個性的ファッションの必須アイテム「古着」と有名古着街の歴史

長い歴史を経験して現代に生き残り、一着に数百万もの値段が付けられることも珍しくない「古着」。この世に一点しか存在しない古着は個性的なファッションを楽しむ人々の「必須アイテム」として親しまれていますが、そのような人気を誇る「古着」とはどのようにして生まれ、現代まで発展してきたのでしょうか。今回は古着や日本を代表する古着街の歴史、現代の古着について見ていきましょう。

歴史は室町時代に始まる

歴史は室町時代に始まる

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古着の歴史が始まったと言われるのは古く「室町時代」から。
この頃に存在した古着では600年ほど前の絵画に「古着屋」と見られる業者がすでに登場しています。
これは服の原料の生産が限られた時代で、布にするまで多くの労力と時間が掛かったことから服は「ぼろ」になるまで利用されることも。
当時の古着は再利用、リサイクル目的で活用されることが多く、これが日本における古着最初の形に。
1つのものを最後まで貴重なものとして扱う「もったいない精神」が根付いていたとも言えるでしょうね。

こうした「古着」は第2次世界大戦後、国が戦いで大きな損害を受け「物不足」の時代がやってくるとアメリカなどからシャツ、ズボン、背広といった古着が大量輸入。
こうして大量輸入された古着は東京・上野や浅草などで売られるようになり、軍の払い下げと一緒に背広、シャツ、ズボン等が販売されるように。
当時の人々は「今は物が不足している中、着られればどのようなものでもありがたい」という思いがあったのかもしれない。
こうしてみると当時の古着は、生きていくために必要な「生活必需品」の考え方が強いものですね。

ファッション的な側面を強める古着

ファッション的な側面を強める古着

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長く「再利用・リサイクル」側面の強かった古着のイメージが変わるのは1970年代。
それまで実需的に活用されてきた古着は「ファッション」の側面を持つアイテムとして重宝されるように。
音楽好きな一部の人々、ヒッピー等に興味を持つ人々が新品では見つけられなかったアメリカ・スタイルを古着に求めるようになり、東京・原宿に古着屋も出現。
誰にも似ることのない「個性」を追い求める人々にとって古着は「最高の自己主張アイテム」ということですね。

見方が見直された古着は1980年代後半から1990年代初頭にかけてさらに進化、日本が好景気に沸いた「バブル時代」には古着に「骨董品」の概念を取り入れた「ビンテージ・ブーム」が到来。
このブームでは約100年前の古着が数百万円の価格で市場に出回ることも増えていきます。
新世紀に入ると「循環型社会」の到来「再利用・リサイクル」の概念が古着文化で復活、個人営業の小型店舗以外に大型の店舗も出現。
商品開発においても新品を古着仕様に加工することが増え、東京だけでも下北沢、高円寺といった場所に古着屋が多く出店しています。

日本で有名な古着街

東京オリンピック以降に大きく発展「原宿」

東京オリンピック以降に大きく発展「原宿」

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東京都渋谷区にある「原宿」は江戸時代以前に鎌倉街道の宿場町があったとされ、現在使われる「原宿」の地名はここから起こったとされています。
その後江戸時代に入ると武家屋敷、江戸防衛を目的とする伊賀衆の組屋敷も置かれたと言われ、流行発信地である現代からは想像できないですね。

その「原宿」が進化を遂げるのは時代が大正に入って以降。
1919年(大正8年)に明治神宮の創建に合わせ「表参道」が整備され、太平洋戦争終戦後は接収された代々木錬兵場跡地にアメリカ空軍の兵舎「ワシントンハイツ」が建設。
1964年(昭和39年)に東京オリンピックが開催されると、1966年(昭和41年)に明治通り沿いでドライブイン「ルート5」がオープン。
1966年(昭和41年)には原宿地区初の本格的ブティック「マドモアゼルノンノン」も開店し、集まった若い人々は「原宿族」と呼ばれるように。
若者たちがこの地域を作ってきたのですね。

時代が1970年代に入った1977年(昭和52年)から始まった「歩行者天国(ホコ天)」では独特なファッションでダンスを踊る「竹の子族」が有名になり、1978年(昭和53年)にファッションビル「ラフォーレ原宿」が開業。
現在までファッション・アパレルの中心として広く知られるようになりました。

日本唯一の気象神社がある「高円寺」

日本唯一の気象神社がある「高円寺」

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高円寺の歴史の始まりは高円寺南4丁目に存在する「宿鳳山高円寺(しゅくほうざんこうえんじ)」にあります。
この寺は戦国時代の1555年(弘治元年)に中野成願寺三世・建室宗正により開山された寺院で、江戸時代には江戸幕府第3代将軍・徳川家光が鷹狩りの際の雨宿りで立ち寄ったことも。
たびたび訪れた家光がこの場所を気に入ると境内に「仮御殿」が作られるように。
家光が訪れ気に入ったことで寺が有名になると、正保年間(1645年から1648年)の頃に地名を「小沢村」から「高円寺村」に変更。
これが現在ある「高円寺」という地名のルーツに。
この街の起源には将軍の影響があるのです。

将軍の影響で名が付いたこの街には1938年(昭和13年)に「陸軍気象部令」によって設置された「陸軍気象部」が置かれたこともあり、敷地内には予報的中を祈願する「気象神社」が創建。
神社は後に「太平洋戦争時」の空襲で焼失後に「氷川神社(ひかわじんじゃ)」の一角に再建され、現在でも日本唯一の気象神社として親しまれる存在に。
お買い物ついでにご利益を得てみるのも良いですね。

かつては政治家・文豪が集った街「下北沢」

かつては政治家・文豪が集った街「下北沢」

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東京世田谷区の北東部に位置する「下北沢」は、戦前や戦後間もない時期に文豪が集うことで知られた街。
将校クラスの軍人、官僚が多く住んでいたこともあり、政治家では佐藤栄作、竹下登、戦前の東条英機といった首相経験者がここに住んでいました。
現代に見られる「若者の街」とは雰囲気が違ったのですね。

そのような文化人・政治家といった人物が集まっていた下北沢でしたが、1950年代から「駅前市場」で輸入品を扱い始めるとおしゃれな街になり、1970年代半ばに入ると1975年(昭和50年)にオープンした音楽バー「レディ・ジェーン」、ライブハウス「下北沢ロフト」といった施設が完成して「若者の街」へと変化。

こうして変わった街のイメージは1979年(昭和54年)に第1回が開催された「下北沢音楽祭」以降に定着していき、音楽祭に出演したロック・アーティストが暮らして音楽活動を行ってきた歴史も存在。
こうして若者の街へと変化した街には1982年(昭和57年)に元俳優・本多一夫氏が「本多劇場」をオープンしており、この劇場の存在から「演劇の街」としても注目されるようになっています。

倉庫街から若者の街へ「大阪・アメリカ村」

倉庫街から若者の街へ「大阪・アメリカ村」

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現在では大阪の若者文化発信地とされる「アメリカ村」ですが、かつては木材加工業の多い倉庫街であった街。
江戸時代には慶長の時代から幕末まで存在した豪商・大坂屋久左衛門(おおさかやきゅうざえもん)が本店を構え、西横堀川の水運を利用した「銅吹屋(どうふきや。
銅の生産と流通を行った)」の街として発展してきました。

こうした倉庫街の景色が変わってきたのは1969年(昭和44年)のこと。
大阪出身の空間デザイナー・日限萬里子(ひぎりまりこ)氏が三角公園(御津公園)前にカフェ「LOOP(ループ)」をオープンすると、若いデザイナーやサーファーたちを中心に若者が集まるように。
こうして集まった人々は残された倉庫街を利用て「若者の街・アメリカ村」を作るようになり、中古レコードや古着などをフリーマーケット形式で販売。
かつての街並みを完全に捨て切ることなく、有効活用する形で新しい街を生み出した感性は見事ですね。

それ以降も1990年(平成2年)には大手CDショップ「タワーレコード(2006年8月に閉店)」、1993年 (平成5年)に大阪市立南中学校跡地に完成した「BIG STEP」など大型店舗・施設が開業。
ファッションやライブハウス、映画館などが立ち並び、現在では「大阪で行きたい観光地」の上位に挙げられるほど注目を集めるように。

日本三大電気街の1つ「名古屋・大須」

日本三大電気街の1つ「名古屋・大須」

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名古屋市中区にある「大須」の歴史の始まりは、鎌倉時代の1324年(元亨4年)。
当時の後醍醐天皇により尾張国中島郡大須に「北野天満宮」が創建されると、1333年(元弘3年)に同社の別当寺(べっとうじ。
神社を管理する目的で置かれた寺)として僧・能信(のうしん)が「真福寺(岐阜県羽島市)」を創建。
これが現在の大須のシンボルとなっている「大須観音」の始まりと言われています。

時代は進み江戸時代の1610年(慶長15年)、名古屋城築城を機に行われた「名古屋開府」による「清洲越し(きよすごし。
築城に伴う清州から名古屋への都市移転)」に伴い旧那古野城(現在の名古屋市中区)南側にあった萬松寺(ばんしょうじ。
1540年(天文9年)に織田信秀が開基)が現在地に移転。
その後1612年(慶長17年)に徳川家康の命によって真福寺が現在地に移転すると、移転前の地である「大須」から名が付けられた街は門前町として発展することに。

時代が300年経過した1912年(大正元年)には萬松寺の寺域の大部分が一般開放、名古屋市内随一の歓楽街としてさらに発展。
これ以降には劇場や演芸場などの娯楽施設が完成しますが、第2次世界大戦末期にアメリカ軍の爆撃を受けると街は壊滅的な被害を受けることに。
さらに第2次世界大戦後に客足が繁華街・栄に流出してすると、1972年(昭和47年)には当時の人気劇場・東宝名劇(旧名古屋劇場)が火災で焼失して街は低迷期に突入。
戦争の被害と客の流出という「ダブルパンチ」は再生に厳しいですね。

しかし大須の街は1978年(昭和52年)に「大須大道町人祭」を開催するなど打開策を打ち出し、商業ビル「アメ横ビル」や商店街などに家電店が形成されると秋葉原(東京)、日本橋(大阪)に次ぐ「日本三大電気街」の1つとして数えられるようになりました。

チャリティーにも利用される古着

チャリティーにも利用される古着

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ファッションアイテムとして愛用される古着は、チャリティーで利用されることも増えています。
NPO法人ではミャンマーとベトナムで活動する「ブリッジエーシアジャパン(BAJ)」が古着リサイクルプログラム「フルクル」を実施、集まった古着はリサイクル業者に買い取られたのち収益をミャンマーやベトナム、東北地方での支援活動にあてる仕組み。
NPO法人「WE21ジャパン」では回収した衣類や雑貨を「WEショップ」で販売、その収益をアジア地域の災害復興などに利用。

大手企業でもファストファッションの「H&M」 がブランド、状態を問わず要らなくなった服を店に持ちこむ取り組みを実施しており、ファーストリーディング株式会社が運営する「ユニクロ」と「ジーユー」では販売した全商品を対象にリサイクル活動を展開。
こうしたところにも「もったいない精神」は生きているのです。

世界では「芸術作品」として生まれ変わる古着

世界では「芸術作品」として生まれ変わる古着

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ファッションアイテムである古着は、世界では「芸術作品」に生まれ変わることもあります。
2008年にDerick Melander氏によって制作された「The Ocean is the Underlying Basis for Every Wave」は色分けされた衣服を畳んで積み上げた作品で、外観は波の形と真上から「S字」を成すようにして形成。
2005年に作られた「Grasp」では真上から見ると視力検査に使用される「ランドルト環」のように見える作品で、切れ目から入り込む人の肩が作品とぶつかることで「作品と人がつながって「回路」を形成する」意味がこめられているとのこと。
積み上げられた服が歩んできた歴史、その服を1つの形にする芸術性の高さが見事です。

このほかフランスの芸術家クリスチャン・ボルタンスキー氏は「No Man’s Land」という作品で古着を活用。
これは中庭に積み上げられた9トン~16トンの古着を利用した作品で、巨大クレーンがつかんでは落とすという壮大な作風が特徴。
古着が「グラム」ではなく「トン」レベルで一度に集まるわけですから、その威圧感は相当なものでしょうね。

着るだけのものではなくなってきた古着

日本では室町時代から発展してきた古着は、着る以外にリサイクルとして社会貢献にもかかわり、世界では芸術作品の元にもなってきました。
古着は着られなくなって捨てられてしまうこともありますが、考え方次第でさまざまな方向に活用できることはぜひ知っておきたいですね。
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