家臣に嫌われ命運も尽きた「宇喜多秀家」とは?「若き貴公子」の暴政でお家騒動も

皆さんは宇喜多秀家という人について知っておられますか?関ヶ原の戦いで西軍の総督にもなった人なのですが、父・直家の賢さの陰に隠れたり、大河ドラマ「真田丸」では少し出ただけ、映画「関ヶ原」では出たのか出てないのか、わからないくらいの存在感でしたね。しかし、この人、周りを結構かき回していて面白いのです。ここでは、宇喜多秀家とはどんな人?宇喜多家で起きたお家騒動とは?関ヶ原の戦いで負けた秀家はその後どうなった?ということに重点を置いて説明していきたいと思います。

秀家の父・宇喜多直家とは?

秀家の父・宇喜多直家とは?

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まずは秀家の父・宇喜多直家について説明していきたいと思います。

直家は自己の権威拡張のためには義理も人情も忘れ、友も肉親も主君も手段を選ばず次々と抹殺して、一介の備前邑久郡(おくぐん)の土豪から、一転して中国地方における押しも押されぬ大大名になった人。
下剋上の模範的実践者といえるでしょうか。

直家は幼名を八郎といい、天文3年(1534年)、島村貫阿弥に襲われ祖父能家(よしいえ)を亡くし、両親と共に鞆(とも)へ逃げた後に備前福岡の市へ。

八郎は幼年期に情け容赦ない戦国の世を生き抜く知恵をつけたと言われています。

八郎は天文12年(1543年)に15歳で主家の浦上家に仕えると、播州合戦で初陣。
翌年には直家を名乗り、乙子城主に。

その後、直家は義父の中山信正と祖父を殺した島村貫阿弥を倒し、竜の口城を落とし、さらに永禄9年(1566年)備中成羽城主三村家親(いえちか)を鉄砲で暗殺。
これは日本初の鉄砲での暗殺と言われています。

翌年家親の子・元親が父の弔い合戦として備前に攻め込んできて、三村軍2万対宇喜多軍5千という劣勢でしたが、外交を利用し三村勢に味方していた毛利勢を引かせることに成功し、三村家を倒し、備中東部を手に入れることになりました(明禅寺崩れ)。

その後も戦いと暗殺を繰り返した直家は岡山城に入城し、本格的な城郭の建築と城下町の造成に着手。
主君であった浦上宗景(むねかげ)を追放しますがここで病に。
体全体から膿が流れ出るのが止まらなかったといいます。

天正7年(1579年)羽柴秀吉の斡旋で織田信長への帰順を誓い、天正9年(1581年)に幼児八郎(秀家)の将来を案じつつ53歳で死去したのでした。

秀家とはどんな人?

秀家は美麗を好むぼっちゃん大名?

秀家は美麗を好むぼっちゃん大名?

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「若き貴公子」と呼ばれる宇喜多秀家の性格をよく物語る逸話があります。
豊臣秀吉が伏見城にいた時、登城していた五大老の刀置き部屋で足を止め、そこに置いてあった5腰の刀を見て、秀吉はそれぞれの刀の所有者を性格に当てたそう。

秀吉は秀家については、「秀家はなにごとにも美麗を好む。
それゆえ、あの黄金をちりばめた刀がそうである」と言ったそうです。

この話は秀吉の人を見る目の確かさを強調したものですが、秀家が苦労知らずの「ぼっちゃん大名」だったことも示しています。

秀家は戦国末の天正元年(1573年)、父直家が念願叶い沼城から石山城に移った年、お福の方から生まれました。
当時直家は備前全土を手中に収め、日の出の勢いで美作へ侵入していた時。

秀家は幼名を「八郎」といい、平和な生活を送っていましたが間も無く父直家が病死したので、天正10年(1582年)にわずか10歳でその跡を継ぎました。
幼少だったため、叔父の宇喜多忠家が後見役に。

その年、羽柴秀吉は毛利征伐のため岡山城に来城。
そのとき忠家は秀吉に八郎の後見を頼み、そして秀吉の中国征伐で、毛利氏の拠点備中高松城攻めに、岡山勢は先人として1万の大軍で奮戦。

秀家は豊臣政権でどのように出世した?

秀家は豊臣政権でどのように出世した?

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この合戦は秀吉と毛利氏との講話で決着がつき、備中と美作の数郡を秀吉から与えられた八郎は、父の遺領と合わせて57万4千石の大守に。

天正13年(1585年)、八郎は元服して秀家(秀吉の「秀」、直家の「家」をもらったそう)と名乗り、晴れて天下人・秀吉の猶子となりました。

「養子になるの?」と思う人もいると思いますが、これは秀吉に子供がいなかったためですよね。
以後秀家は公式に「羽柴秀家」とか「豊臣秀家」と称し、家紋にも豊臣家の「五七桐」を使い、岡山城にもこの瓦が見られます。

その後、宇喜多勢は秀吉配下の有力部隊として、賤ヶ岳など多くの合戦に軍功を立て、そのため秀家は天正15年(1587年)にはわずか15歳で従三位、参議と異例の昇進を遂げ、この年秀家は自ら出陣して島津征伐に初陣を飾りました。

また教養豊かな文化人であり、天正17年(1589年)、秀吉は養女の豪姫(前田利家3女)を秀家の正室に。

さらに秀吉は天正18年(1590年)に秀家の居城・岡山城の城建築策を指示し、完成するには慶長2年までかかり、その間秀家は秀吉の無謀な朝鮮出陣に元帥(現地総司令官)として渡海し、高い評価を得ました。

若いうちから出世して、日本代表みたいな軍の総司令官になったという、いわばエリートみたいな存在だったんですよね。
ただ、トップからヒイキにされていたわけではありますが。

宇喜多家のお家騒動とは?

お家騒動の原因は秀家の乱行と暴政?

お家騒動の原因は秀家の乱行と暴政?

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慶長3年(1598年)に朝鮮出陣より帰国した秀家は、熱中するものがなくなったのか、遊ぶことに夢中になり、鷹狩りや猿楽など金銭を湯水のように使う乱行が始まりました。

当時の宇喜多家は岡山城築城と2回にわたる朝鮮出陣などによる莫大な出費で財政難に苦しんでいて、これに勘定方はやり切れず家老たちが進言すると、秀家は「必要な金は民衆から取れ」と秀吉が行った検地の方法を拡大強化。

領国内に過酷な検地を実施して封土を広げ、さらに家臣の領地を削ったり、寺社領を没収して新しく約20万石を打ち出しました。

また豪姫が病気した時、日蓮宗の僧侶に祈祷を命じましたが全く効果がなく、全土の日蓮宗にキリシタンへの改宗を命じるなど乱暴狼藉な政治を行い、この結果、この民衆に対する無理な政治の賛成派と反対派が対立。
前者を官僚派、後者は武断派と呼ばれています。

官僚派の国老の思想は進歩的で、当時西日本に蔓延していたキリスト教徒になる者が多かったのに対し、武断派は保守的な思想の日蓮信者。

この時代の岡山にもキリシタンになる人が多かったのには意外な思いです。
また民衆に無理を強いたのが進歩的な人なのも、なんとも言えません。

秀家&官僚派と武断派の対立とは?

秀家&官僚派と武断派の対立とは?

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このような対立でもちろん秀家は進歩的官僚派を信任していたので、保守的武断派だった仕置家老戸川達安(みちやす)は解任され、秀家の信頼を得ていた長船紀伊守(おさふねきいのかみ)がこの職に登用されました。

長船紀伊守は豪姫の付き人として前田家から来ていた中村次郎兵衛などと組んで国政を思うままにし、厳重な検地政策を強行し、秀家を中心にキリスト教徒として団結。
旧来の宇喜多家の伝統を無視した革新政治を断行しました。

これに対し宇喜多左京亮(さきょうのすけ)や戸川達安などは人民を苦しめる無理な検地主義に反対。
宗教的には宇喜多家累代の日蓮信者として団結し、ここに骨肉を食らい合うような戦いが起こったのです。

慶長3年(1598年)、保守派国老花房職之(はなぶさもとゆき)が長船紀伊守と衝突し、秀家は職之に閉門切腹を命じましたが、秀吉のとりなしで常陸の佐竹家に預けられることに。

お家騒動の結果、秀家の命運も尽きた?

お家騒動の結果、秀家の命運も尽きた?

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これに憤慨した保守派家老たちは長船紀伊守の暗殺を計りましたが、翌年たまたま紀伊守が病没したので(毒殺されたとも)紀伊守の後に国政を取り締まった中村次郎兵衛の成敗を大坂にいた秀家に迫ったところ、秀家はこの要求を拒否し、中村を本国の加賀に逃し、反対に保守派家老を成敗するために兵を差し向けたため、保守派一同は宇喜多左京亮の大坂屋敷に立てこもり、主君秀家との決戦を覚悟。

まさに血の雨が降ろうとしたときに徳川家康と大谷吉継が仲介に入り、一応この闘争は回避されましたが、保守派家老たちはもはや備前に帰ることはできません。

宇喜多左京亮と戸川肥後守父子は徳川家康に、岡越前守、花房志摩守、花房職之は郡山藩増田氏に預けられ、このお家騒動で秀家は父祖伝来の有力な国老たちを一度に失ってしまい、家老を務めるほどの器量のある家臣は全くいなくなってしまいました。
このためかつて浦上宗景の家老だった明石掃部介盛重(あかしかもんのすけもりしげ、大坂の陣で大坂城に入城して戦った明石全登)を登用。

そして、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで秀家は西軍の総督として出陣しますが、宇喜多軍には明石掃部介の他に兵を指揮統率できる歴戦勇士の家老もおらず、加えて小早川秀秋の寝返りなども災いして西軍の大惨敗に終わり、秀家の命運もここに尽きることとなりました。

関ヶ原で負けた後の秀家は?

朝食と引き換えに家宝の刀を渡した?

朝食と引き換えに家宝の刀を渡した?

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関ヶ原で大惨敗した秀家でしたが、秀家は家臣進藤三右衛門正次に助けられ、一時伊吹の山中に身を隠しました。

この時の秀家のことを書いたものってなかなかないと思うので、書いてみます。

秀家は山中に隠れた初日は野宿し、翌朝は自分の刀と引き換えになんとか朝食にありつきました。
この刀は家康も欲しがったという鳥飼国次の名刀で、宇喜多家の家宝であるため与えなかったのですが、今や敗軍の将の悲しさ、この殿下の宝刀を朝食1杯のために引き換えざるを得なかったのです。

さらに主従2人は山中を北に逃れ、夕方に北近江の一農家にたどり着いてその牛小屋にかくまわれました。

しかし、これから逃げるにしてもお金がなく、三右衛門が1人大坂玉造の宇喜多邸に行き、夜間密かに秀家の正室豪姫に会って秀家の無事を伝えると、喜んだ豪姫は黄金25枚を三右衛門に与え、「これを当座の用にされよ。
追って救出の者を遣わす」と。

三右衛門は北近江の農家にたどり着き、奥方の手紙と金子25枚を渡したところ、秀家はそのうち20枚を農家の主人に与えたといいます。

牛小屋に半年も潜伏した?秀家は死んだことに

牛小屋に半年も潜伏した?秀家は死んだことに

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奥方の命で難波助右衛門など5人の者が北近江の牛小屋を訪ねてきたのは、合戦から2ヶ月も経った冬のことで(そんなにも見つからずに済んだのはラッキーでしたね)、もうやはり秀家を救出するのは至難の業。

そこで、「秀家は死んだ」と発表することに。

三右衛門は早速大坂の幕府老中本多忠純に名乗り出て「主君秀家は戦後間もなく伊吹山で自害し、自分は本多殿に奥方と御子息たちの助命を、家康公に取り次いでいただくため参上しました」と言うと忠純は、「ならば証拠を」と。

三右衛門は「宇喜多家伝来の名刀・鳥飼国次が伊吹の農家に預けてあります」と語ったため、忠純はすぐに家臣に探索させると、この名刀が手に入ったので、家康にことの次第を報告。

このようにして危機を脱した秀家は慶長6年(1601年)、はじめて北近江を発ったのですが、彼はこの農家の牛小屋に約半年も厄介になったことになるのです。

大名が牛小屋に半年も住むのは辛かったでしょうね。

潜伏するも嗅ぎつけられ、八丈島へ流罪に

潜伏するも嗅ぎつけられ、八丈島へ流罪に

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秀家は、秀吉の死後、堺の伊庭町(いばまち)に隠居していた実母円融院ふく(お鮮の方)の邸に行き、お鮮はすでに50半ばでしたが秀家の無事な姿を見て泣きながら手を取り、邸内の奥まった一室にかくまって秘密が漏れないように奥方豪姫にも連絡しなかったそう。

秀家はここに約1年2ヶ月潜んでいましたが、徳川方の忍者らしいものが邸の辺りに現れ危険を感じ、慶長7年(1602年)に堺から船で薩摩の島津領国に入り、休復と号して仏門に入りました。

島津の当主忠恒(ただつね、家久)は秀家は関ヶ原の戦いで共に西軍に属した盟友だったtめ秀家の存在を黙認していましたが、3年経つと徳川の忍者に嗅ぎつけられたので、秀家にすすめて徳川幕府に自首させ、死罪のみは許されるようにひたすら家康に取りなしました。

秀家は駿府に呼び出され、しばらくここに幽閉されましたが、関ヶ原の戦いから既に6年も経っていたため死一等を減ぜられ、慶長11年(1606年)4月、八丈島へ流罪となりました。

この時秀家に従ったのは、長子孫九郎、次男小平次以下主従13人で、秀家の正室豪姫はこの時既に前田家に帰っており、秀家と共に渡島することは許されませんでした。

秀家一行は八丈島の大賀郷に落ち着き、苦難の生活を送ることになりましたが、かつては57万石の大大名が今や絶海の孤島の一流人、有為転変のいたずらと望郷の念に泣き、この島で生活すること50年、84歳で明暦元年(1655年)11月、悲憤のうちにその一生を終え、そして彼の墓は今も大賀に残っているのです。

周りをかき回した「おぼっちゃん大名」秀家、望郷の念には共感

父・直家の時代に現在の岡山県の大半を手に入れ、その宇喜多家を継いだ秀家。

しかし、華美を好み、ぜいたくをして「おぼっちゃん大名」などと呼ばれ、農民に重税を強いたため、それがお家騒動に発展。

それが原因で家臣がいなくなり、関ヶ原の合戦で大敗し、近江の山中や薩摩などを逃げ回り、結局八丈島へ島流しに。

宇喜多秀家は私の地元・岡山の人なので今回調べてみることにしたのですが、なかなか周りをかき回していて、少し驚きました。

しかし、私が岡山に帰れないとしたら、それは悲しいので、望郷の念というのは共感できる気がします。

こんな秀家ですが(自分の息子みたいにいうのですが)、興味があれば是非、岡山城や後楽園にお越しください。

それでは今回も読んで頂いてありがとうございます!

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