異母兄と同年生まれ!?正室の怒りを買う

この年は、ちょうど豊臣秀吉が天下を取った年でもあります。
彼の母親は、正室の唐梅院(とうばいいん)ではなくその侍女の印具氏(いんぐし)だったとされています。
実は直政は恐妻家で、唐梅院(しかも彼女、直政の主君・徳川家康の養女です)には頭が上がらなかったそうなんですよ。
しかも唐梅院、印具氏がみごもったと知るや、すぐさま実家に帰してしまったんです。
まあ、唐梅院の気持ちもわからないではありません。
この時、彼女もまた妊娠していたんです。
そのため、長男の直勝と直孝は、兄弟でありながら同じ年に生まれているんですよ。
そりゃあ、正室とすれば複雑な思いもありますよ。
側室がいるのは当たり前の時代とはいえ、女性の立場からすれば気分の良いものではありませんよね。
恐妻家の父、直孝に会うのを12年はばかる

そんな大人の事情を直孝が知っていたかどうかはわかりませんが、彼は井伊家の領地である上野(こうずけ)国(群馬県)安中にある北野寺で育ちました。
幼少期を寺で過ごした点は、父直政と似ています。
直政の幼少時は井伊家存亡の危機でもあり、命を狙われた彼は寺に隠れ育てられたんですよ。
そしてようやく、親子としての正式な対面の時が来ました。
直孝はすでに12歳となっていました。
この時、直政が使っていた采配を直孝は授かりましたが、その翌年、慶長7(1602)年に直政は関ヶ原の戦いの時に受けた傷がもとで亡くなってしまいました。
親子としての時間は、ごく短いものだったんです。
徳川秀忠の側仕えとなり、出世の道へ踏み出す

一方、直孝はというと、次期江戸幕府将軍となる徳川秀忠の近習(きんじゅ/主君のそば近くに仕える者)となったため、江戸で過ごすこととなります。
そして慶長10(1605)年、将軍職を家康から譲られた秀忠が2代将軍となると、直孝も取り立てられ、上野白井藩(こうずけしろいはん/群馬県渋川市)1万石を与えられ、大名の仲間入りを果たしたのでした。
その後も役職を重ね、大番頭(おおばんとう)にもなっています。
大番頭とは旗本によって編成される部隊のトップであり、江戸城や大坂城、二条城の警備をつとめる非常に格式の高い役職だったんですよ。
何だかむしろ、井伊家を継ぐよりもこちらの方が良かったような気がしませんか?将軍の側近になれたわけですものね。
結果的に、これが後に彼が井伊家当主となった要因のひとつとも考えられるんです。
しかし、家康が豊臣家を滅ぼす決断をした慶長19(1614)年、大坂冬の陣の際、直孝と井伊家に大きな転機が訪れることになります。
兄を差し置き、井伊家の大将に!

いったい何が起こったのでしょう?井伊家には当主で異母兄の直勝がいるんですが…。
というのも、直勝は病弱で戦に出るのが難しかったとも言われていたからなんです。
他にも、家臣団とうまくいかず、まとめ切れなかったという点が家康の危惧となったようなんですね。
確かに、そんな有様では部隊として成り立つわけがありません。
そこで白羽の矢が立ったのが、直孝だったというわけなんです。
13歳にして盗人を自ら追いかけて捕まえた、などという勇壮なエピソードを持つ直孝ですし、秀忠のそばにずっと仕えていたからこそ、父直政の気性を受け継いだ彼の資質を、家康も秀忠もわかっていたのかもしれませんね。
そして、直孝に「井伊の赤備え」が預けられたのです。
旧武田氏の遺臣たちが直政によって組織され、無類の強さを誇った赤い軍装の軍団。
まさか彼らを指揮することになるとは、直孝自身は考えていたのでしょうか。
彼の力も試される時が来たのです。
井伊の赤備えVS真田の赤備え!結果は…

奇しくも、両軍共に赤備えの軍装でした。
稀代の名将と称される信繁の挑発戦法の前に、直孝隊はつい乗ってしまいます。
相手が密かに仕掛けていた柵にはまって身動きが取れなくなってしまい、そこに信繁と木村重成(きむらしげなり)隊から一斉射撃を受け、500人の兵を失うという大損害を出してしまったのです。
常勝軍団として名を馳せてきた井伊の赤備えの、ほぼ初めての大失態でした。
この無謀で勝手な突撃は、軍令違反だと秀忠にひどく叱責されました。
咎を受けるところでしたが、そこを取り成したのが、家康だったのです。
家康は、「この突撃が味方を奮い立たせ士気を挙げたのだし、若い者は少々失敗があっても仕方ない」と直孝を庇ったのでした。
若い直孝の猪突猛進ぶりに、家康は昔の直政を見ていたのかもしれません。
そして、経験豊かな武将であるからこそ、失敗を許す度量の広さがあったんですね。
この後、直孝は正式に家督を継ぐこととなり、彦根藩15万石の主となりました。
一方、兄の直勝は上野安中3万石へと移っています。
雪辱を晴らすのは今!大坂夏の陣

豊臣家を滅ぼしにかかる家康でしたが、直孝もまた汚名返上に燃えていました。
藤堂高虎(とうどうたかとら)と先鋒を任された直孝は、八尾(やお)・若江(わかえ)の戦いで豊臣方と激突します。
藤堂は八尾の地で長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)と、そして直孝は若江にて木村重成隊と交戦することになりました。
木村重成といえば、冬の陣で直孝が苦杯をなめた相手。
豊臣方の中でも期待の若武者です。
彼を相手にした直孝は、いっそう燃えたことでしょう。
赤備えの攻撃はすさまじく、木村隊を打ち破り、その後も進撃を続け、豊臣方を大坂城へと追いつめたのです。
その勢いのまま、直孝隊は、豊臣秀頼と母の淀殿が逃げ込んだ山里郭(やまざとくるわ)を包囲、鉄砲を撃ち込みました。
秀頼と淀殿はもはやこれまで、と自ら命を絶ち、豊臣家は滅亡することとなったのでした。
こうして大坂の陣終結の立役者となった直孝の功績は、他の武将と比べてもずば抜けたものでした。
戦後、彼は5万石を加増され、その名を轟かせたのです。
いつしか、彼はその猛将ぶりから「井伊の赤牛」、もしくは彼の役職名の掃部頭(かもんのかみ)から「夜叉掃部」と呼ばれるようになったんですよ。
戦後も幕府の中枢で重きを成す

その臨終の床に直孝は呼ばれ、若き家光の後見を頼まれます。
近習としてそばに仕え続けた彼は、秀忠から絶大な信頼を得ていたんですね。
秀忠の没後、直孝は「大政参与(たいせいさんよ)」という役職に就きます。
これは、国政に関与し、老中らと話し合いの上すべてを決める権利を持つ、後の大老のはじまりとされた役職なんですよ。
幕末になると、直孝の子孫・直弼(なおすけ)もこの地位に就いています。
家光からも信頼を寄せられた直孝は、石高は家康以来仕えている譜代大名の中でもトップの30万石を与えられていました。
本来、譜代大名には力をつけさせすぎないように多くの石高を与えないようになっていましたが、彦根藩30万石というのは異例です。
直孝の信頼感は揺るがなかったんですね。
豪胆ぶりを見せつけた発言
この頃、お隣の中国では明が清に滅ぼされたところでした。
そして、明の遺臣が日本に助けを求めて来たんです。
ちょうどこの頃の日本は、平和になったことで仕官の場を失った浪人たちが巷にあふれ、幕府は頭を悩ませていました。
そのため、ならばこの浪人たちを軍として派遣してはどうか、という案が出てきていたんですよ。
将軍家光ですら乗り気だったんです。
しかし、直孝はひとり猛反対し、一喝したのでした。
「豊臣の朝鮮出兵のようになってもよろしいのか?」
天下統一後の豊臣秀吉が、大陸制覇という途方もなく無謀な夢を抱いて朝鮮出兵を強行し、大失敗したことを示唆したわけです。
これが鶴の一声となり、中国への派兵の話は立ち消えとなりました。
直孝の存在感、発言権の大きさが証明されたエピソードと言えますね。
将軍相手といえども、臆さぬ態度がカッコいいです。
当時としては超進歩的!殉死を禁じた直孝

そして万治2(1659)年、69歳の生涯を終えたのです。
死の直前、直孝は臣下に殉死を禁じ、次の代の主に仕えるように命じていました。
戦国時代から江戸時代初期にかけては、主の後を追う殉死は割と一般的だったんです。
実際、家光が亡くなった時は老中まで務めた重臣2人が殉死しています。
しかし、これが続いていては、次代を支える人材がいなくなってしまうことになりますよね。
直孝はそれをわかっていて、殉死を禁じたのでした。
彼の考えは、幕府が武家に対して定めた決まり「武家諸法度」に寛文3(1665)年に採用されたんです。
死してなお、幕府に影響を与えた直孝。
いかにすごい人物だったかがおわかりになるかと思います。
白い猫と直孝のお話

幕府重臣となった直孝が、ある時、鷹狩りへと出かけました。
その帰り道、とあるさびれた寺の前を通りかかると、門の前に一匹の白い猫がいるのを見つけました。
その猫が手招きするようなしぐさをしてみせたので、直孝がその寺に寄ってみたところ、急な雷雨となってしまいました。
猫のおかげで濡れずに済んだ直孝ですが、そこで雨宿りしながら住職と話をしているうちに意気投合します。
そして、後に直孝の寄進により、この寺は立派な寺となり井伊家の菩提寺にもなったのでした。
寺の名は、「豪徳寺」と言います。
東京都世田谷区にあり、小田急線の駅名にもなっている寺ですね。
この寺名は、直孝の法名「久昌院殿豪徳天英大居士」に由来しているんですよ。
直孝を招いたから「招き猫」?
後、この猫の手招きが演義を呼び寄せたとして招猫堂が建てられ、その猫は「招福猫児(まねぎねこ)」と崇められるようになり、この豪徳寺が招き猫の発祥の地となったと言われているんです(諸説あり)。
豪徳寺を訪れると、境内を埋め尽くす招き猫に圧倒されますが、それはこんな逸話から来ていたんですね。
ところで、一般的な招き猫は商売繁盛を願うもので、小判を持っていますよね。
けれど、豪徳寺にある招き猫はそれを持っていません。
武家は金銭に執着しないという姿勢を見せているとされており、質素倹約を旨とした直政や直孝の精神が生きているわけです。
ひこにゃん誕生と直孝
彦根城築城400年記念のマスコットとして誕生したんですが、今までの直孝の生涯や逸話を総合すると、ひこにゃんがなぜ白い猫で角のある兜をかぶっているのか、だんだんわかってきた方も多いのではないでしょうか。
ひこにゃんのモデルは、直孝を招き寄せたあの白い猫。
そして、あの兜は井伊の赤備えのものなんです。
直孝の兜についている角のような飾り(立物/たてもの)が、そのままひこにゃんの兜にもついていますね。
「井伊の赤牛」という異名の由来にもなった、長く大きな立物です。
彦根城天守前広場や彦根城博物館には毎日出てきてくれるそうですよ。
由来を知って会いに行けば、いっそう愛着もわきますね。
知れば知るほど面白い、井伊直孝
若い頃には手痛い失敗をし、それを次に生かして立派な武将となり、やがて幕府の「超」重臣となる…絵に描いたようなサクセスストーリーではありませんか。
それに加えて白い猫との逸話など、直孝を語ればネタが尽きません。
井伊家を幕府にとってなくてはならない存在にした直孝こそ、井伊家最重要人物と言ってもいいのかも…なんて思ってしまいます!