松永久秀は稀代の悪党か?あの信長を2度も裏切った、やりたい放題の伝説まとめ

公開日:2020/1/20 更新日:2020/1/27

信長の元での活躍、そして不穏な動き

久秀は信長の元でも活躍を見せました。 信長が越前(福井県)の朝倉義景(あさくらよしかげ)を攻めた際、信長は裏切りによってピンチとなります。 しかし、久秀は信長が退却時に通過する地の安全確保のため、地元の豪族を説得してサポートしました。 また、三好三人衆との調停役となり、信長との和睦もまとめています。 ただ、彼は徐々に不穏な動きを始めたのです。 信長が石山本願寺を攻め始めた頃、義昭とは不仲となっていました。 そこで義昭は「信長包囲網」を形成するべく、各地の戦国大名にはたらきかけます。 それに応じたのが甲斐国(山梨県)の武田信玄でした。 この時、久秀は信玄と何らかのやり取りをしています。 信長と信玄はライバル関係にありましたから、こういうのはよろしくないですよね。 そして元亀3(1572)年、久秀は三好義継や三人衆と共に信長に反逆したのです。 信玄も都を目指して来ていますし、信長ピンチ!と思いきや、この翌年に信玄が亡くなり、武田氏が撤退したため、信長包囲網は崩れてしまいました。 加えて、足利義昭は信長に敗れて追放され、三好義継も戦死してしまいます。 三人衆も信長に敗れ、多聞山城を包囲され窮地となった久秀は、やむなく降伏を選びました。

あの信長に許されるも、内心には不満が…?

降伏した久秀は、信長に謁見します。 皆さんの知っている信長だったら、裏切り者は即、処刑ですよね。 ところが、信長は久秀の身分を大和国の一領主に落としたものの、許したのです。 なぜ信長は久秀を許したのかが疑問ですが、合理主義の信長が、意外と冷静に久秀の利用価値を取ったのかもしれません。 久秀が所有していた大和国の支配権は、信長の部下に移りました。 その部下が死ぬと、久秀とは不仲の武将・筒井順慶(つついじゅんけい)に移ります。 彼らは宿敵とも言える関係でしたから、久秀は内心、面白くなかったと思いますよ。

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