松永久秀は稀代の悪党か?あの信長を2度も裏切った、やりたい放題の伝説まとめ

公開日:2020/1/20 更新日:2020/1/27

遂に城持ちの身に昇格

上洛後、久秀は京都の防衛などで残敵掃討作戦に参加し、武将として活躍します。 天文22(1553)には畿内(きない/都に近い国々のこと。 ここでは山城・大和・河内・和泉・摂津の5ヶ国を指す)を平定し、摂津国滝山城(兵庫県神戸市)主となっています。 ついに城持ちにまで出世したというわけですね。 そして長慶のブレーンとして、幕政にも参画していくようになるのです。 ちなみに、その後状況は変化し、長慶と細川晴元は和睦しています。

なんと将軍の側近に抜擢

永禄2(1559)年、河内国(大阪府東部)と大和国(奈良県)への遠征に向かった久秀は、信貴山(しぎさん)城へと移ります。 そして翌年、興福寺(こうふくじ)に勝利をおさめます。 当時、寺社勢力というのは武将よりも大きな戦力を持っていたりしたんですよ。 長慶と細川晴元が和睦により、将軍・足利義輝も都へ戻りました。 どんどん功績を挙げていく久秀は、義輝の御供衆(おともしゅう)に抜擢されます。 御供衆とは文字通り将軍のお供ですが、配膳などにまで関わることもあり、将軍に非常に近い地位だったんです。 しかも長慶の嫡男・義興(よしおき)と同時にこの役目についており、それだけ高い評価を受けていたことがわかります。 そのため、義輝に呼ばれて出仕することも多くなりました。 それでいて長慶からの信頼も絶大で、「相住(同居)」していたというんです。 そんなこともあり、彼は三好政権と将軍の仲介役として、重要な役割を果たすようになっていきました。 つまりは、彼自身も天下を左右する存在にまで成り上がったということになりますよね。

誰よりも早く天守をつくった男

この頃、久秀は信貴山城を改修し4階建ての天守を築いています。 今でこそ城と言えば天守というイメージですが、当時はそうではありませんでした。 後の居城である多聞山(たもんやま)城にも、彼は天守をつくっています。 これより少し後、織田信長がつくった安土城の天守の見事さが伝わっていますが、久秀は信長よりも早く天守をつくっていたということになります。 彼のセンスや考えが、当時の最先端を行っていたことがわかりますね。

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