松永久秀は稀代の悪党か?あの信長を2度も裏切った、やりたい放題の伝説まとめ

公開日:2020/1/20 更新日:2020/1/27

前代未聞の大惨事!東大寺大仏殿が焼け落ちる

永禄10(1567)年、三好三人衆は久秀と義継がいる大和国へ攻め込んできました。 戦場は東大寺付近、寺で戦が行われたのです。 そして久秀が敵方へ奇襲をかけた際、何らかの要因によって火がつき、大仏殿は焼け落ちてしまったのでした。 これは久秀の蛮行のひとつとも言われていますが、実際に誰が火を放ったのかは不明なんですよ。 三人衆側の軍にいたキリシタンが放火した説や、失火説、様々です。 ですから、久秀は故意に大仏殿を焼き討ちしたと決めつけてしまうには証拠が少ないようですね。 東大寺大仏殿の戦いでは一応の勝利をおさめた久秀ですが、それでも三人衆の方がまだ有利を保っていました。 そのため久秀は信貴山城を失い、その支城である多聞山城にこもります。 ここで何をしていたのかというと、ある人物とのやり取りでした。 その人物とは、尾張(愛知県)を統一し、最も勢いのある戦国大名・織田信長だったのです。

生き残るためならば。織田信長に臣従

当時、織田信長は足利義昭を保護しており、永禄11(1568)年、義昭を奉じて上洛しました。 もちろん、狙いは義昭を将軍につけて自分が権力を握ること。 信長の能力をいちはやく見抜いていた久秀は、すぐに義継と共に降伏します。 この時、彼は名器とされる茶器「九十九髪茄子(つくもかみなす)」を信長に献上したそうです。 茶の湯に凝っていた信長にとっては、露骨なゴマすりであっても満足だったでしょうね。 その後、信長が三好三人衆を畿内から追い出し、将軍・義栄は急死してしまったため、義昭が15代将軍となりました。 また、信長の援軍によって久秀は大和国を平定し、その支配権を認められたのでした。 こうして、久秀は名目上の幕臣となりますが、実際は信長の臣下となったのです。

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