「今川氏真」ってどんなひと?桶狭間で全てが暗転、滅亡後は流浪のアーティスト

皆さんは今川氏真という人を知っておられますか?現在やってる大河ドラマ「おんな城主直虎」で尾上松也さんが演じているので、知ってる人は多いのではないでしょうか。蹴鞠をしている所が印象的ですね。では、その氏真はどういう人生を送ったのか?氏真の父・今川義元はどんな人?桶狭間の戦いは氏真にどんな影響を与えた?今川家が滅亡するまでの経緯は?また滅亡後の氏真はどのように生きた?などについて見ていきたいと思います。

氏真の父・今川義元、そして今川氏とは?

氏真の父・今川義元、そして今川氏とは?

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まずは今川氏真の父・今川義元から説明していきます。
氏真はまだしばらく出てきませんが、義元と桶狭間の戦いのことを説明しておくことで、氏真の背景をよく説明できると思いますので、少しご辛抱をお願いします。

今川義元はかつては愚将だという意見が多く、お歯黒を付けた軟弱者で、輿(こし)で戦場に出る肥満体、桶狭間で織田信長に敗れたのは義元の油断が原因だ、と。
しかし、これらは後世に作られた俗説で、敗者だから押し付けられた汚名なのです。
「油断して負けたから義元は軟弱」と結果で決めつけられた感じですね。

今川氏は室町幕府を率いる足利将軍家の支族。
将軍職を継げる立場にある名門中の名門で、義元は11代目。
父親で9代目の氏親(うじちか)は遠江(とおとうみ、静岡県西部)を平定した人物。
5男の義元は永正16年(1519年)に生まれ、4歳で仏門に入り、15歳で京都五山の一つ、建仁寺に学び深い教養を身に付けました。

17歳のとき、6つ上の長男で10代目の氏輝と、次男の彦五郎が同日に急死。
同日にたまたま死ぬことってあるのでしょうか?義元もしくは他の誰かが暗殺したということも考えられますよね。
ともかく義元は還俗(げんぞく、僧から一般の人に戻ること)し、3男の玄広恵深(げんこうえたん)を血みどろの家督争いで敗死させた末、11代目の座をもぎ取りました。
その後は領国を駿河(静岡県中央部)と三河(愛知県東部)にまで広げ、「海道一の弓取り」とあだ名されます。

氏真の運命を変えた桶狭間の戦いとは?

勝って当然の、簡単な戦のはずだった?

勝って当然の、簡単な戦のはずだった?

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一方の織田信長は満26歳になろうとするところで、前年に尾張統一を果たし、信長は織田家の後継者争いのスキを突いて今川家が服属させた尾張の鳴海城と大高城を、近くに築いた砦を足場に奪い返そうとしていました。

41歳の義元は、生意気な動きを見せる信長をとひねり潰すことに。
今川は2万5千で、織田軍はわずか3千。
永禄3年(1560年)5月12日、大軍を率いた義元は尾張に侵攻。
造作もない戦になるはずでした。

「直虎」でも直虎の父らが今川家に呼ばれて出陣し、「簡単な戦だから大丈夫だ」と出陣していくのでしたね。

また義元は直前の永禄元年(1558年)ごろに子の氏真に家督を譲り、国元の政治を氏真に任せたようです。

5月19日未明、今川傘下にあった尾張の沓掛城(くつかけじょう、愛知県豊明市)から今川軍先鋒が出陣、大高城(名古屋市緑区)を脅かす丸根砦と鷲津砦(わしづとりで、どちらも名古屋市緑区)を撃破。
丸根砦を破ったのは、7歳で今川の人質となった、満17歳の松平元康で、後の徳川家康です。

夜が明けると今川本隊も沓掛城を出立、大高城に向かいました。
義元が塗輿(ぬりこし)に乗ったのは、足利将軍家から与えられた特権を戦場でも顕示しし、敵を威圧するため。
「我は将軍家の血を引くものぞ!」と言うことで、敵が恐れおののくことを狙ったのですね。

大敗は油断と不運の豪雨、奇襲によるもの?

大敗は油断と不運の豪雨、奇襲によるもの?

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沓掛城と大高城の中間点に桶狭間山という小高い山があり、山頂には木を伐り、柵を作るなどして今川の陣所が設営されており、義元はここで昼食を取る予定で、さらに義元はこの場所で茶会を開き、酒も出たといい、緒戦の勝利が今川軍の緊張を柔らげていました。
「油断し過ぎじゃない?」と思う人もいるかもしれませんが、戦とはいえずっと緊張しているわけにもいきませんよね。
それにそれほど余裕な戦だったと思われていたということ。
ただ、飲酒はやり過ぎかもしれません。

すると午後1時過ぎ、急な豪雨が今川軍を襲い、一行はそれぞれ木陰に宿るなどしてしのいだのではないかと言われています。
そして、その雨が上がったとき、信長が奇襲をかけてきたのです。
まさか、この大軍の本隊に信長が奇襲をかけてくるなど、思いもしなかったのではないでしょうか。

織田軍が、やや離れた善照寺砦(名古屋市緑区)にいることは確認済み。
それがまさか桶狭間山の麓にまで急進しているとは思いもよらず、最初は失火かケンカか、反逆か、と思われましたが、敵襲と気付いたときには迎撃態勢を整える機会を逃していました。

義元が討ち取られ、今川家は滅亡の道へ

義元が討ち取られ、今川家は滅亡の道へ

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今川家は戦のセオリーとして、とりあえず安全な城まで退却しようと考えました。
この時「今来た沓掛城に戻ろうとするグループ」と「これから行こうとする大高城に逃げ込もうとするグループ」の2つに分かれてしまったといい、これにより今川軍は混乱し1人また1人と討ち取られ、ついには義元も首を取られることに。
後は総崩れとなり、桶狭間の戦いは「戦国史上、もっとも華々しい逆転劇」と語り伝えられるのです。

元康は義元の息子・氏真に弔い合戦を勧めますが氏真は拒否。
「今川家もここまでか…今が別れ時!」と家康は思い、今川家を見限り織田と結びました。
「直虎」で元康が出身地の岡崎城に「入れてしまったのう!」と言うシーンが思い浮かびます。
一方、直虎の父・井伊直盛など国人や今川家の重臣も多く討ち死に。

そして、今川家はここから急激に衰退し、氏真の運命も暗転。
滅亡への道を辿っていくのです。

桶狭間の後の氏真は?

武田と徳川に攻められ、今川氏は滅亡

武田と徳川に攻められ、今川氏は滅亡

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義元の嫡男・氏真は天文7年(1538年)、義元と定恵院(武田信虎の娘で信玄の妹)との間に嫡子として生まれ、天文23年(1554年)、北条氏康の長女・早川殿と結婚したことにより、甲相駿三国同盟が成立しました。

弘治2年(1556年)から翌年にかけて駿河国を訪問した山科言継(やましなときつぐ)の日記『言継卿記』には、青年期の氏真も登場しています。
言継は、弘治3年(1557年)正月に氏真が自邸で開いた和歌始に出席したり、氏真に書や鞠を送ったりしたことを記録しています。
大河ドラマでも演じられているように、政治や戦争よりも芸術の人、いわばアーティストだったのですね。
氏真は永禄元年(1558年)ごろに義元から家督を譲られたとされ、桶狭間で討ち取られたとき、義元はすでに隠居の身だったのですね。
国元を氏真に任せて自身は京へ攻め上がるつもりだったのでしょう。

桶狭間の戦いで井伊直盛などの国人が討ち死にしたことで、三河・遠江の国人の中には今川家の統治への不満や当主死亡を契機とする紛争が広がり、今川家からの離反の動きとなって現れ、三河の国人は、義元の対織田戦の陣頭に動員されており、その犠牲も大きかったのです。
氏真は三河の寺社・国人・商人に多数の安堵状を発給し、動揺を防ぐことに。

家康と三河を取り合った氏真は?

家康と三河を取り合った氏真は?

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しかし、西三河は桶狭間の合戦のあと、松平元康の勢力下に入り、将軍足利義輝が元康と氏真の和解を促したり、北条氏康が仲介に入りますが、元康は今川と断交し、織田と結ぶことを選びました。

東三河でも、今川氏が新しく人質を要求したことに不満を強め、今川家を離れて松平につく国人と、今川家に残る国人との間で抗争が。
永禄4年(1561年)、今川家から離反した菅沼定盈(すがぬまさだみつ)の野田城攻めに先立って、小原鎮実(おはらしずざね)は人質十数名を龍拈寺(りゅうねんじ)で処刑しますが、この措置は多くの東三河勢の離反を決定的なものに。

元康は永禄5年(1562年)正月には信長と清洲同盟を結び、今川氏の傘下から独立する姿勢を明らかに。
永禄5年(1562年)2月、氏真は自ら兵を率いて牛久保城(うしくぼじょう)に出兵し一宮砦を攻撃しましたが、「一宮の後詰」と呼ばれる元康の奮戦で撃退されています。
永禄7年(1564年)6月には東三河の拠点である吉田城が開城し、今川氏の勢力は三河から駆逐され、三河の支配権を失いました。

衰退が止められない今川家。氏真が取った行動は?

衰退が止められない今川家。氏真が取った行動は?

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遠江においても家臣団・国人の混乱が広がり、井伊谷の井伊直親などが離反の動きが広がり、永禄5年(1562年)に氏真は謀反が疑われた井伊直親を重臣の朝比奈泰朝に誅殺させています。
「直虎」では「スケコマシ」とか言われていた直親でしたが、ここのシーンは辛かったですね。
ついで永禄7年(1564年)には飯尾連竜が家康と内通して反旗を翻します。

氏真は祖母・寿桂尼(直虎では「怖い人だ」という印象)の後見を受けて政治を行っていたと見られ、氏真は寺社・被官・国人の繋ぎ止めを図り、外交面では北条氏との連携を維持し、永禄4年(1561年)3月には長尾景虎の関東侵攻に対して北条家に援兵を送り、川越城での籠城戦に加わらせています。
また、永禄4年(1561年)に室町幕府の相伴衆の格式に列し、幕府の権威を使って領国の混乱に対処しようとしたそう。

内政面では、永禄9年(1566年)4月に富士大宮の六斎市を楽市とし、徳政や役の免除などを行い、なんと楽市は織田信長より先んじた政策。
しかし、これらの政策でも、衰退を止めることはできず、いろいろなやり方で今川家の衰退を止めようとしていたのですが、やはり桶狭間での大敗が痛いですね。

どうにもならない氏真は遊興にふけるようになり、特定家臣の重用や腐敗が目立つようになります。
領内の寺社や公家宅で盛んに連歌の会や茶会を興行し、永禄10年7月に駿河に風流踊が流行した時、氏真自ら太鼓を叩いて興じたといいます。

今川家滅亡後の氏真は?

今川家は滅亡し、氏真は北条氏へ

今川家は滅亡し、氏真は北条氏へ

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氏真の母で義元の正室・定恵院は武田信玄の姉。
定恵院の娘、つまりは氏真の妹の嶺松院(れいしょういん)は武田信玄の嫡男義信の正室。
武田と今川は同盟関係にありましたが、永禄10年には謀反の疑いで幽閉されていた武田義信が死去し、嶺松院は駿河に帰され、同盟関係は破棄。
信玄からしたら「義元のいない、無能な息子の治める弱体化した今川家と同盟関係を続ける必要はない。
それより今川を攻めて駿河を手に入れた方が良い」という思惑でしょうか。

そして11年、家康と結んだ信玄が駿河に侵攻、氏真から駿河を奪い、氏真は遠江(とおとうみ)の掛川城(かけがわじょう)に逃れましたが、家康軍に包囲され永禄12年5月、家臣の助命を条件に開城。
このときをもって戦国大名としての今川氏は滅亡しました。

氏真はその後、妻の実家・小田原北条氏を頼り、ここでまだ「打倒武田・駿河奪回」を目指しますが、蒲原城の戦いなどで北条軍は敗れたため、駿河を回復することはできず、また元亀2年(1571年)10月に北条氏康が没すると、後を継いだ氏政は外交方針を転換して武田氏と和睦。
武田と和睦したということは、氏真は「このまま北条にいたら殺されるか、武田に引き渡されるかもしれない」と思ったのでしょうか。

徳川氏を頼った後の氏真は?

徳川氏を頼った後の氏真は?

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ここでなんと氏真は自分を裏切ったかつての宿敵・家康を頼り、徳川氏に養われる身となり、家康にとっても旧国主の保護は駿河統治の大義名分を得るもので、悪くないものでした。

天正3年(1575年)の氏真は1月に(恐らく浜松から)吉田・岡崎などを経て上洛の旅に出、京都到着後は社寺を参詣したり三条西実澄ら旧知の公家を訪問したりしています。
「家康のお金で遊んで、良い身分だな」と思う人もいると思いますが、蹴鞠や連歌、茶道などに達者な氏真はいわばアーティスト。
アーティストならスポンサーに援助してもらってるようなものですか。
余談ですが「蹴鞠の得意な氏真が現代に生まれていたら、サッカーの日本代表に選ばれたりするだろうか?」なんてことを私は考えたりします。

また、長篠の合戦のときは三河に戻り、牛久保で後詰めをし、合戦後は残敵掃討に参加するなど、武将らしい仕事も。
「武田氏滅亡」という本にも、家康が駿河の武田氏を攻撃する際に、かつての領主・氏真を起用して地元の協力を促した、などということが書いてありました。
氏真がまた牧野城を家康に任され、この時剃髪して宗誾(そうぎん)と名乗っていたそう。

この後は京に住み、豊臣秀吉や家康からの収入で暮らしていたとされ、歌を詠むなどして暮らしました。
次男の品川高久は徳川秀忠に出仕。
晩年は江戸へ移り、慶長19年(1614年)の暮れに没しています。

アーティスト・今川氏真が現代に生まれていたら?

「海道一の弓取」と呼ばれた氏真の父・義元が桶狭間の戦いで戦死したことから今川家は衰退に向かい滅亡し、その後は家康に保護され京で蹴鞠や連歌、茶道など、アーティストのような生活を送ることに。
私が氏真に興味を持ったのは、やはり「直虎」から。
つい先日の放送で「戦うばかりが敵討ちではない」と言った氏真が印象的でした。
しかしやはりこの時代は、戦の強さや政治力と違って、蹴鞠や茶道で秀でていても後世には評価されないもので、現代だったらしょっちゅうテレビで見かけるような人になっていたのではないか?と思えて少し残念に思えてきます。
今は家に縛られないアーティストとして生まれ変わってのびのびとしているのでしょうか?それでは、今回も読んでいただいてありがとうございます!
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