲気が感じられるお寺です。
きぬかけの路に面した豪華なニ王門をくぐると中門へと続く参道が広がります。
平安の香り漂う参道は非常に広くさらにその先にある中門までの距離もとても長いのが特徴的です。
中門をくぐると、春は名勝の御室桜が迎えてくれます。

「桜あるところに貴族あり。」

仁和寺の桜の数はなんと500本以上!桜の本数に格式の高さを重ね合わせてしまいます。

金堂の前にはソメイヨシノ、しだれ桜が咲き誇る華やかな桜の名所。
なかでも有名なのが「御室桜(おむろざくら)」。

江戸時代に大変な人気を誇り和歌にもこぞって「御室の桜」が詠まれるほどでした。
吉野の桜に勝るとも劣らないこの御室桜の背丈は低くちょうど目の高さで楽しめる珍しい桜。
京都市内ではこの御室の桜が咲いたら京都の桜は終わりと言われるほど遅咲きの桜として有名です。

応仁の乱を乗り越えたパワー

応仁の乱を乗り越えたパワー

image by PIXTA / 12990512

貴族社会から武家社会へと移り変わり、秩序のあった鎌倉時代から秩序をなくした室町時代へと突入しました。
室町時代は、日本至史上最も長く続いた応仁の乱が有名ですがこれにより京都は多くの犠牲を生みました。
11年もの戦に明け暮れた応仁の乱で仁和寺は西軍の本陣になってしまったのです。
東軍に総攻撃を仕掛けられ広大な敷地を誇った仁和寺が焼け野原と化しました。
応仁の乱はそれだけ壮絶な戦いでした。

光孝天皇の法要を行なった金堂も、仁和寺を護る二王門も、法皇が心を休めた清涼殿(せいりょうでん)も全てなくなりました。
しかし国宝・阿弥陀三尊像は当時の住職たちが抱きかかえ護ったおかげで焼かれずに今も残っているのです。

応仁の乱がきっかけで、京都から派生した武士たちは勢力を拡大し、全国各地で戦いに明け暮れ、時代は戦国時代へと移り変わっていったのでした。

徳川三代将軍が仁和寺を再興

徳川三代将軍が仁和寺を再興

image by PIXTA / 32573972

応仁の乱で焼失した室町時代からおよそ160年経った江戸時代に再興の機会が訪れました。
江戸から上洛していた徳川三代将軍・家光に仁和寺の再興を申し入れました。
仁和寺の再興をお願いしたのは当時の住職・覚深法親王(かくしんほっしんのう)です。

覚深法親王も天皇の皇子として生まれ、次期天皇になることを約束されていた時代もありました。
豊臣秀吉の時代のこと。
豊臣秀吉は親王を次の天皇と決めていたのですが亡くなってしまいます。
その後、関ヶ原の戦いで豊臣が敗れました。
勝利した徳川家康の政権へと変わり親王の人生はここで大きく変わってしまいました。
徳川家康は秀吉政権と関わりのあった親王をその地位から退かせ、次期天皇には別の親王が選ばれました。
親王は覚深法親王として仁和寺に入ったのです。
応仁の乱で仁和寺の建物はほぼ焼き尽くされていましたが、かろうじて残されていた建物に本尊を移し、仁和寺を再興しようと尽力しました。

徳川家光によって覚深法親王の願いが受け入れられ少しづつ仁和寺は復興したのです。

この同じ年に御所の建て替えも行われ御所にあった紫宸殿(ししんでん)や清涼殿などを仁和寺が賜りました。
紫宸殿とは、主に天皇の元服式や立太子の儀式、節会などの公の行事の時に使用された建物。
さらに、天皇が生活する御殿としてつくられた清涼殿は、現在の御影堂(みえどう)に移築されています。
御影堂は開山(かいざん)の像を祀ったお堂で、初めて住職になった宇多天皇と弘法大師の像が安置されています。
仁和寺正面の二王門も江戸時代に再興されたもの。
二王門の屋根は天に突き上げるお城の天守のようです。
その重厚さも仁和寺の格式の高さを物語っています。
門の高さは19メートル、三門は和様の二重門と言われる二階建て。
皇族が住したお寺にふさわしく立派に再興されたのでした。

京都にいながら四国八十八ヶ所巡りが出来る寺院

京都にいながら四国八十八ヶ所巡りが出来る寺院

image by PIXTA / 10478277

仁和寺再興から200年余の時が経ち、異国の船がちらほらと日本にも来るようになった時代です。
仁和寺では時の住職が、四国に行って八十八ヶ所霊場の砂を持ち帰り仁和寺の裏山に埋め、その上にお堂を建て四国に行かずとも八十八ヶ所巡りが出来るように整備されたのでした。
四国へ巡拝することが出来ない人々が多かったために住職は仁和寺に「御室(おむろ)八十八ヶ所霊場」を開いたのです。

御室八十八ヶ所霊場の参道は3kmにわたり、自然を眺めながら京都を堪能できます。
札所(ふだしょ)と呼ばれるお堂が点在し、お堂には御本尊の弘法大師が祀られています。
四国の八十八ヶ所霊場巡りを本格的に再現しました。
八十八ヶ所の札所に行くのにも約2〜3時間程度、いつでも参拝ができるという点が、いまでも大きな魅力です。

鳥羽伏見の戦いで翻った錦の御旗

鳥羽伏見の戦いで翻った錦の御旗

image by PIXTA / 7663501

ペリー来航の1853年から江戸幕府崩壊までわずか14年。
日本の歴史を大きく変えた幕末の時代に仁和寺も大きく関わっていくのでした。
当時の仁和寺の住職が天皇から征夷大将軍を任ぜられ還俗します。
この時、のちに徳川幕府を倒すこととなる錦の御旗(にしきのみはた)を天皇より授かっています。
錦の御旗とは天皇の軍隊を意味し、この旗を掲げた者が官軍、掲げられた者が賊軍となります。
錦の御旗は後鳥羽上皇が鎌倉幕府を倒そうと試みた承久の乱の時に初めて使われました。
そして後醍醐天皇も同じく鎌倉幕府を倒す時に掲げています。
そして幕末に起こった鳥羽伏見の戦いでは岩倉具視(いわくらともみ)率いる新政府軍が征夷大将軍となった仁和寺宮とともにこの錦の御旗を戦場で翻したのです。
親王が戦場に赴いたのはここ何百年もなかった異常事態でした。

錦の御旗を見た徳川将軍はこれに逆らうことが出来ず260年続いた徳川幕府は錦の御旗がきっかけで終焉に追い込まれました。
皮肉にも幕府によって再興された仁和寺が、錦の御旗で幕府を崩壊させることになろうとは歴史とは美しくも残酷なものです。

いにしえの歴史を今に伝える門跡寺院・仁和寺

格式高く今もあまたの国宝が残る仁和寺は平安時代に天皇により建立され二度の戦火を受けながらも見事に復興しこうして日本の歴史の端々に登場しました。

はるか遠くに感じる日本の歴史もその中心となる都や天皇の歴史を知ればおのずと見えて来るものがあります。
今も京都の洛西で静かに佇む仁和寺は、何千年先も日本の歴史を見続けていくことになるのでしょう。
今と同じように平安の面影を色濃く残しながら。

photo by PIXTA