松永久秀は稀代の悪党か?あの信長を2度も裏切った、やりやい放題の伝説まとめ

織田信長や豊臣秀吉…戦国時代と言えば、そのあたりの名が思い浮かぶと思います。しかし、信長・秀吉の織豊時代の少し前に目を向けてみると、そこにとんでもないヤツがいることに気付くはず。その名は松永久秀(まつながひさひで)。東大寺大仏殿を焼き討ちし、室町幕府将軍を暗殺し、あの信長を2度も裏切った…と、その伝説はまさにやりたい放題。きわめつけはその最期で、爆死を遂げたという話もあるんです。出自不明、自分の力だけでのし上がった下剋上のはしりとも言える人物に、今回は注目してみましょう。

出自は…はい、わかりません!

出自は…はい、わかりません!

image by PIXTA / 27783808

松永久秀の生まれ年は、室町時代後期の永正5(1508)年とも永正7(1510)年とも言われています。
世界では、新大陸発見に沸いた大航海時代が同じ頃ですね。

生まれた年もはっきりしませんが、出身地についてはそれ以上にはっきりしません。
様々な説があり、阿波国(徳島県)、山城国(京都府南部)、摂津国(大阪府)など、簡単にまとめれば「あまりよくわからない」ということになり、身分の高い出自ではなかったということがわかります。

しかしここから、彼は高みへと駆け上っていくのです。

三好家との出会い

三好家との出会い

image by PIXTA / 19522404

誕生から約25年後、天文2(1533)~天文3(1534)年ごろ、久秀は三好長慶(みよしながよし)に仕えるようになっています。
三好家は阿波国を本拠地とした武家ですが、長慶は摂津国の守護代(守護の代わりとして各国の軍事的な行政官役を担う)をしていました。
彼はやがて力を持ち、将軍を追放して三好政権を樹立してしまうほどの人物なんですよ。

そんな三好長慶のもとで、久秀は右筆(ゆうひつ/祐筆とも)という仕事をしていました。
右筆とは秘書役で、主の文章を代筆するのがメインですが、事務方をすべて取り仕切るような重要な役割を任されることもありました。

また、武将として戦にも出るようになっており、部隊を任されるようになっています。

出自もはっきりしないような人物がここまで出世するということは、久秀の能力が優れていたことに他なりません。
一方、三好家の家風として、譜代(長年仕えている家来のこと)や家柄にこだわらなかった様子であることが、久秀にはプラスだったのでしょう。

どこの馬の骨とも知れぬ者から、三好家の家宰へ!

どこの馬の骨とも知れぬ者から、三好家の家宰へ!

image by PIXTA / 1158463

天文18(1549)年、キリスト教が日本に入ってきたその年、三好長慶は政敵だった幕府ナンバー2の管領(かんれい)・細川晴元(ほそかわはるもと)と13代将軍足利義輝(あしかがよしてる)らを近江国(滋賀県)へ追放しました。

これで、将軍は存在していますが、近江に追放の身。
長慶は政権運営者として、まさに天下人となったわけです。

ということで、公家や寺社は三好家と関わりを持つようになります。
その仲介役に久秀は抜擢されたのでした。
コミュニケーション力に優れ、頭の回転も良くなければできない仕事です。

そして、長慶は細川晴元と敵対する細川氏綱(ほそかわうじつな)を管領に担ぎ出して上洛しますが、この時に久秀は三好家の家宰(かさい)に任命されました。
家宰とは、家長に代わり家の一切を取りしきる役です。
加えて、彼は長慶の娘を妻とし、三好家内でおそらく最も重要な地位に就いたのでした。

茶の湯に通じた一流の教養人

出自もはっきりしない久秀ですが、どこで学んだのか、茶の湯に通じていました。
茶の湯はただ茶を点てるだけではなく、茶器や床の間の掛物など、すべてを評価する総合芸術だったんです。
それに通じているということは、相当の教養の持ち主だったということですね。
そして、彼は多くの名茶器を所有していました。
それが彼の運命を左右することにもなるのですが…後で登場することになりますのでお待ちください。

遂に城持ちの身に昇格

遂に城持ちの身に昇格

image by PIXTA / 21045156

上洛後、久秀は京都の防衛などで残敵掃討作戦に参加し、武将として活躍します。

天文22(1553)には畿内(きない/都に近い国々のこと。
ここでは山城・大和・河内・和泉・摂津の5ヶ国を指す)を平定し、摂津国滝山城(兵庫県神戸市)主となっています。
ついに城持ちにまで出世したというわけですね。

そして長慶のブレーンとして、幕政にも参画していくようになるのです。
ちなみに、その後状況は変化し、長慶と細川晴元は和睦しています。

なんと将軍の側近に抜擢

なんと将軍の側近に抜擢

image by PIXTA / 513067

永禄2(1559)年、河内国(大阪府東部)と大和国(奈良県)への遠征に向かった久秀は、信貴山(しぎさん)城へと移ります。
そして翌年、興福寺(こうふくじ)に勝利をおさめます。
当時、寺社勢力というのは武将よりも大きな戦力を持っていたりしたんですよ。

長慶と細川晴元が和睦により、将軍・足利義輝も都へ戻りました。
どんどん功績を挙げていく久秀は、義輝の御供衆(おともしゅう)に抜擢されます。
御供衆とは文字通り将軍のお供ですが、配膳などにまで関わることもあり、将軍に非常に近い地位だったんです。
しかも長慶の嫡男・義興(よしおき)と同時にこの役目についており、それだけ高い評価を受けていたことがわかります。
そのため、義輝に呼ばれて出仕することも多くなりました。
それでいて長慶からの信頼も絶大で、「相住(同居)」していたというんです。

そんなこともあり、彼は三好政権と将軍の仲介役として、重要な役割を果たすようになっていきました。
つまりは、彼自身も天下を左右する存在にまで成り上がったということになりますよね。

誰よりも早く天守をつくった男

の頃、久秀は信貴山城を改修し4階建ての天守を築いています。
今でこそ城と言えば天守というイメージですが、当時はそうではありませんでした。
後の居城である多聞山(たもんやま)城にも、彼は天守をつくっています。

これより少し後、織田信長がつくった安土城の天守の見事さが伝わっていますが、久秀は信長よりも早く天守をつくっていたということになります。
彼のセンスや考えが、当時の最先端を行っていたことがわかりますね。

長慶の死と三好家の行方

長慶の死と三好家の行方

image by PIXTA / 19481678

こうして、久秀は三好家と幕府の両方で重きを成していきました。

一方、主の長慶はこの頃から不幸に見舞われます。
信頼していた弟たちが相次いで亡くなり(久秀による暗殺説もあるが不確か)、その上、嫡男の義興までも若くして失ってしまったんです。
このショックからか長慶は政権運営への関心を失い、永禄7(1564)年に亡くなってしまいました。
跡目は甥の義継(よしつぐ)が継ぐこととなりました。

その後、三好政権を支えて運営していくのは、久秀と三好三人衆という重臣たちとなっていくわけです。

しかし、長慶の死の翌年、三好三人衆らはとんでもない暴挙に出ます。

将軍の暗殺でした。

将軍暗殺の暴挙・永禄の変

将軍暗殺の暴挙・永禄の変

image by PIXTA / 33182865

永禄8(1565)年、長慶の後を継いだ義継と三好三人衆、久秀から家督を譲られた息子の松永久通(ひさみち)らは、1万の軍勢を率いて将軍・足利義輝の御所を襲撃し、義輝を暗殺してしまいました。

ふつうなら考えられない暴挙ですが、それだけ三好家が力を持っていたことの証です。

この事件、久秀が首謀したと言われており、久秀悪人説の一因ともなっているんですが、実はこの時、彼は大和国におり参加していません。

とはいっても息子の久通が参加していますし、まったく知らなかったということはないでしょうから、黙認したということでほぼ同罪とも言えなくはありません…。

義輝が暗殺された理由としては、三好政権に奪われた政治権力を彼が取り戻そうとしたためとも言われています。

三好三人衆と久秀の対立

三好三人衆と久秀の対立

image by PIXTA / 25664387

義輝を暗殺した三好三人衆は、足利義栄(よしひで)を次期将軍に擁立します。

彼が14代目となりますが、ちなみに15代となる義昭(よしあき)は、このとき興福寺の僧だったんですよ。
しかも彼、義輝の弟でした。
しかし久秀はこの時、義昭の命までは奪わないという誓約書を差し出しています。

義栄を将軍に担いだ三好三人衆ですが、久秀とはやっぱり合いませんでした。
畿内の主導権を巡って対立し、内乱が起きます。

いくら有能な久秀とはいっても、本国・阿波の三好家も味方にした三人衆の勢いには苦戦し、一時は行方不明となってしまうほどでした。

しかし、久秀はこれで終わりません。

一応、敵無しとなった三人衆の方では、当主の義継を軽んじるようになっていました。
それに不満を持った義継は、どうにかこうにか久秀を探し出し、頼ってきたんです。

仮にも義継は三好家の当主ですから、彼を保護した久秀はこれで勢いを盛り返し、信貴山城へと帰還を果たしたのでした。

久秀は裏切ってばかりというイメージがありますが、こういうところを見ると、彼は三好本家に対してはとても忠実ですよね。

前代未聞の大惨事!東大寺大仏殿が焼け落ちる

前代未聞の大惨事!東大寺大仏殿が焼け落ちる

image by PIXTA / 28012062

永禄10(1567)年、三好三人衆は久秀と義継がいる大和国へ攻め込んできました。
戦場は東大寺付近、寺で戦が行われたのです。

そして久秀が敵方へ奇襲をかけた際、何らかの要因によって火がつき、大仏殿は焼け落ちてしまったのでした。

これは久秀の蛮行のひとつとも言われていますが、実際に誰が火を放ったのかは不明なんですよ。
三人衆側の軍にいたキリシタンが放火した説や、失火説、様々です。
ですから、久秀は故意に大仏殿を焼き討ちしたと決めつけてしまうには証拠が少ないようですね。

東大寺大仏殿の戦いでは一応の勝利をおさめた久秀ですが、それでも三人衆の方がまだ有利を保っていました。
そのため久秀は信貴山城を失い、その支城である多聞山城にこもります。

ここで何をしていたのかというと、ある人物とのやり取りでした。

その人物とは、尾張(愛知県)を統一し、最も勢いのある戦国大名・織田信長だったのです。

生き残るためならば。織田信長に臣従

生き残るためならば。織田信長に臣従

image by PIXTA / 14383830

当時、織田信長は足利義昭を保護しており、永禄11(1568)年、義昭を奉じて上洛しました。
もちろん、狙いは義昭を将軍につけて自分が権力を握ること。

信長の能力をいちはやく見抜いていた久秀は、すぐに義継と共に降伏します。
この時、彼は名器とされる茶器「九十九髪茄子(つくもかみなす)」を信長に献上したそうです。
茶の湯に凝っていた信長にとっては、露骨なゴマすりであっても満足だったでしょうね。

その後、信長が三好三人衆を畿内から追い出し、将軍・義栄は急死してしまったため、義昭が15代将軍となりました。
また、信長の援軍によって久秀は大和国を平定し、その支配権を認められたのでした。

こうして、久秀は名目上の幕臣となりますが、実際は信長の臣下となったのです。

信長の元での活躍、そして不穏な動き

信長の元での活躍、そして不穏な動き

image by PIXTA / 5795425

久秀は信長の元でも活躍を見せました。

信長が越前(福井県)の朝倉義景(あさくらよしかげ)を攻めた際、信長は裏切りによってピンチとなります。
しかし、久秀は信長が退却時に通過する地の安全確保のため、地元の豪族を説得してサポートしました。

また、三好三人衆との調停役となり、信長との和睦もまとめています。

ただ、彼は徐々に不穏な動きを始めたのです。

信長が石山本願寺を攻め始めた頃、義昭とは不仲となっていました。
そこで義昭は「信長包囲網」を形成するべく、各地の戦国大名にはたらきかけます。
それに応じたのが甲斐国(山梨県)の武田信玄でした。
この時、久秀は信玄と何らかのやり取りをしています。
信長と信玄はライバル関係にありましたから、こういうのはよろしくないですよね。

そして元亀3(1572)年、久秀は三好義継や三人衆と共に信長に反逆したのです。

信玄も都を目指して来ていますし、信長ピンチ!と思いきや、この翌年に信玄が亡くなり、武田氏が撤退したため、信長包囲網は崩れてしまいました。

加えて、足利義昭は信長に敗れて追放され、三好義継も戦死してしまいます。
三人衆も信長に敗れ、多聞山城を包囲され窮地となった久秀は、やむなく降伏を選びました。

あの信長に許されるも、内心には不満が…?

あの信長に許されるも、内心には不満が…?

image by PIXTA / 31866692

降伏した久秀は、信長に謁見します。

皆さんの知っている信長だったら、裏切り者は即、処刑ですよね。

ところが、信長は久秀の身分を大和国の一領主に落としたものの、許したのです。

なぜ信長は久秀を許したのかが疑問ですが、合理主義の信長が、意外と冷静に久秀の利用価値を取ったのかもしれません。

久秀が所有していた大和国の支配権は、信長の部下に移りました。
その部下が死ぬと、久秀とは不仲の武将・筒井順慶(つついじゅんけい)に移ります。
彼らは宿敵とも言える関係でしたから、久秀は内心、面白くなかったと思いますよ。

皆が「なんで?」…再び信長を裏切る!

皆が「なんで?」…再び信長を裏切る!

image by PIXTA / 21934202

そんな鬱屈した思いが爆発したのでしょうか。

天正5(1577)年、石山本願寺攻めの最中、久秀は突如として戦線を離脱し、居城の信貴山城に立てこもってしまいました。

これには誰もが「は?」という思いでした。

新たな反信長勢力の上杉謙信や毛利輝元、石山本願寺らと呼応を考えていたという説もありますが、はっきりとはしていません。

信長ですら久秀の裏切りに戸惑い、使者を派遣して理由を尋ねるほどでした。
しかも「何か問題があるなら話してほしい、そしたら対応する」という割と誠実なニュアンスだったようですが、久秀は使者に会おうともせず、追い返してしまったんです。

ようやく、ここで信長は激怒しました。
そして、息子の信忠(のぶただ)を総大将とした4万の大群で信貴山城を包囲したのです。

平蜘蛛と共に炎の中へ…壮絶な最期

平蜘蛛と共に炎の中へ…壮絶な最期

image by PIXTA / 32534217

4万の相手に対し、久秀の軍はわずか8千。
しかし築城の名手と言われた彼が建てた信貴山城は簡単には落ちず、かなりの時間を要しました。
が、やがて内通者によって城に火の手が上がりました。

信長は、この期に及んで最後の交渉を持ちかけています。

久秀所有の名茶器「古天明平蜘蛛(こてんみょうひらぐも)」を差し出したら許してやる、というんです。
久秀が惜しいのか、はたまた茶器が惜しいのか。
信長の考えもよくわかりません。

久秀の返事は「否」でした。

「我々の首と平蜘蛛は信長公にお目にかけぬ。
鉄砲の薬で粉々にしよう」と言うなり、彼は平蜘蛛を叩き割り、天守に火を放って息子と共に自害したのでした。

ちなみに、久秀が「鉄砲の薬で粉々に」と言ったという話に尾ひれがつき、後世、平蜘蛛に火薬を仕込んで爆死したという説が流布しました。
しかしこれはあくまで創作です。

実際には、落城後に4つの首が安土城へと運ばれています。
久秀の胴体は、宿敵・筒井順慶が達磨寺(奈良県北葛城郡王寺町)へと運び、丁重に埋葬しました。

裏切り者か、忠義者か…2つの顔を持つ男

松永久秀のイメージは、信長を裏切った男、そして主家の三好家を乗っ取った男というものが強いですね。
しかし、思い出してみて下さい。
三好家については、一貫して忠節を尽くしているんです。
確かに家宰として力を持ちましたが、長慶の死後も取って代わろうとはせず、義継を補佐し続けました。

トップを切って下剋上を成し遂げた久秀に、やっかみがあったことは疑いないでしょう。
また、時の権力者に逆らえば、悪評が後世に広められることになります。
信長に2度反逆したこともあり、久秀は梟雄として後世に名を残すこととなってしまったのだと思います。

photo by PIXTA