【北条早雲の歴史】謎だらけ!戦国の世を駆け抜けた”ザ・下剋上”北条早雲の素顔に迫る!

時は室町から戦国時代。一介の素浪人から戦国大名にのし上がったという、”下剋上”という言葉を絵に描いたような武将がいました。その名は北条早雲。戦国時代をモチーフにしたゲームなどでも必ず登場する猛者なので、この名前をご存知の方も多いでしょう。しかしこの人物、生まれも生い立ちもよくわかっておらず、名前も不明。実は「北条」と名乗ったこともありません。どういうこと?そんな謎だらけの戦国武将、北条早雲の生涯を辿ってみたいと思います。

北条早雲とは何者なのか

生まれは備中?北条早雲とは何者?

生まれは備中?北条早雲とは何者?

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北条早雲と言えば、小田原城を拠点とし相模の国(今の神奈川県)を中心に関東一円に影響力を持っていた戦国武将。
伊豆を攻めて次々に城を落とし、小田原城を取ったあたりからの記録はたくさんあるのですが、若いころの情報があいまいで「誰なのか」がよくわかっていませんでした。
そのため、長年、全く無名の素浪人がチャンスをモノにしつつのし上がっていったのだろうと言われていましたが、最近の研究で、室町幕府の政所執事であった伊勢氏の流れであろう、という説が有力になっているのだそうです。

ではなぜ「伊勢」ではなく「北条」と名乗っているのか?実は「北条」を名乗り始めたのは息子たちの代からで、早雲は一度も自らを「北条早雲」とは名乗っていません。
ついでに「早雲」という名も出家したときの名で、若いころはそのような呼び名ではありませんでした。

残されている数少ない文書の中では、1491年頃までは「伊勢新九郎」という名前が残されているそうですが、それから数年後の史料には「早雲庵宗瑞」という名が記されています。
しかし何せ、いつ頃どこで生まれたのか、本当に「伊勢」なのか、近年までよくわかっていなかったので、この当時早雲が何歳だったのかについてもいくつかの説が。
実にミステリアスな武将なのです。

この文章内では以後も、「北条早雲」という名前で通してまいります。
生まれは1432年(永享4年:1456年生まれとの説もあり)、備中国荏原荘(現在の岡山県南西部)の領主の家。
”一介の素浪人”ではなかったようですが、高い身分というわけでもなかった北条早雲。
その生涯はどのようなものだったのでしょうか。

京都で「伊勢新九郎盛時」と名乗る

京都で「伊勢新九郎盛時」と名乗る

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北条早雲の生まれ年は諸説ありますが、1432年(永享4年)または1456年(康正2年)生まれという説が有力。
双方24年も開きがあるため話が混乱することもありますが、とにかく室町時代中期もしくは戦国時代初期に、備中国荏原荘(現在の岡山県南西部)の領主の家に生まれました。

もし、早雲=伊勢新九郎であるならば、早雲は若い頃、八代将軍足利義政の弟、義視(よしみ)の近侍(きんじ:主君のそば近くに仕える人のこと)を務めていたらしく、素浪人ではなくちゃんとした職についていたことになります。
それほどたくさん記録が残っているわけではないので不明な点も多いですが、低くはないが高くもない身分、ということだったようです。

名前もいろいろな説があるのですが、「盛時」と名乗っていただろう、というのが定説になりつつあります。
「伊勢新九郎盛時」。
これが、北条早雲の若いころの名前です。

さて、早雲が近侍を務めたとされる足利義視と言えば、あの「応仁の乱」の中心的人物。
早雲が義視のそばで働き始めて間もなく、京都は戦場と化していきます。
乱が始まると義視は伊勢に移りますが、このときどうやら早雲も同行したようです。
しかし義視はその後、京都に戻って西軍の大将になったり美濃に亡命したりとドタバタ続き。
この頃早雲が義視についていたかどうか、詳細は不明です。

北条早雲と北条政子の関係は?

北条早雲と北条政子の関係は?

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ところで、北条と言えば「北条政子」を思い浮かべる人も多いはず。
早雲とはどんな関係なのでしょうか?

実は北条早雲と北条政子は、まったく関係ありません。

北条政子は平安末期から鎌倉時代初期の女性で、北条早雲が生きた時代よりだいぶ前の女性です。
政子の実家の北条氏は伊豆国(現在の伊豆半島のあたり)を本拠地とする豪族。
北条政子は源頼朝の妻となり、頼朝は鎌倉幕府を開いて将軍となります。
北条氏は執権として長きにわたり鎌倉幕府を支え、相模一帯にその名を轟かせる家柄でした。

一方の北条早雲の氏は本来なら「伊勢」。
素浪人で身分の低い成り上がり者なら、威厳ある氏を名乗りたくなるのも理解できますが、伊勢氏は立派な家柄です。
何も無理に北条と名乗る必要はなさそうに思われます。

応仁の乱が終わり、時代は室町から戦国の世へ。
貴族皇族関係なく、強い者が生き残る時代が到来し、早雲は伊豆・相模へと攻め入っていきます。
しかしどれだけ早雲が強くても所詮はよそ者。
「伊勢」という氏では東国の豪族たちをねじ伏せることが難しかったのかもしれません。
相模の地での地位を不動のものにするために、「北条」という名前にこだわったのではないか、と考えられています。
つまり、「北条」の名にあやかるべく、半ば勝手に名乗っていた、ということになるのです。

一族が北条と名乗るようになったのは、早雲の息子で二代目の氏綱のときから。
北条政子の北条氏と区別するために、度々「後北条氏」と称されることも。
北条の名が後ろ盾となったかどうかはわかりませんが、早雲は相模支配を成し遂げます。
ただ、早雲は息子に家督を譲った後も戦に出続けていましたが、北条氏としての成功は息子たちに託したということなのか、自ら北条氏を名乗ることはなかったのだそうです。

早雲、戦国大名となる

駿河お世継ぎ騒動と早雲

駿河お世継ぎ騒動と早雲

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史料が少ないこともあり、若いころの様子が今一つはっきりしない北条早雲。
しかし今川家との関わりを持ち駿河に出向くようになると、徐々にその全貌が明らかになってきます。

応仁の乱が起きると、駿河の守護、今川義忠が京都へ入り東軍に加わります。
義忠は伊勢家に出入りしていたようで、その縁で早雲の姉(または妹)である北川殿を正室に迎えることに。
北川殿は1473年(文明5年)に、後の今川九代当主今川氏親となる龍王丸を生んでいます。

ところがこの今川義忠、1476年(文明8年)に西軍のものと思われる襲撃を受けて討ち死にしてしまいます。
残された龍王丸はまだ幼子。
家督争いは必至です。
有力家臣たちが義忠の従兄弟にあたる小鹿範満(おしかのりみつ)なる人物を立てたことで今川家は真っ二つに。
この争いを治めるべく駿河へやってきたのが、北川殿の兄(または弟)の北条早雲でした。

早雲は北川殿と龍王丸のために力を尽くし、「龍王丸が成人するまで範満が家督代行する」ということで決着。
この後、早雲は京都へ戻り、九代将軍足利義尚のもとで奉公衆という職に就いています。

しかし数年後、早雲は再び駿河へ。
龍王丸が15歳を過ぎても範満が家督を戻そうとしなかったのです。
早雲は同志を募って兵を挙げ、範満を襲撃。
龍王丸は無事、今川家の当主となり、この功績によって早雲には領地が与えられたと言われています。
その場所は伊豆国との国境に近い場所でした。

早雲、伊豆へ入る

早雲、伊豆へ入る

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1491年(延徳3年)、堀越公方(ほりごえくぼう:室町時代に東国で勢力を持っていた足利将軍家の一族の者の肩書き)として伊豆国を支配していた足利政知が病死。
息子の茶々丸が政知の正室とその息子を殺して強引に跡目に座ります。

茶々丸に殺された政知の正室にはもう一人、清晃という息子がいて、出家して京都で暮らしていました。
この清晃が、いろいろあって十一代将軍足利義澄となります。
将軍となり権力を持った清晃改め義澄は母と弟の仇討を望み、堀越公方にほど近い場所を治めていた早雲に打診。
1493年(明応2年)、その頼みを聞き入れた早雲が茶々丸討伐のため伊豆国へ侵攻します。

早雲は機を見て堀越公方に火を放ち、茶々丸を追い出すことに成功。
この伊豆討入りこそ戦国時代の幕開けを示すものであり、これを機に東国戦国期が始まったと言われています。

早雲は韮山城に入り、伊豆国の統治を始めました。
茶々丸の横行に苦しんでいた領民たちを重税から解放し、武力でねじ伏せながらも平定に務めたようです。
茶々丸はその後もしぶとく落ち延び抵抗しますが、伊豆国の領民や領主たちは既に早雲の味方。
数年かかったそうですが、何とか茶々丸を捕らえて殺し、本懐を遂げました。

伊豆攻めに動いていた早雲ですが、一方で今川家の家臣として遠州方面への進軍も行っていました。
またこの頃、関東における山内上杉家と扇谷上杉家の抗争に参戦し、より東へ進出するきっかけを得ます。
早雲は西へ東へ忙しく動き、着々と領地を広げ力をつけていった北条早雲。
その目には甲斐、そして相模の国が映っていました。

小田原城を奪取せよ!

小田原城を奪取せよ!

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北条氏と言えば、忘れてはならないのが小田原城。
北条一族が建てた城と思われがちですが、もともとは平安末期の豪族小早川遠平の館でした。
その館を駿河国の古い士族であった大森氏が奪い、城として築城したと言われています。
築城主は大森頼春。
室町時代の武将です。
それ以後、小田原城は代々、大森氏の城として西相模に君臨し続けてきました。
小田原は関東への交通の要衝。
そんな場所にある小田原城は、前方に相模湾、後方を小高い山々に囲まれた天然の要害です。

はっきりした時期は不明ですがおそらく1494年(明応3年)頃。
小田原城主であった大森氏頼が亡くなり、子の藤頼が跡を継ぎます。
藤頼の代になった今がチャンスと見た早雲は小田原城奪取に動き始めます。
しかしどうやら力づくで奪い取るのではなく、時間をかけて知略を巡らせ奪い取ったようです。
さすがの早雲も、簡単に攻め落とせる城ではないと感じたのかもしれません。

早雲は大森藤頼に贈り物をしたりして機嫌を取っていました。
藤頼は次第に早雲に気を許すようになり、ついには小田原城のすぐ近くの箱根山での鹿狩りを許可してしまいます。
勢子(せこ:狩りのときに動物を射手のほうへ追い立てる役割の人)に扮した早雲の兵たちが小田原城に入り込み、藤頼を奇襲。
見事、小田原城を奪取。
以後、小田原城は北条一族の本城となります。

同じころ、早雲は伊豆国から追い出した茶々丸を追って甲斐(現在の山梨県のあたり)に入り、武田信縄(たけだのぶつな:武田信玄の祖父)ともぶつかっています。
茶々丸討伐を口実に、早雲は次々と領地を拡大。
この頃から「早雲庵宗瑞」と名乗るようになったようです。
しかし、早雲は小田原城には入らず、最期まで伊豆の韮山城を居城としていました。

相模平定から晩年まで

三浦一族との攻防

三浦一族との攻防

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小田原城を奪い、茶々丸を討った早雲は、さらに東方面へと侵攻していきます。
しかしそれまでとは異なり、相模攻めは簡単にはいかなかったようです。
それでも早雲はあきらめませんでした。
相模国の有力豪族たちの力が大きかったこともありますが、茶々丸討伐という大義名分がなくなったことも影響していたのかもしれません。

当時、関東では、山内上杉家と扇谷上杉家の抗争(長享の乱)が長く続いていました。
早雲は扇谷家当主上杉朝良に味方し、1505年(永正2年)、武蔵立河原の戦い(現在の東京都立川市のあたり)で上杉顕定・足利政氏らの連合軍と戦い、山内上杉家の山内顕定を破ります。
新しい大義名分を得た早雲は勢いづき、相模国にどんどん進出。
勢力を拡大していきます。

武蔵立河原の戦いの翌年、早雲は小田原周辺で検地を行い、相模国での地固めを敢行。
これが戦国大名による最初の検地と言われています。
しかし最初は味方同士だった扇谷上杉家が結果的に上杉顕定に下ってしまい、早雲は上杉氏と対立することになってしまいます。

その上杉家に属していた豪族のひとりが早雲最大の敵とも言われる三浦道寸(三浦義同)でした。
相模三浦氏は平安時代から続く豪族で、相模国の東側一帯を仕切る有力者。
道寸は早雲の拠点を次々攻略して小田原城まであと一歩というところまで攻め込んできます。

相模を支配するにはどうしても三浦氏と対峙しなければなりません。
両者は幾度となくぶつかり合いますが、勢いは早雲の方にありました。
道寸は次第に三浦半島へと追い込まれ、三浦城にて決戦。
三浦氏は滅び、早雲は相模全域の平定を成し遂げるのです。

”いくさ人”としての生涯

”いくさ人”としての生涯

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1432年生まれと考えるなら、相模平定を成し遂げたとき早雲は85歳。
1456年誕生なら61歳。
どちらにしても生涯現役。
その後も房総半島へ進軍して上総の武田軍と合いまみえるなど、まだまだ戦場に立ち続けます。

1518年(永正15年)、家督を息子の氏綱に譲り、隠居。
翌年、韮山城で亡くなっています。
享年88または64。
まさに”いくさ人”であり、領地拡大に邁進し続けた戦国大名でもありました。
氏綱は2年後に菩提寺として箱根に早雲寺を創建しています。

北条早雲はそれなりの家柄に生まれており、”一介の素浪人”ではありませんでしたが、決して高い身分ではなく、自身が兵を持っていたわけではありませんでした。
裸一貫、全く軍事力を持たないところから、駿河、伊豆、相模と領地を広げていったところが、後の世での評価につながったと思われます。
また、早くから、国の主体は農民であって領地拡大のためには農耕や農民を大切にするべき、ということに気づいており、領民からも慕われていたのだそうです。

早雲がなくなった年、今川氏親(龍王丸)に男子が生まれています。
これが後の今川義元。
戦国の世は続いていきます。

ただひたすら強く、大きく。
そう願い走り続けた北条早雲は、甥や息子たちに夢を託してこの世を去りました。
北条氏は小田原を拠点におよそ100年、天下人・豊臣秀吉に滅ぼされるまで、五代に渡って続きます。

戦国時代の始まりを告げた「最初の戦国大名」

静岡県伊豆の国市にある韮山城跡。
城といっても当時はまだ天守閣や石垣といった備えは一般的ではなく、自然の地形を活かしたいわゆる山城です。
北条早雲は相模を平定しながらも、生涯、ここ韮山を居城としていました。
早雲が韮山城を築いてから100年後、豊臣秀吉の小田原攻めの際、韮山城も戦場となります。
今は堀の跡が残るのみですが、山頂に登れば眼下に町が広がり、遠く富士山を眺めることも。
ここから早雲は、遥か東の方角をじっと見据えていたに違いありません。
お近くにお立ちよりの際は是非、韮山城跡にも足を運んでみてください!
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