松永久秀は稀代の悪党か?あの信長を2度も裏切った、やりたい放題の伝説まとめ

公開日:2020/1/20 更新日:2020/1/27

織田信長や豊臣秀吉…戦国時代と言えば、そのあたりの名が思い浮かぶと思います。しかし、信長・秀吉の織豊時代の少し前に目を向けてみると、そこにとんでもないヤツがいることに気付くはず。その名は松永久秀(まつながひさひで)。東大寺大仏殿を焼き討ちし、室町幕府将軍を暗殺し、あの信長を2度も裏切った…と、その伝説はまさにやりたい放題。きわめつけはその最期で、爆死を遂げたという話もあるんです。出自不明、自分の力だけでのし上がった下剋上のはしりとも言える人物に、今回は注目してみましょう。

出自は…はい、わかりません!

松永久秀の生まれ年は、室町時代後期の永正5(1508)年とも永正7(1510)年とも言われています。 世界では、新大陸発見に沸いた大航海時代が同じ頃ですね。 生まれた年もはっきりしませんが、出身地についてはそれ以上にはっきりしません。 様々な説があり、阿波国(徳島県)、山城国(京都府南部)、摂津国(大阪府)など、簡単にまとめれば「あまりよくわからない」ということになり、身分の高い出自ではなかったということがわかります。 しかしここから、彼は高みへと駆け上っていくのです。

三好家との出会い

誕生から約25年後、天文2(1533)~天文3(1534)年ごろ、久秀は三好長慶(みよしながよし)に仕えるようになっています。 三好家は阿波国を本拠地とした武家ですが、長慶は摂津国の守護代(守護の代わりとして各国の軍事的な行政官役を担う)をしていました。 彼はやがて力を持ち、将軍を追放して三好政権を樹立してしまうほどの人物なんですよ。 そんな三好長慶のもとで、久秀は右筆(ゆうひつ/祐筆とも)という仕事をしていました。 右筆とは秘書役で、主の文章を代筆するのがメインですが、事務方をすべて取り仕切るような重要な役割を任されることもありました。 また、武将として戦にも出るようになっており、部隊を任されるようになっています。 出自もはっきりしないような人物がここまで出世するということは、久秀の能力が優れていたことに他なりません。 一方、三好家の家風として、譜代(長年仕えている家来のこと)や家柄にこだわらなかった様子であることが、久秀にはプラスだったのでしょう。

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