江戸時代は醤油で大儲け?2ヶ所に建てられた「龍野城」の歴史

龍野城というお城を聞いたことがありますか?姫路と赤穂の間にあって少し存在感が薄いのですが、(すいませんが、それが以前の私のイメージ)立派な城があり、城下町の雰囲気が残っている良いところなのです。ここでは、龍野城の建造物や、たつの市内の歴史スポットにはどんなものがある?龍野の名産、醤油の歴史は?また龍野城と龍野藩にはどういう歴史があるのか?ということについて見ていきたいと思います。

龍野城と龍野の城下町、龍野市内の歴史スポットは?

現在龍野城と龍野市内に残っている建造物は?

現在龍野城と龍野市内に残っている建造物は?

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龍野城は兵庫県の姫路駅から姫新線に22分ほど乗った本竜野駅から歩いてヒガシマルの工場の横を通り、揖保川を渡って21分ほどの所にあります。

龍野城は鶏籠山(けいろうさん)の山城と山麓の平山城との2期に分かれていて、山城は約500年前に播磨の守護大名だった赤松村秀によって築城され、現在の平山城は寛文12年(1672年)に信州飯田から脇坂安正が移ってきて築城したとのこと。

そして、龍野城では本丸御殿、白亜の城壁、多聞櫓(たもんやぐら)、埋門(うずみもん)、隅櫓などが復元されています。
私も少し前に龍野城を訪れたのですが、復元された建造物が白く立派でした。

また、私が訪れたときは休館日で残念だったのですが、龍野城本丸御殿上段の間がきらびやかな黄金の間となっていて、一室全体がきらびやかな黄金の間となっているそうです。
これを見逃したので、また龍野を訪れなければいけませんね。

また、城下町の旧脇坂屋敷周辺には江戸時代の町の雰囲気が残っており、また如来寺周辺には寺院、浦川、醬油蔵などがあり、城下町の風景が残っていて、聚遠亭(しゅうえんてい) の心字池の上にある茶室は庭園、池、杉垣根などと調和した書院造りを模した数奇屋風(すきやふう)の建築。
池の上にある建築って好きなのですが、見るだけで楽しくなるのは私だけでしょうか?

野見宿禰神社(のみのすくねじんじゃ)には「龍野」の名の由来が。
相撲の元祖、野見宿禰(のみのすくね)が故郷の出雲に帰る途中この地で病死し、出雲から多くの人々が来て川からリレー式に石を運び墓を築いたとされています。
「野に立つ人」「立野」が、いつしか「龍野」になったそう。
また、「龍」がつく土地には「たびたび洪水が起こったから「龍」の名が付いた」という話も聞いたことがあります。
龍野も揖保川がよく氾らんしたりしていたのでしょうか?

また龍野市内には古墳や弥生時代の遺跡などもあり、歴史スポットはたくさんありますよ。

龍野の町はどんなもの?

龍野の町はどんなもの?

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現在の龍野城を建てた脇坂安政が入封した当時の城下町は立町・下町・横町・上下の川原町の5ヶ町からなり、547軒と7ヶ寺からなっており、享保8年(1723年)年の人口は4120人ですが、以降減少傾向をたどり、幕末期には3400人台となっています。
姫路という大きい町が近くにあるのに、減っていくのは意外です。

龍野城下の町政機関として立町に惣町会所があり、現たつの市のほぼ中央を流れる揖保川を、薪(たきぎ)を積んだ舟が龍野町を通過する場合および他領の舟が龍野町に薪の積み売りにきた場合、龍野町の薪仲買はいずれの場合も舟一艘につき銀5分ずつの浜運上を取っていました。

宍栗郡(しそうぐん)山崎町の出石(いだいし)河岸を起点として発達した高瀬舟が播磨北部の産物である木材・薪炭(しんたん)あるいは鉄といった商品を龍野経由で網干(あぼし)へ積み降ろしていました。
網干からさらに姫路や大坂などへ送られていたのでしょうか?大坂や京から比較的近いですし、需要がたくさんあって儲かったのかもしれませんね。

龍野の醬油はどのように広まっていった?

龍野の醤油はどのように生産、運送され、消費された?

龍野の醤油はどのように生産、運送され、消費された?

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現在一般的に用いられている醤油が商品として大量に生産されるようになったのも近世のこと。
原料は小麦・大豆・塩・麹(こうじ)と水で製造法や道具は酒造に似ています。

良質な小麦と塩の産地として、播磨では醤油製造業が17世紀から行われていましたが、18世紀には京・大坂・江戸の大消費都市へ売り込むことで生産規模を拡大。
三都の中でも京は醤油生産の先進地で「造醤油仲間」が形成されていたところへ播磨や備前で生産される醤油が流入するようになり(私の地元でもある岡山の備前に美味しい醤油のお店があるのですが、やはりそういうお店があった所は昔は醤油の生産が盛んだったのでしょうか?)、他国醤油問屋の仲間が形成され、とりわけ京に出店も設け積極的に進出したのが龍野の醤油製造業者です。

龍野の代表的な醤油醸造家、圓尾家(まるおけ、後のヒガシマル)は近世初期には酒と味噌の醸造を行っていましたが、淡口(うすくち)醤油を開発し、京都市場へ進出して成功したとされます。
現在、関西や西日本で薄口醤油が広まっているのは、やはり龍野のヒガシマルが源流なのでしょうか?

龍野の醤油はブランド品?

龍野の醤油はブランド品?

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文化13年(1816年)には播州の17軒の醸造元から合計4万6641樽が京に積み登されていますが、これは同年の他国醤油の61.7%を占めていて、これはかなりのシェアですよね。
また龍野だけで3万2904樽あり、圓尾家だけで1万樽を超えていて、ある番組の言葉を借りれば、「江戸時代の龍野は淡口醤油でガッチリ!」といった所でしょうか。

龍野で作られた醤油は前述の揖保川水運を通じて網干へ送られ、廻船で大坂に運ばれて、次は淀川舟運で伏見を経由して京都に積み送られたのです。
また文政5年(1822年)には龍野醤油の偽物が横行したため御改極印請負(特許のようなもの?)の出願がありました。
それが実現したかは不明ですが、すでに龍野醤油がブランド商品になっていたことを物語っています。

偽物が出回るほど美味しい醤油だったということになりますよね。
龍野に寄ったとき、お土産に買ってみても良いんじゃないでしょうか?

龍野城にはどんな歴史がある?

山城の鶏籠山城ができた頃の龍野城は?

山城の鶏籠山城ができた頃の龍野城は?

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元弘3年(1333年)赤松円心が足利尊氏とともに六波羅探題を攻め落とし、その後の南北朝の内乱で播磨は円心に指揮権が与えられました。
これが元で円心と赤松氏は播磨国守護となり、赤松氏は則祐(そくゆう)のとき、備前守護職も与えられ、さらに子息の義則が美作守護職も与えられ、3ヶ国の守護を兼任するように。
また義則は南北朝時代の後半、新宮町・たつの市境の山上に城山城(きのやまじょう)を造営し、同時に東麓の越部荘(こしべのしょう、新宮町)に守護館を設置し赤松家の本拠に。
同じ時期に則祐は赤松氏発祥の地・赤松(上郡町)でも白旗城と麓の館を整備し、2つの城は播磨における赤松氏の拠点として並存していました。

応仁の乱で赤松政則が細川勝元の東軍に属し、その子・村秀が鶏籠山城(龍野城)を築城し拠点に。
ここでこの赤松氏は龍野赤松家と呼ばれるように。
しかし、赤松家は宿老の浦上家にとって変わられるようになり没落。
また浦上家も後に宇喜多直家が力を付けて主君だった浦上宗景を追放するので、この時代はやはり下克上の時代といえますね。

秀吉に平定された播磨、そして龍野藩は?

秀吉に平定された播磨、そして龍野藩は?

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織田政権の時代に播磨が羽柴(豊臣)秀吉に平定されると、国人層の一部は織田政権やその武将に服属し、その多くは没落。

但馬(たじま、兵庫県北部)から播磨、淡路をほぼ平定した秀吉は天正11年(1583年)になると平定に功労のあった大名たちに次々と領地を与えていきました。
文禄3年(1594年)秀吉の妹の夫で秀吉の馬廻りの小出吉政が龍野に2万1000余石を与えられますが、翌年に但馬出石へ転封。
豊臣政権が成立すると秀吉は本拠地を姫路から大坂に移しました。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は戦後処理として諸大名領の再配置を実施。
播磨は秀吉の蔵入地を中心とした木下一族の領国体制となっていたためにこの地域の所領変動は著しく、慶長5年、池田輝政が播磨一国52万石を領有し壮麗な姫路城を築き、領国内に6つの支城を設け、その西辺に荒尾但馬守成房(しげふさ)を城代とした龍野城が置かれました。

元和3年(1617年)に池田氏が岡山に転封された後は13の小規模な譜代・外様の大名領と幕府領・旗本領に分割。
その結果、姫路藩15万石を最大として龍野藩や明石藩・赤穂藩が3~5万石の城持ち大名で、あとは陣屋があるだけの非領国地域の様相を呈するようになりました。

城主がコロコロと変わり、荒れ果てる龍野城

城主がコロコロと変わり、荒れ果てる龍野城

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しかし、播磨ではそれぞれ特色のある領国経営が行われ、龍野の醤油や(関西の人にはヒガシマルのうどんスープなどが有名でしょうか)姫路の木綿、赤穂の塩などの特産品生産が領主の保護のもとで発達しました。

その後に入った本多忠政の次男・本多正朝(まさとも)が5万石で揖保川(いぼがわ)中流の小盆地に龍野藩を立藩し、連郭式の平山城を築城。
これが龍野城ですね。
また正朝は徳川四天王の勇将として有名な本多忠勝の孫にもあたります。

しかし、寛永3年(1626年)、正朝が姫路に転出し、小笠原長次(ながつぐ)が入封。
寛永9年(1632年)、長次が豊前国中津に移封すると岡部宣勝(のぶかつ)が美濃国大垣から入封しますが、3年で摂津国大槻(おおつき)に移封。

短い期間でコロコロと大名が変わっているのですね。
近隣諸国でトラブルが多い時期だったためでしょうか。
まあこれは龍野だけではないのですが。

その後、京極高和(たかとも)が入封しましたが、やはりすぐに讃岐国丸亀に移封。
この後は14年間幕府領となり城が破却され荒れた状態で、当時の様子は「城地、武家屋敷はことごとく田畑となっていた」といわれるほど、城郭は荒んでいました。

脇坂安政はどのように龍野城を再建した?

脇坂安政はどのように龍野城を再建した?

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そのため、寛文12年(1672年)に信州飯田から入封した脇坂安政は幕府の許可を得て改めて城を築くことに。
荒れ果てていたので、「ここに城なんてたつの?」と思ったに違いありません。

安政は町屋、農家に泊まり、1年余りで修理再建を行いましたが、行ったのは修復のみで、京極時代の城の再建だったともいえますが、この時に築かれた城が現在の龍野城の元となっています(ただし、建物などは明治維新以降に再び破却され、現在見られる建物は昭和54年(1979年)になって順次再建されたもの)。

その後、安政は城下町の整備も進め、現在のたつの市(旧龍野市)の原型を作り上げましたが、脇坂家時代の龍野の城下町は、規模でいうと26万石の大名だった京極時代の城下町と比べて、大きく縮小していて、城下町の中心部を集中的に整備し発展させたといえます。

いわば「城下町をコンパクトにした」ということでしょうか?実際に現在の龍野の城下町もそんな風にギュッと詰められた感じはしますね。

その他、安政は現在もたつの市の名産である「薄口醤油」の生産を奨励するなど、龍野藩の発展に尽くしています。

なお、安政は、老中などを歴任した堀田正盛の実子だったため、弟の正俊が大老に就任したのを機に脇坂家を外様から譜代大名へと扱いを変えてもらうように申請し許され、これ以降脇坂家は譜第並みの待遇となります。

その後の龍野藩は?

その後の龍野藩は?

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安政の次の藩主・安照(やすてる)は赤穂城主浅野長矩(ながのり)の刃傷事件によって城召し上げ・除封となった赤穂城の受城使として有名ですね。

4代藩主の安興(やすおき)のときに元文5年(1740年)には龍野の史書である『龍野志』が編纂され、そして、8代目の安董(やすただ)と9代目安宅(やすおり)は、譜代大名が務める寺社奉行と老中の地位につきました。

脇坂家は前述のように元外様大名で、外様の家系は幕府の重要な官職にはつけないのが慣例。
しかし安董は弁舌が爽やかで、押し出しも良く男ぶりも良かったといわれ、これが将軍家斉の目にとまり、異例のことながら寛政3年(1791年)に寺社奉行に登用され、この間安董は谷中延命院一件、三業惑乱の両事件を裁き名を上げました。

また安董は文化2年(1805年)に江戸藩邸内に敬楽館を設けましたが財政難で廃止され、天保5年に龍野で開校された文武稽古所が敬楽館と改称。

その子の安宅も父の功績もあり老中まで昇進し、京都御所炎上の大火の復旧の功により孝明天皇より茶室を拝領。
現在龍野公園の心字池上にある浮堂の茶室「聚遠亭」のことになりますね。
また、所司代のかたわら、龍野の名産のうすくち醤油の販路拡大を近畿圏で手広く行いました。

明治4年(1871年)の廃藩置県で、龍野藩は龍野県となり、姫路県、飾磨県を経て兵庫県に編入しました。

山城と平山城、どちらも楽しめる龍野城に、姫路や赤穂などと合わせて訪れてみて!

応仁の乱の後に、龍野城は赤松村秀によって鶏籠山の上に山城として建てられ、江戸時代に脇坂安政によって現代の姿となりました。
龍野の醤油は京などの大消費地に送られ有名に。
私は6月に龍野城を訪れたのですが、埋門と多聞櫓が立派で、城下町の江戸時代の姿を残した雰囲気が素敵でした(ただ狭い道を車がどんどん走るのですが)。
姫路や赤穂など西播磨の他の城と一緒に回ると面白いかもしれません。
私は龍野城を回ることで播州の土地勘が大分できました。
もしよろしければ龍野城を訪れてみてください。
山城の跡地を登ってみるのも楽しいかもしれません。
それでは、ここまで読んでくれてありがとうございます!
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