真面目すぎたから嫌われた?不器用な男「石田三成」の不器用な生涯

ちょっと前までは、石田三成と言えば「嫌なヤツ、悪役」のイメージでした。しかし、大河ドラマ「真田丸」や映画「関ヶ原」などで三成にスポットが当てられたことで、彼の印象はだいぶ変わってきたのではないでしょうか。さて、いったいどちらの三成が本当の三成なんでしょう?彼の性格が垣間見える逸話を交えつつ、その生涯を追ってみたいと思います。いつの時代にも、なんだかやたらと嫌われちゃう人って、いたんですよね…。

時代が動き始めたその時、三成誕生

時代が動き始めたその時、三成誕生

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三成が生まれたのは永禄3(1560)年のこと。
桶狭間の戦いで織田信長が今川義元を破った年ですね。
近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)に、この地の土豪・石田正継(まさつぐ)の二男として誕生しました。
ちなみに、石田という名字はここの地名から来ているとも言われていますよ。

幼名は佐吉(さきち)。
ドラマや映画で、けっこう三成は「佐吉!」と呼ばれているシーンがあります。
昔から彼を知っている豊臣秀吉や加藤清正などがよく呼んでいますよ。

そして、三成は10代半ばで運命的な出会いをするのです。

「三献の茶」で秀吉をもてなし、小姓に採用される

「三献の茶」で秀吉をもてなし、小姓に採用される

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天正2~5(1574~1577)年頃から、三成は羽柴秀吉(当時はまだ豊臣姓ではない)に仕えるようになっています。
父や兄も一緒でした。

三成が秀吉に仕えるようになったいきさつについて、逸話ではありますが有名な話があります。

鷹狩りの帰り道、喉が渇いた秀吉がある寺に立ち寄り、茶を所望しました。

その時ここで寺の小姓をしていた三成は、まず一杯目に大きめの茶碗にぬるめの茶を持ってきます。
秀吉は一気に飲み干し、二杯目を所望しました。
すると三成は、次は少し小さめの碗に、やはり少し熱めの茶を運んできたのです。
三杯目を、と言った秀吉に、最後に三成が持ってきたのは、小ぶりの茶碗に舌が焼けるほどの熱い茶でした。

秀吉がひどく喉が渇いているのをよく見ていた三成は、秀吉が何を欲しているかを察する力があったんです。
彼の観察力と機転の利きようを気に入った秀吉は、即、彼を城へ連れ帰り小姓に採用したのでした。
この逸話は「三献(さんこん・さんけん)の茶」として語り伝えられてきたものなんです。

これにちなんだ三成と秀吉の像が、JR長浜駅前にありますよ。
機会があればぜひ訪れてみてはいかがでしょうか。

賤ヶ岳の戦いで大手柄!

賤ヶ岳の戦いで大手柄!

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三成が秀吉に仕え始めて数年後、天正10(1582)年に大事件が起きます。
秀吉の主・織田信長が明智光秀に本能寺で討たれて戦死してしまったのでした(本能寺の変)。

しかしこれで政権の中枢で力を持つようになった秀吉は、筆頭家老の柴田勝家(しばたかついえ)と徐々に対立するようになっていきます。
そして両者はついに対決の時を迎えたのでした。
これが、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いです。

結果としては、秀吉が勝利をおさめて権力を握り、勝家は自害して果てたわけですが、この時に三成は一番槍をあげるという輝かしい戦功を挙げたんですよ。

一番槍とは、合戦の最初に敵と槍を交え、勝ちを挙げることです。
これ自体が勇猛であることの証明ですから、その功績たるや、素晴らしいものだったんですよね。

しかし、後でご紹介しますが、実は三成、戦は苦手だったという話も伝わっているんですよ。
もしやこれはまぐれだったのでしょうか?いやいや、若武者だった三成にもこんなところがあったんだなあとお思い下さいね。

戦はもっぱら裏方。だが、それが最も重要

戦はもっぱら裏方。だが、それが最も重要

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天正13(1585)年、秀吉が朝廷から関白に任命され天下人となると、三成もまた官位を得て、従五位下治部少輔(じゅごいのげじぶしょうゆう)となります。
とはいっても朝廷に仕える人間ではないので、肩書きだけみたいなものですね。

また、これ以降、三成は「治部」と呼ばれることが多くなりますが、これもまたこの官位から来ているんですよ。

豊臣秀吉と言えば、天下統一までに数多くの戦いをこなしてきた歴戦の猛者です。
大きなものなら九州の島津征伐、小田原の北条征伐、そして朝鮮出兵などですね。

では三成はと言うと、武将として戦った回数はほんの少し。
彼はもっぱら、裏方に徹していたんです。

戦の裏方って、とても大事なんですよ。
兵一人に対し必要な兵糧や弾薬の量を細かく計算して、運ばせるのが三成の役目だったんですね。

戦うこと自体も大切です。
しかしそれを支える食料や武器の補給がなくては、戦い続けることはできません。
補給の役割というのは、ある意味、戦うこと以上に重要だったわけです。

そのことを、さすが天下人、秀吉はわかっていたんですね。
天正19(1591)年、彼は三成に近江佐和山19万石の領地を与えました。
後に「三成に過ぎたるもの」のひとつとして挙げられる佐和山城は、畿内と東国の交通の要衝でした。
三成の評価が高かったことがわかりますよね。

とにかく仕事はきっちり!でなきゃ奉行は務まらぬ

とにかく仕事はきっちり!でなきゃ奉行は務まらぬ

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戦では裏方を務める一方、平時には三成は奉行職にありました。
奉行は政務を執り行う役職であり、今で言うなら官僚ですね。
親友の大谷吉継(おおたによしつぐ)や増田長盛(ましたながもり)らと共に、三成は日々政務に励んだのです。

また、秀吉が行った検地の奉行も務めました。
検地とは田畑の面積と収穫量を正確に調べ、どれだけ課税できるか(年貢を納められるか)を台帳に記録することです。
これがわかっていれば、年貢だけでなく、大名や家臣へほうびとしての土地を与えるのにずいぶんと役立ったんですよ。

ただ、全国の土地は膨大ですから、これはとても大変な作業でした。

しかし三成ら奉行はそれをしっかりやり遂げたんです。
確かに、今の官僚に求められるような、正確な仕事ぶりが発揮されていたんですね。

でもやっぱり戦は苦手かも…

でもやっぱり戦は苦手かも…

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三成が戦下手だという評価が後世にまで伝わることになってしまったエピソードがあります。

小田原の北条氏を攻めた際、三成は相手勢力が立て籠もる忍城(おしじょう/埼玉県行田市)攻めを任されました。

しかしこの城が落ちません。
というか落とせません。

三成が採った策は水攻めでした。
石田堤という堤防をつくり川の水を引き込んだりしましたが、やっぱり落ちません。

時間ばかりが過ぎて行く中、援軍として来てくれたのがあの戦上手・真田昌幸(さなだまさゆき)だったんです。
結局、先に小田原城が落ちたので忍城が開城という結果になったんですけれどね。

しかし三成、ちゃんと自分の欠点は自覚していました。

自分の戦下手を補うべく迎えた部下が、島左近(しまさこん)だったんです。

三成に過ぎたるもの・島左近

島左近は歴戦の勇将として天下に名を馳せていましたが、その当時は主なき浪人でした。

それを知った三成は、左近にぜひ自分に仕えてほしいと頼み込みます。
何度も断られますが、何度も頼み込むということの繰り返しでした。

中国の「三国志」で、劉備(りゅうび)が天才軍師・諸葛孔明(しょかつこうめい)を迎える際も、何度も足を運び頼み込んだ「三顧の礼(さんこのれい)」という故事がありますが、三成と左近もまさにそうだったみたいですね。

しかも三成は、当時の自分の禄高(給料と同等)4万石のうち、2万石を左近に与えるという破格の条件を提示したんです。
これには左近も驚きましたが、三成の真剣さと誠実さに感じ入り、ついに仕えることを決めたんですよ。

この話を聞いた秀吉も、「主と臣下の禄が同じなんて聞いたことないわ!」とびっくりしたそうです。

そして、「治部少(三成)に 過ぎたるものが 二つあり 島の左近と 佐和山の城」と巷ではうたわれることになったんですって。

左近の三成への忠誠は固く、関ヶ原での勝ち目のない戦いでも彼は三成に付き従い、壮絶に散ったとされています(生存説もあり)。

裏方には前線の気持ちが分からぬ!?

裏方には前線の気持ちが分からぬ!?

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さて、主に後方で補給を担当していた三成は、前線で戦う武将たちとはどうもウマが合いませんでした。
もともとクソがつくほど真面目で融通が利かないところもあり、面白みがないと言えばない人物だったので…情に訴えれば動く前線の武闘派たちには、本当に嫌な奴と思われていたんです。

朝鮮出兵の時には、総奉行として、現地軍と日本にいる秀吉の連絡役や、後に講和交渉役を務めた三成ですが、特に仲が悪かったのが加藤清正なんですよ。

清正はひとり快進撃を続け、大陸奥地まで突っ走りましたが、それは組織としては問題でした。
また、朝鮮出兵自体が無益だと考えていた三成は、兵や兵糧の消耗を避けるため早く撤収したいところでもあったんです。
けれど清正はとにかく結果を出したいから攻め続けたい…と、ことごとく考えが相容れなかったんですね。

そんなことがあり、三成は秀吉に「清正が和睦の邪魔をして困ります」という報告をし、これに怒った秀吉は清正を帰国させ、謹慎処分を下したんです。
普通に考えても、清正は三成を恨みますよね。

そんな部下同士の亀裂を生んだ朝鮮出兵ですが、秀吉が慶長3(1598)年に亡くなったことで即時撤兵となりました。

しかし、秀吉がいなくなったことで、最後の大物が動き出したんです。
それが、徳川家康でした。

三成の決意:家康の野望を阻止せねば!

三成の決意:家康の野望を阻止せねば!

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死の直前、秀吉は後継ぎの幼い秀頼のことを有力大名5人(五大老)に託していました。
徳川家康・前田利家(まえだとしいえ)・宇喜多秀家(うきたひでいえ)・上杉景勝(うえすぎかげかつ)・毛利輝元(もうりてるもと)です。

また、このほかに、五大老たちと協議をする奉行を指名していました。
これが三成を含む五奉行で、増田長盛・長束正家(なつかまさいえ)・前田玄以(まえだげんい)・浅野長政(あさのながまさ)です。

しかし、この中で突出した権力を持っていたのが、家康でした。
ずっと待ち続けてきた彼は、今度こそと天下取りに密かに乗り出したのです。
禁じられていた、大名たちとの政略結婚などで勢力を広げていったんですよ。

家康の野望を、三成はすぐさま察知しました。
そして、これを阻止し、豊臣家を守ろうとしたのですが…。

再び、天下が揺らぎ始めていたのです。

武断派たちの反乱!三成失脚

武断派たちの反乱!三成失脚

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秀吉の死後、武断派(ぶだんは/朝鮮出兵などで、前線で戦った武将たち)と文治派(ぶんちは/三成ら奉行衆など)の対立が表面化しました。

前田利家が間に入っているうちは良かったのですが、彼もすぐに亡くなってしまい、ブレーキ役がいなくなってしまうと、武断派たちはすぐに行動を起こします。

なんと、三成の屋敷を襲撃したんです。
加藤清正、福島正則(ふくしままさのり)らその数は7将にもなりました。

三成は彼らの動きを事前に察知していたため、難を逃れました。
この事件は家康の仲立ちによって一応の収束を見せますが、三成は奉行を退き、佐和山城へ隠居することとなってしまったんです。

とはいえ、ここで引っ込む三成ではありません。
佐和山でじっと、その時を待っていたんです。

時は来た!三成の挙兵、しかし結束にほころびも…

時は来た!三成の挙兵、しかし結束にほころびも…

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慶長5(1600)年、家康は東北の上杉征伐へと出発します。

この隙に兵を挙げ、反家康勢力を結集し彼を討とうと三成は考え、まず親友の大谷吉継に打ち明けました。
最初は止めた大谷でしたが、三成の意志が固いことから説得は諦め、自ら三成に加勢を決めたのです。
ただ、三成に「お前のような人物では大将には向かん」と、総大将に毛利輝元を迎えることにしたのでした。

三成と大谷は無二の親友です。

ある茶会の席で、ハンセン病を患う大谷の顔から膿が落ち、茶碗の中に入ってしまいました。
他の大名はそれを見て尻込みしましたが、三成だけは、「早く茶碗を回せ、喉が渇いて仕方ないのだ」と大谷から茶碗を奪い、ぐっと飲み干したというのです。

それ以来、彼らの友情は死ぬまで続きました。
三成は、そんな気遣いができる人物でもあったんですよ。
そして、大谷もまた三成の不器用さと真面目さを知っていて、「お前じゃ大将は無理」とずばっと言えたというわけなんです。

そして、三成らは家康の行状を弾劾した「内府違ひの条々」を発し、挙兵しました。

毛利輝元を総大将とした「西軍」はおよそ10万でしたが、決して結束が強かったわけではなく、三成の人望もなかったために、やがて家康側の「東軍」との内通者が出てくるのです。

関ヶ原の戦い本戦、わずか半日で決着

関ヶ原の戦い本戦、わずか半日で決着

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三成挙兵の一報を聞いた家康は、すぐさま軍を転進させてきました。
また、関ヶ原に着くまでに、家康は西軍の大名たちへの内通工作を始めていたんです。
そして、それは確実に功を奏し始めていました。
本戦の間、動かない西軍勢力も出たんですよ。

各地での前哨戦や、本戦の最初のうちは西軍が優位でした。

しかし、決定的な裏切りが起きます。

それが、小早川秀秋(こばやかわひであき)隊の裏切りでした。
これにつられて何人かの西軍武将も寝返り、多くの武将を失った西軍は敗れたのです。

天下分け目の決戦だったはずのこの戦いは、わずか半日で決着を見ました。

三成は落ち延びましたが、やがて捕らえられます。
佐和山城を守っていた三成の父や一族らは、ほとんどが討死しました。

敗軍の将・三成の最期

敗軍の将・三成の最期

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捕らわれた三成は大津城の門前でさらし者にされましたが、彼を罵倒した福島正則には「汝を生け捕りにしてこのようにできなかったのが残念だ」と堂々と言い返し、市中を引き回される時に「上様(家康)からだ」と小袖を与えられると「上様は秀頼公のみ、いつから家康が上様になったのだ!」と受け取ろうとはしませんでした。

また、喉が渇いたためお湯(茶)を所望した三成に、干し柿が与えられると「腹に悪い」と断ったという逸話があります。
もうすぐ処刑されるのに、と笑われると、三成は「大志ある者は、首を刎ねられる瞬間まで諦めぬ」と答えたそうです。

こうした話を耳にした家康は、「三成こそ大将の道を知っている」と感服したのでした。

そして、関ヶ原の戦い本戦から16日後の10月1日、三成は京都六条河原にて斬首となりました。
41歳でした。

ただただ、豊臣家のために生きた

三成の佐和山城には金銀はほとんどなく、つくりも簡素すぎるほどだったという記録が残っています。
私欲に走らず、ひたすら豊臣家に尽くした人物だったんですね。

また、三成の旗印「大一大万大吉」については、諸説あれども「万民が一人のために、一人が万民のために尽くせば世の中は平和になる」という意味があるとも言われています。

ちなみに、三成の血脈は陸奥国(青森県)で保たれました。
初代弘前藩主津軽為信(つがるためのぶ)は、三成に受けた恩義があり、彼の子供たちを保護したのです。
三成の実直な人柄を良く思う人も、ちゃんといたんですね。

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