武家社会の幕開け!時代を変えた「平将門の乱」とは?

東京都千代田区一丁目、高層ビルが建ち並ぶビジネス街の一角に「平将門の首塚」という旧跡があるのをご存知でしょうか。再開発が進む都心の一画、ビルとビルの間にひっそりと佇むように、こんもりとした緑に囲まれた石碑があり、花が手向けられている場所があります。平安時代中期の豪族で、武士の先駆けとも言われますが、「平将門の乱」を引き起こした人物としても知られる平将門。東京都内には将門を祀った神社や碑が他にもたくさんありますが、一体どんな人物なのか?「平将門の乱」とは?およそ1100年前に起きた大事件。詳しく振り返ってみましょう。

平将門とはどんな人?

平将門っていつ頃、どこで生まれた人?

平将門っていつ頃、どこで生まれた人?

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平将門(たいらのまさかど)は平安時代(794年~1185年)の中期の関東の豪族。
794年に平安京に都を移したことで知られる桓武天皇の子孫で、正確な生まれ年や生誕地は不明ですが、903年という説が有力。
関東のどこかで生まれ、940年に満37歳でこの世を去ったとされています。
5世代となると皇族とは認められないのだそうで、平氏とはいわゆる「皇族が臣下に下るときに名乗った名前」のひとつなのだそうです。

父・平良将(たいらのよしまさ)は関東のどこか(おそらく現在の千葉県佐倉市一帯)を治める、かなり名の通った豪族でした。
皇族の血を引いているといっても、当時の政治の忠臣はやはり京都。
都では藤原氏が権勢を振るっている時代です。
関東の豪族など出る幕ではありません。
しかし将門は平安京の実力者、藤原忠平に認められ、仕事を得て15歳頃に都に移り住みます。

残念ながらこの当時の将門を知る史料は少ないようで詳細は不明なのですが、おそらく将門の才能や人柄が認められてそのような機会を得たのでは、との見方も。
与えられた位は決して高いものではなく、与えられた仕事は都の警備のようなものでしたが、将門は以後10数年間、京都で働き続けます。

平将門は非常に武芸に長けていたとの記録もあるようです。
皇族の血筋であり、父親は関東の有力豪族ですが、藤原一族が牛耳っていた京都では身分が低く仕事も雑用系。
そんなある日、郷里の関東で、父親と伯父たちの領争いなど、平氏一族同士の争いが勃発。
これが将門の運命を大きく変えることになるのです。

平将門が生きた平安中期ってどんな時代だったの?

平将門が生きた平安中期ってどんな時代だったの?

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平安時代の前、奈良時代も終わりの頃になると、政治が乱れて争いが起こるようになり、世の中は混乱していました。
奈良時代初期の頃のしっかりとした政治体制を取り戻そうと、桓武天皇は平城京(奈良)から平安京へ都を移し、様々な改革を行っていきます。
天皇の権威を高めて律令政治(法律で統治される国家体制)をもう一度築きなおしていこうとしたのです。

こうして平安時代の政治はしっかり組みなおされましたが、時代が進むとやはり、強い力を持つ貴族たちが台頭していきます。
特に力を持っていったのが藤原氏。
自分の娘を天皇に嫁がせ、摂政や関白といった高い位に就き、多くの領地(荘園)を持って豊富な資金を手に入れ、他の貴族たちを抑えて政治を思うがままに動かすようになっていました。
藤原氏を中心とした貴族たちの暮らしは豊かで優雅なものとなり、新しい文化芸術が花開いていく一方で政治らしい政治は行われず、特に地方の情勢についてはほぼ、ほったらかし状態に。
地方の政治は国司と呼ばれる役人たちに任せっきりになっていました。
国司たちの中には私腹を肥やすため重税を課したり、不正を働くものも出てきて、地方の政治はどんどん乱れていきます。

そこで活躍し始めたのが、武士と呼ばれる人々でした。
”武士”というものの起源についてはよくわかっていないのですが、この当時、武芸に長け、揉め事の鎮圧や用心棒のようなことをしていた人は大勢いたようで、これを武士の起源とする考え方もあります。
中には貴族や下級役人、平将門のような皇族の血を引く者も。
平将門や、父親の平良将に関する史料は非常に少なく、不明な点も多いのですが、彼らを”武士”と呼んでもよいのかもしれません。

平将門と平清盛との関係は?

平将門と平清盛との関係は?

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”平”という氏から、平清盛を思い浮かべる人も少なくないでしょう。
平安時代末期、貴族社会を終わらせ武家社会の礎を築いたとされる人物。
1118年生まれ~1181年没とされています。
平将門が940年に亡くなっていますので、将門よりだいぶあとの時代の人、ということになりますが、もちろん同じ一族。
関係はあります。

将門の父・良将には少なくとも4人の兄弟がいたと考えられていて、そのうちの一人に国香(くにか)という人がいました。
将門からすれば叔父さんに当たる人です。
平清盛は、国香の7代後の子孫に当たります。
実は「平将門の乱」の発端は、この叔父の国香とその息子の貞盛との間の争いであったと考えられていて、清盛から見れば将門は同じ平氏一門であると同時に、直接の先祖である国香・貞盛の敵であった、ということになるのです。
清盛が将門のことをどう思っていたのかは、残念ながらわかりませんが、よく思っていなかったかもしれません。

将門の没後178年経って生まれた清盛。
将門の時代より少しは、武士の地位は向上していましたが、それでもまだまだ、貴族たちに虐げられる日美が続いていました。
しかし清盛は数々の争いを勝ち抜き、太政大臣にまで上り詰めます。
清盛の時代になってようやく、武士が貴族と対等に、いやそれ以上の地位を築くことができたのです。

しかしそれは、平清盛の時代、平安時代の後期に入ってからの話。
平将門が生きた平安中期にはまだ、想像もできないことでした。
そんな時代に起きた一大事件「平将門の乱」とは?詳しく見ていくことにいたしましょう。

「平将門の乱」はなぜ起きた?

発端は平氏の親族同士の争いだった?

発端は平氏の親族同士の争いだった?

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「平将門の乱」については『将門記』(しょうもんき)という軍記が残されているのですが、作者も、描かれた年代もはっきりしないもので、原本は残っておらず、現存する写本も残念ながら冒頭の部分が欠落しているのだそうです。

将門は931年(延長9年)頃、将門29歳~30歳くらいのとき。
将門が叔父・良兼と”女論”によって不和になったことが、一門争いのそもそもの発端と言われていますが、その”女論”の詳細はよくわかっていません。
おそらく、将門もしくは一門誰かの嫁取りに関して、何かしら軋轢が生まれたのではないかと考えられています。
将門は実際、良兼の娘を妻にしているので、結婚に反対されたとか、そういったことがあったのかもしれません。

この頃、常陸大掾(だいじょう:常陸国の国司)という役職に就いていたことがある源護(みなもとのまもる)という人物が、筑波山周辺に広大な土地を持っており、かなりの勢力を誇っていました。
また、平国香やその息子たちの元に娘を嫁がせるなど平氏と深いつながりを持つ人物であったと言われています。
源護は地元の豪族との間で領地の境界線を巡って度々争いを起こしていました。

その後、935年(承平5年)頃、将門は地元の豪族から「この争いを鎮めてほしい」もしくは「我々に味方して平国香や源護を撃ち破ってほしい」と、いうようなことを持ちかけられられます。
一方の国香たちからすれば、鬱陶しい将門を討ついい口実に。
将門は挙兵し、国香を討ち、源護の息子たちも殺してこの戦いに勝利したのです。

身内同士の争いから謀叛(むほん)の疑いへ

身内同士の争いから謀叛(むほん)の疑いへ

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いくら身内同士とはいえ、こんな争いを起こしてただで済むわけはありません。
将門は戦に勝利した後、都に呼ばれ、事情を説明することになります。
どういう申し開きをしたか詳細は不明ですが、結果、将門にはお咎めなしということで放免に。
朝廷からすれば、東国の田舎豪族の争いなどどうでもよかったのかもしれません。
あるいは将門がうまく立ち回ったのか。
とにかく将門は何事もなく地元に帰りますが、再び叔父の良兼や、息子たちを殺された源護が兵を挙げ、次々に将門に襲い掛かります。
将門は一度は敗走しますがこれらを粉砕し、国香息子、平貞盛も破って大暴れ。
気がつけば平氏一門から孤立してしまいます。

この頃将門は身内だけでなく、悪徳役人の横行に悩む地元住人達から頼られ、揉め事の仲裁(力ずくで)などに奔走。
地元では怖いもの知らずの英傑となり、関東一円を支配。
とうとう国府(中央から派遣されてきた役人が働く施設が置かれた都市)を攻撃してしまいます。
もともとは私腹を肥やしたり領民を困らせるようなダメ役人が多いせいなのですが、将門はとうとう、朝廷に歯向かう気なのでは?と謀叛の疑いをかけられてしまうのです。

そして将門はとうとう一線を越えてしまいます。
939年(天慶2年)、関東八カ国を手中に納めた将門は、自ら「新皇」(新しい天皇)と名乗るまでに。
これは朝廷への反逆罪に相当します。
これが世に言う「平将門の乱」です。

「平将門の乱」は「承平天慶の乱」と呼ばれることもあるの?

「平将門の乱」は「承平天慶の乱」と呼ばれることもあるの?

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ほぼ同時期、西日本でも朝廷に反旗を翻した人物がいました。
名は藤原純友(ふじわらのすみとも)。
名門藤原家の出身でありながら早くに父を失い、中央では出世できず地方の役人として瀬戸内海に出没する海賊の鎮圧に当たっていました。
始めは取り締まる側でしたがいつの間にかミイラ取りがミイラに。
海賊の頭領となり、数千もの船を従えてあちこちの海を荒らし回って瀬戸内全域を支配するまでになっていきます。

ここでもやはり、中央の役人たちとの間で争いが勃発。
純友は海賊たちを率いて彼らと対立し、そのまま都へと進みます。
もちろん朝廷は純友討伐のための使いを出し、事態の収拾に乗り出しますが、敵は海賊。
鎮圧には2年近い年月が費やされました。
これを藤原純友の乱(ふじわらのすみとものらん)と呼んでいます。

全く同じ時期に、東国と瀬戸内、京都を挟んで東と西で、身分の低い下級役人が朝廷に歯向かう反乱を起こしたということで、このふたつの反乱を、元号を取って「承平天慶の乱」(じょうへいてんぎょうのらん)と呼ぶこともあるのです。

さて、ネットも携帯もない1000年以上も前の時代に、ほぼ同時に同じような反乱だなんて、果たしてあり得るのでしょうか?「もしかしたら、二人は共謀して同時期に反乱を起こしたのではないか?」との可能性を問う声もあるそうですが、詳細は不明。
何しろ二人とも身分がそれほど高くないので、とにかく史料が乏しい。
憶測の域を出ないのが実状です。

将門も純友も、良い血筋でありながら位は低く、中央の役人たちから虐げられる日々を過ごしていました。
多くの人々から慕われ頼られる人柄。
さらにめっぽう腕が立つ。
政治が乱れて人々の朝廷への不満が募り、それがたまたま、西と東で同時に爆発した、ということなのかもしれません。

「平将門の乱」の顛末と武士時代の到来

将門の乱~最期はどうなったの?

将門の乱~最期はどうなったの?

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身内同士の揉め事を力でねじ伏せ、朝廷の役人を蹴散らし、東国を支配する「新皇」と名乗った平将門。
地元では敵なし。
しかしいつまでもこんなことが続くわけはありません。
将門討伐に朝廷が動き出します。
940年(天慶3年)、将門討伐軍が東国に向けて出発。
同時に、将門に殺された平国香の息子である平貞盛や、下野国(しもつけのくに:現在の栃木県のあたり)の豪族だった藤原秀郷なども将門討伐に暗躍します。
貞盛・秀郷の軍は一旦は将門軍を追い詰めますが、風(春一番と思われる)吹き荒れる中、矢の名手でもあった将門の攻撃に翻弄され、多くの兵を失ってしまうのです。

勝ちを確信した将門軍が引き上げようとしたそのとき、不意に風向きが変わります。
風に乗じて反撃に転じた貞盛・秀郷軍。
将門軍の足並みが乱れ混乱する中、どこからともなく飛んできた矢が将門の額に命中。
あっけなく命を落としてしまいます。

最期は朝廷の討伐軍ではなく、身内と、”藤原”を名乗る豪族との戦で、しかも形勢有利であった中、命を落としたことに。
こうして「平将門の乱」は終わりを迎え、将門が天皇になることを夢見て打ち立てた東国の独立国は2か月ほどであえなく終了となったのです。
将門は首をはねられ、その首は都まで運ばれていきました。

将門が日本初の”晒し首”って本当?

将門が日本初の”晒し首”って本当?

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それほど身分が高い人物が関わっているわけでもなく、あまり史料が残っていないというのに「平将門の乱」が世に知れ渡っている理由は、もちろん、武士の時代の到来を予見させる出来事であったためですが、他にもうひとつ”裏理由”があります。
それは呪いや怨霊。
荒俣宏によるSF小説『帝都物語』では東京破壊を目論む人物が平将門の怨霊を呼び起こそうとするシーンが。
この小説は映画化もされているのでご存知の方も多いでしょう。
この小説が物語るように、平将門には呪いや怨霊に関する伝説がたくさん残されているのです。

「平将門の乱」の最期に首を落とされた将門。
平安京へ運ばれた将門の首は都大路で晒し首にされました。
記録に残る限り、日本で初めて晒し首にされたのが平将門であると言われています。
それほど将門に対する朝廷の怒りは大きく、大罪であると見なされたのでしょう。
一方、将門の胴体はというと、弟たちの手によって現在の茨城県坂東市付近の寺の境内に密かに埋葬されました。

東国の天皇になることを夢見て駆け抜け、最期は晒し首となった平将門。
さぞ無念であったろうと、後世の人々は彼の祟りを恐れたと言います。
呪いや怨霊伝説は、こうしたところから生まれたのでしょう。

「将門の呪い」は本当にあるの?

「将門の呪い」は本当にあるの?

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「呪い」が本当にあるのかどうかは幸か不幸か、断言することは難しいでしょう。
しかし、特に東京都内には、将門の伝承や伝説が随所に数多く残されていて、切っても切れない間柄であることは間違いなさそうです。

実は将門の首、京都から何者かに持ち去られて、現在の東京都神田付近に葬られたと言われています。
周辺は今でこそ大都会ですが、江戸時代に入る前までは静かな山村で、住民たちは長いこと将門の怨霊を恐れていたのだそうです。
晒し首になって3日後に(首がひとりでに)東国を目指して空高く飛び去ったという伝説も残っています。

1300年代に入ってすぐ、あたりに疫病が流行し、将門の祟りだと騒ぎになったこともあったとか。
人々は怨霊を恐れて将門を供養し、神田明神に祀ったのだそうです。
その後も、関東で何かしら災害やトラブルが起きると「将門の祟りでは」と恐れる声が上がると言われてます。
そのたびに将門の魂を鎮めるため神社や、塚や石碑などが建てられてきました。

また、将門を祀った神田明神を崇敬する人は成田山新勝寺を参拝するべからず、という言い伝えもあります。
「平将門の乱」を鎮圧するための儀式を行うため、朝廷は僧侶を成田山新勝寺へ送ったのだそうです。
つまり成田山へ詣でるということは、すなわち将門討伐祈願するということに。
今でも将門ゆかりの人々は、成田山新勝寺参拝は控えているのだそうです。

亡くなって1000年以上経ってもなお、平将門は人々の心の中に存在し続けているのでしょう。

武士の時代の到来を告げた「将門の乱」

東京のど真ん中にひっそりと佇む「平将門の首塚」。
この首塚も、移転の話が持ち上がるたびに事故が起きると言われ、恐れられ、大切にされ続けてきました。
今後もずっとこの場所で、東京の行く末を見守っていくのでしょう。
朝廷に歯向かった謀叛人でありながら歴史人として人気が高い平将門。
進むべき道に迷って手を合わせに来るビジネスマンも少なくないのだそうです。
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