松永久秀は稀代の悪党か?あの信長を2度も裏切った、やりたい放題の伝説まとめ

公開日:2020/1/20 更新日:2020/1/27

長慶の死と三好家の行方

こうして、久秀は三好家と幕府の両方で重きを成していきました。 一方、主の長慶はこの頃から不幸に見舞われます。 信頼していた弟たちが相次いで亡くなり(久秀による暗殺説もあるが不確か)、その上、嫡男の義興までも若くして失ってしまったんです。 このショックからか長慶は政権運営への関心を失い、永禄7(1564)年に亡くなってしまいました。 跡目は甥の義継(よしつぐ)が継ぐこととなりました。 その後、三好政権を支えて運営していくのは、久秀と三好三人衆という重臣たちとなっていくわけです。 しかし、長慶の死の翌年、三好三人衆らはとんでもない暴挙に出ます。 将軍の暗殺でした。

将軍暗殺の暴挙・永禄の変

永禄8(1565)年、長慶の後を継いだ義継と三好三人衆、久秀から家督を譲られた息子の松永久通(ひさみち)らは、1万の軍勢を率いて将軍・足利義輝の御所を襲撃し、義輝を暗殺してしまいました。 ふつうなら考えられない暴挙ですが、それだけ三好家が力を持っていたことの証です。 この事件、久秀が首謀したと言われており、久秀悪人説の一因ともなっているんですが、実はこの時、彼は大和国におり参加していません。 とはいっても息子の久通が参加していますし、まったく知らなかったということはないでしょうから、黙認したということでほぼ同罪とも言えなくはありません…。 義輝が暗殺された理由としては、三好政権に奪われた政治権力を彼が取り戻そうとしたためとも言われています。

三好三人衆と久秀の対立

義輝を暗殺した三好三人衆は、足利義栄(よしひで)を次期将軍に擁立します。 彼が14代目となりますが、ちなみに15代となる義昭(よしあき)は、このとき興福寺の僧だったんですよ。 しかも彼、義輝の弟でした。 しかし久秀はこの時、義昭の命までは奪わないという誓約書を差し出しています。 義栄を将軍に担いだ三好三人衆ですが、久秀とはやっぱり合いませんでした。 畿内の主導権を巡って対立し、内乱が起きます。 いくら有能な久秀とはいっても、本国・阿波の三好家も味方にした三人衆の勢いには苦戦し、一時は行方不明となってしまうほどでした。 しかし、久秀はこれで終わりません。 一応、敵無しとなった三人衆の方では、当主の義継を軽んじるようになっていました。 それに不満を持った義継は、どうにかこうにか久秀を探し出し、頼ってきたんです。 仮にも義継は三好家の当主ですから、彼を保護した久秀はこれで勢いを盛り返し、信貴山城へと帰還を果たしたのでした。 久秀は裏切ってばかりというイメージがありますが、こういうところを見ると、彼は三好本家に対してはとても忠実ですよね。

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